FW起用の松木が新境地を開くか/六川亨の日本サッカー見聞録

2023.03.10 19:30 Fri
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Getty Images
昨日9日の夜は、スポーツファンは大いに盛り上がったのではないだろうか。18時過ぎからワールド・ベースボール・クラシック(WBC)のテレビ中継がスタート。19時30分過ぎには始球式を行った森保一監督のズーム会見もメディア向けに行われた。

そして侍ジャパンはチャンスを迎えながらもなかなか追加点を取れない展開で、21時からはU-20アジアカップの第3戦、日本対サウジアラビア戦も始まった。こちらはパソコンのDAZNで観戦しつつ、テレビは消音にして2試合同時の観戦だった。

日本は、勝てばもちろん引き分けでも決勝トーナメント進出が決まる。対するサウジアラビアは、初戦でキルギスに1-0と勝利したものの、中国に0-2と敗れているため最低でも引分けなければ決勝トーナメントには進めない(同時刻キックオフの中国対キルギス戦の結果にもよる)。そこで[5-3-2]の守備重視のシステムを採用したのは当然の策だった。
対する日本はというと、本来はボランチや、FC東京ではインサイドハーフで起用されることの多い松木玖生を、同じFC東京のFW熊田直紀と2トップで起用したのには驚かされた。冨樫剛一監督は、松木の体幹の強さとスピードによる前線からの守備に期待したのだろう。そしてこの起用は別の意味で的中した。

前半15分に山根陸(横浜FM)のロングパスから左サイドを崩すと、最後は松木がボックス内左で相手をかわして先制点を決める。さらに後半29分、サウジアラビアに同点ゴールを許した4分後、左CKをニアサイドで頭で合わせて勝ち越しゴールを左上に決めた。解説者の水沼貴史氏も「本当に凄いな」とつぶやくほどの勝負強さを発揮したのだ。

この試合、日本は引き分けでも決勝トーナメントに進めたわけだが、サウジアラビアからすれば同点に追いついたことで「行ける」と自信を深めたことだろう。実際、“個の力による突破"という伝統はアンダー世代でも変わらず、1人で2〜3人をかわす力はあった。

そんなサウジアラビアの出鼻をくじく意味でも、松木の一撃は大きかった。

今から12年前、ドイツで開催された女子W杯決勝、アメリカ戦で延長後半終了3分前、左CKから右足アウトサイドのボレーで同点ゴールを決めた澤穂希のプレーを思い出さずにはいられなかった。

これまでは守備的な選手というイメージの強かった松木。昨シーズンもJ1リーグでは2ゴールにとどまっていた。しかしサウジアラビア戦で2トップに起用されたことで見事に結果を出した。まずは12日の準々決勝、ヨルダン戦に勝利してU-20W杯の出場権を獲得することが先決だが、今大会で新境地を開く可能性も大いにあるだろう。富樫監督の起用法も含めて、松木の“進化"を注視したい。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた

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興味深い中国サッカーへの黒崎久志の指摘/六川亨の日本サッカー見聞録

6月5日から15日までイングランド・バーミンガムで、11日からはオーストリア・ウィーンで国際親善試合に臨むU-22日本代表のメンバー23名が発表された。すでに当サイトでもメンバーは紹介されているので割愛する。日本は10日にU-22イングランド代表と、14日にU-22オランダ代表と対戦する。 今夏のUー21欧州選手権に出場する強豪チームとの対戦だが、U-22イングランド戦は主催のイングランドサッカー協会(The FA)の意向で試合も練習も完全非公開のため、せっかくの好ゲームなのにテレビ中継がないのは何とも残念だ。せめてもの救いはオランダ戦が、日本時間の14日21時30分よりCSテレ朝チャンネル2にて生中継されること。Jリーグで主力のFW細谷真大(柏)らは参加しないが、選手個人の成長とチームの現在地を知る絶好の機会だろう。 さて今回のコラムは、そのU-22日本代表とはまったく関係ない。じつは日刊ゲンダイで元日本代表の黒崎久志氏が興味深い指摘をしていたので紹介したいと思った。5月24日号の連載12回目のコラムだった。黒崎氏は栃木県の宇都宮学園高を卒業後、JFLの本田技研で大型FWとして活躍。パワフルなインステップキックが武器で、ゴール裏のファンはネットがあるとわかっていてものけ反るほどだった。92年に鹿島へ移籍し、その後は京都、神戸、新潟などでプレー。新潟で監督、大宮や鹿島でコーチを歴任し、21年に中国1部・山東泰山のヘッドコーチに就任。2年で3つのタイトルを獲得に貢献した。 78年アルゼンチン大会から日本企業はW杯のスポンサーになったが(当時は博報堂。その後は電通が仕切った)、2002年を最後に日本企業はW杯のスポンサーから撤退し、その後は中国企業の進出が大会を重ねるごとに目立つばかりだ。しかし、中国企業の躍進と反比例するように、中国サッカーの実力は衰退していると感じられてならない。その点を2年間の中国生活で黒崎氏は次のように指摘する。 「中国のような広大な国では、北部と南部では志向するするサッカーが違います。大柄な選手の多い北部はロングボール中心の戦術ですが、南部では技術を重視するサッカーです。方向性の違う北と南が、ひとつのチームとして機能するのは大変な作業だと思います」 「それ以上に厄介な問題だと思ったのは、代表選手の出身地域によって国民の関心度が、まったく違うということです」 「北部に住んでいる人たちは、同じ北部出身の選手は熱烈に応援するのですが、南部の選手たちには冷淡なところがあるのは否めません」と、「地域ごとに身びいきの過ぎるサッカー熱」を懸念している。 この記事を読んで、今でもそうなのかとひとり納得してしまった。初めて中国へ取材に行ったのはいまから35年前の1987年10月4日、88年ソウル五輪アジア最終予選の日本戦だった。試合は水沼貴史の素早いFKから原博実がヘッドで決勝点を奪い、アウェーで1-0の勝利を収めた。そして勝利もさることながら、強烈な印象を受けたのは中国サポーターの応援スタイルだった。 試合会場は香港の近くにある南部の広州だった。しかし当時の主力選手の大半は北朝鮮と隣接する北部の強豪・遼寧省だった。遼寧の選手は長身で屈強なフィジカルを武器にする。そんな彼らがボールを持つと、広州のサポーターは一斉にブーイングだ。そして小柄ながらテクニックのある広州の選手がドリブルを仕掛けると盛大な拍手が沸き起こる。日本では考えられない光景だった。 80年代当時、スペイン代表はW杯やEUROなど大事な試合はマドリッドとバルセロナでは開催しないと言われていた。両地域の歴史的な対立から、サポーターが自国選手であってもプーイングするからだ。このため大事な試合はセビリアなど地方都市で開催することが多かった。そんなサッカーの先進国ヨーロッパでしか起こりえないような現象が、まさか中国で起こっているとはこの目で見るまで信じられなかった。そして、それはいまも変わっていないのも驚きだった。 たぶん当時、最強のチームを作るなら遼寧省の選手で固めればよかっただろう。しかし多民族国家ゆえにバランスに配慮し、試合会場もあえて広州にしたのではないか。黒崎氏もコラムで「中国代表の選手を決めるのは監督ではなく、サッカー協会が出身者のバランスを取りながら選出しているのではと思う部分もありました」と指摘している。中国国籍を取得した外国人選手を擁しながらも、基本的な体質は変わらないということだろうか。 それでも35年前、東京・国立競技場での第2戦、雨中の中国戦は長身FWにゴールを奪われ0-2で敗れ、20年ぶりの五輪出場は夢と消えた。日本は、2年前のメキシコW杯アジア最終予選で韓国に負けたことと、この中国戦の敗戦を教訓にプロ化への道を歩み始めた。どちらかでも出場していたら、サッカー協会幹部に「アマチュアでも出られたのだから、プロ化する必要はない」と反対され、Jリーグは誕生しなかっただろうと当時の監督の石井義信さん(故人)や仕掛け人の木之本興三さん(故人)は言っていた。「禍福はあざなえる縄のごとし」だった80年代の日本サッカーだった。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.06.02 19:00 Fri
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日本代表メンバー発表で問われる古橋の覚悟/六川亨の日本サッカー見聞録

6月15日のエルサルバドル戦(豊田スタジアム)と、20日のペルー戦(パナソニックスタジアム吹田)のキリンチャレンジカップ2023に臨む日本代表26名が5月25日に発表された。3月の2試合で招集されたメンバーから注目される変更点は、今シーズンはG大阪に移籍したものの現在は最下位に苦しんでいるチームの守護神・谷晃生が外れ、代わりに中村航輔(ポルティモネンセ)が21年6月以来の復帰を果たしたこと。そして3月の代表発表でも注目されながら招集が見送られた古橋亨梧(セルティック)が帰還を果たしたことだろう。 これまでヨーロッパのリーグ戦で日本代表選手のプレーを視察し、コミュニケーションを取りながらも、スコットランドのグラスゴーには足を運ばなかった森保一監督だった。しかし、スコットランド・リーグで25得点と得点王をほぼ確実にし、今シーズンのセルティックのMVPまで獲得したストライカーを無視することはできなかったようだ。これはこれで、正しい判断だと思う。今が呼び時だからだ。 劣勢の予想される昨年末のカタールW杯では、古橋のような味方のアシストが必要なストライカーは“使いどころ”が難しい。98年フランスW杯で岡田武史監督がカズ(三浦知良)を最後の最後でメンバーから外した理由と同じだ。どこで使うかイメージできなかったのだろう。格上のドイツやスペイン相手に対し、前線から労を惜しまずプレスを掛けて味方を助ける浅野拓磨や前田大然のようなFWの方が効果的である。俊足だけに、カウンターからのゴールも期待できる。 しかしセルティックで堂々の結果を残したのだから、今回のようなフレンドリーマッチではテストしてみる価値は十分にある。古橋自身が自らの手で代表復帰を果たしただけに、あとは久しぶりの代表で結果を残すだけだ。森保監督も「継続してチームの勝利に貢献する活躍と結果を残している。ゴールを狙える、そしてゴールチャンスを作るという場面に多く絡んでもらいたい」と、古橋に期待することはシンプルだ。 森保ジャパンがスタートした前回19年1月のアジアカップで、日本の攻撃陣の主力はオールラウンダーのCF大迫勇也、トップ下のテクニシャン南野拓実、そしてボランチからゲームメイクする柴崎岳の3人だった。しかし4年が経ち、日本の攻撃陣はサイドアタッカーの人材が豊富だ。右なら伊東純也、堂安律、久保建英に浅野拓磨。左は三笘薫、相馬勇紀に加え前田大然もいる。これだけサイドアタッカーがいれば、古橋に効果的なラストパスを供給できるに違いない。 古橋が初戦のエルサルバドル戦で起用されるかどうかは、チームに合流してコンディションや練習メニューの消化具合を見てからになるだろう。そのエルサルバドルは82年スペインW杯以来、W杯本大会とは遠ざかっている北中米カリブ海のセカンドグループのチーム。日本との“実績の差”を考えれば、実力差のあるセルティックと他チームとの対戦であるスコットランド・リーグと似たようなシチュエーションになる可能性が高い。 日本は劣勢を強いられることはないと想定するならば(もちろん前線からの守備は必要だが)、ここは実績のある浅野や前田ではなく古橋か、セルクル・ブルージュではゴールを重ねながらいまだ代表ではノーゴールの上田綺世を起用してほしい。もちろん2人には、起用されたら結果を残さないと次の招集はないという覚悟で試合に臨まなければならないことは言うまでもない。それだけ期待している選手でもある。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.05.25 21:30 Thu
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Jリーグ30周年で川淵さんが残したかったこと/六川亨の日本サッカー見聞録

5月15日はJリーグ30周年を記念して様々なイベントが開催されたが、同じ日にYouTubeで村井満元チェアマンと川淵三郎さんの対談の4回目がオンエアされた。「Jリーグの井戸を掘った人たち」というタイトルの対談では、これまで浦和の元広報の佐藤さんや、ヤマザキビスケット社の飯島社長、鹿島の元スカウト部長の平野さんら7人が登場した。そして連載企画のラストを飾ったのがJリーグ初代チェアマンの川淵さんだった。 対談は、当初はvol1とvol2で終了する予定だったが、川淵さんから「延長戦」の申し入れがあり、vol3とvol4まで製作することになった。その大きな理由は、川淵さんが「Jリーグの危機」を後世に残したいという思いが強かったからだ。 「Jリーグの危機」と聞くと、多くのファンは98年に横浜フリューゲルスが横浜マリノスに吸収合併された出来事を思い浮かべるだろう。しかしvol4最後の登場となったのは、その4年前に消滅の危機に陥った清水エスパルスだった。清水は特定の親会社(母体チーム)を持たない、地元企業117社と約1600人の一般市民の持ち株会による、文字通り「市民のクラブ」としてスタートした。 選手も長谷川健太、堀池巧、大榎克己の清水東三羽がらすをはじめ、澤登正朗、アデミール・サントスの東海大一(現静岡翔洋高)勢、青嶋文明、真田雅則の清水商(現清水桜ヶ丘高)勢、そして三浦泰年と向島健の静岡学園勢と地元出身者が多く、まさにJリーグが理想としたクラブでもあった。 ところが日本のバブルが弾けた94年、清水の運営会社の社長で、筆頭株主のテレビ静岡の社長でもあった戸塚氏が本社ビルを超高層のタワービルにしたものの、バルブ崩壊によりテナントが入らず売却を余儀なくされる。テレビ静岡の撤退と、当時は剰余金があってもプールすることはせず、「税金で取られるくらいなら」と選手の年俸に上乗せしたため、手持ちの資金はほとんどなかったそうだ。 一時はエスパルスの生みの親であり、清水サッカー育ての親でもある堀田哲爾さん(故人)が大手町のパレスホテルまで来て、川淵さんと何度も善後策を協議した。一時は沼津にある老舗のハム・ソーセージ会社がサッカーに理解があるため、スポンサーになるという話もあったそうだ。しかし「沼津の会社が清水援助するのは難しい」ということで、スポンサー話は立ち消えになった。 そこに現れたのが、「2年間だけなら」という条件付きで援助を申し出た、地元清水の物流会社大手の鈴与だった。鈴与は当初の2年間だけでなく、その後も支援を続け、98年には営業権を譲り受けて今日まで清水を支援している。川淵さんいわく、奥さんがサッカーにハマったため、今日まで支援してくれているのではないか、とのことだ。 こうした経緯があっても、川淵さんはそれを公表することはできなかった。地域密着型の「市民クラブ」として理想を掲げてスタートしただけに、消滅させてしまうと「それ見たことか」と言われかねないからだ。さらにバブル崩壊で手を引く企業が出てくるとも限らない。だからこそ、98年にバブル崩壊でクラブ経営からの撤退を余儀なくされたゼネコン大手の佐藤工業と、累積赤字で経営の見直しを迫られる全日空の窮状からクラブの存続が危ぶまれたフリューゲルスが、マリノスとの吸収合併で消滅の事態を避けられたことにホッとしたという。会見では「清水のようにはなりませんでした」と喉まで出かかったそうだ。 98年にJリーグに昇格したものの、その前年に北海道拓殖銀行が経営破綻したことで支援企業も連鎖倒産したコンサドーレ札幌も消滅の危機にあった。しかし元々スポンサーで「白い恋人」で有名な石屋製菓が支援に乗り出し、練習場やクラブハウスを建設した。川淵さんは石屋製菓と、経営破綻の危機にあった神戸を救った楽天の三木谷社長は「ホワイトナイツ(白馬の騎士)」と呼んでいまも感謝しているという。 こうしたエピソードを残しておきたいと、村井元チェアマンとの対談はvol3とvol4の連載となった。いま紹介したクラブだけでなく、平塚(現湘南)や甲府、仙台、福岡、鳥栖らの「消滅の危機」も明かされている。興味のある方は、「Jリーグの井戸を掘った人たち」でググればすぐにわかると思います。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> <span class="paragraph-title">【動画】川淵三郎×村井満、これまでのJクラブの経営危機と存続について語る</span> <span data-other-div="movie"></span> <script>var video_id ="Nk9imaA3_VE";var video_start = 0;</script><div style="text-align:center;"><div id="player"></div></div><script src="https://web.ultra-soccer.jp/js/youtube_autoplay.js"></script> 2023.05.18 22:00 Thu
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Jリーグ30周年スペシャルマッチの不思議/六川亨の日本サッカー見聞録

いよいよ今週末は「Jリーグ30周年記念スペシャルマッチ」がスタートする。まず12日はFC東京対川崎Fの“多摩川クラシコ"が国立競技場で開催される。そして14日は同じく国立競技場で鹿島対名古屋の試合が開催される。鹿島対名古屋の試合は、Jリーグの開幕戦となった30年前の5月16日、鹿島スタジアムで行われた伝統の一戦でもある。ジーコ対G・リネカーの対戦でも注目を集めた試合だったが、ジーコやアルシンドの活躍などで鹿島が5-0と圧勝した。 好天に恵まれ、試合前はスタジアム周辺の芝生でバーベキューを楽しむサッカーファンもいた。待ちに待った開幕戦である。にもかかわらず、当日の観衆は10,898人にとどまり、過疎化による人口減少から集客力に不安があるという指摘を裏付けることとなってしまった。しかし、その後はレオナルドやジョルジーニョらの活躍もあり集客力もアップ。国内最多タイトルを誇る名門となった。 この試合に比べ、12日に国立競技場で開催される金Jフライデーナイト、FC東京対川崎Fの“多摩川クラシコ"は、「Jリーグ30周年記念スペシャルマッチ」と呼ぶにはいささか違和感を覚える。というのもFC東京と川崎Fが揃ってJ2リーグに昇格したのは1999年だからだ。しかし、そこには「背に腹はかえられない」理由があるようだ。 本来「Jリーグ30周年記念スペシャルマッチ」と銘打つなら、30年前の5月15日の国立競技場での開幕カードがふさわしいだろう。ところが東京V(当時はヴェルディ川崎)は現在J2のため、横浜FMと試合をするわけにはいかない。同じくジェフ千葉(当時はジェフユナイテッド市原)もJ2のため、広島との対戦は不可能だ。そして清水と対戦した横浜フリューゲルスは横浜マリノスに吸収合併されているため、チームそのものが存在しない。 唯一可能なのは、当時はG大阪のホームで開催された浦和戦である。この試合では、ハーフタイムにレーザー光線によるイベントを開催したが、そのため一時的に照明を消した。すると当時のスタジアムの照明は、一度落とすと再点灯するためには電球の熱を冷まさないといけないので、後半開始が10分以上遅れるというハプニングがあった。普段でも万博記念競技場の照明は暗く、当時はフィルムカメラで撮影していたので、カラーで誌面を構成するのに苦労した思い出がある。 話を浦和対G大阪戦に戻すと、5月14日の16時から埼玉スタジアムで開催される。この試合も「Jリーグ30周年記念スペシャルマッチ」と呼ぶにふさわしいが、浦和はACL決勝の関係から10日に鳥栖と第10節の試合を消化したばかり。さすがに中1日で金Jフライデーナイトを戦うわけにはいかず、12日は“多摩川クラシコ"になったようだ。東京VがJ1に復帰していればJリーグ事務局も頭を悩ませる必要はなかったが、こればかりは仕方がない。東京は東京でもFCが、横浜FMと対戦するよりも“多摩川クラシコ"の方が話題性も高いと判断したというのがマッチメイクの真相ではないだろうか。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.05.12 11:40 Fri
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町田対秋田戦の2次元視野の限界/六川亨の日本サッカー見聞録

ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)の森下源基元社長(82歳)が4月30日に肺炎のため死去したことが昨日報じられた。読売クラブ時代に副社長を、1994年から98年まではヴェルディ川崎の社長を務め、Jリーグ誕生前にはブラジルのサントスから三浦知良と三浦泰年の兄弟を獲得し、クラブの黄金時代を築いた。 Jリーグの川淵三郎相談役も「プロ化が決まると、三浦知良選手らスター選手を獲得するなど尽力された。国立競技場での開幕戦についても様々な難題があったが、いつも真摯に対応していただいた。華やかなヴェルディの存在がJリーグの注目度を上げ、サッカー人気に火をつけたと言っていい。強くて魅力あるクラブを育てていただいたことに改めて感謝申し上げたい。謹んで哀悼の意を表します」と故人を偲んだ。 森下さんとは、まだカズがブラジルでプレーしている頃、お父さんの納屋さんがブラジルから帰国した際に、ダイジェストの社長と4人でお茶や食事を何回か共にした。納屋さんが帰国するときはいつもお土産を持参したためで、大手町のホテルで会うことが多かった。大新聞社の出身ながら、腰が低く、「物静かな紳士」という印象が強かった。Jリーグは今年で30周年を迎えるため、開幕当時の森下さんは52歳という現役バリバリだったわけだ。そんな森下さんにとって、東京VがJ1リーグに復帰することが一番の手向けになるのではないだろうか。謹んでご冥福をお祈りいたします。 さて、3日のJリーグは久しぶりに判定が話題にのぼることはなかった。J1では横浜FCが初勝利を、柏が2勝目をあげ、残留争いも混沌としてきたようだ。J2も最下位の徳島から16位の千葉までは4勝点差に縮まった。J3もYSCC横浜が2連勝で最下位を脱出するなど、試合結果を予想するのはかなり困難な状況になっている。 そして4月末には今年2回目となるレフェリーブリーフィングがオンラインで開催された。話題になったのは町田対秋田戦のロングシュートである。実際にはゴール内に落下したものの、主審も副審もゴールとは認めなかった。このシーンについて東城穣デベロプメントマネジャーは「副審はゴールライン上で見たいが、(シュートを追って)スプリントすると動体視力が衰える」と説明。その上で「間に合わない時はGKやDFがどれだけゴール内に入っているか。ボールがワンバウンドした位置」などから判断すべきだったとし、「誤審」という表現は避けた。 J2のためVARはないが、この試合を記者席で取材していたフリーランスの後藤健生さんと森雅史さんは、一目でゴールだと確信したという。意表を突いたロングシュートだったため、主審も副審も、第4の審判員からも町田ゴールは遠く、さらに2次元(平面)での視野のためゴールと判定できなかったのだろう。それならいっそ、第5の審判員(もしくはマッチコミッショナーでもいい)が、スタンドから両チームのゴール前でのプレーと、手元にパソコンを置いてDAZNのリプレーを確認しながら協力してジャッジしてはいかがだろうか。そうすれば、少なくともゴールに関する「誤審」は減るような気がする。 さらに、このシーンで町田GKポープ・ウィリアムがゴールだと主審に進言したらどうなるかという質問に対し「選手が自己申告しても、レフェリー4人が確認できなければ(ゴールとは)認められない」というのがJFAの見解だそうだ。ドイツやイタリアなど海外では、過去に選手の申告で判定が覆った例がある。しかし日本では、一度、主審が下した判定を覆すことはないというのが大原則となっている。 とはいえ、第9節の川崎F対浦和戦では、後半25分にFW興梠慎三がペナルティーエリア内で後ろから足を蹴られて転倒したものの、VARで確認した結果、ノーファウルという判定になった。第10節のFC東京対新潟戦では、後半アディショナルタイムに入ったところで右SB中村帆高がボールをトラップした瞬間に自らうずくまった。そこでボールを奪った小見洋太がショートカウンターを仕掛けようとしたところ、主審は小見の反則として笛を吹いた。中村は右アキレス腱を断裂したが、いわゆる“自爆"であり(アキレス腱の断裂にはよくある)、中村の負傷に小見は関与していない。この2つのプレーについては、次回のレフェリーブリーフィングで報告があればお届けしよう。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.05.05 13:00 Fri
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