パリ五輪のチームがスタート/六川亨の日本サッカーの歩み

2021.10.27 18:00 Wed
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©︎JFA
AFC U-23アジアカップウズベキスタン2022予選の日本対カンボジア戦が10月26日、福島のJヴィレッジスタジアムで開催され、日本は前後半に2点を奪い4-0で快勝した。

ここで今一度アジアカップウズベキスタン2022を整理しておこう。2年に1回開催されるこの大会は今年で5回目になる。大会は予選を勝ち抜いた11チームと成績2位の上位4チーム、そして開催国の16チームで争われる。そしてオリンピックイヤーに開催される大会は五輪アジア最終予選を兼ねていて、上位3チームには五輪の出場権が与えられる。

記憶に新しいところでは、2016年にカタールで開催された大会は中島翔哉の活躍などもあり決勝で韓国を3-2で破って初優勝を果たすと同時にリオ五輪の出場権を獲得した。そして前回2020年にタイで開催された大会では、森保一監督が指揮を執ったもののグループリーグで敗退したが、日本は開催国のため五輪の出場は決まっていた。

そして五輪予選と関係ない年度の大会に関しては、2022年大会より翌年開催されるアジアカップ(2023年は中国で開催)の準備を兼ねて開催されることになった。しかし22年に中国で大会を開催するのは困難ということで、ウズベキスタンが代替で開催することになった。

2018年に中国で開催された大会には森保監督がチームを率いたように、五輪チームのスタートとなる。これまではW杯後の9月に開催されるアジア大会が五輪チームのスタートだったが、パリ五輪に向けて準備する大会が1つ増えたと言っていいだろう。

そしてカンボジア戦である。すでにカンボジアは初戦で香港に4-2で勝っていた。それを証明するように、フィジカルコンタクトもかなり強い。それでも日本は前半10分、加藤聖(長崎)の右CKを松木玖生(青森山田高)が押し込んで先制すると、終了間際の45分には甲田英將(名古屋U-18)が右からカットインシュートを決めてリードを広げた。そして後半に入ると細谷真大(柏)と交代出場の中村仁郞(G大阪ユース)が加点してカンボジアを突き放した。

おそらく28日の香港戦も危なげなく勝利を収めて本大会に出場するのは間違いないだろう。このチームは今月上旬に初めて招集され、カンボジア戦も週末のJリーグに出場した選手はぶっつけ本番に近い形での試合になったため、チームの完成度はまだまだ低いというか、手探り状態での試合だった。それでも視察に訪れた田嶋幸三JFA会長は「いい意味で荒削りだな。変にまとまっていない。荒削りで将来が楽しみな選手が多い」と期待を寄せていた。

果たして今回招集されたメンバーから何人が残るのか。それは今後の楽しみでもあるが、気がかりなのは「監督をいつ決めるのか」ということである。現在は冨樫剛一監督が暫定的に指揮を執っている。これまで五輪代表の監督は、W杯後にフル代表の監督と同時に人選を行ってきた。しかし五輪チームの立ち上げが早くなったため、W杯を待っているわけにはいかない。ここらあたりが悩ましいところでもある。

これまでならW杯後に新しい代表監督やスタッフが決定し、五輪代表のスタッフも同時に発表されてきた。W杯を区切りに「心機一転」できたわけだ。しかし今後は五輪代表のスタッフを先に決めなければならない。

現状では森保監督と横内コーチが代表チームを率いているものの、W杯予選の戦績はけして芳しいものではない。まして彼らにパリ五輪のチームを任せるわけにもいかない。このため冨樫暫定監督ということに落ち着いたのだろう。このまま冨樫監督で行くのかどうか。技術委員会も難しい判断を迫られているのかもしれない。

そうそう、カンボジアの監督が元帝京高校の廣瀬龍監督というのも新たな発見だった。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた



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冨安欠場も日本にとってラッキーなのは?/六川亨の日本サッカー見聞録

まさかまさかの、CB冨安健洋の代表辞退だった。 きっかけは昨年12月18日のリーズ戦で右ふくらはぎを負傷したため、年内の公式戦2試合を欠場した。元日のマンチェスター・C戦で復帰したものの、その後の公式戦も再びベンチ入りメンバーから外れた。しかし、20日のリバプールとのリーグカップ準決勝第2戦で先発フル出場を果たし、森保一監督も「プレーは可能だと思う」と話していた。 しかし強行出場のツケは大きく、中国戦とサウジアラビア戦の欠場が決定。森保監督は急きょ中谷進之介を追加招集した。 守備はもちろんだが、攻撃においても、引いた相手に対して意表を突いたタテパスなどビルドアップで貢献した吉田麻也と、正確なサイドチェンジで局面を打開した冨安の不在は大きいと言わざるを得ない。 特に32歳のベテランである吉田の後継者を育成してこなかった森保監督の、リスク管理能力を問う声も一部にあるかもしれない。しかし最終予選初戦で敗れたオマーン戦の植田直通のように、吉田を超える存在がなかなか出てきていないのも現実だろう。 そして2人の代役である。これまでの序列を重視する傾向がある森保監督のため、右のCBは過去16試合出場の植田が濃厚だろう。そして左はレフティーとなると必然的に板倉滉ということになる。谷口彰俉、中谷ら“国内組"にはない経験値があるのもアドバンテージだ。 さらに板倉なら、状況に応じて([4-3-3]を想定して)1ボランチの遠藤航とのポジションチェンジによるビルドアップや、ゴールが欲しい時は植田、遠藤との3バックで酒井宏樹と長友佑都を1列前に出すシステム変更にも対応できるユーティリティ性がある。 負けが許されない最終予選での、吉田と冨安の負傷によるリタイアは確かに痛い。しかし、これは今回の日本に限らず避けて通れないアクシデントでもある。 そして日本がまだ“ラッキー”と思えるのは、再開される最終予選の初戦が中国ということである。 日本に伝わってきている報道によると、中国の選手は昨年9月から合宿状態で、年末には国内リーグを戦うなど、疲労が懸念されている。さらに国籍を変更した元ブラジル人選手もオフからの合流で、コンディションは万全ではないようだ。 日本としては、急造のCBコンビとなる。さらに最終予選での初戦は海外組のコンディションがベストとはほど遠く、昨年のオマーン戦とサウジアラビア戦は苦戦した。そう考えると、中国戦は勝点3を奪うのはもちろんだが、最終予選の“天王山”とも言えるサウジアラビア戦に向けて「調整試合」にすることもできるのではないか。 サウジアラビアは27日にホームでオマーンと対戦後に来日する。当然、時差ボケなどコンディションは万全ではないはず。ホームという“地の利”も含め、そう悲観する必要はないと思うのだがいかがだろうか。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.01.25 17:00 Tue
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J昇格請負人だったウーゴ・マラドーナの訃報/六川亨の日本サッカー見聞録

昨年末のこと、残念なニュースが飛び込んできた。一昨年末に亡くなったディエゴ・マラドーナの末弟であるウーゴ・マラドーナ(52歳)が急逝したとの報道だ。死因はナポリにある自宅で心臓発作を起こしたらしい。 ディエゴ自身もこれまで放映された映画やアマゾンTVが放送しているドラマなどで、ナポリ時代に薬物に手を出したことを告白している。もしかしたらウーゴも同じ道を辿ったとしたら、兄ディエゴは“英雄"だったかもしれないが、ファミリーにとってナポリ時代は悔やまれてならない。 ウーゴの存在を身近に知ったのは、92年に浜松市をホームにするPJMフューチャーズに加入した時だった。 PJMは、アメリカ人のポール・J・マイヤーが開発した人材育成のための能力開発システムで、当時、本田技研の研修を担当していた桑原勝義氏が興味を持ったことから“おとぎ話"はスタートした。桑原は藤枝東高時代に高校選手権で優勝し、その後は日本代表にも選ばれた好選手で、本田サッカー部の監督も歴任した(現JFL理事長)。 桑原氏の夢は、一貫した育成システムで育てた選手を2002年のW杯で日本代表に送り込むことだった。そのために本田を辞め、87年にクワバラスポーツクラブと、本田サッカー部の選手を中心にしたPJMフューチャーズを立ち上げた。 当初の予定は7年後の94年にJSL(日本サッカーリーグ)1部入りを果たすことだったが、時代はJリーグ創設へと動き出した。 Jリーグ入りへ、静岡からはJSL1部のヤマハと本田に加え、県リーグ所属の清水クラブ(後の清水エスパルス)の4チームが名乗りを上げた(その後は中央防犯、現アビスパ福岡もJリーグ入りを表明)。後発であり劣勢が否めないPJMにとって、Jリーグ入りへ起死回生の策だったのが当時29歳のディエゴ・マラドーナの獲得だった。 90年7月、PJMフューチャーズのオーナーでありPJMジャパンの社長の有田平は「移籍金は20億円以上、年俸も希望次第」と発表した。しかしナポリとの契約が93年5月まで残っていたため、マラドーナの獲得は夢のまま終わった。 そんなPJMフューチャーズに転機が訪れたのは東海リーグに昇格した91年、マラドーナ3兄弟の末弟であるウーゴを獲得したことだった。兄に似てずんぐりむっくりの体型のウーゴは、「背番号10は兄ディエゴのためにとっておく」と話していた。ディエゴの夢である「兄弟3人(ラウルとウーゴ)でプレーする」ための布石ではないかと報道されることもあった。 残念ながら兄ディエゴは90年イタリアW杯後の91年にコカイン服用の疑いでイタリア警察から告発され、FIFAからは15ヶ月の出場停止処分を受け、兄弟が揃って日本でプレーする夢はかなわなかった。 それでもウーゴはPJM(後の鳥栖フューチャーズ)でプレーした92年から94年の3年間(東海リーグとJFL)で49試合出場31ゴール、95年は福岡ブルックスに移籍し、JFLでは27試合出場で27ゴールを奪ってJリーグ昇格に貢献、97年には札幌でもチームをJリーグ昇格へと導いた。 偉大すぎる兄と比較されながらも、そのひたむきなプレーは鳥栖や福岡、札幌のファン・サポーターの脳裏に焼き付いているのではないだろうか。遅ればせながら、哀悼の意を表します。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.01.10 12:30 Mon
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駒大のロングボール・サッカーの効果/六川亨の日本サッカー見聞録

先週末は25日のインカレ決勝、駒澤大対阪南大(3-2)を取材し、週明けの28日は第100回を迎える全国高校選手権の開幕戦、関東第一高校対中津東(6-0)の試合を取材した。その間には27日に鹿島の“常勝軍団”の礎を築いた鈴木満FD(フットボールダイレクター)の、今シーズン限りの退任によるオンライン会見も取材した。 鈴木氏は鹿島の前身である住金サッカー部の選手や監督を務め、Jリーグ誕生後も強化スタッフとして30年もの長きに渡りチームの栄光を下支えしてきた。いわゆる「オリジナル10」で、93年のJリーグ開幕から今日まで同一チームの現場で活躍してきたのは鈴木氏しかいない。鈴木氏は来年3月まで現職にとどまるので、機会があったら彼の功績を紹介したい。 さて28日に開幕した高校選手権、関東第一対中津東の試合は洗練されたパスサッカーの関東第一が6-0の大差で圧勝した。決定機を確実に決めていれば、もう2~3点は入っていただろう。一方の中津東は、パスをつないで攻めようにも関東第一の素早いプレスに後手に回り、早い時間に失点したこともあり本領を発揮できなかった。 そこで改めて考えたのが、インカレで06年の第55回大会以来14大会ぶり7度目の優勝を果たした駒澤大のサッカーだ。昔も今も変わらず、ボールポゼッションではなく、マイボールになれば迷わず前線の2トップにロングパスを出して大型FWを走らせるサッカーだ。現チームの左SBの桧山悠也は、ボールを持つと迷うことなく左クロスを送っていた。 SBが攻撃参加しても、タテに突破を仕掛けるわけでもなく、ボールをキープしては相手を引きつけて、サポートに寄ったボランチやCBにバックパスを出すシーンをよく目にする。それはそれで、ボールキープの時間を増やし、相手DFをワイドに広げようという狙いがあるのだろう。 しかし見ている方としては、時として歯がゆく感じるものだ。せっかく攻め込んだのに、いつの間にかボールは味方GKまで戻っていることも1回や2回ではない。 その点、桧山のプレーはシンプルでわかりやすいため、見ていて気持ちよかった。前線で待ち構えるFWとしても、せっかくゴール前でマーカーと駆け引きをしているのに、クロスがなかなか入らず、ボールが自陣GKまで戻っていては、またイチから動き直さなければならずフラストレーションも溜まるのではないか。 駒澤大学の秋田浩一監督は「10回つないで1点くれるなら考えも変わりますが、サッカーは点を取るゲーム」と割り切っている。これはこれで的を射ている“真理”だろう。 試合は阪南大が2度のリードを奪いながら、そのたびに駒澤大がアーリークロスや右CKからのヘディングシュートで追いつき、最後は左サイドからのアーリークロスが風上で右に流れるところ、右サイドから詰めていた交代出場の島崎翔輝が押し込んで決勝点とした。 駒澤大の伝統でもあるキック・アンド・ラッシュとフィジカルを鍛えたサッカーは、それはそれで“あり”だと思う。チーム戦術に合った前線のFW起用など、他校にはないストロングポイントを持っているからだ。 ポゼッション・スタイルが全盛の現在、どこを切っても同じような“金太郎飴”のスタイルを否定する駒澤大のサッカーは、むしろ新鮮ですらある。 そして高校選手権に話を戻すと、中津東は攻め手がなかった。ならばパスをつなぐポゼッション・スタイルではなく、キック・アンド・ラッシュに活路を見いだすべきではなかったか。そこまで練習していないため無理だったかもしれないが、そうした柔軟性、戦術の多様性は高校年代から身につけておいた方がいいと思う。 日本代表は、アジアではポゼッション・スタイルで勝ち抜けても、W杯では難しい。かつて日本は、「フィジカルで欧州や南米の列強に劣っているのだから、技術で対抗すべきだ」という意見が大勢を占めた。それを否定したのがアルベルト・ザッケローニ監督でありヴァイッド・ハリルホジッチ監督だった。「インテンシィティ」や「デュエル」である。 長身選手をターゲットにするロングパスも戦術の1つである。高校年代ではかつて国見や市立船橋が得意としていた戦法だ。これをポゼッション・スタイルも含め、対戦相手やピッチ状況に応じて使い分ける。これは高校年代や大学年代では難しいことだろうか。 そんなことを、インカレ決勝後に取材した高校選手権の初戦を見て思った。インカレ決勝のカードは、正直期待していなかったが、予想外の好ゲームに興奮したことを記しておきたい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.12.30 09:40 Thu
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大岩五輪監督にはノルマが必要/六川亨の日本サッカー見聞録

JFA(日本サッカー協会)は12月16日の理事会で、24年のパリ五輪を目指すU-21日本代表監督に大岩剛氏、23年のU-20W杯を目指すU-19日本代表の監督には冨樫剛一氏、同じく23年のU-17W杯を目指すU-16日本代表の監督には森山佳郎氏が就任することを承認した。 3氏のプロフィールについてはすでに当サイトで紹介済みなので省略する。理事会後の会見に臨んだ反町康治JFA技術委員長は大岩氏の起用について「選手のほとんどがJリーグに出ているか出始めている。大人のフットボールをやっているのでJ1の監督経験が必要」と説明した。 これまでサムライブルーの監督に関して名前が上がった日本人には、「J1リーグ優勝」が暗黙の了解としてあった。ロシアW杯を率いた西野朗元監督であり、森保一現監督であり、彼ら以外では名古屋の監督に就任した長谷川健太氏、川崎Fの鬼木達現監督だった。 この点に関して反町技術委員長は「鹿島では17年に2位になっている。勝点は川崎Fと同じで、得失点差の2位だった(勝点72で並んだものの、川崎Fは+32、鹿島は+31で川崎Fが初優勝した)。18年はACLで優勝している。アジアの戦いを熟知しているのも要素の1つ」と大岩監督の実績をフォローした。 ACLの優勝は高く評価できるものの、1回だけで「アジアの戦いを熟知している」と断言できるのか。「選手のほとんどが海外組」のサムライブルーでは、「海外での監督経験が必要」ではないのかと突っ込みたくなったが、それは“重箱の隅をつつく”ようで大人げない。 これまで五輪代表の監督はW杯後に決まってきた。しかし東京五輪はホストカントリーとして予選がないため、17年10月に森保一氏が監督に就任。今回の大岩氏もW杯の前年と早い時期での監督就任となった。このため「五輪は日本サッカー界では重要な位置を占めている。東京ではメダルに届かなかったので、次のパリではメダルに届いて欲しい」と反町技術委員長も期待を込める。 その一方で「能力の高い選手はサムライブルーに行く。この年代は登竜門になって欲しい」(反町技術委員長)と、久保建英や堂安律らはサムライブルーでの活動をメインにしながら、最後に五輪代表に合流したチーム作りの難しさも指摘した。 過去の例では、チーム発足時と、OA枠も含めた最終メンバーでは大幅に顔ぶれが変わるのが五輪代表でもあった。それだけ選手の成長曲線も著しく、“生もの”なのが五輪代表と言っていい。 そんなチームに、注文をつけたいことが1つある。森保監督が五輪の監督に就任したのは17年のこと。ついでに高倉麻子監督がなでしこジャパンの監督に就任したのは16年のこと。2人と東京五輪ではメダル獲得を期待され、本人もその目標を口にしてきた。 しかし森保監督は5年、高倉監督は6年に渡って代表チームの監督を務めたものの、メダルを獲得できなかっただけでなく、代表チームの強化が進んでいるかどうか、チェックされることなく五輪を迎え、あえなく敗退した。 その反省を踏まえ、日本代表と五輪代表の監督には一定のノルマを設けるべきではないだろうか。森保監督は、五輪代表監督に就任した翌年18年の1月に中国で開催されたAFC U-23選手権(現U-23アジアカップ)に参加。グループリーグは3連勝で突破したものの、準々決勝で優勝したウズベキスタンに0-4と完敗した。このときのウズベキスタンは圧倒的な強さを誇った。 しかし同年のロシアW杯後は日本代表の監督も兼任することで、五輪代表チームは横内昭展コーチが指揮を執ることになった。この変則態勢のため、本来なら東京五輪の出場権を賭けた20年1月のU-23アジアカップが森保監督を評価する唯一の公式戦となったが、グループリーグ3連敗であっけなく敗退。チームの完成度が低いのは当然だが、森保監督もどんなタイプの選手がいるのか、適性を見ているという印象を受けた。男女とも五輪が1年延期になったのは不幸中の幸いと思ったものだ。 その点、大岩監督は五輪代表に専念できる。まずは来年の22年5月にウズベキスタンで開催されるAFC U-23アジアカップが初の公式戦となり、9月には中国でのアジア大会が待っている。大岩監督にとって大一番は、24年に予定されているAFC U-23アジアカップでパリ五輪の出場権を獲得すること。16年に日本が韓国を逆転で下して優勝したように五輪キップをつかんで欲しいが、森保監督の五輪代表監督としての5年間を見ていると、その前にノルマというかハードルを設けてチームの成長を検証すべきではないか。 なかなかベストメンバーを組めないという制約もあるが、何もせずに監督任せで「メダルは取れませんでした」では、技術委員会もJFAも無責任すぎると言われても仕方ないだろう。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.12.18 11:45 Sat
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