天皇杯決勝は2度目のPK戦で決着/六川亨の日本サッカーの歩み

2022.10.18 17:00 Tue
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第102回を迎えた天皇杯はJ2の甲府がPK戦の末に広島を下して初優勝を果たした。

J2クラブが優勝したのは2011年のFC東京以来11年ぶり。しかし当時のFC東京はJ2に降格して1年でJ1復帰を決めており、天皇杯優勝はそれほど大きなサプライズではなかった。一方の甲府はJ2で7連敗を喫するなど、残留争いに巻き込まれながらも天皇杯では札幌、鳥栖、福岡、鹿島といったJ1勢を下しながらの優勝だけに、“下剋上“を実践しての見事な戴冠だった。

試合はというと、甲府は自陣深くに5BKを配してスペースを消し、その前に4人の選手をゾーンとマンツーマンを併用したブロックで堅固な守備組織を築いた。一発勝負のカップ戦ならではの、なりふり構わない戦い方である。しかし、これが広島相手にピタリとはまった。
マイボールになればロングパスで前線の三平和司長谷川元希鳥海芳樹を走らせるか、無理を承知で2列目の長谷川や鳥海に加え、サイドハーフの関口正大荒木翔らに単独でのドリブル突破を敢行させた。格下のチームがリスクヘッジしながら格上相手に勝機をつかむには、無理を承知で挑み続けるしかない。実際、前半はパスカットや単独ドリブルでのカウンターからチャンスをつかんでいた。

これに対し広島は、完成度の高い[3-4-2-1]からパスサッカーによる多彩な攻撃が持ち味のチームでもある。ところが甲府は自陣にベタ引きのため、広島が得意とする「剥がすプレー」ができない。相手がプレスを掛けにこないため、剥がしたくても剥がせないのだ。ここらあたりが同じポゼッションスタイルを得意とする川崎Fとの違いと言える。

ボールの支配率で上回り、後半は甲府陣内で試合を進めたものの、サイドを崩しきれず、満田誠らのミドルも分厚いブロックに跳ね返された。こんな時に有効なのはドリブラーだが、広島には密集地帯をすり抜けるようなドリブラーがいなかった。他の有効な手段としてパワープレーという選択肢もあるが、ミヒャエル・スキッベ監督は最後まで“地上戦“にこだわった。かくして広島は、6度の決勝戦進出もランナーズアップに終わるという珍記録を更新することになったのである。

この天皇杯決勝でPK戦までもつれこんだのは過去に1回しかない。Jリーグ開幕を3年後に控えた90年の日産対松下戦で、試合は0-0のまま延長戦でも決着がつかず、PK戦4-3で松下が初優勝を果たした。

当日は氷雨の降る元日決戦で、日産は88、89年から続く3連覇を目ざしたものの、松下の守備的なサッカーに最後までゴールを割れず、PK戦で涙を飲んだ。試合後、キャプテンだった柱谷哲二は「攻めてこない相手に負けてしまった自分たちが悔しい」と、それこそ悔し涙を流しながら声を絞り出していた。

日産は翌91年と、92年は日産FC横浜マリノスとして連覇を果たす。もしも松下に勝っていれば5連覇という偉大な記録を作れていたのだった。そして柱谷哲二氏は88、89年と91年の3度の優勝に貢献し(88年は兄の幸一氏と兄弟で天皇杯に優勝)、92年は読売クラブに移籍したものの古巣の日産FC横浜マリノスに決勝で敗れたのだった。

Jリーグの始まる前の10年間は、日産と読売クラブがタイトルを独占した天皇杯だった。それだけ2強が図抜けていた時代でもあった。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた


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Jリーグの役割/六川亨の日本サッカーの歩み

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「魚と組織は天日にさらすほど日持ちがよくなる」元チェアマン村井満氏がバドミントン協会に/六川亨の日本サッカーの歩み

「魚と組織は天日にさらすほど日持ちがよくなる」とは、前チェアマンの村井満氏の口癖である。このフレーズを1月22日に久しぶりに耳にした。 すでにネットや新聞紙上で報道されたように、日本バドミントン協会は1月22日、都内で臨時評議員会と理事会を開き、Jリーグ第5代チェアマンの村井氏を理事に選任すると同時に、全会一致で副会長に承認した。今後は6月の役員改選で新会長に就く見通しだ。 「なぜ村井氏がバドミントンに?」と思われるかもしれないので、バドミントン会の内情を簡単に紹介しよう。 22年3月、元職員が18年度に選手の賞金や合宿時の負担金など約680万円を私的に流用した。これを受けてバドミントン協会は元職員による横領の組織的な隠蔽などの不祥事を受けて、関根義雄前会長と銭谷欽治前専務理事が引責辞任。この不祥事には他にも6人の理事と2人の監事が関わったとされ、元選手からは抜本的な改革を求める意見も出されていた(22日の臨時評議員会では、不祥事に関わった6人の理事と2人の監事を解任しないことを決めた)。 こうした背景からバドミントン協会は、昨年12月初旬に組織改革のためには「(新会長には)外部理事を招へいしないといけない」として、候補に元Jリーグチェアマンの村井氏に今後の改革を託したというわけだ。 村井氏は「サッカー界からバドミントン界に大きな転身となりますが、スポーツ界に恩返しをしたい」という思いから、職務を引き受けたという。 会長職を引き受けた村井氏は、臨時理事会後に会見に臨み「バドミントンは世界的に競技レベルが高い。その競技力を持ちながら選手には苦しい思いを強いていたのではないか。(協会が)隠ぺい体質と言われていることを目にしました。あらゆる不祥事の多くは密室で起こると思っています。“魚と組織は天日にさらすほど日持ちがよくなる”と言ってきましたが、徹底して透明性を高めていきたい」と抱負を語った。 村井氏の功績は、あらためて紹介する必要もないだろう。昨年、退任するまで4期8年の任期は、初代チェアマンの川淵三郎氏を別にすれば最長だ。それだけ実績を重ねてきた。チェアマン就任早々に浦和の無観客試合の開催を決定した。 その他にも明治安田生命とタイトルパートナー契約を締結したり、イギリスのパフォーム・グループ「DAZN」と10年間で約2100億円の大型契約を結んだりして経営の安定化を図った。しかし、こうした目に見える改革だけが同氏の功績ではない。 例えば豪華な『チェアマン室』をはじめ役員の個室を撤廃して、『大部屋制』を導入した。JFA(日本サッカー協会)にはいまもJFAハウスに広大な会長室があるのとは対照的だ。 自分専用のデスクに座り、パソコンと向き合っていれば誰もが“仕事をしている”と思うだろう。連絡手段はメールやLINEで済む。こうした風潮に対しても固定席を持たない“フリーアドレス”を採用して仕事の効率化と、職員同士の“声掛け”によるコミュニケーションを図った。 ある意味、『アナログ化』と言ってもいい。その原点が冒頭のコメントにある「魚と組織は天日にさらすほど日持ちがよくなる」に端的に表われている。 リクルート・エージェントという人材をマンハントするグローバル企業の出身だからこそ、人材の“生かし方”を熟知した証左である。 村井氏と接したことがあるなら、誰もが「人当たりはソフトで謙虚」という印象を受けただろう。しかし浦和の無観客試合の開催を決定したことなど、決断力に迷いはない。 それは、埼玉県出身で浦和高校時代はサッカー部に所属し、Jリーグ誕生以前は浦和にプロチームを誘致する活動をして、93年5月15日のJリーグ開幕戦(ヴェルディ川崎対横浜マリノス戦)には何枚ものハガキを書いて応募したものの落選して落ち込んだように、生粋のサッカーファンだからこそできたからだ。 彼のサッカー愛は半端ではない。 チェアマンを野々村氏に譲ってからは、ワンボックスカーを購入して改造し、車中泊をできるようにして全国各地のJクラブの試合を観戦するのを楽しみにしていると聞いた。久しぶりに会った際は「サスペンションがあまりよくないんですよ」と言っていたが、今年はサッカー観戦の機会も少なくなるのは寂しいかもしれない。 村井氏は、それだけ求められている人材であり、サッカー界はそうした人材を輩出したことを誇らしく思っていいのではないか。そして同時に、バドミントンは世界的に日本選手が男女ともトップレベルでも、協会は旧態依然とした体質を知ったのは驚きだった。 今後は注目される組織改革だけに、村井氏には6月以降、プレッシャーがかかるだろう。しかし、プレッシャーがかかればかかるほど村井氏は底力を発揮するはず。サッカー界からは一時離れると思うが、バドミントン協会の組織改革に注目したい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.01.24 12:00 Tue
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フットボールカンファレンスから思いついた提案/六川亨の日本サッカーの歩み

JFA(日本サッカー協会)が主催する指導者向けの講習会、「第13回フットボールカンファレンス」が1月14、15日の両日、横浜市内の会場でヨーロッパやアジアからゲストを招いて開催された(アーセン・ベンゲル氏やユルゲン・クリンスマン氏もズームで参加)。 田嶋幸三JFA会長の挨拶に続いてJFAのTSG(テクニカルスタディグループ)リーダーの木村康彦氏が、カタールW杯の分析を報告。ゴールに関しては、トータル172ゴールは過去最多で(32チームとなった98年フランス大会以降)、そのうちカウンターからは40ゴール、さらに92%がペナルティーエリア内のシュートだったことなどが報告された。 そして守備では「カウンターをやらせないカウンタープレスの高い意識とハードワーク」に加え、ボランチやアンカーの守備範囲の広さとインテンシティの強さを指摘しつつ、半分以上の選手がCLかELの出場チームに所属していたとのことだった。 大会全体としては、ヨーロッパのインシーズン中での開催と、全8会場が距離的に近いコンパクトな大会だったため、選手も試合ごとの移動がなく、気候も一定していて「レベルの高い大会」と位置づけた。 コンパクトな大会の利点は取材したメディアや観戦に訪れたファン・サポーターも大いに感じたはずだ。 登壇した反町技術委員長も「コロナでマッチメイクも中止になり、苦しい日々を過ごした」と振り返りつつ、カタールでのキャンプ地はアジア最終予選を突破する前に視察して予約していたこと。練習中にドローンを飛ばして、その映像をピッチで選手がすぐに見られるよう映像モニター付きのカートを用意したことなどを紹介した。 これまでのW杯なら、本大会の組分け抽選が終わり、グループステージの日程と試合会場が決まってからキャンプ地選びとなるが、カタールのスタジアムはほとんどがドーハ市内か近郊のため抽選会を待つ必要がなかった。そして選手はずっと同じ施設にステイして試合に集中できるだけに、ストレスもあまり感じなかったのではないだろうか。 前回のロシア大会も日本はグループステージで3会場に比較的近いカザンをベースキャンプ地にしたが、大変だったのが14年ブラジルW杯だ。キャンプ地のイトゥはサンパウロ市内からバスで1時間ほどかかる。さらにイトゥ市内からもキャンプ地までは徒歩で30分以上かかるというアクセスの悪さ。 初戦(コートジボワール戦)の行われたレシフェとサンパウロの距離はというと、沖縄から札幌に移動するのと同距離だ。アルベルト・ザッケローニ監督(今回のカンファレンスにも参加)は「選手に試合後、しっかりと食事を摂らせたい」との考えから1泊することを選んだが、多くのチームは遅くなってもキャンプ地まで戻り、翌日のクールダウンや練習に備えた。短期決戦での“一日"をどう使うかの考え方の相違だろう。 話をカタールW杯に戻すと、移動がないため「レベルの高い大会」だったと総括した。ならば、48チームに増える次回の大会こそ、98年フランス大会以前のグループステージ制に戻すべきである。 例えば86年メキシコW杯では、各グループの4か国は同一市内もしくは近郊の2会場で試合を行った。地元メキシコは3試合ともメイン会場のアステカ2000スタジアムだったし、ジーコ率いるブラジルは温暖なグァダラハラ市、イングランドはメキシコシティから最も遠く、アメリカ・テキサス州に近いモンテレイ市だった。 4年後のイタリアW杯も同じように、ローマとフィレンツェ、ミラノとボローニャ、トリノとジェノバ、ナポリとバーリなどが同一グループの試合会場となり、イタリアは3試合ともオリンピコで戦った。さらにローター・マテウスらインテルで3人がプレーしている西ドイツはミラノのサン・シーロで、ディエゴ・マラドーナのアルゼンチンは当然ナポリのサン・パオロでの試合となった(開幕戦だけはミラノ)。 試合会場が近ければ、グループステージ中の移動は少なくてすむ。その日のうちにキャンプ地に戻ることも可能だ。そして、利点は他にもある。 カタールW杯では大会期間中、現地で暮らす日本人の子供たちを練習に招待した。それと同じことが86年のW杯でもあった。ずっと同じキャンプ地にいるため、代表チームがお礼に地元の少年少女を練習に招待したのだ。こうした触れ合いもW杯ならではの素敵な経験となるのではないだろうか(各会場のボールボーイも地元の少年少女だった)。 ところが98年フランスW杯で、ミシェル・プラティニは「地元のファンがより多くのチームの試合を見られるようにしたい」と“グループ制"をやめて、チームが試合のたびに都市間を移動するシステムに変更した。 百歩譲って交通網の発達した(なおかつ時間に正確な)フランスやドイツ、日本ならまだしも、アメリカ、カナダ、メキシコと時差もあり3か国にまたがる大会で、さらにチーム数も増やすのだから、選手のコンディションを考慮しても移動のリスクは極力減らすべきである。監督、選手はもちろんのこと、それは誰もが歓迎すると思うのだが、いかがだろうか。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.01.16 22:00 Mon
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岡山学芸館の巧妙なゲーム運びに感動/六川亨の日本サッカーの歩み

1月9日の第101回全国高校サッカー選手権、岡山学芸館(岡山県)対東山(京都府)の決勝戦には5万868人の大観衆が観戦に訪れた。 すでに前売りの段階で完売していたと聞いていたので、決勝戦のカードに関係なく老若男女、高校サッカーファンがチケットを買い求めたのだろう。 平成25年度(決勝戦は2014年)、第92回大会の富山一(富山県)対星稜(石川県)の決勝戦(3-2)を最後に旧国立競技場は大規模改修工事に入った。その後は決勝の舞台を埼玉スタジアムに移して令和2年度の前々回まで開催されてきた。 しかし、やはり交通のアクセスの良さは新国立競技場に勝るものはないのだろう。前回大会から国立開催となり、ファンも戻ってきたようだ。そして9年前と同様に初の日本一を目ざす両チームの激突は、最後まで目の離せない好ゲームとなった。 今大会は岡山学芸館の試合を見る機会が多かった。3回戦の國學院久我山(東京)との試合こそテレビ観戦となったが、準々決勝、準決勝、決勝と取材した。理由は簡単で、今大会は神村学園を追いかけていたため、隣のブロックにいる岡山学芸館と試合会場が重なったからだ。 そして彼らの、ピッチをワイドに使った攻撃的なサッカーに魅了された。敵のバイタルエリアに入ると、忠実にパス&ムーブを繰り返す。このため攻撃をブロックされても、こぼれ球を拾っては攻撃を組み立て直し、サイドからブ厚い攻めを展開した。 神村学園のFW福田師王やMF大迫塁のような年代別代表選手や、卒業後にJリーガーとなるような選手もいない。しかし“穴"もなく、2年生ながらGK平塚仁はハイボールに安定したキャッチングを見せ、1トップの今井拓人は献身的なポストプレーとチェイシング、そしてトップ下の田口裕真は気の利いたパス出しで攻撃陣を牽引した。 ところが東山との決勝戦の前半は、これまで見て来たサッカーとはまったく違うスタイルを選択した。 記録上のスタメンの平均身長と体重で、両チームに差はほとんどない。しかし東山は昨年の大会の準々決勝で、優勝した青森山田(青森県)に1-2と敗れた際、フィジカルコンタクトの差を痛感したそうだ。その反省を生かして選手権の大舞台に戻ると、決勝戦では体幹の強さや巧妙な身体や手の使い方で岡山学芸館を圧倒した。 見事だったのは、それを見越したのか岡山学芸館は前半、ほとんどパスをつなごうとせず、自陣からロングパスを1トップの今井に当てるカウンターに徹したことだ。 高原良明監督は「前半は単調な攻撃が多くてマイボールを失っていた」と語ったが、東山のCKやロングスローに対し、GK平塚がキャッチするとすかさずライナー性のキックを前線に残る田口裕に出してカウンターを狙った。その割り切り方はカタールW杯の森保ジャパンを彷彿させるほどだった。 そして25分にはカウンターから単身ボールを運んだ今井がOGを誘発して先制に成功する。前半終了間際に追いつかれた岡山学芸館が後半はどんなサッカーを見せるのか期待したところ、やはりスタイルを変えてきた。 ロングキックから一変、本来のパスをつなぐスタイルで東山にプレッシャーをかけに行った。後半7分の木村匡吾の決勝点、ヘディングシュートはまったくのフリーだったが、準決勝の神村学園との試合で先制点を決めた田口裕もフリーで決めたように、2列目からの走り込みによるゴールも岡山学芸館の得意とするところ。 そして東山の反撃に一進一退の攻防を繰り広げつつ、岡山学芸館は後半20分過ぎになるとCKやロングスローのチャンスに両CBがゴール前に攻め上がり、貪欲に3点目を狙いにいった。その姿勢からは、『このまま2-1で逃げ切るのではなく3点目を取らないと勝てない』という決意を感じた。 実際、東山は14分にはゴール前の決定機にシュートを上に外したり、29分には阪田澪哉がクロスバー直撃のヘディングシュートを放ったりするなど、同点のチャンスは2度ほどあった。 そんな東山に対し、後半40分に右ロングスローから木村匡がダメ押しの3点目を奪って勝利を決定づける。 印象的だったのはタイムアップの瞬間で、勝った岡山学芸館の選手がピッチに倒れ込んだ。12月29日の1回戦から、ほぼ同じスタメンで戦ってきただけに、疲労困憊だったのだろう。そして試合後の表彰式では普通の高校生に戻っていた。 今大会のPK戦での左右上スミを狙った精度の高いキックも驚きだった。例えGKが読んだとしても弾けないコースである。指導した平清孝GMは、かつては東海大五(現東海大学付属福岡高)の監督として東福岡と火花を散らした名将でもある。かつては一見すると、かなり怖い監督だったが、実際はとても腰の低い紳士的な指導者だった。長年の苦労が、こうした形で報われたことは嬉しい限りだ。 そして岡山学芸館の初優勝で、岡山県のサッカー勢力図に変化がもたらされるのか。それはまた、来年の楽しみということにしよう。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> <span class="paragraph-title">【写真】筆者の自宅にあったペレ氏の懐かしのLP</span> <span data-other-div="movie"></span> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/1000/img/2022/.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:small;" id="cws_ad" class="desc">Getty Images<hr></div> 2023.01.10 20:45 Tue
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