伊代表指揮官マンチーニ、スピナッツォーラの負傷を振り返る 「彼のために優勝したいと思った」
2021.07.16 14:20 Fri
イタリア代表のロベルト・マンチーニ監督がローマのDFレオナルド・スピナッツォーラの負傷を振り返った。『フットボール・イタリア』が伝えている。
ユーロ2020を優勝で飾ったイタリア。下馬評こそ決して高くなかったが、堅牢な守備を際立たせながら多彩な攻撃パターンも駆使して、53年ぶり2度目の欧州制覇を成し遂げた。
だが、そんなチームの躍進に貢献しながら決勝のイングランド代表戦に出場が叶わなかった選手も。準々決勝のベルギー代表戦でアキレス腱断裂の重傷を負い、離脱したスピナッツォーラだ。
マンチーニ監督はイタリアのテレビ局『RAI1』が製作したドキュメンタリー『SognoAzzurro』のひと幕で、そんなスピナッツォーラに言及。スピナッツォーラの離脱がチームをさらに団結させたと話した。
「スピナは今大会における最高のサイドバックであり、力強さ、スピード、テクニックを併せ持つ選手だった」
「彼がチームのために何もできなくなってしまってから、彼のために優勝したいと思うようになった」
決勝だけでなく、スペイン代表との準決勝でもPKにもつれ込む死闘を制して、欧州の頂点に立ったイタリア。その背中を押したのはスピナッツォーラの存在だったようだ。
ユーロ2020を優勝で飾ったイタリア。下馬評こそ決して高くなかったが、堅牢な守備を際立たせながら多彩な攻撃パターンも駆使して、53年ぶり2度目の欧州制覇を成し遂げた。
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「スピナは今大会における最高のサイドバックであり、力強さ、スピード、テクニックを併せ持つ選手だった」
「我々全員にとって難しい瞬間だったが、それからユーロに勝ちたいと思わせる何かがあった」
「彼がチームのために何もできなくなってしまってから、彼のために優勝したいと思うようになった」
決勝だけでなく、スペイン代表との準決勝でもPKにもつれ込む死闘を制して、欧州の頂点に立ったイタリア。その背中を押したのはスピナッツォーラの存在だったようだ。
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