アル・アイン、昨季アル・ドゥハイルをカタール3冠に導いたクレスポ氏を新監督に招へい
2023.11.09 07:30 Thu
UAEのアル・アインは8日、新監督としてアルゼンチン人指揮官エルナン・クレスポ氏(48)を迎えることでプレ合意したことを発表した。
同日に今夏から就任したアルフレッド・スロイデル監督(51)との契約解除を発表していたアル・アイン。その後任としてカタールで実績を残したアルゼンチン人指揮官に白羽の矢を立てたようだ。
現役時代にリーベル・プレートやパルマ、ラツィオ、インテル、チェルシー、ミランなどでストライカーとして活躍したクレスポ氏は、古巣パルマのプリマヴェーラなどイタリアの地で指揮官としてのキャリアをスタート。
その後、母国のデフェンサ・イ・フスティシアやブラジル屈指の名門サンパウロで監督を歴任。2022年3月からカタールのアル・ドゥハイルで監督を務めると、2022-23シーズンはスターズリーグ、リーグカップ、スターズカップの3冠を達成。
しかし、今シーズンのカタール・スターズリーグでは5試合終了時点で4位とスタートで躓くと、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)でも2試合で1分け1敗と勝利がなかったことで、10月11日に監督を解任されていた。
同日に今夏から就任したアルフレッド・スロイデル監督(51)との契約解除を発表していたアル・アイン。その後任としてカタールで実績を残したアルゼンチン人指揮官に白羽の矢を立てたようだ。
現役時代にリーベル・プレートやパルマ、ラツィオ、インテル、チェルシー、ミランなどでストライカーとして活躍したクレスポ氏は、古巣パルマのプリマヴェーラなどイタリアの地で指揮官としてのキャリアをスタート。
しかし、今シーズンのカタール・スターズリーグでは5試合終了時点で4位とスタートで躓くと、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)でも2試合で1分け1敗と勝利がなかったことで、10月11日に監督を解任されていた。
なお、アル・アインによれば、クレスポ氏は数日中にUAEに到着し、クラブとの契約手続きを完了させ、正式就任することだ。
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就任9カ月でわずか2勝…成績不振のバンフィエルドがクレスポ監督を解任
アルゼンチンのバンフィエルドは2日、エルナン・クレスポ監督(44)の解任を発表した。クラブ公式サイトが伝えた。 クレスポ監督は、2018年12月にバンフィエルドで指揮を開始。2018-19シーズンの途中から指揮を執っていた。 ここまでスーペルリーガ・アルヘンティーナ(アルゼンチン1部)で14試合を指揮し、2勝5分け7敗。今シーズンは開幕から5試合で1勝1分け3敗の19位(24チーム中)と結果を残せていなかった。 バンフィエルドは「エルナンと彼のチームによって日々実証されてきたプロフェッショナリズムと仕事はとても満足いくものでした」と声明を発表。しかし、「得られた結果は期待通りではなく、現時点でクラブが必要としていたものではありませんでした」と、有望なプロジェクトを掲げながらも結果が伴わなかったことを理由にあげている。 クレスポ監督は、リーベル・プレートでキャリアをスタート。1996年8月に海を渡り、セリエAのパルマへ移籍。その後は、ラツィオ、インテル、チェルシー、ミラン、ジェノアなどでプレーし、ゴールハンターとして活躍。クラブキャリア524試合で236ゴールを記録していた。また、アルゼンチン代表としてもエースとして一時代を築き、64試合で35ゴールを記録していた。 引退後は古巣であるパルマのU-19チームで監督キャリアをスタート。モデナでも指揮を執ると、2017年6月から2018年1月まではパルマの副会長を務めていた。 2019.09.03 19:33 Tue3
日本代表が初めて感じた世界の壁、ストライカーが認める“9番”ガブリエル・バティストゥータ
遡る事22年前──1998年の6月は日本サッカーが初めて世界を知った1カ月だった。 “ジョホールバル”の歓喜で初めてワールドカップの出場権を獲得した日本代表。プロリーグがスタートしてから初めて実感した世界のサッカーは、次元の違うものだった。 当時から攻撃力に秀でていた南米の雄・アルゼンチン代表がワールドカップ初戦の相手。日本はディフェンシブな布陣で臨んだが、一瞬の隙を突かれてやられた。 前半28分、クリアミスを拾われるとパスを繋がれる。現在はアトレティコ・マドリーで指揮を執るディエゴ・シメオネからの縦パスが入ったところで当時の10番・名波浩がアリエル・オルテガのスルーしたボールに対応できないと、これが絶妙なパスとなってしまい、そのままゴールを許してしまった。 日本代表のワールドカップの歴史に最初に名を刻んだ男。それが、アルゼンチン代表のエース、ガブリエル・バティストゥータだった。 <div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">◆日本を沈めた“バティゴール” </div> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/800/img/2020/Batistuta_20201028_3.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:x-small;">Getty Images<hr></div> フィオレンティーナでキャリアの全盛期を過ごしていたバティストゥータは、エースとして日本戦に先発出場。FWクラウディオ・ロペス、FWアリエル・オルテガとともに日本ゴールを脅かしていた。 そして日本に少し疲れが見え始めた28分にゴールを奪う。 名波が対応をミスしたボールを受けたバティストゥータは、飛び出してきたGK川口能活の上を通す冷静沈着なチップキックでゴールを決めた。 ゴール前でのこの落ち着きは、今の日本にも必要な要素。意図しないこぼれ球であったが、しっかりと胸トラップでコントロールし、名波のプレッシャー、川口の飛び出しにも冷静に対処した。まさに、ストライカーらしいゴールだった。 <div id="cws_ad">◆日本を沈めた“バティゴール” も!バティストゥータのゴール集<br/><div style="margin:0 auto; max-width:100%; min-width:300px; " ><div style="position: relative; padding-bottom:56.25%; height: 0; overflow: hidden; "><iframe src="https://embed.dugout.com/v2/?p=eyJrZXkiOiJzTmlYUDBZeSIsInAiOiJ1bHRyYXNvY2NlciIsInBsIjoiIn0=" style="width: 300px; min-width: 100%; position: absolute; top:0; left: 0; height: 100%; overflow: hidden; " width="100%" frameborder="0" allowfullscreen scrolling="no"></iframe></div></div><div style="text-align:center;" id="cws_ad"><hr><a href="https://web.ultra-soccer.jp/link.php?url=https://ryan.onelink.me/C7cD/1fb76a70&c=sega_20201028_1">バティストゥータ、サネッティ、ベロンが<br />「サカつくRTW」に登場!</a><hr></div><div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">◆フィレンツェの英雄</div> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/800/img/2020/Batistuta_20201028_2.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:x-small;">Getty Images<hr></div> 1988年に母国のニューウェルズ・オールドボーイズにてプロデビューを果たしたバティストゥータは、リーベル・プレートを経て加入したボカ・ジュニアーズで才能を一気に開花させる。 ここでの活躍からセリエAの強豪チームの1つであったフィオレンティーナへ加入。ロベルト・バッジョ氏の後釜としての加入だった彼に不信感を抱く者もいたが、デビュー戦となった1991年9月1日のユベントス戦でいきなりゴールを記録。その後も得点を量産し、フィオレンティーナの旗手としてチームを牽引し続けた。 1992-93シーズンにフィオレンティーナがまさかのセリエBに降格した際には、誰もがチームを離れる事を予想したが、バティストゥータはチームに残留。1年でのセリエA復帰に貢献するだけでなく、1994-95シーズンには26ゴールを挙げて得点王も獲得している。 <div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">◆ローマで日本代表戦士と共に悲願のスクデット</div> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/800/img/2020/Batistuta_20201028_5.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:x-small;">Getty Images<hr></div> しかし、フィオレンティーナでは本人の夢であるスクデット獲得には至らず、その夢を果たすため2000-01シーズンにローマへ電撃移籍。シーズン途中にケガでの離脱がありながら20得点を挙げる活躍を見せ、移籍1年目、そしてイタリア10年目にして祈願のスクデットを獲得した。 このシーズンは、前年の途中にペルージャから加入していた元日本代表MF中田英寿もローマに所属。フランチェスコ・トッティとのポジション争いもある中で、中田もスクデット獲得に貢献。1998年のフランスW杯で敵として黒星をつけた男と、2年後にはチームメイトになっていたのだから、中田の凄さも計り知れないところだ。 <div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">◆ストライカーから認められる “ストライカー”</div> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/800/img/2020/Batistuta_20201028_4.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:x-small;">Getty Images<hr></div> その後もローマでプレーしたバティストゥータだが、2002-03シーズン途中、ローマにて出場機会を失いつつあった彼はインテルへレンタル移籍。母国の後輩であり、ケガで離脱していたFWエルナン・クレスポの穴埋めと期待されたが、12試合で2ゴールと期待された結果を残せず。翌シーズンにはカタールのアル・アラビへと完全移籍。2005年3月に現役を退いた。 アルゼンチンに収まらず、1990年代最高のストライカーの1人であったバティストゥータだが、その姿は現代で活躍するストライカーたちの目にも焼き付いている。 ウルグアイが誇る現代屈指のストライカーであるFWルイス・スアレス(アトレティコ・マドリー)は、バティストゥータの同胞フアン・パブロ・ソリンとのインタビューでその強烈な憧れを明かしている。 「子供の頃からアイドルだったということを伝えたい。あなたは私が今まで見たサッカー選手の中で最も偉大な存在だった。子供の頃から真似してみたけど、だからこそ憧れてしまう。あなたは私にとってアイドルです」 さらには、ウルグアイ代表でスアレスの相棒であるFWエディンソン・カバーニ(マンチェスター・ユナイテッド)もバティストゥータに憧れを抱いた1人だ。 「昔から憧れているストライカーを1人選ばなければならないのなら、バティストゥータを選ぶよ。フィオレンティーナの9番を背負った彼は最強だった。9番は特別な数字で得点を挙げる人間を表す。よく似合っていた」 破壊的な右足とヘディングに高い決定力を備え、どこからでもゴールを貪欲に狙う姿勢。最もゴールにこだわり、ゴールを決めてきたバティストゥータこそ、"9番”の象徴であり、“ストライカー”の神髄と呼べる存在だった。 <div style="text-align:left;" id="cws_ad"><hr>日本代表を沈める“バティゴール”を決めた1990年代最高のストライカーの一人であるバティストゥータが、大人気スポーツ育成シミュレーションゲーム『プロサッカークラブをつくろう!ロード・トゥ・ワールド』(サカつくRTW)に登場!<br /><br />さらに日本戦にもフル出場していたMFファン・セバスティアン・ベロンとDFハビエル・サネッティも同時に登場している。『サカつくRTW』で“バティゴール”を観たい方は是非一度チェックしよう。</div><hr> 2020.10.30 15:30 Fri4
オランダは無敗で大会を去り、王者フランスは苦戦もベスト4へ/六川亨の日本サッカー見聞録
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守備破綻のアジア王者アル・アインがクレスポ監督の解任を発表…
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UAEのアル・アインは13日、ウェストハムを退団したウクライナ代表FWアンドリー・ヤルモレンコ(32)の加入を発表した。契約期間は2023年6月30日までの1年となる。 母国屈指の名門ディナモ・キエフで台頭したヤルモレンコは、2018年7月にドルトムントからウェストハムへ完全移籍。ハマーズでは公式戦86試合に出場し13ゴール7アシストを記録。2021-22シーズンはプレミアリーグで19試合1ゴール、ヨーロッパリーグで8試合2ゴール1アシストを記録していた。 今夏の退団により、ヨーロッパを中心に多くのクラブからオファーが舞い込んだウクライナ代表のキャプテンだが、同胞セルゲイ・レブロフ監督が率いるUAEを新天地に選択した。 2022.07.13 16:53 Wed2
キレキレ連続直角ターンでDFを翻弄!中島&塩谷の同僚が決めた華麗なスーパーゴール【インクレディブル・ゴールズ】
サッカーファンなら誰もが一度は見たことがあるであろう歴史に残るスーパーゴール。今回の企画『Incredible Goals』(信じられないゴール)では、これまでに生まれた驚愕のゴールを紹介していく。 今回はアル・アインに所属するUAE代表FWカイオ・カネドが決めたゴールだ。 <div id="cws_ad">◆連続直角ターンで相手を翻弄!<br/> <div class="dugout-video dugout-embed-eyJrZXkiOiJ0MnRNRjZNZSIsInAiOiJ1bHRyYXNvY2NlciIsInBsIjoiIn0="></div><script type="text/javascript" src="https://embed.dugout.com/v3.1/ultrasoccer.js"></script> </div> ブラジル生まれのカイオは母国のクラブを渡り歩いた後、2014年夏にUAEリーグに移籍。2019年夏からは、日本代表の塩谷司や中島翔哉も所属する強豪アル・アインに活躍の場を移している。 2020年11月には、UAEに帰化して代表デビューを果たしているカイオだが、2021年2月19日に行われたアラビアン・ガルフリーグ第17節のアル・フジャイラ戦では、見事なゴールを決めている。 0-0で迎えた23分、DFバンダル・モハメドの自陣からのロングパスを相手陣の左サイドでカイオが受ける。ボックスの手間でボールを収めたカイオは、鮮やかなキックフェイントからの直角ターンでマークをかわすと、ブロックに来たもう1人のDFも鮮やかなターンで軽々と抜き去る。フリーでゴール前に進むと、GKの頭上を抜く強烈なシュートを叩き込んだ。 このゴールで勢いに乗ったアル・アイン。後半も攻勢が続き、3-1で勝利している。 <span data-sg-movie-id="842" data-sg-movie-title="【連続直角ターンでDFを翻弄!】中島&塩谷の同僚が決めた華麗なスーパーゴール"></span> 2021.02.25 18:00 Thu3
アジア王者のUAEアル・アインがルガーニ獲得へ本腰...1stオファーは300万ユーロか
UAE1部のアル・アインが、元イタリア代表DFダニエレ・ルガーニ(30)の獲得へ交渉中だ。UAE『Al Bayan』が伝えている。 若手時代にイタリア代表の将来を背負うと期待されるも、ユベントスで控えの域を脱せぬまま30代に突入したセンターバック、ルガーニ。 放出候補に挙げられた回数も数えればキリがないが、5月には契約を2026年まで延長。しかし、現在は中東移籍の可能性が膨らんでいる。 横浜FM撃破で21年ぶりにアジア制覇のアル・アインだが、24-25シーズンは国内リーグで優勝を逃すことに。今後1年はクラブW杯含め、国内外で6大会を戦うハードスケジュールだ。 各ポジションの選手層拡充を念頭に、センターバックはルガーニを獲得へ。すでにユベントスとの腰を据えた交渉が始まり、アヤックスとの争奪戦になっているとのことだ。 現時点では、移籍金として300万ユーロ(約4.8億円)を提示しているそうだ。 2024.08.14 13:20 Wed4
