CB伊藤は冨安の代役となれるか。久保は正念場か/六川亨の日本サッカー見聞録

2022.05.20 19:30 Fri
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6月のキリンチャレンジカップ(6月2日パラグアイ戦、同6日ブラジル戦)と、続くキリンカップサッカー(6月10日ガーナ戦、同14日チリかチュニジ戦)に臨む日本代表28人が5月20日に発表された。

手術をした酒井宏樹(浦和)と、「コンディション的に100パーセントではないと聞いている」(森保一監督)という大迫勇也(神戸)のベテラン2人が外れた一方、初招集はCB伊藤洋輝(シュツットガルト)の1人だけ。他のメンバーはほぼ予想通りの顔ぶれとなった。

もともとCB冨安健洋(アーセナル)は、今シーズンはケガがちだし、コンビを組むCB吉田麻也(サンプドリア)もケガで代表チームを離れたことがあった。彼らのバックアッパーとして板倉滉(シャルケ)と谷口彰悟(川崎フロンターレ)がいるものの、谷口はスピードとフィードの正確性に欠ける。その点、23歳の伊藤は冨安とともに次代の日本代表を支えるCBとして、期待を込めての招集だろう。

左足での正確なフィードや攻撃参加も得意としているだけに、6月のキリン・シリーズでは是非とも彼のプレーを見たいものだ。

その一方で、不安なのが両SBである。今回のメンバーでは右SBが山根視来(川崎F)、左SBは長友佑都(FC東京)がスタメンだろう。そして彼らのバックアッパーが右は菅原由勢(AZアルクマール)、左が中山雄太(ズヴォレ)ということになるのだろうが、中山は代表歴13回を数えるものの守備に不安を感じてしまう。簡単に飛び込んで抜かれるイメージが強いのだ。

かといって国内にも海外にも酒井と長友を攻守で凌駕する選手がいないのも事実。伊藤が左CBに定着できれば、冨安を右SBに回したいくらいだ。

森保監督は7月のEAFF E-1サッカー選手権を国内組で戦うと明言した。恐らくここが国内組の最終テストの場となるだけに、DF陣からサプライズ選出があるのかどうか。

攻撃陣に目を向けると、ポスト大迫の候補として古橋亨梧(セルティック)と上田綺世(鹿島)の、タイプの違う2人のストライカーに注目したい。右の伊東純也(KRCヘンク)と左の南野拓実(リバプール)は鉄板だろうが、南野に関しては「ゼロトップ」での起用も悪くない。

三笘薫(ユニオン・サン=ジロワーズ)はジョーカーとして、南野を中央で起用すれば、4-3-3の左に鎌田大地(フランクフルト)を起用することができる。鎌田はご存じのように、02年の小野伸二(フェイエノールト)以来となるEL(ヨーロッパリーグ)優勝を果たした(小野の時代はUEFAカップ)。そんな鎌田をどのポジションで、どんな起用法で使うのかも今大会のハイライトだ。

カタールW杯アジア最終予選では、[4-2-3-1]のトップ下で起用されたものの、チームとして守備の強度を高めるため[4-3-3]にシステムチェンジ。そこで守備のインテンシティに欠ける鎌田は出場機会を失った。

彼とボランチの柴崎岳(レガネス)は、ワンプレーで局面や試合の流れを変えられる“ファンタジスタ"であるものの、2人の同時起用はリスクが高すぎる。かといって、ブンデスリーガで実績を残した鎌田をベンチに置くのかという批判も出てくるだろう。とりわけ初戦のドイツ戦では彼の起用を強く望む声があってもおかしくない(ついで言えば長谷部誠もベンチ入りさせてもいいと思っている)。

微妙なのは伊東の控えが予想される、堂安律(PSVアイントホーフェン)と久保建英(マジョルカ)の起用法だ。今シーズンはゴールという結果を残した堂安に比べ、なかなか結果を残せない久保を森保監督はどう使うのか。久保にとっては代表での生き残りを懸けた、正念場となるキリン・シリーズかもしれない。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた

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釜本美佐子さん表彰〜日本ブラインドサッカー協会初代理事長/六川亨の日本サッカー見聞録

横浜F・マリノスや川崎Fが敗退した天皇杯3回戦の翌日(23日)、AJPS(一般社団法人日本スポーツプレス協会=フリーランスのフォトグラファーとジャーナリストが所属する団体)がスポーツ界の「縁の下の力持ち」となった個人や団体を表彰する「AJPSアワード~Unsung Hero」を開催。2022年度は日本のブラインドサッカーを揺籃期(ようらんき/発展する初期段階)から支えた釜本美佐子氏を顕彰した。 釜本さん(1940年京都市生まれ)は堪能な語学力を生かし、JTBの初代ツアーコンダクターとして世界各地を舞台に活躍された。名前からもわかるように、不世出のストライカー釜本邦茂氏の実姉でもある。邦茂氏自身も成績優秀な姉である美佐子さんには今でも「頭があがらない」と数年前に語っていた。 そんな美佐子さんは50代で視覚を失う難病の網膜色素変性症と診断された。この病気はいまでも治療方法がなく、失明を遅らせる薬しかない。そんな美佐子さんが2001年、韓国で視覚障害者のためのサッカーを視察したことで(当時はまだかすかながら視力はあった)、日本にも02年に視覚障害者のサッカー協会(現日本ブラインドサッカー協会)を設立し、初代の理事長に就任した。 ブラインドサッカーのボールには鈴が入っていて、この鈴の音を頼りに選手はプレーするが、そのボールさえ当時の日本にはなかった。このため美佐子さんが購入して持ち帰ったことで、日本のブラインドサッカーは“産声"をあげた。 しかし04年のアテネ五輪・パラリンピックは日韓戦(当時アジアでブラインドサッカーをやっていたのは日本と韓国だけだった)で勝利したものの公式大会ではないため出場資格がないと判断され、その後の五輪予選やW杯予選を日本に招致したが、イランや中国に阻まれ本大会に出場することはできなかった。 美佐子さんは18年に理事長を退任されたが、ブラインドサッカーに追い風が吹いたのは13年のこと。東京五輪・パラリンピックの開催が決まり、これまでの外資系企業だけでなく日本企業からもスポンサーの支援を受けられるようになった。そうした援助と、関係者の地道な努力もあり、練習会場の確保や強化試合などブラインドサッカーの普及は徐々にではあるが確実に広がった。 美佐子さんに話を戻すと、いまでも2時間のウォーキングや50メートルの全力疾走にトライしているという。もちろん全盲に近いため、補助者とタオルなどで手をつないでのウォーキングでありダッシュだろう。それでも80歳を過ぎてのトライには、頭が下がる思いだ。 そんな美佐子さんを取材して最期に言われたのが、やはり「障害者への理解」だった。いまでも踏切内に閉じ込められても援助のサポートが得られなかったり、ホームドアのない駅では線路内に落ちたりするケースが後を絶たない。それは全盲者だけでなく、クルマ椅子の障害者にも当てはまる。 そうした直接的な被害だけでなく、混み合う駅のホームなどで、白杖を付いて歩いているだけで健常者から「チッ」と舌打ちされたことで、「自分は社会の邪魔者ではないか」と心が折れたという話も障害者から聞いた。 東京パラリンピックのおかげでブラインドサッカーに注目は集まったが、それは一時的なものだろうと美佐子さんも指摘した。支援に終わりはなく、どれだけ持続できるかが大切だと思う。かつてミャンマーで日本代表の試合を取材した際に、耳の聞こえない中高校生の少女チームを取材する機会に恵まれた。 選手の顔は、老若男女の区別なく輝いていた。それは、サッカーはもちろんのこと、すべのスポーツが持つエネルギーだと思う。<hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.06.25 22:00 Sat
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64年ぶりのW杯/六川亨の日本サッカー見聞録

カタールW杯のプレーオフが始まり、ヨーロッパ予選プレーオフはウェールズがウクライナを1-0で下し、実に64年ぶりの本大会進出を果たした。 アジア予選プレーオフではオーストラリア(グループB3位)がUAE(グループA3位)を2-1で下し、南米5位のペルーとの大陸間プレーオフ(6月13日)に進出。オセアニアを制したニュージーランドと北中米カリブ海4位のコスタリカとの大陸間プレーオフも含め(6月14日)、残る出場枠は2チームになった。 ウェールズはエースのガレス・ベイルのFKがOGを誘い、これが決勝点となった。戦禍にあえぐウクライナを応援するファンも多かったようだが、残念ながら祖国で待つ国民に吉報を届けることはできなかった。 それにしても、64年ぶりである。昨年のEUROでの活躍が頭に残っていたせいか、W杯にも出ていたようなイメージを持っていたが、半世紀以上の時を経てのW杯出場である。 かつてはイアン・ラッシュ(リバプールで活躍してトヨタカップにも来日)やライアン・ギグス(マンチェスター・ユナイテッドで99年にトヨタカップで優勝)といった名選手を擁しながらも、ウェールズはW杯予選を突破することはできなかった。 伝説的なドリブラー、ジョージ・ベストを擁した北アイルランドもなかなかW杯に出られなかったように、英国4協会にとってもW杯に出場すること、ヨーロッパ予選を突破することがいかに難しいかわかる。 ウェールズが初めてW杯に出場したのは1958年のスウェーデン大会ということになる。奇しくも北アイルランドがW杯に初出場したのもこのスウェーデン大会だった。ウェールズは初戦でハンガリーに1-1で引き分けると(4年前に準優勝したハンガリーの主力だったプスカシュやチボールらは56年のハンガリー動乱でスペインへ亡命していた)、GKアントニオ・カルバハル(その後3大会連続してW杯に出場し、通算5大会連続出場)擁するメキシコとも1-1、さらに開催国のスウェーデンとも0-0で引き分けて、グループリーグで3位に食い込んだ。 同様に北アイルランドも初戦でチェコスロバキアに1-0で勝つと、2戦目はアルゼンチンに1-3と敗れたものの、最終戦で前回優勝国の西ドイツと2-2で引き分けてグループリーグ3位でフィニッシュした。 そしてウェールズも北アイルランドもプレーオフを勝ち抜いて、ベスト8による決勝トーナメントに進出。不運にもグループリーグ2位だったイングランドはプレーオフでソ連に敗れ、スコットランドはグループリーグ最下位でスウェーデンを後にした(英国4協会が揃って出場した初めての大会でもあった)。 決勝トーナメントでは、ウェールズは優勝するブラジルに0-1で敗れる。ブラジルの得点者は17歳と239日というW杯最年少で初ゴールを決めたペレだった。そして北アイルランドはフランスに0-4で完敗する。この試合で2ゴールを決めたジュスト・フォンテーヌは1大会で13ゴールをマークして、いまでも通算得点ランキングの4位に輝いている。 サッカー王国ブラジルが初めてW杯を制し、“キング"ペレが最年少でデビューを飾る(フランスとの準決勝ではハットトリックを達成)一方、レイモン・コパ(フランス)やフリッツ・ワルター(西ドイツ)、リードホルム(スウェーデン)ら名手が揃った大会でもあった。 私事で恐縮だが、筆者が生まれたのは1957年、つまりスウェーデン大会の前年だった。もちろん大会の様子は日本に報道はされていないだろうし、記憶にあるわけもない。しかし64年前の大会を見ているウェールズのファンもいることだろう。彼らはどんな思いで11月に開催されるW杯で母国の雄姿を見守るのか。それもまたカタールW杯の楽しみの1つである。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.06.11 16:45 Sat
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ブラジル戦で思い出したこと/六川亨の日本サッカー見聞録

さてブラジル戦である。W杯南米予選は8位で敗退したパラグアイは、正直物足りない相手だった。ここはやはり、「サッカー王国」との対戦で日本の現在地が測れるというものだろう。 その前に、日本は意外ではあるがブラジルと数多く対戦している。ご存じのように過去のW杯優勝国は南米ならウルグアイ、アルゼンチン、ヨーロッパではイタリア、ドイツ(西ドイツ時代を含む)、イングランド、フランス、スペインの8チームに限られる。 この8カ国のうち、南米のアルゼンチンには2010年のキリンチャレンジカップで岡崎慎司の決勝点により初勝利を奪っている。さらにウルグアイとは2018年のキリンチャレンジカップで南野拓実の2ゴールや大迫勇也、堂安律のゴールから4-3で勝利した。 ヨーロッパ勢に目を向けると日韓W杯の前年に柳沢敦の鮮やかなボレーからイタリアとは1-1で引き分け、イングランドとは2004年にマンチェスターで対戦して小野伸二の同点ゴールで1-1と引き分けている。さらにフランスとなると2012年にサンドニで対戦し、試合終盤の香川真司のゴールで1-0の勝利を収めた。 カタールW杯で対戦するドイツとは2006年のドイツW杯直前の試合で高原直泰の連続ゴールで2-0とリードしながらクローゼとシュバインシュタイガーにゴールを許し、惜しくも引き分けた。そしてスペインとは2001年にコルドバで初対戦し、このときは0-1で敗れている。 こうして振り返ると、W杯優勝国とは負け越しているとはいえ、そこそこの勝負を演じてきたことがわかる。ところが、ことブラジルに関しては0勝2分け10敗とまったく歯が立たない。 日本が初めてブラジルと対戦したのは、Jリーグが誕生する前の1989年のこと。横山謙三監督率いる日本は、翌年のイタリアW杯予選は1次リーグであっけなく敗退した。92年のバルセロナ五輪の出場を目ざすのか、それとも94年のアメリカW杯に目標を切り替えるのか。そのどちらにも明確な答えを出せず、まさに日本サッカー“暗黒の時代"だった。 それでも強化のために南米遠征を実施し、アルゼンチンではエストゥディアンテスやボカ・ジュニアーズ、インデペンディエンテと対戦(1分け2敗)。その後はブラジルに移動し、コリチーバやパルメイラスと対戦したが、なんとそこでブラジルとの初マッチメイクも実現した。 この試合を取材したメディアは、現地に在住する日本人カメラマンだけだったと思う。試合にはまだブラジルでプレーしていた三浦知良も日本の応援に駆けつけた。 日本の主力は若手の井原正巳や、長谷川健太、水沼貴史といったところ。対するブラジルはベベート、ロマーリオ、カレッカ、ブランコ、ドゥンガ、アウダイール、マウロ・ガルボン、GKタファレルとほぼベストの布陣だ。 試合は後半から出場したビスマルクの決勝点で1-0と勝ったものの、ハーフタイムに8人が交代する、ブラジルにとっては練習試合のようなもの。それでもビスマルクだけでなく後半から出場した選手にはジョジマール、アレモン、シーラスら翌年のイタリアW杯に出場するメンバーもいたのだから、やはり錚錚たる顔ぶれだった。ちなみに監督はジーコの兄のエドゥが務めた。 この一戦後、日本は親善試合で7試合、コンフェデレーションズカップで3試合、そしてドイツW杯のグループリーグで1試合の計12試合ブラジルと対戦しているが、01年のコンフェデ杯(0-0)と05年のコンフェデ杯(2-2)で引き分けたのが最高の成績だ。 直近では2017年にヴァイッド・ハリルホジッチ監督の自宅に近いリールで対戦したものの、ネイマール、マルセロ、ジェズスのゴールで1-3と完敗している。当時の試合に出ていて今回も日本代表に招集されているのはGK川島永嗣、DF長友佑都、吉田麻也、MF遠藤航、原口元気、FW浅野拓磨の6人だが、果たして6日のブラジル戦ではどんな成長曲線を見せてくれるのか。 そろそろブラジルからも初勝利を奪って欲しいと期待している6日の試合でもある。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.06.05 22:55 Sun
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大宮の監督交代に思うこと/六川亨の日本サッカー見聞録

J2リーグの大宮が、霜田正浩監督の解任を26日に発表した。後任には町田や川崎F、鹿島などで指揮を執った相馬直樹氏が監督に就任。今週末のアウェー東京V戦から現場に復帰する。 元JFA(日本サッカー協会)の技術委員長で、J2山口で指揮を執った霜田氏が大宮の監督に就任したのは昨シーズン6月のこと。2勝5分け11敗と出遅れた岩瀬健監督の後を引き継ぎ、第18節の栃木戦からチームを率い、勝ちきれない試合が続いたもののガマン強くポゼッションスタイルのサッカーへと転換を図った。 夏の移籍期間中には徳島からFW河田篤秀を獲得すると、すぐさまエースストライカーとして活躍。19試合で7ゴールを決め、河田がゴールを決めた試合は4勝3分けの無敗でJ2残留に貢献した。 シーズンが深まるにつれ、右SBにはイケメン馬渡和彰が、左SBには翁長聖が定着。右MF黒川敦史、左MF奥抜侃志ら主力選手もほぼ固まり、最終戦の勝利(群馬に3-1)により16位でフィニッシュしてJ2残留を果たした。 捲土重来を期すはずの今シーズンだったが、イバやハスキッチら外国人選手に加え、前述した馬渡(浦和)、翁長(町田)の両SBとCBの河面旺成(名古屋)、黒川(磐田)ら主力選手、とりわけDF陣のレギュラー3人が移籍したのは大打撃だった。 彼らが移籍するのは霜田監督も了解していた節がある。さらに、外国人選手を補強する資金がないことも、新シーズンの獲得選手を見れば明らかだ。こうした「ないない尽くし」でスタートした今シーズンを象徴するのが横浜FCとの開幕戦だった。 アウェーで優勝候補と対戦した大宮は0-2のビハインドから新加入した茂木力也と矢島慎也のゴールでタイスコアに持ち込む。その後も猛攻を仕掛けたものの、決定的なシュートはポストを叩いたりGKの正面を突いたりするなど大宮サポーターのため息を誘う。そしてアディショナルタイムに新加入DF新里亮がPKを与えて2-3で敗退した。 その後も勝ち試合をドローで終えるなど低迷が続き、初勝利は4月16日の第10節・千葉戦(2-1)と大きく出遅れた(この勝利で最下位から21位に浮上)。5月25日の第18節を終えてクリーンシートは第16節の長崎戦(0-0)と18節の琉球戦(1-0)の2試合のみ。いかに守備が崩壊していたかがわかるだろう。 その間には第6節の岡山戦で負傷したGK南雄太の代わりに出場した上田智輝がロングキックを蹴った際に右膝を負傷し、急きょDFがGKを務める緊急事態もあった。GK上田は全治6~8ヶ月の重傷。そして正GKのベテラン南も5月18日のいわて戦で右足アキレス腱の断裂と、相次ぐ不運に遭っている。 シーズン途中には原博実・元JFA技術委員長を強化の責任者に招聘したものの、その効果があったのかどうかは不明だ。これは余談だが、原氏と相馬監督は、年齢は離れているが同じ早稲田大学サッカー部の先輩と後輩である。同じ早稲田ラインなら、元日本代表監督の西野朗氏は原氏の先輩であり、元五輪代表監督の関塚隆氏は後輩であることだけ付け加えておこう。 話を大宮に戻すと、現チームを相馬監督がどう立て直すのか楽しみだ。恐らく現実路線で守備の立て直しからスタートするだろう。そんな相馬監督の要求に応えられる選手がどれだけいるか。 最後に、霜田元監督は、コロナ禍でも練習をメディアに公開し(取材に来るメディアは数少なかった)、会見もリモートではなく対面で実施した。そして、当事者の誰もコロナに感染することはなかった。こうした監督の姿勢とチームの努力による結果は高く評価したい。その積み重ね、エビデンスが近い将来、大宮のファン・サポーターに対して練習公開とファン・サービスにつながることを期待したい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.05.27 18:30 Fri
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アディダスvsプーマ。創業者は兄弟だと知っていた?/六川亨の日本サッカー見聞録

サッカーファンはもちろんのこと、一般ユーザーも「アディダス」と「プーマ」と聞けば、シューズメーカーだということは知っているだろう。近年はアメリカの「ナイキ」に売上高1位の座を譲っているが、ドイツ(西ドイツ)が生んだ一大ブランドだ。 そんな2大メーカーの創業者が兄弟だったということを、知らないサッカーファンも増えてきているのではないだろうか。 映画「アディダスvsプーマ-運命を分けた兄弟-(2015年製作)」は2人のサクセスストーリーであると同時に、兄弟の確執を描いた映画でもある(ヨコハマ・フットボール映画際で上映。6月5日は15時30分/かなっくホール・音楽ルーム。6月9日は19時/シネマ・ジャック&ベティ)。 時はいまから約100年前の1920年、ニュルンベルク近郊で、靴職人のアドルフ・ダスラー(弟)を、口は達者だが会社を首になったルドルフ・ダスラー(兄)が営業を担当することで靴の製造会社「ダスラー兄弟商会」を設立した。 まずは工場の設備を整えるため銀行に融資を頼みに行くが、銀行マンはアドルフのサッカーシューズは革が柔らかくてすぐに壊れると指摘。「つま先は硬く、足首までカバーするのがサッカーシューズ」と融資を断った。そこで2人は陸上のスパイク作りに方針を転換。軽くてグリップ力のある陸上シューズは売れ行きも好調で、ドイツ代表の陸上部の監督のお墨付きを獲得することにも成功した。 しかし時代はナチスの台頭によりアドフル・ヒトラーが首相に指名されるなど、激動の時代を迎えつつある。職人であるアディは1936年のベルリン五輪に出場するアメリカ代表のジェシー・オーエンスの才能に着目し、自身の作ったシューズを提供。するとオーエンスは100メートル、200メートルに走り幅跳びなど4個の金メダルを獲得した。 ところが黒人に負けたことで陸上部の監督は首になり、兄弟は後ろ盾を失ってしまう。そしてナチス・ドイツはポーランドが侵攻したと口実を作って攻め込むことで第二次世界大戦が勃発した。職人であるアディは徴兵を免れたものの、兄ルディは戦地へと送られる。さらにシューズ工場ではバズーカ砲を製作するよう命じられた。 第二次世界大戦が終わり、ルディは無事戦地から帰国したが、自分だけ戦地に送られたことに不満を持ち、進駐軍のMPに「弟はナチスの協力者だ」と密告する。バズーカ砲などの物的証拠があるためアディは窮地に立たされるが、それを救ったのが妻の機転で、オーエンスと一緒に撮った写真だった。 もう兄弟の仲は修復不可能。お互いにシューズ工場を作ることになり、社員にもそのことを伝えると、アディの元には靴職人が多く残り、ルディには営業担当が着いていった。ルディの作った「プーマ社」は、当時は現在のような流線型のラインではなく、プーマには「道楽者」というあだ名もあったと映画では紹介されている。そしてアディは自身の名前を短縮して「アディダス」という社名に変更した。 当時の西ドイツにまだプロのチームはなく、多くのチームがプーマ社のシューズを履いていたそうだ。そこはやはり兄の営業力がモノをいったのかもしれない。プーマ社の幅広の白いラインのシューズを見ていたアディは、白色のペンキを塗っている最中だったゴールポストに人差し指と中指と薬指の3本で触り、それを自分の作ったシューズの内側と外側になぞるようにして3本の白ラインを入れた。 アディダスの「スリーストライプ」が誕生した瞬間だった。 第二次世界大戦が終わり、ワールドカップは1934年フランス大会以来12年ぶりに再開されることになった。1950年ブラジル大会である。本来ならドイツで開催されるはずだったが、戦争責任を問われて資格停止だったためブラジルで開催されることが決定。東西両ドイツとも出場資格はなかった。 そして1954年スイスW杯である。売れ行きが好調なルディの「プーマ」は、西ドイツ代表監督のゼップ・ヘルベルガーから、選手へのサッカーシューズの無償提供と、月1000マルク(現在の日本円で約7万円だが、当時との物価差は現在と比較できないだろう)の資金援助を申し込まれたが、これを拒否。仕方なくヘルベルガー監督はアディに頼んだところ快諾されたことで西ドイツ代表は3本線のシューズでW杯を戦うことになった。これはいまも変わらない伝統である。 ルディがヘルベルガー監督の申し出を断ったのは、金銭的な負担よりも西ドイツが勝つ見込みは少ないという判断を優先したからだろう。1938年のフランス大会も1回戦でスイスに負けているし、50年ブラジル大会は出場できていない。このため54年スイス大会でも上位進出は難しいと判断してもやむを得なかった。 こうして迎えたスイス大会、西ドイツは1次リーグで当時無敵を誇った「マジック・マジャール」ことハンガリーにリザーブ選手を起用して3-8と大敗する。決勝トーナメントで前回優勝のウルグアイや準優勝のブラジルを避けるためだとも言われた。 そしてハンガリーとの決勝戦、試合開始直前に降り出した雨に、用具係を担当していたアディは急きょシューズの取り替え式ポイントを雨用の長いスタッドに変更する。スタンドには兄ルディの姿もあった。 そして試合後、ロッカールームに戻ると試合のチケットが置かれていて、そこには一言、ルディからアディへのメッセージが残されていた。 正直、サッカーシーンはほとんどない映画である。なので、それを期待したら失望するかもしれない。それでも2人の兄弟愛と、サッカー界はもちろんのこと、スポーツ界にも多大な影響を残したダスラー兄弟の葛藤と兄弟愛を感じられる映画だった。 彼らの息子、特にアディの息子ホルストは父の仕事を引き継ぎ、FIFA(国際サッカー連盟)やIOC(国際オリンピック委員会)などで絶対的な影響力を発揮し、“蜜月時代"の礎を築いた。彼らの映画も、いつかは作られるかもしれない。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.05.13 21:45 Fri
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