元祖“ワンダーボーイ”でリバプール唯一のバロンドーラー、マイケル・オーウェン
2021.02.27 21:45 Sat
近年のサッカー界では、過去には考えられなかったほど若手の選手が活躍を見せ、それは世界各国のリーグで見て取れる。例を挙げればキリがないが、ドルトムントで活躍するノルウェー代表FWアーリング・ハーランドは20歳。同僚には、17歳のイングランド代表MFジュード・ベリンガムや16歳のFWユスファ・ムココも居る。
スペインに目を移せば、バルセロナには18歳のU-21スペイン代表MFぺドリや18歳のスペイン代表FWアンス・ファティがおり、イングランドではマンチェスター・シティには20歳のイングランド代表MFフィル・フォーデンがいる。
若手が多く活躍できる状況も整っている現代サッカーだが、以前はやはり珍しい存在。まして10代にしてトップレベルで活躍できる選手などは数える程であり、一瞬の輝きで終わることも少なくなかった。
その中でも『元祖ワンダーボーイ』とも言われ、17歳でトップデビューを果たした逸材が、マイケル・オーウェンだ。
スペインに目を移せば、バルセロナには18歳のU-21スペイン代表MFぺドリや18歳のスペイン代表FWアンス・ファティがおり、イングランドではマンチェスター・シティには20歳のイングランド代表MFフィル・フォーデンがいる。
その中でも『元祖ワンダーボーイ』とも言われ、17歳でトップデビューを果たした逸材が、マイケル・オーウェンだ。
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ケガに泣いた“ワンダーボーイ”、オーウェンが理由を語る「答えは分からない。でも、私見では遺伝」
元イングランド代表FWマイケル・オーウェンがキャリアで長らく悩まされたケガについて語った。 わずか17歳でのデビュー以来、10代とは思えない圧巻のパフォーマンスを見せ、“ワンダー・ボーイ”の愛称で人気を博したオーウェン。初めてフルシーズンを戦った1997-1998シーズンには、いきなりリーグ戦36試合に出場し18ゴールをマーク。さらにシーズン終了後に、すぐさまフランス・ワールドカップにイングランド代表として出場していた。 <div style="margin:0 auto; min-width:300px; " id="cws_ad"><div style="position: relative; padding-bottom:56.25%; height: 0; overflow: hidden; "><iframe src="https://embed.dugout.com/v2/?p=eyJrZXkiOiJPQllRSzBzWCIsInAiOiJ1bHRyYXNvY2NlciIsInBsIjoiIn0=" style="width: 300px; min-width: 100%; position: absolute; top:0; left: 0; height: 100%; overflow: hidden; " width="100%" frameborder="0" allowfullscreen scrolling="no"></iframe></div></div> その後も、10代からクラブと代表で多くの試合に出場していたオーウェンだったが、2003-2004シーズンからは、度重なるケガに苦しむように。その後、オーウェンはレアル・マドリー、ニューカッスル、マンチェスター・ユナイテッド、ストーク・シティでプレーしたが、ハムストリングやじん帯のケガに泣かされ、10代の頃の輝きを取り戻すことができずにキャリアを終えている。 キャリア後半での度重なるケガは、10代だったリバプール時代に身体を酷使し過ぎたためという見方が一般的であり、特に2009年からオーウェンが所属したユナイテッドの指揮官だったサー・アレックス・ファーガソン氏は、この説を強く訴えていた。 しかし、オーウェン本人は、ケガの原因は若い頃の身体の酷使ではないとイギリス『BBC』のラジオ番組で語った。 「これは興味深い質問で、これに対する答えはずっと分からないと思う」 「ファーガソン監督は私が身体を酷使し過ぎたと確信しているようだ。それ自体は問題ないし、私は彼の意見を尊重している」 「これに対して私が言えることとしては、私の父もプロのサッカー選手だったし、家族全員足がとても速かった。父は若い頃から試合で使われ過ぎていたわけではなかったが、キャリアの終盤、ハムストリングや太腿、股関節のケガに苦しんだ」 「考えられることとしては、私はとても足が速かったし、遺伝的にそういう身体のつくりだったんだと思う。そしてどれだけの試合に出ていようが、出ていまいが、私は常に筋肉系のケガに弱かった。なぜなら、それが僕の家族に常に起こってきたことだったからね。私たち家族はみんな足がとても速く、ケガがちだったのはその代償のようなものだった」 「だから私が100試合に出ていても、10試合しか出なくても、筋肉系のケガに苦しむことになったと思っている。ファーガソン監督の意見も一理あると思うが、私個人の意見としては私がケガに苦しんだのは、単に私がそういう身体のつくりだったからだと思っている」 また、10代だったにも関わらず試合に出過ぎたとされるリバプール時代についても回顧。リバプールとユナイテッドの選手層を比較して、クラブは自分が必要だったと擁護した。 「リバプールは私を必要としていたんだろう。そして当時ユナイテッドが特定の選手を必要としていた度合いより、リバプールが私を必要としていた度合いが大きかったんだと思う。当時のユナナイテッドは素晴らしいチームを持っていたからね。彼らは(ライアン・)ギグスや他の選手をターンオーバーで使うこともできた」 「一方で、我々は彼らに追いつこうとしていた。彼らのような大きなスカッドもターンオーバーをする余裕も持ち合わせていたなかったんだ」 2020.05.14 19:50 Thu3
サディオ・マネがリバプールの背番号「10」に!
▽リバプールに所属するセネガル代表FWサディオ・マネが新シーズンから背番号「10」を背負うことがわかった。クラブ公式サイトが伝えている。 ▽26歳のマネは2016年夏、サウサンプトンからリバプールに加入。初年度にプレミアリーグ13得点を挙げ、2017-18シーズンも2年連続の二桁得点となる10ゴールの活躍を披露した。 ▽リバプールの背番号「10」は過去、FWマイケル・オーウェンや、FWルイス・ガルシアらが着用。MFフィリペ・コウチーニョが2018年冬にバルセロナ移籍後、空き番になっていた。 ▽なお、リバプールは、マネのネーム入り2018-19シーズンモデルのユニフォーム購入者に対して、新たなものと引き換えることを併せて伝えている。 2018.07.21 08:15 Sat4
アグエロが憧れの5人を選出! 同胞3人と2人の快速FWの名前…
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かつてリバプールで“神童”と謳われ、その将来が嘱望されていた元ウェールズ代表MFベン・ウッドバーン(24)。23日に、EFLリーグ2(イングランド4部)のサルフォード・シティへの加入が発表された。 リバプールのアカデミー育ちであるウッドバーンは、2016年11月に行われたプレミアリーグに17歳と42日で出場してファーストチームデビュー。そのデビュー戦の3日後に行われたEFLカップ準決勝のリーズ戦では、クラブ史上最年少ゴール記録(17歳と45日)を樹立し、クラブやメディア、ファンから大きな期待が寄せられていた。 しかし、その後は伸び悩みファーストチームで思うような出場機会を得られず。シェフィールド・ユナイテッド、オックスフォード・ユナイテッド、ブラックプールと国内の下部カテゴリーのクラブや、スコットランドのハーツへの武者修行を繰り返すも結局リバプールではチャンスがなく、2022年夏に退団が発表された。 その後は同年夏にチャンピオンシップ(イングランド2部)のプレストンに加入すると、在籍2シーズンで公式戦通算64試合3ゴール3アシストを記録。昨シーズンはリーグ戦21試合に出場したが先発はわずか1試合にとどまり、今夏に契約満了で退団していた。 ここまで残念ながら期待されていたようなキャリアは送れていないウッドバーンだが、まだ24歳。2年契約を締結したサルフォード・シティで、再び輝く姿が期待されている。 2024.07.24 18:20 Wed4
ヴェンゲル、スアレスへの“4000万1ポンド”オファーを反省 「馬鹿げていた…」
2018年までアーセナルで長期政権を築いたアーセン・ヴェンゲル氏が、リバプールから 引き抜きを狙ったウルグアイ代表FWルイス・スアレスに関するエピソードについて語った。イギリス『ミラー』などが伝えている。 今夏にバルセロナからアトレティコ・マドリーに移籍したスアレスは、2011年1月から2014年7月までリバプールに所属。公式戦133試合に出場し82得点を記録するなど、絶対的なエースとして君臨していた。 そのリバプールのエースの獲得に向け、アーセナルが動いたのが2013年の夏。 当時、チャンピオンズリーグ(CL)から遠ざかるなど、低迷が続いていたクラブからの退団の意思を示していたスアレスに関して、ヴェンゲル氏はCL出場権を切り札のひとつとして獲得が可能と踏んでいた。ただ、同じプレミアリーグのライバルへの売却を望まないリバプールの徹底抗戦が予想されていた。 ただ、当時スアレスには4000万ポンド(約54億8000万円)の契約解除金が設定されていると報じられており、アーセナルはこの金額に1ポンド(約136円)を上乗せした“4000万1ポンド”のオファーを掲示し、エースの引き抜きを図った。 やや非常識ともいえるこのオファーは物議を醸し、リバプールのオーナーであるジョン・ヘンリー氏は自身の『ツイッター』で「彼らはエミレーツで何か(薬のようなものを)吸っているのか?」と呟くなど激高。また、実際に前述の契約解除条項は存在しておらず、リバプール側が交渉を拒否したこともあり、スアレス獲得は実現しなかった。 ただ、10月13日に販売が開始されたヴェンゲル氏の自叙伝『My Life in Red and White: My Autobiography』によると、同氏は契約解除条項が存在しないことを理解した上で前述のオファーを掲示していたという。そして、自身の振る舞いを反省している。 「2013-14シーズンにスアレスを獲得したいと思っていた。我々はプレーヤー本人、代理人と合意に達していた。そして、彼の代理人は4000万ポンド以上のオファーがあれば、リバプールは彼を手放さなければならない条項があると主張していた」 「しかし、リバプール内部の軽率な振る舞いのおかげで、そんな条項が存在しないということも理解していた。その事実を確かめるために、4000万1ポンドのオファーを出した。これについては、馬鹿げていると思われただろうし、私自身も同意する」 「リバプールはスアレスを売る気がなかったし、彼らにはプレーヤーを残すだけの(金銭的)余裕があった。さらに、既にバルセロナからのオファーが差し迫っていた」 リバプールはアーセナルからのオファーを拒絶した1年後に、スアレスをバルセロナに6500万ポンド(約89億円)で売却している。ヴェンゲル氏からすると、交渉上の駆け引きのつもりだったと思われるが、ビッグネームの獲得を逃しただけでなく、相手方にばらされてひんしゅくまで買う苦い経験だったようだ。 2020.10.15 17:03 Thu5