JFL最多の1万6218人が拍手…キング・カズの日本デビューも国立だった/六川亨の日本サッカーの歩み
2022.10.10 20:40 Mon
『キング・カズ』こと三浦知良が11年ぶりに日本サッカーの"聖地"国立に帰ってきた。
10月9日、JFLのクリアソン新宿対鈴鹿ポイントゲッターズの試合で、後半31分から交代でピッチに出た際には敵味方に関係なく1万6218人の観衆から盛大な拍手が送られた。
試合後、兄であり鈴鹿の監督でもある三浦泰年は「30分くらい。給水のタイミングでの交代がいいだろう。どういう状況でも使うと言ってあった」と打ち明けたように、1-0のリードで迎えた給水タイム後の31分、3人目の交代カードとして起用された。
三宅はドリブルで攻め込みながら左サイドへ大きく振ると、これを受けた中村健人はグラウンダーのクロス。残念ながらニアサイドの選手にブロックされたが、もしも抜けていればカズのゴールという絶好機。残念ながらカズダンスを見られる絶好の機会を逃したが、試合後のカズは「ボールが通ってフィニッシュで終われれば最高でしたけど、まあ次ということで」と淡々とそのシーンを振り返っていた。
そんなカズに、ミックスゾーンからの去り際に「初めて国立(旧国立)でデビューした試合は覚えている?」と聞いたところ、即座に「コニカカップ決勝の90年でした」と答えが返ってきた。
カズがブラジルから帰国したのは90年7月のこと。当時のJSL(日本サッカーリーグ)で全盛を誇っていた読売クラブに加入した。すぐさま左ウイング(当時は4-3-3システムを採用するチームが多かった)でレギュラーポジションをつかむと、この年に開催されたコニカカップ決勝ではヤマハを2-1で下して初代王者に輝いたのである。
このコニカカップ、決勝戦だけは国立で開催され、当時としては異例の2万人という大観衆が詰めかけた。2万人ときりがいい数字は、Jリーグと違い当時はリーグ関係者が目分量で「今日は○○人くらいだな」と話し合って公式入場者を決めていた名残だろう。
そんな大観衆に負けず劣らず、この日の試合には1万6218人の観衆が集まった。2008年の栃木SC対FC刈谷戦(栃木グリーンスタジアム)の1万3821人を更新する、JFL新記録の観客動員数だ。
これにはカズも「都並さん(現ブリオベッカ浦安監督)が『カズが帰ってきたから(お客さんが)入っているよな』と言ったのをちょっと思い出しましたね」と30年前の出来事を懐かしんでいた。
そして帰り際、若手の新聞記者から「コニカカップって、今のルヴァンカップですか」と質問された。当時は11歳だったという記者からすれば、大会を勘違いしてしまうのも当然かもしれない。それだけJリーグ創設前後は大会も混乱していた。
まずJSL時代はリーグ戦と天皇杯があり、1976年に新設されたのがJSLカップだった。当初はJSL1部のチームによる大会だったが、その後はJSL2部にも門戸が開放され、91年まで16回開催されたが、Jリーグの創設に伴い大会は消滅した。
このJSLカップと前後して誕生したのがコニカカップで、Jリーグのスタートに向けて各チームのレベル向上と、コニカ社(現コニカミノルタ社)が冠スポンサーにつくことで上位チームには賞金の出る大会として注目を集めた。
3年後にスタートするJリーグでは、多くの観客にスタジアムへ足を運んでもらいたい。そのためには攻撃的なサッカーでファンを魅了しなければいけない。そうした願いから、1試合で2ゴール以上奪うと通常の勝点3に加えてボーナス勝点が加算された。当時、住友金属にいたジーコは、2点を取って勝利に満足しているチームメイトに対し、試合後のロッカールームで「なぜもっと点を取ろうとしないんだ。大会のレギュレーションを知っているのか!」と激怒したこともあった。
さらに第1回大会は0-0なら即PK戦に突入で、それも1人ずつによるサドンデス。第2回大会はPK戦が廃止されて延長戦が採用されたが、それも先に点を取ったらその時点で試合終了という「Vゴール方式」が採用された。
残念ながらこのコニカカップは91年の第2回大会で終了と短命に終わった。その代わりに92年に新設されたのが、Jリーグカップであり、第1回大会からヤマザキナビスコ社が協賛したことで「Jリーグ ヤマザキナビスコカップ」として定着。16年9月に「ヤマザキビスケット」と社名を変更したことで、「JリーグYBCルヴァンカップ」と大会名も代わり今日に続いている。
来週22日にはそのルヴァンカップ決勝が国立競技場で開催され、C大阪と広島が激突する。天皇杯でも決勝戦に勝ち進んでいる広島がルヴァンカップ初制覇となるか。それともC大阪が2度目のタイトル獲得となるのか。いずれにせよ好勝負を期待したい。
【文・六川亨】
10月9日、JFLのクリアソン新宿対鈴鹿ポイントゲッターズの試合で、後半31分から交代でピッチに出た際には敵味方に関係なく1万6218人の観衆から盛大な拍手が送られた。
試合後、兄であり鈴鹿の監督でもある三浦泰年は「30分くらい。給水のタイミングでの交代がいいだろう。どういう状況でも使うと言ってあった」と打ち明けたように、1-0のリードで迎えた給水タイム後の31分、3人目の交代カードとして起用された。
パスを受けたらシンプルにワンタッチで戻したり、機を見てスルーしたりするなど視野の広さと落ち着いたプレーで周りの選手を使っていた。そしてアディショナルタイムの50分にはパスを受けると素早く反転し、右サイドの俊足FW三宅海斗に展開してカウンターの起点となった。
三宅はドリブルで攻め込みながら左サイドへ大きく振ると、これを受けた中村健人はグラウンダーのクロス。残念ながらニアサイドの選手にブロックされたが、もしも抜けていればカズのゴールという絶好機。残念ながらカズダンスを見られる絶好の機会を逃したが、試合後のカズは「ボールが通ってフィニッシュで終われれば最高でしたけど、まあ次ということで」と淡々とそのシーンを振り返っていた。
そんなカズに、ミックスゾーンからの去り際に「初めて国立(旧国立)でデビューした試合は覚えている?」と聞いたところ、即座に「コニカカップ決勝の90年でした」と答えが返ってきた。
カズがブラジルから帰国したのは90年7月のこと。当時のJSL(日本サッカーリーグ)で全盛を誇っていた読売クラブに加入した。すぐさま左ウイング(当時は4-3-3システムを採用するチームが多かった)でレギュラーポジションをつかむと、この年に開催されたコニカカップ決勝ではヤマハを2-1で下して初代王者に輝いたのである。
このコニカカップ、決勝戦だけは国立で開催され、当時としては異例の2万人という大観衆が詰めかけた。2万人ときりがいい数字は、Jリーグと違い当時はリーグ関係者が目分量で「今日は○○人くらいだな」と話し合って公式入場者を決めていた名残だろう。
そんな大観衆に負けず劣らず、この日の試合には1万6218人の観衆が集まった。2008年の栃木SC対FC刈谷戦(栃木グリーンスタジアム)の1万3821人を更新する、JFL新記録の観客動員数だ。
これにはカズも「都並さん(現ブリオベッカ浦安監督)が『カズが帰ってきたから(お客さんが)入っているよな』と言ったのをちょっと思い出しましたね」と30年前の出来事を懐かしんでいた。
そして帰り際、若手の新聞記者から「コニカカップって、今のルヴァンカップですか」と質問された。当時は11歳だったという記者からすれば、大会を勘違いしてしまうのも当然かもしれない。それだけJリーグ創設前後は大会も混乱していた。
まずJSL時代はリーグ戦と天皇杯があり、1976年に新設されたのがJSLカップだった。当初はJSL1部のチームによる大会だったが、その後はJSL2部にも門戸が開放され、91年まで16回開催されたが、Jリーグの創設に伴い大会は消滅した。
このJSLカップと前後して誕生したのがコニカカップで、Jリーグのスタートに向けて各チームのレベル向上と、コニカ社(現コニカミノルタ社)が冠スポンサーにつくことで上位チームには賞金の出る大会として注目を集めた。
3年後にスタートするJリーグでは、多くの観客にスタジアムへ足を運んでもらいたい。そのためには攻撃的なサッカーでファンを魅了しなければいけない。そうした願いから、1試合で2ゴール以上奪うと通常の勝点3に加えてボーナス勝点が加算された。当時、住友金属にいたジーコは、2点を取って勝利に満足しているチームメイトに対し、試合後のロッカールームで「なぜもっと点を取ろうとしないんだ。大会のレギュレーションを知っているのか!」と激怒したこともあった。
さらに第1回大会は0-0なら即PK戦に突入で、それも1人ずつによるサドンデス。第2回大会はPK戦が廃止されて延長戦が採用されたが、それも先に点を取ったらその時点で試合終了という「Vゴール方式」が採用された。
残念ながらこのコニカカップは91年の第2回大会で終了と短命に終わった。その代わりに92年に新設されたのが、Jリーグカップであり、第1回大会からヤマザキナビスコ社が協賛したことで「Jリーグ ヤマザキナビスコカップ」として定着。16年9月に「ヤマザキビスケット」と社名を変更したことで、「JリーグYBCルヴァンカップ」と大会名も代わり今日に続いている。
来週22日にはそのルヴァンカップ決勝が国立競技場で開催され、C大阪と広島が激突する。天皇杯でも決勝戦に勝ち進んでいる広島がルヴァンカップ初制覇となるか。それともC大阪が2度目のタイトル獲得となるのか。いずれにせよ好勝負を期待したい。
【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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