リュカ・ジダンがエイバルと契約延長! スペイン2部首位チームの守護神として躍動
2023.03.23 06:00 Thu
エイバルは22日、フランス人GKリュカ・ジダン(24)との契約を2026年6月30日まで延長したことを発表した。
元フランス代表MFでレアル・マドリーで監督を務めたジネディーヌ・ジダン氏の息子であるリュカ。
マドリーのカンテラで育った183cmのGKは、2019年1月にファーストチームに昇格。だが、公式戦出場はわずか2試合にとどまり、ラシン・サンタンデールへのレンタル移籍を経て、2020年10月にラージョ・バジェカーノへと完全移籍。その後、昨年夏にセグンダ・ディビシオン(スペイン2部)のエイバルへフリートランスファーで加入していた。
その新天地では第12節のアルバセテ戦で初出場を果たすと、以降はガイスカ・ガリターノ監督の信頼を獲得。ここまで21試合に出場し、12回のクリーンシートを記録するなど圧巻のパフォーマンスを披露し、4ポイント差で首位に立つチームの堅守の立役者となっている。
この活躍を評価するクラブは、昨夏加入時に結んだ2024年までの契約を2年延長する新オファーを掲示し、今回の発表となった。
元フランス代表MFでレアル・マドリーで監督を務めたジネディーヌ・ジダン氏の息子であるリュカ。
マドリーのカンテラで育った183cmのGKは、2019年1月にファーストチームに昇格。だが、公式戦出場はわずか2試合にとどまり、ラシン・サンタンデールへのレンタル移籍を経て、2020年10月にラージョ・バジェカーノへと完全移籍。その後、昨年夏にセグンダ・ディビシオン(スペイン2部)のエイバルへフリートランスファーで加入していた。
この活躍を評価するクラブは、昨夏加入時に結んだ2024年までの契約を2年延長する新オファーを掲示し、今回の発表となった。
3位のグラナダとの勝ち点差は4ポイントとなっているが、直近5連勝と好調を維持する現状のチーム状態を考えると、リュカが来シーズンにレアル・マドリーやラージョといった古巣相手にプレーする可能性は高そうだ。
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VARとの戦いが見たかった“駆け引き”に生きた生粋のゴールハンター、フィリッポ・インザーギ
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▽エイバルに所属する日本代表MF乾貴士と清水エスパルスに所属するFW村田和哉が野洲高校の同期らと再会を果たしたようだ。 ▽乾はセゾンフットボールから野洲高校に進学。2年生でレギュラーの座を掴み取ると、1学年上の現在ウェスタン・シドニー・ワンダラーズに所属するMF楠神順平や同級生の北海道コンサドーレ札幌DF田中雄大らと共に2006年度の第84回全国高等学校サッカー選手権大会優勝を果たした。淡海ジュニアユースFCから進学した村田は、3年時にレギュラーとして乾や田中と共に第85回全国高等学校サッカー選手権大会に出場。3回戦で敗退となったものの、個人技を重視したトリッキーなドリブルやヒールパスを駆使したスタイルが「セクシーフットボール」と称され、いち躍脚光を浴びた。 ▽ウィンターブレークで帰国中の乾とオフシーズン中の村田は、高校時代の盟友たちと再会。そこには現在マドリーの下部組織でプレーする滋賀県出身の中井卓大の姿もあり、共に身体を動かしたようだ。 ▽乾は自身のツイッター(@takashi73784537)で高校時代、共に戦った仲間と旧交を温めたことを報告。村田もツイッター(@mkazu8)を更新し、将来が期待される中井に衝撃を受けたことを告白している。※絵文字省略 ◆乾貴士 「昨日はピピ君と野洲高校の同い年のサッカー部の友達とサッカーしました! 皆んな、ピピ君に会いたくて集まったミーハー野郎です。笑 でも、久しぶりに会えたし、一緒にサッカーできたし、楽しかったー(^^)」 ◆村田和哉 「スペインから乾が帰ってきたので野洲高校で同期たちとサッカーをしました。コンサドーレの田中、奈良クラブでプレーしていた志水、久々にみんなとボールを蹴れて楽しかったです。滋賀県出身で現在レアル・マドリードの下部組織でプレーしている中井卓大くんもきてくれました。日本の宝は凄かったです!」 2017.12.27 14:07 Wed2
バルサ、エイバルが購入したDFククレジャを倍額で買い戻し
バルセロナは16日、エイバルのU-21スペイン代表DFマルク・ククレジャ(20)を買い戻したことを発表した。 ククレジャは、エスパニョールのユースから2012年7月にバルセロナの下部組織に入団。2018年7月にトップチームへと昇格すると、同年8月にエイバルへとレンタル移籍する。 2018-19シーズンはエイバルでレギュラーとしてプレー。リーガエスパニョーラで31試合に出場し1ゴール2アシストを記録。左サイドバックや左サイドハーフなどでプレーすると、エイバルが200万ユーロ(約2億4300万円)の買い取りオプションを行使していた。 しかし、この度バルセロナが400万ユーロ(約4億8500万円)に設定された買い戻し条項を発動させ、エイバルから買い戻すことに成功している。 ククレジャは2017-18シーズンのコパ・デル・レイ、レアル・ムルシア戦でバルセロナのトップチームデビュー。しかし、それ以降は出場せず、Bチームでは2シーズンで公式戦54試合に出場し1ゴール8アシストを記録していた。 2019.07.16 23:50 Tue3
乾&武藤の同僚FWらがセックステープを巡る問題で懲役刑か、2016年のエイバルで発生
乾貴士、武藤嘉紀が所属するエイバルで、猥褻な映像をめぐるトラブルが発生。元所属選手らが裁判所に召喚される事態となっていた。スペイン『マルカ』が伝えた。 この事件は、4年前に撮影されたセックステープが流出してしまったというもの。現在もエイバルに所属するFWセルジ・エンリクに加え、元エイバル所属のDFアントニオ・ルナ(ジローナ)、MFエディ・シルベストレ(アルバセテ)が出廷した。 『マルカ』によると、このビデオは映像に映っている女性の意思に反して撮影されたとされており、被害女性も証言している。 問題の映像は3選手がチームメイトとしてエイバルで過ごしていた2016年10月に撮影されたというもの。スマートフォンで撮影されたとされている。なお、当時は乾もエイバルに所属しており、当時のチームメイトが事件を起こしたこととなる。 『マルカ』によれば、3選手は14日にサン・セバスチャンの刑事裁判所に出廷し、エンリクとルナに対しては懲役5年が求刑されたとのこと。刑法197条に定められたプライバシーに対する犯罪と関連しているとのことだ。 エンリクは証言の場で事実を認めたものの、「ビデオを送ったのはエディ(・シルベストレ)だけだと100%確信している」とコメント。多くの人に映像を広めてはいないと主張した。 そのシルベストレはSNS上で映像が流出し、広まる原因を作ったとして起訴されている。また、女性の同意がなかったことを知っていながら広めたとし、1年〜3年の休憩がなされたということだ また、ルナは証言の途中で崩れ落ち、涙を流しながら起こったことに対して後悔していたとのことだ。 なお、シルベストレは映像を拡散させたことを断固否定。ガールフレンドと一緒にいたために削除し、映像を全て見たわけではないとした。 この裁判には、3人に加えてペドロ・レオンやダニ・ガルシア、アンデル・カパ、シャビ・イルレタ、ミケル・アルアバレナなど、2016年にエイバルに所属していた一部の選手も召喚されていたとのこと。証言は前述の3名だけが行ったとされている。 最終的な判決はまだ出ていないものの、3選手には懲役刑に加え、被害女性が被った道徳的損害賠償金も要求されるとのことだ。 2020.10.14 23:20 Wed4
乾先発のエイバル、アラベスとの下位対決を逆転負け《ラ・リーガ》
エイバルは23日、ラ・リーガ第15節でアラベスとのアウェイ戦に臨み、1-2で逆転負けした。エイバルのMF乾貴士は60分までプレーし、FW武藤嘉紀は負傷欠場となった。 前節レアル・マドリー戦を1-3と敗戦して3試合勝利がない14位エイバル(勝ち点15)は、武藤が負傷欠場となった中、乾が[4-2-3-1]のトップ下で先発となった。 17位のアラベス(勝ち点15)に対し、エイバルは開始5分に先制する。左CKからペドロ・レオンが直接蹴り込んだ。 さらに16分には追加点のチャンス。相手のバックパスをカットしたキケ・ガルシアがGKと一対一に。しかしシュートを決めきれない。さらに21分、乾がボックス左からカットインシュートを狙ったが、枠を捉えきれなかった。 すると前半終盤、アラベスの反撃を受ける。まずは41分、ロングカウンターを受けてE・メンデスに同点弾を奪われると、追加タイムにはデイベルソンにゴールを許して1-2と逆転されて前半を終えた。 迎えた後半、反撃に出たかったエイバルだったが、流れを引き寄せられずに時間が過ぎる。60分に乾がピッチを後にして以降も、なかなかチャンスを作れずにいたエイバルは79分にピンチ。 だが、ホセルのシュートはポストを叩いて助かった。しかし、後半にゴールに迫るシーンを生み出せなかったエイバルは1-2で逆転負け。4戦勝ちなしとなった。 2020.12.24 07:56 Thu5