俊輔引退会見で知ったセリエA移籍の真相/六川亨の日本サッカー見聞録

2022.11.12 22:30 Sat
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カタールW杯に臨む国内組6名、長友佑都権田修一、谷口彰俉、山根視来相馬勇紀町野修斗は昨日9日、無事にドーハへ到着したとJFA(日本サッカー協会)から連絡が来た。もう1人の国内組である酒井宏樹は事情により出国が1日遅れたものの、明日には合流していることだろう。(※編集部注:酒井も無事に合流済み)

そんな国内組と違い、まだリーグ戦の最中である海外組はシュツットガルトの遠藤航が試合中の競り合いで頭部を負傷し、脳しんとうと診断された。幸いにも代表チームからの離脱を余儀なくされる重傷ではないものの、近年はFIFA(国際サッカー連盟)も脳しんとうの後遺症に対して厳しいルールを設定しているだけに、プレーが可能と安心するのは早計だ。

ヨーロッパのシーズン中でのW杯とあって、大会直前の13日までリーグ戦やカップ戦が入っている。このため他の参加国もいつ主力選手が負傷により離脱するかわからないW杯と言える。
そして考えようによっては、負傷を抱えた選手がいつ万全のコンディションで復帰できるかで決勝トーナメントからの戦い方に多大な影響を及ぼすW杯になるかもしれない。そう予想すると、グループリーグはますます守備優先の凡戦が増える可能性が高まるが、それはそれでロースコアの試合を望む日本にとって好都合と言えるはず(我田引水の気がしないでもないが)。

さて10日は中村俊輔の引退会見を取材してきた。俊輔自身が短い挨拶のあとにかつてのチームメイトがビデオメッセージを送ったが、やはり印象深かったのはチームメイト2人のメッセージだ。

ともに1歳年下の遠藤保仁は「時にはオレにフリーキックを蹴らせろと思ったけど、あなたのフリーキックは世界一、たぶん」と笑わせれば、俊輔が「ファンタジスタは?」という質問に名前をあげた小野伸二は「(引退を)聞いたときは悲しい気持ちで残念でした。一緒にプレーしていて、上手くなりたいという子供の時期に戻れました。一緒にやるたびに楽しい時期を過ごせました」と思い出を語った。

たぶん彼ら3人には、凡人には計り知れないほどのメッセージのやりとりが、アイコンタクトなどで試合中にあったはずだ。サッカーを、いまその状況を“感じ取れるか“どうか。彼らはそれを高い次元で共有していたと思わずにはいられない。

引退をイメージしたのは30歳の後半からで、「いつでも(引退)できるように、悔いのないようできるよう」に1年契約にしていた。それだけ立ち足である右足首の痛みは彼を苦しめたのだろう。

名プレーの数々を振り返ったVTRを見て感じたのは、稀代のパッサーであるにもかかわらず、スルーパスなどよりゴールシーンの多いことだ。とりわけFKからのゴールは秀逸だ。

俊輔自身も直接FKについて「それだけと言われるのは嫌だったので、意識したのはプロになってからです。試合を支配する力とかパス、ドリブルと、ちょっとしたオマケみたいな感覚でやっていただけなんです」と言いながらも、「気付くとフリーキックが残ったのは不思議な感覚です。(練習を)やっていて良かったかな」と振り返る。

そして「(FKのこだわりとしては)PKと同じ感覚で決めていたという意識はあります。蹴ったら必ず入るという状況や雰囲気をチームメイトにも見せて信頼してもらう」ことにこだわったという。「FKをPKと同じ感覚で」100パーセントの成功率を求める選手はそうそういない。だからこそFKのスペシャリストとしてイタリアやスコットランドでもファン・サポーターを虜にしたのだろう。

そんな俊輔が海外移籍を強く意識したのは02年日韓W杯のメンバーから外れたからだろうと思っていた。ところがすでに前年の01年3月、サンドニでフランスに0-5と惨敗したときに「ああ、このままじゃダメだと思った」そうだ。

当時の日本は00年にレバノンで開催されたアジアカップで2度目の優勝を達成。俊輔はMVPに選ばれ、チームも「アジアカップ最強」と高く評価された。名波浩中村俊輔という2人のレフティーがチームを牽引し、リザーブには小野伸二も控える豪華な布陣だった。

そして前回優勝国との対戦では中田英寿もチームに合流した。しかし開始9分にジダンにPKから先制を許すと、アンリやトレゼゲに次々とゴールを奪われた。日本がアジア王者なら、フランスもW杯に続いてEUROも制しただけに、その強さはケタ外れだった。

レッジーナへの移籍が決まったのは02年7月のこと。「イタリアへ行くときは、日本を出なきゃと焦るくらいだった。当時世界最高峰のセリエAに行かなくちゃと。ようやく世界の扉を開けられた」と当時の心境を語った。

あれから20年が過ぎ、日本人選手にとって“世界“はより身近になった。だが、海外へ渡ったJリーガーにFKのスペシャリストは一人もいない。それだけ俊輔はスペシャルな選手ということだ。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた

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Jリーグ、今シーズンからオフサイドの判定に3Dを導入/六川亨の日本サッカー見聞録

Jリーグの2023シーズンのレフェリングのスタンダードを説明する、毎年恒例の『レフェリーブリーフィング』が1月27日に夢フィールドで開催された。 今シーズンのJ1リーグでの大きな変更点は、オフサイドラインの判定に3Dが採用されることだ。これまでは2台のビデオカメラによる2Dで確認してきた。16mのラインによる確認だったが、これだとセンターライン付近にラインを引くことができなかった。 しかし中央と両ゴール裏に3台のビデオカメラを追加して、計5台にすることでオフサイドかオンサイドか立体的に判断できるようになった。例えば守備側の最後尾の選手の腰かお尻にオフサイドラインを設定できる(これまでは足のケースが多かった)。画面では青いラインで表示される。 一方、攻撃側の選手は、足元はオンサイドでも肩や頭がオフサイドというケースもある。そこで肩や頭から垂直に線を下に伸ばし(画面では赤いライン)、青い線より赤い線が敵陣に入っていたらオフサイドということになる。選手のどの部位をオフサイドラインに設定するかはVARの主観によるが、判定が出るまでには2分前後の時間が必要になるだろう。 この3Dの導入は昨年末にスタートしたため、「開幕したら(VARは)緊張するだろう。世界の流れは2Dから3Dなので、Jリーグも今シーズンから取り入れる」(東城JFA審判マネジャーJリーグ担当統括)ことにした。 それ以外の大きな変更点としては、昨シーズン中にすでに変更となっていた『オフサイドの意図的なプレーとディフレクション』だ。 オフサイドポジションにいる選手に味方からパスが出たとしよう。これを守備側の選手がインターセプトもしくはクリアしようとしてできず(ディフレクション)、オフサイドポジションにいる選手に渡った場合、これまでは「オンサイド」とされてきた。 しかし、とっさのプレーなど意図的ではない、「時間的な余裕がないプレーだった」(田中主審)場合は「オフサイドになる」ことが確認された。守備側の選手に余裕があり、明らかなクリアミスから攻撃側の選手にパスが渡った場合はこれまで同様、オンサイドとなる。 それ以外では大きな変更点はなく、確認事項の報告となった。 まず選手の安全確保のためにも、頭部を負傷した場合は「すぐにプレーを停止する」こと。ゴール前の攻防などでは攻撃側の選手・ファンもアドバンテージを望むかもしれないが、すぐにプレーを止めて、しかるべき処置を取るよう通達される。 そして安全に配慮しない著しく不正なプレーはレッドカードになること。例えボールにタックルに行ったとしても、その前後に足裏で相手のくるぶしや脛などを蹴った場合もレッドカードになる。 同様に、『得点または決定的な得点機会の阻止』についても、ペナルティーエリア内ならPKになるが、ボールにチャレンジしてのファウルの場合はイエローカード、ボールにプレーする可能性のないファウルはレッドカードになることも確認された。 ハンドに関しても、肩より上に上げるなど「身体を不自然に大きくして当たった場合はハンド」に変わりはない。このジャッジについて出席したある若手レフェリーは、「年々、選手のシュートは速くなっているので、ゴール前では腕しか見ていません」と告白していた。 最後は監督や控え選手の『ベンチマナー』について、ピッチ内に入ったりせず「責任ある態度で行動すること」を各チームに求めるそうだ。 カタールW杯ではサッカー専用スタジアムだったため、控え選手がウォーミングアップする場所がベンチの隣だったりして、ゴールのたびに控え選手がピッチに乱入するシーンが見られた。しかしJリーグは基本的にベンチ裏にウォーミングアップ場が設けられているため、選手がピッチに入るケースは少ないだろう。このため監督やコーチに向けたメッセージと言えるかもしれない。 J1リーグの開幕は2月17日だが、まずは3Dのオフサイドラインの設定画面がスタジアム内のオーロラビジョンに映し出されるのかどうか。これは実物を見ていただくのが一番分かりやすいだろう。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.01.27 21:50 Fri
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フットボールカンファレンスからオランダの凄さを実感/六川亨の日本サッカー見聞録

今週の「見聞録」は月曜のコラムに引き続き、第13回フットボールカンファレンスから興味深い報告があったので紹介したい。 まずは反町康治技術委員長の報告だ。同氏はカタールW杯の“指標"として「ハイ・インテンシティとコンパクトネス」を掲げた。 「ハイ・インテンシティ」とは時速20㎞以上のスピードでプレーすることを指し(スプリントは時速25㎞以上)、GKを除くフィールドプレーヤーは90分間での走行距離の目標を「10%以上」とした。実際の試合では、9月のアメリカ戦(2-0)が10・8%、カタールW杯のドイツ戦(2-1)が9・8%と目標に近い数値を出した。 ただしJ1リーグの平均値となると10%に届かないため、こちらの底上げの必要性も反町技術委員長は指摘した。 続いて「コンパクトネス」である。ボールを持っていないとき(非保持時)のチーム全体の面積(㎡、平方メートル)を指し、その数値が低ければ低いほど「コンパクト」な試合ができているという指標である。 実際はどうだったかというと、アメリカ戦が982㎡、カナダ戦(1-2)が1137㎡、ドイツ戦が998㎡、コスタリカ戦(0-1)が1135㎡、スペイン戦(2-1)が860㎡、そしてクロアチア戦(1-1)が1009㎡だった。これらの数値を踏まえて反町技術委員長は「3桁だと勝っている」と説明。コスタリカ戦のようにメンバーを入れ替えた場合は、「コンパクトネス」を維持できない可能性もあっただけに、こちらの分析は今後も継続する必要があるだろう。 これらの報告のあと、森保一監督は「コンパクトにして相手が嫌がる守備と、ボールを奪った瞬間にボールをつなげる距離」の重要性を指摘しつつ、次のように総括した。 「忘れてはいけないのは、1対1の本質で勝っていける。個々の局面で勝っていけるようにしないといけない。その先にコンパクトがある。コンパクトで上手くいかないときは基本に立ち返り、個で勝てるようにしないといけない」 勝ったとはいえドイツ戦やスペイン戦では、簡単にマイボールを失って守勢を強いられた。「個でも組織でもボールを簡単に失わない」で、「相手のボールを奪う技術」の向上が求められていることは、改めて指摘するまでもないだろう。 ちなみにクロアチア戦の前日の12月4日の練習では、最後にPKの練習もしたと報告された。ただし各自1本で、もっと蹴りたい選手は自主トレにしたそうだ。 2007年にベトナムなどで開催されたアジアカップで、当時のイヴィチャ・オシム監督は選手全員にPK練習を課したことがあった。時間にして45分くらいあっただろうか。シュートに失敗したら罰走としてグラウンドを1周してから再び練習に加わったが、最後まで罰走を免れたのが稀代のレフティー中村俊輔、コロコロPK遠藤保仁、そして左右両足で正確なキックの蹴られる駒野友一だった。 その駒野でさえ10年南アW杯ではPKをクロスバーに当てている。『覆水盆に返らず』ということなのだろう。 次に興味深かったのは、オランダ代表のGKコーチだったフランス・フック氏の報告だ(W杯の舞台裏オランダ編)。 0-2から2-2の同点に追いついた準々決勝のアルゼンチン戦を例に、プランAで上手くいかないときには「プランBで明確な意図を持たないといけない」と強調した。この場合の「プランB」とは、空中戦によるパワープレーかセットプレーということになる。 同氏によると、「クリアなプランを立てて3回練習した。右クロスか左クロスか、アウトスイングかインスイングか、どちらがいいか選手に聞いた。早い段階でクロスを入れる。ヘディングを予測して、ゴール前ではセカンドボールに備える」ということ。 この言葉どおりオランダは78分に巨漢FWヴェルホルストを起用して、右クロスからヘッドで反撃の狼煙をあげた。 そしてアディショナルタイムの同点弾。直接シュートや右サイドに控えた選手に出すと見せかけて、ゴール前の密集地帯にいたヴェルホルストへグラウンダーのパス。ヴェルホルストは巨漢を利して相手をブロックし、長いリーチで同点ゴールを流し込んだ。 このトリックプレーは「クラブでやっているセットプレーを聞いて代表に取り入れました」ということで、実際にはブンデスリーガのヴォルフスブルクのセットプレーからのゴールの映像後、オランダ代表の練習風景が映し出された。 壁の間に入った選手たちはアルゼンチン側の注意をそらすため、右サイドに控える選手たちを指してクロスを送るよう指示するなど“演技"も実演していた。 さらにオランダは、4人目のGKとしてPK戦専用のGKも選考した。候補は6人で、リーチの長さ、ジャンプ力、敏捷性(スピード)、キッカーが蹴った後に動く動作などをテストしたという。結果としてU―21代表のGKが選ばれたもののケガで辞退を余儀なくされ、次の候補のベテラン選手は「PK戦のためだけにW杯に行きたくはない」と断ったため、その意見を尊重したとのことだった。 もしもPK戦用のGKが帯同していたら、アルゼンチン戦の結果はどうなっていたか。こちらはそれこそ「神のみぞ知る」だろう。ただ、オランダでもここまで準備して『ベスト8』だった。 パワープレー要員の長身FWの育成は日本サッカーにとって喫緊の課題である。それはCBも同様だ。「日本人だからフィジカルが劣っても技術で勝てばいい」という時代は過去のものだ。そしてW杯は、通常のリーグ戦とは違う戦いになることを今回のカタールW杯で日本も認識したのではないだろうか。国内リーグの結果も重要だが、W杯を経験した監督でしかマネジメントできない部分もあるだろう。 それを森保監督と反町技術委員長はどう次につなげていくのか。森保監督の役割は決まっているだけに、今後の反町技術委員長の発信には注目したいところでもある。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.01.19 22:00 Thu
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ジャンルカ・ヴィアッリの訃報に接して/六川亨の日本サッカー見聞録

「訃報は続く」と言われるが、昨年末のペレに続いて1月8日には元ブラジル代表のストライカー、ロベルト・ディナミッチが腸癌のためリオデジャネイロの病院で死去した。68歳での他界は、やはり早いと言っていいだろう。 彼の名を初めて知ったのは78年アルゼンチンW杯だった。登録名(本名)はロベルト・ジ・オリヴェイラだったが、「ダイナマイトのような強烈なシュートを放つ」ことからジャーナリストがつけたニックネームがロベルト・“ディナミッチ(英語でダイナマイト)”だった。 ただ、78年アルゼンチン大会はCFにレイナウドがいて、ジーコもFW起用されるなど出場機会は限られ、スタメンに定着したのは2次リーグに入ってからだった(ブラジルは無敗だったが3位に終わる)。 そして4年後の82年スペインW杯もエースのカレッカ(元柏レイソル)の負傷により代表に招集されたものの、長身FWセルジーニョの控えに甘んじて、W杯ではニックネーム通りの活躍はできなかった。 そんな彼の訃報より衝撃的だったのが、1月6日に膵癌で死去した元イタリア代表FWのジャンルカ・ヴィアッリだ。まだ58歳という若さだった。 彼のプレーを初めて見たのは86年メキシコW杯の開幕戦、イタリア対ブルガリ戦の後半22分過ぎだった。ブルーノ・コンティに代わって出場したが、ポジションはCFではなく4-3-3の右ウイングだった。 まだ21歳と若く、荒削りな選手という印象を受けた。テクニックがあるわけではなく、どちらかというと屈強なフィジカルを生かし、相手をブロックしながら強引なドリブルでボールを運んでいた。 「イタリア人にしては下手な選手だな」というのが彼のプレーを見た最初の印象で、それは撮影していたカメラマンら同業者も同じ印象だった。そして誰が言うともなく、フリーライターの富樫洋一さん(2006年2月にアフリカ選手権を取材中にカイロで死去。54歳)の強引なプレーと「似ている」と意見が一致。 それを本人に伝えると褒められたと思ったのか、セリエA好きとも相まって後年は自ら『ジャンルカ・トト・富樫』と名乗るようになった。 前回覇者のイタリアは、グループリーグこそアルゼンチンに次いで2位で突破したものの、ノックアウトステージ1回戦でミシェル・プラティニ率いるフランスに0-2で敗れて姿を消した。そしてヴィアッリもこれといった印象を残すことなくメキシコを後にした。 しかしサンプドリアでは、FWロベルト・マンチーニやMFトニーニョ・セレーゾ(元鹿島監督)、DFペーター・ブリーゲルら実力者を揃え、ジェノバのプロビンチャを2シーズン連続して(87―88、88―89)コッパ・イタリア優勝に導いた。 さらに89-90シーズンはUEFAカップ・ウィナーズ・カップで優勝すると、90-91シーズンには初のスクデットを獲得すると同時に得点王にも輝いた。 ところが自国開催の90年イタリアW杯ではサルバトーレ(トト)・スキラッチやロベルト・バッジョらの台頭により活躍の場も少なく、その真価を発揮することはできなかった。 その後はユベントスやチェルシーといった名門クラブに移籍してチームにタイトルをもたらし、チェルシーではプレイングマネジャーとしても活躍。2020年には長年の友人であるマンチーニ代表監督のコーディネーターを務めてEUROの優勝に貢献。1968年の第3回大会の優勝以来、実に52年ぶりとなる欧州制覇だった。 しかし2018年に癌で闘病生活を送っていることを告白。19年には治療のため代表チームのコーディネーターからも外れて治療に専念したものの、残念ながら帰らぬ人となってしまった。 現役時代、全盛時を知っている選手の訃報に接すると心が痛むが、これも時の流れなのだろう。改めて2人の選手が安らかな眠りにつかれるようお祈りしたい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> <span class="paragraph-title">【写真】筆者の自宅にあったペレ氏の懐かしのLP</span> <span data-other-div="movie"></span> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/1000/img/2022/.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:small;" id="cws_ad" class="desc">Getty Images<hr></div> 2023.01.13 16:30 Fri
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インファンティーノ会長の見当違い/六川亨の日本サッカー見聞録

1月2日と3日、85歳で死去したペレの葬儀がサントスのホームスタジアムで行われ、数千人のファン・サポーターが弔問に訪れて別れを惜しんだ。その後は家族葬が営まれ、同スタジアムを見下ろせるメモリアル・ネクロポール・エキュメニカ墓地に埋葬された。 ただ、葬儀の際に参列したFIFA(国際サッカー連盟)のジャンニ・インファンティーノ会長(52歳)が、棺のすぐ側で自撮りをしていたことに非難が殺到。取材した海外メディアから糾弾されたという報道を読んだ。 彼が産まれたのは1970年3月だから、ペレが3度目のW杯を制したメキシコW杯をライブで見られていない。リスペクトの気持ちより有名人とツーショット――そんな感覚だから、不謹慎な行為ができたのではないかと品性を疑いたくなる。 パキスタンやバングラデシュなど中央アジアからの出稼ぎ労働者の過労死や、LGBTQへの偏見や差別が問題視されたカタールでのW杯では、自らドーハに住むなどして大会の正当性をアピールした(と本人は思っているのだろうが、傍から見れば「癒着」でしかない)。 さらにペレの死去に伴い、「世界のすべての国に対して、サッカー・スタジアムのひとつにペレ氏の名前をつけるよう要請するつもりだ」とコメントしたという。こちらは、「開いた口がふさがらない」といったところだ。永遠のライバルである隣国アルゼンチンが、マラドーナではなくペレの名を冠したスタジアムを創るとでも本気で思っているのだろうか。 スタジアムの名称を決めるのはクラブであり、所有する地元自治体であって、各国FA(サッカー協会)ではない。このためFIFAにも、もちろんインファンティーノ会長にも権限はない。にもかかわらず、こうした非現実的な提案や発言をするのは「スタンドプレー」以外の何ものでもないだろう。 古い話で恐縮だが、FIFA第7代会長のジョアン・アベランジェは74年から98年まで、24年間という長期に渡って会長職を務めた。その間にはW杯の出場国を増やしたり、アジアやアフリカの出場枠を増加したりするなど緩やかながら拡大策を採用。しかし発展途上国への普及・発展を優先したため、W杯の放映権はかなり“安価"に設定した。 だが長期政権に対してUEFA(欧州サッカー連盟)が反発。レンナート・ヨハンソンUEFA会長との確執は、ちょうど02年のW杯招致で争っていた日本と韓国の“代理戦争"にもなった。日本開催を推すアベランジェ会長と韓国開催を推すヨハンソン会長。結果として02年のW杯開催国は、FIFA理事の投票ではなくアベランジェ会長の提案により初の“日韓共催"という結果になった(事前に両国が共催を受け入れたため)。 そして98年フランスW杯後、アベランジェ体制に終止符が打たれ、第8代会長には事務総長だったスイス人のゼップ・ブラッターが就任した。ヨハンソンとの選挙ではアフリカの弱小国にお金をばらまいて票を買ったとの噂がたった。そして彼の実態は『ミニ・アベランジェ』であり、“理想"より“金儲け"に長けていたため汚職と贈収賄の容疑で、最後はFIFAのスポンサー各社から辞任を求められ、FIFAからも活動禁止を命じられた。 ブラッターと、彼とは79年に日本で開催されたワールドユース(現U―20W杯)で親しくなった元電通の高橋理事がW杯の「放映権の高騰」の元凶と見る向きもある。そして第9代会長のインファンティーノもブラッター以上に“金儲け"に熱心なようだ。 スイス生まれでUEFAの法務やクラブライセンス部門など実務を担当し、事務局長も務めていたためFIFAの改革に期待した。ところがブラッター時代に決まったとはいえカタールW杯を正当化し、26年のアメリカ・カナダ・メキシコ大会では参加国を48に拡大した。W杯のスポンサー4社である中国市場と、人口増加のインド市場を開拓したいのだろう。 インファンティーノは16年に会長に就任して現在2期7年目だが、他に有力な会長候補がいないため、最長3期12年となる27年まで務める可能性が高い。その間にはW杯が2年に1回の隔年開催になるかもしれないし、45分間の前後半ではなく、30分×3クォーター制に変わるかもしれない。「何でもあり」の近年のFIFAだけに、何があっても驚かないが、もう少し良識のある会長の出現を期待したいところだ。 14年ブラジルW杯を取材中のときのこと。空港から市内まで、AP通信のカメラマンのレンタカーに便乗させてもらった。その際、「寄りたいところがあるけどいいか」と聞かれたのでオーケーすると、モルンビー墓地の近くの路上にクルマを止めた。 彼は、サッカーはもちろんF1レースもカバーしていて、「アイルトン・セナの墓参りをしたかったんだ」と言った。レース前か後の、セナとアラン・プロストのプライベートな2ショットをこっそり撮ったことがあると自慢した。 入口で献花用の花を買って案内板に従って奥に進むと、花束に囲まれたお墓はすぐに見つかり、日本人ファンからのメッセージも添えられていた。もしも再びサンパウロへ行くことがあれば、今度はペレのお墓もぜひ訪ねてみたいと思っている。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.01.06 23:25 Fri
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森保監督契約延長に見る忖度は? 気になる具体的事例のレポート/六川亨の日本サッカー見聞録

年末も押し迫った12月28日、JFA(日本サッカー協会)は午前中に臨時の技術委員会と臨時理事会を立て続けに開催し、森保一氏に26年アメリカ・カナダ・メキシコ共催のW杯までサムライブルーの監督の契約延長を提示。森保氏も受諾したため仮契約を済ませ、17時30分から緊急の記者会見を開催した。 唐突な記者会見ではあったが、森保監督が継続して代表監督を務めるのは規定路線だったとも言える。 田嶋幸三JFA会長は契約延長について「ベスト8という新しい景色は見られなかったが、ベスト8の新しい景色を見るために一番ふさわしい監督であること。そして日本社会へポジティブな影響を与え、国際的に日本サッカーの地位を高めてくれた」とその理由を語った。 日本代表の監督決定権は理事会にある。理事会の決議により決定し、本契約となる。その前に『反町技術委員長および田嶋会長・会長が指名する者』によって監督の選定・交渉が行われる。さらにその前段階として、技術委員会(もしくは委員長)が複数の候補者を選任して事前交渉に当たるのが通例だった。 ただし、反町氏が技術委員長に就任したのは20年3月だったので、すでに森保ジャパンはスタートして1年半が経過していたため、反町技術委員長が任命したわけではなかった。 そして反町技術委員長は、日本がW杯で敗退後の12月12日に開かれた技術委員会では「勝利を収めた評価と、日本の戦い方の議論で、いろんな見方があった」と明かしつつ、今後は「団長としてインサイドレポートを出す、TSG(テクニカル・スタディ・グループ)がアウトサイドレポートを出す」と話した。 しかし28日の会見ではどちらのレポートも報告はなく、「臨時の技術委員会を開いて森保監督をサムライブルーの監督として推挙する。理事会で承認された」とあっさりしたものだった。 それもそうだろう。日本がクロアチアにPK戦で負けた後のこと、すでに田嶋会長は「間違いなく次の監督の候補の1人」と、森保監督の契約延長を示唆した。もちろん会長には代表監督の選定権があれば、解任・契約解除の権利もある。 しかし組織として技術委員会の“頭ごなし”に監督人事について発言するのはいかがなものだろう。周りが忖度して、田嶋会長に“おもねる”ことにもつながりかねないのではないか。 ここで森保監督の契約延長にケチをつけるつもりは毛頭ない。ドイツ戦とスペイン戦では、それまであまり採用しなかった3バック(5バック)で結果を出した。「ロングカウンターもタレントがいなければできない」と反町技術委員長が指摘したように、浅野拓磨と前田大然は前線からのプレスだけでなくゴールという結果を出した。 その一方で、いわゆる“マリーシア”のあるコスタリカやクロアチアには、試合運びの妙という点で日本は「歯がゆい思い」を今回もさせられた。「越すに越せない」ベスト8の壁でもある。 コスタリカ戦もベストメンバーで連勝してノックアウトステージ進出を決め、スペイン戦でターンオーバーすべきではなかったか。選手が試合中に自己判断できるよう余計な口出しはせずに成長を促すのはいいが、PK戦のキッカーは自主申告ではなく森保監督がキッカーと順番を指名すべきではなかったか。 目標としていたカタールW杯ベスト8、東京五輪の金メダル、19年アジアカップは準優勝と3大会連続して結果を残していないことの評価は、などなど――こうした具体的な事例について技術委員会のレポート(評価と課題)を知りたかったのは私だけだろうか。 「能力の高いCFの発掘」であり、「攻撃に違いを作れる選手の育成」と「受動的ではなく能動的なボールを握るサッカー」は、日本の長年の課題であり、理想でもある。さらに今回のW杯では「190センチ台の長身CBの発掘」と、「前線でのストロングヘッダーの育成」が必要なこともわかった。 代表チームは強化の時間が限られているため、手っ取り早く結果を出すには時間をかけてサイドをえぐるより、早めのアーリークロスで空中戦から勝負――に日本は2失点した。これについては鎌田大地の守備察知能力の低さも改善の余地は大いにあるだろう。 しかし若手選手の発掘と育成は森保監督の仕事ではない。このため、28日の会見で森保監督や反町技術委員長が指摘した日本サッカー界の課題は、カタールW杯で改めて明らかになったものの本質的に根深いものだ。 カタールW杯の一番の成果は、「日本人にはできない」と最初から諦めていたことを、直視して見直さざるを得ないきっかけになったこと、“世界の潮流”を直視できたことかもしれない。 こうした反省点は過去のW杯でもたびたびあったが、代表監督が代わり、技術委員長が代わり、技術委員会のメンバーが代わるたびにリセットされて反省や経験が次代に生かされてこなかった。森保監督の契約延長の一番の“メリット”は、日本サッカーの問題点を継続して同じメンバー(各年代)で共有し、解決策を模索することになることではないだろうか。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.12.30 20:00 Fri
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