守備破綻のアジア王者アル・アインがクレスポ監督の解任を発表…
2024.11.07 08:00 Thu
UAEのアル・アインは6日、エルナン・クレスポ監督(49)の解任を発表した。
現役時代にリーベル・プレートやパルマ、ラツィオ、インテル、チェルシー、ミランなどでストライカーとして活躍したクレスポ監督は、昨年11月にアルフレッド・スロイデル前監督の後任としてアル・アインの指揮官に就任。
就任初年度の昨季は、決勝戦で横浜F・マリノスを下してAFCチャンピオンズリーグ(ACL)2023-24王者に輝いたが、今季は開幕から失点が止まらす、5試合を消化したUAEプロリーグではゼロに抑えた試合はひとつもなく9失点。ACLE参戦に伴う日程調整で消化していない試合が2つあるとはいえ、2勝2分け1敗の8位と低迷している。
また、連覇を目指すACLEでも直近3試合でアル・ガラファに2-4、アル・ヒラルに4-5、アル・ナスルに1-5と合計14失点を喫しており、近隣諸国のライバル相手に大量失点が続いており、西地区リーグステージの最下位に沈んでいる。
アル・アイン首脳陣は、最近の成績が期待に沿うものでなく、これ以上の状況悪化を防ぐためにクレスポ監督の解任を決断した模様。
現役時代にリーベル・プレートやパルマ、ラツィオ、インテル、チェルシー、ミランなどでストライカーとして活躍したクレスポ監督は、昨年11月にアルフレッド・スロイデル前監督の後任としてアル・アインの指揮官に就任。
就任初年度の昨季は、決勝戦で横浜F・マリノスを下してAFCチャンピオンズリーグ(ACL)2023-24王者に輝いたが、今季は開幕から失点が止まらす、5試合を消化したUAEプロリーグではゼロに抑えた試合はひとつもなく9失点。ACLE参戦に伴う日程調整で消化していない試合が2つあるとはいえ、2勝2分け1敗の8位と低迷している。
アル・アイン首脳陣は、最近の成績が期待に沿うものでなく、これ以上の状況悪化を防ぐためにクレスポ監督の解任を決断した模様。
なお、後任監督については正式な手続きが完了次第、今後数時間以内に発表するとのことだ。
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日本代表が初めて感じた世界の壁、ストライカーが認める“9番”ガブリエル・バティストゥータ
遡る事22年前──1998年の6月は日本サッカーが初めて世界を知った1カ月だった。 “ジョホールバル”の歓喜で初めてワールドカップの出場権を獲得した日本代表。プロリーグがスタートしてから初めて実感した世界のサッカーは、次元の違うものだった。 当時から攻撃力に秀でていた南米の雄・アルゼンチン代表がワールドカップ初戦の相手。日本はディフェンシブな布陣で臨んだが、一瞬の隙を突かれてやられた。 前半28分、クリアミスを拾われるとパスを繋がれる。現在はアトレティコ・マドリーで指揮を執るディエゴ・シメオネからの縦パスが入ったところで当時の10番・名波浩がアリエル・オルテガのスルーしたボールに対応できないと、これが絶妙なパスとなってしまい、そのままゴールを許してしまった。 日本代表のワールドカップの歴史に最初に名を刻んだ男。それが、アルゼンチン代表のエース、ガブリエル・バティストゥータだった。 <div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">◆日本を沈めた“バティゴール” </div> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/800/img/2020/Batistuta_20201028_3.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:x-small;">Getty Images<hr></div> フィオレンティーナでキャリアの全盛期を過ごしていたバティストゥータは、エースとして日本戦に先発出場。FWクラウディオ・ロペス、FWアリエル・オルテガとともに日本ゴールを脅かしていた。 そして日本に少し疲れが見え始めた28分にゴールを奪う。 名波が対応をミスしたボールを受けたバティストゥータは、飛び出してきたGK川口能活の上を通す冷静沈着なチップキックでゴールを決めた。 ゴール前でのこの落ち着きは、今の日本にも必要な要素。意図しないこぼれ球であったが、しっかりと胸トラップでコントロールし、名波のプレッシャー、川口の飛び出しにも冷静に対処した。まさに、ストライカーらしいゴールだった。 <div id="cws_ad">◆日本を沈めた“バティゴール” も!バティストゥータのゴール集<br/><div style="margin:0 auto; max-width:100%; min-width:300px; " ><div style="position: relative; padding-bottom:56.25%; height: 0; overflow: hidden; "><iframe src="https://embed.dugout.com/v2/?p=eyJrZXkiOiJzTmlYUDBZeSIsInAiOiJ1bHRyYXNvY2NlciIsInBsIjoiIn0=" style="width: 300px; min-width: 100%; position: absolute; top:0; left: 0; height: 100%; overflow: hidden; " width="100%" frameborder="0" allowfullscreen scrolling="no"></iframe></div></div><div style="text-align:center;" id="cws_ad"><hr><a href="https://web.ultra-soccer.jp/link.php?url=https://ryan.onelink.me/C7cD/1fb76a70&c=sega_20201028_1">バティストゥータ、サネッティ、ベロンが<br />「サカつくRTW」に登場!</a><hr></div><div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">◆フィレンツェの英雄</div> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/800/img/2020/Batistuta_20201028_2.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:x-small;">Getty Images<hr></div> 1988年に母国のニューウェルズ・オールドボーイズにてプロデビューを果たしたバティストゥータは、リーベル・プレートを経て加入したボカ・ジュニアーズで才能を一気に開花させる。 ここでの活躍からセリエAの強豪チームの1つであったフィオレンティーナへ加入。ロベルト・バッジョ氏の後釜としての加入だった彼に不信感を抱く者もいたが、デビュー戦となった1991年9月1日のユベントス戦でいきなりゴールを記録。その後も得点を量産し、フィオレンティーナの旗手としてチームを牽引し続けた。 1992-93シーズンにフィオレンティーナがまさかのセリエBに降格した際には、誰もがチームを離れる事を予想したが、バティストゥータはチームに残留。1年でのセリエA復帰に貢献するだけでなく、1994-95シーズンには26ゴールを挙げて得点王も獲得している。 <div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">◆ローマで日本代表戦士と共に悲願のスクデット</div> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/800/img/2020/Batistuta_20201028_5.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:x-small;">Getty Images<hr></div> しかし、フィオレンティーナでは本人の夢であるスクデット獲得には至らず、その夢を果たすため2000-01シーズンにローマへ電撃移籍。シーズン途中にケガでの離脱がありながら20得点を挙げる活躍を見せ、移籍1年目、そしてイタリア10年目にして祈願のスクデットを獲得した。 このシーズンは、前年の途中にペルージャから加入していた元日本代表MF中田英寿もローマに所属。フランチェスコ・トッティとのポジション争いもある中で、中田もスクデット獲得に貢献。1998年のフランスW杯で敵として黒星をつけた男と、2年後にはチームメイトになっていたのだから、中田の凄さも計り知れないところだ。 <div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">◆ストライカーから認められる “ストライカー”</div> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/800/img/2020/Batistuta_20201028_4.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:x-small;">Getty Images<hr></div> その後もローマでプレーしたバティストゥータだが、2002-03シーズン途中、ローマにて出場機会を失いつつあった彼はインテルへレンタル移籍。母国の後輩であり、ケガで離脱していたFWエルナン・クレスポの穴埋めと期待されたが、12試合で2ゴールと期待された結果を残せず。翌シーズンにはカタールのアル・アラビへと完全移籍。2005年3月に現役を退いた。 アルゼンチンに収まらず、1990年代最高のストライカーの1人であったバティストゥータだが、その姿は現代で活躍するストライカーたちの目にも焼き付いている。 ウルグアイが誇る現代屈指のストライカーであるFWルイス・スアレス(アトレティコ・マドリー)は、バティストゥータの同胞フアン・パブロ・ソリンとのインタビューでその強烈な憧れを明かしている。 「子供の頃からアイドルだったということを伝えたい。あなたは私が今まで見たサッカー選手の中で最も偉大な存在だった。子供の頃から真似してみたけど、だからこそ憧れてしまう。あなたは私にとってアイドルです」 さらには、ウルグアイ代表でスアレスの相棒であるFWエディンソン・カバーニ(マンチェスター・ユナイテッド)もバティストゥータに憧れを抱いた1人だ。 「昔から憧れているストライカーを1人選ばなければならないのなら、バティストゥータを選ぶよ。フィオレンティーナの9番を背負った彼は最強だった。9番は特別な数字で得点を挙げる人間を表す。よく似合っていた」 破壊的な右足とヘディングに高い決定力を備え、どこからでもゴールを貪欲に狙う姿勢。最もゴールにこだわり、ゴールを決めてきたバティストゥータこそ、"9番”の象徴であり、“ストライカー”の神髄と呼べる存在だった。 <div style="text-align:left;" id="cws_ad"><hr>日本代表を沈める“バティゴール”を決めた1990年代最高のストライカーの一人であるバティストゥータが、大人気スポーツ育成シミュレーションゲーム『プロサッカークラブをつくろう!ロード・トゥ・ワールド』(サカつくRTW)に登場!<br /><br />さらに日本戦にもフル出場していたMFファン・セバスティアン・ベロンとDFハビエル・サネッティも同時に登場している。『サカつくRTW』で“バティゴール”を観たい方は是非一度チェックしよう。</div><hr> 2020.10.30 15:30 Fri3
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UAE『Al Bayan』によると、2024年のプロサッカー界で最もゴールを決めている「アラブ人」は現在、アル・アインFCに所属するモロッコ代表FWソフィアン・ラヒミだという。 アル・アインは21日、UAE1部第8節でアル・オルーバに4-2と勝利。表題のモロッコ代表FWラヒミは1得点を決めて勝利に貢献した。 これにより、ラヒミはクラブと代表活動合わせ、2024年出場の公式戦45試合「36得点」。 アラブ世界で崇拝されるリバプールのエジプト代表FWモハメド・サラー「22得点」などを大きく凌駕し、2024年「アラブ人得点ランキング」で1位に立っているとのことだ。 2024年のラヒミは、まさに出色の1年。 23-24シーズンのAFCチャンピオンズリーグ「13得点(うち2024年は9得点)」で得点王、U-23モロッコ代表のOA枠にて出場したパリ五輪「8得点」で得点王。UAE1部、クラブW杯、A代表などでもゴールを決め、これらの活躍がA代表主力への道を切り拓いた。 また、2024年のゴール&アシスト総数「42」は、サラーと並んでアラブ人2位。今のところ、1位はアル・サッドのカタール代表FWアクラム・アフィフで「51」だそうだ。 ACL決勝で横浜FMを沈めたことが印象深いラヒミ。出色の1年だったことは間違いなく、欧州クラブ歴の一切ない28歳が、市場価値750万ユーロ(約12億円)を記録している。 2024.11.22 22:05 Fri4
横浜FM下したアル・アインが28番目の出場クラブに! 新フォーマットのクラブW杯出場チームが続々決定【クラブW杯】
25日、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)の決勝2ndレグが行われ、横浜F・マリノスがアル・アインに5-1で敗戦。2戦合計、6-3で敗れてアジア王者を逃すこととなった。 1stレグで2-1と勝利していた横浜FMだったが、大アウェイの中で前半は飲まれてしまうことに。すると早々と2ゴールを奪われ、2戦合計で逆転を許してしまう。 それでもチームは持ち直し、ヤン・マテウスのゴールでイーブンに戻したが、前半アディショナルタイムにGKポープ・ウィリアムがDOGSOで一発退場。後半は数的不利で戦った中、3失点を喫してしまいアル・アインが21年ぶりのアジア王者に輝いた。 この結果、2025年6月に行われる新フォーマットのクラブ・ワールドカップ(W杯)の出場権はアル・アインが獲得。Jリーグ勢は、2022年のACL王者である浦和レッズのみが出場することとなる。 なお、出場権を逃したことも大きいが、国際サッカー連盟(FIFA)は出場クラブには5000万ユーロ(約85億円)が与えられ、勝ち上がればさらに賞金が増えるとしており、横浜FMは大きな資金も逃すこととなってしまった。 また、アフリカでも王者が決まり、CAFチャンピオンズリーグ(CCL)はエジプトのアル・アハリが勝利し連覇を達成していた。 <span class="paragraph-subtitle">◆ムンディアル・デ・クラブFIFA出場決定チーム</span> 【アジア】 2021:アル・ヒラル(サウジアラビア) 2022:浦和レッズ(日本) 2023-24:アル・アイン(UAE) ・ランキングから 蔚山HD FC(韓国) 【アフリカ】 2020-21、2022-23、2023-24:アル・アハリSC(エジプト) 2021-22:ウィダード・カサブランカ(モロッコ) ・ランキングから マメロディ・サンダウンズ(南アフリカ) エスペランス(チュニジア) 【ヨーロッパ】 2020-21:チェルシー(イングランド) 2021-22:レアル・マドリー(スペイン) 2022-23:マンチェスター・シティ(イングランド) 2023-24:開催中 ・ランキングから バイエルン(ドイツ) ドルトムント(ドイツ) パリ・サンジェルマン(フランス) インテル(イタリア) ユベントス(イタリア) ポルト(ポルトガル) ベンフィカ(ポルトガル) アトレティコ・マドリー(スペイン) ザルツブルク(オーストリア) 【北中米カリブ海】 2021:モンテレイ(メキシコ) 2022:シアトル・サウンダース(アメリカ) 2023:クラブ・レオン(メキシコ) 2024:開催中 【オセアニア】 ・ランキング経由のみ オークランド・シティ(ニュージーランド) 【南米】 2021:パウメイラス(ブラジル) 2022:フラメンゴ(ブラジル) 2023:フルミネンセ(ブラジル) 2024:開催中 ・ランキングから2チーム リーベル・プレート(アルゼンチン) 2024.05.26 23:55 Sun5