JFA田嶋幸三会長が急逝の小嶺忠敏氏を追悼「サッカーに人生の全てを捧げた方でした」
2022.01.07 17:52 Fri
日本サッカー協会(JFA)の田嶋幸三会長が、7日に逝去された小嶺忠敏氏(享年76歳)へ哀悼の意を表した。
小嶺監督は長崎県出身で、1968年に長崎県立島原商業高校で指導をスタート。1984年に就任した長崎県立国見高校では、チームを全国高校サッカー選手権大会で6度の優勝に導く手腕を見せた。
初出場の1986年に準優勝を果たすと、2度目の出場となった1987年で優勝。その後、1990年、1992年、2000年、2001年、2003年に優勝を果たしている。
また、U-17日本代表監督も務めたことがあり、多くの選手の育成に携わり、Jリーガー、日本代表選手を育てている。
育成年代を長年にわたり支えてきた小嶺監督の逝去に、田嶋会長がコメントしている。
「小嶺先生は、島原商業高校サッカー部を強化するために、高校サッカーの強豪校との対戦を日常的に行う必要性を感じ、自らマイクロバスを運転して全国各地への遠征を続けられました。そういった並々ならぬご努力が実り、島原商業は1977年のインターハイで優勝、1984年には九州勢として初めて全国高校サッカー選手権を制覇しました」
「国見高校の監督になってからも高校選手権で何度も優勝に導かれました。それまで優勝校は限られた地域のチームがその多くを占めていましたが、その後、全国各地から優勝校が出てくるようになりました。まさに高校サッカー発展の大功労者でした」
「U-17日本代表監督としては、1993年に日本で開催したFIFA U-17世界選手権でチームをベスト8に導くとともに、後のSAMURAI BLUE(日本代表)の中核を担う中田英寿さん、宮本恒靖さんらを育てられました」
「高校サッカー部の監督としてS級ライセンスを取得されるなど、名監督と言われながらも常に学ぶことをやめないその謙虚な姿勢に私も深い感銘を受けました。小嶺先生に倣い、多くの高校サッカーの指導者がS級ライセンスを取得するなど、全国の指導者をリードしてこられました。小嶺先生が蒔かれた種が日本各地で実り、多くの日本代表選手が生まれることにつながったと思います」
「小嶺先生はサッカーに人生の全てを捧げた方でした。心から哀悼の意を表します。そして、ありがとうございました」
小嶺監督は長崎県出身で、1968年に長崎県立島原商業高校で指導をスタート。1984年に就任した長崎県立国見高校では、チームを全国高校サッカー選手権大会で6度の優勝に導く手腕を見せた。
初出場の1986年に準優勝を果たすと、2度目の出場となった1987年で優勝。その後、1990年、1992年、2000年、2001年、2003年に優勝を果たしている。
育成年代を長年にわたり支えてきた小嶺監督の逝去に、田嶋会長がコメントしている。
「小嶺先生の訃報に接し、心よりお悔やみ申し上げます」
「小嶺先生は、島原商業高校サッカー部を強化するために、高校サッカーの強豪校との対戦を日常的に行う必要性を感じ、自らマイクロバスを運転して全国各地への遠征を続けられました。そういった並々ならぬご努力が実り、島原商業は1977年のインターハイで優勝、1984年には九州勢として初めて全国高校サッカー選手権を制覇しました」
「国見高校の監督になってからも高校選手権で何度も優勝に導かれました。それまで優勝校は限られた地域のチームがその多くを占めていましたが、その後、全国各地から優勝校が出てくるようになりました。まさに高校サッカー発展の大功労者でした」
「U-17日本代表監督としては、1993年に日本で開催したFIFA U-17世界選手権でチームをベスト8に導くとともに、後のSAMURAI BLUE(日本代表)の中核を担う中田英寿さん、宮本恒靖さんらを育てられました」
「高校サッカー部の監督としてS級ライセンスを取得されるなど、名監督と言われながらも常に学ぶことをやめないその謙虚な姿勢に私も深い感銘を受けました。小嶺先生に倣い、多くの高校サッカーの指導者がS級ライセンスを取得するなど、全国の指導者をリードしてこられました。小嶺先生が蒔かれた種が日本各地で実り、多くの日本代表選手が生まれることにつながったと思います」
「小嶺先生はサッカーに人生の全てを捧げた方でした。心から哀悼の意を表します。そして、ありがとうございました」
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日本人が目指すべきCB像、“希少なバロンドーラー“ファビオ・カンナバーロ
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中田英寿氏が波乱万丈のサッカーキャリア回想…『The Atletic』のロングインタビューに答える
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