
復帰後初ゴールの中島翔哉をポルティモネンセ指揮官も評価「クオリティの高い選手」
2021.11.13 21:58 Sat
ポルティモネンセのパウロ・セルジオ監督が、MF中島翔哉について言及した。ポルトガル『O JOGO』が伝えた。ポルトからのレンタル移籍で、今夏ポルティモネンセへと復帰した中島。昨シーズンのケガの影響でシーズン序盤は出遅れたが、ここまで4試合でプレー。6日のプリメイラ・リーガ第11節のベレネンセス戦では初ゴールも記録した。
ポルトでは、セルジオ・コンセイソン監督の信頼を得ることができずにいたが、ポルティモネンセでは徐々に輝きを取り戻している。
その点はパウロ・セルジオ監督も認めており、中島が良い状態を取り戻し始めていると感じているようだ。
「彼はすでにブラガ戦で良い兆候を示していた。試合に出る準備ができていることを示していたが、彼がプレーできなかった時間は計り知れない」
中島はポルトで不遇の時期を過ごしたあと、2021年1月にUAEのアル・アインへとレンタル移籍。しかし、2試合を行ったところでトレーニング中に脛骨骨折とじん帯断裂の重傷を負い、アル・アインでのキャリアが終了。手術とリハビリをして、8カ月もの間ピッチから離れていた。
ここから復調し、かつての輝きを取り戻すのかに注目だ。
ポルトでは、セルジオ・コンセイソン監督の信頼を得ることができずにいたが、ポルティモネンセでは徐々に輝きを取り戻している。
「彼はすでにブラガ戦で良い兆候を示していた。試合に出る準備ができていることを示していたが、彼がプレーできなかった時間は計り知れない」
「今、彼はより競争力を持ち、プレスする能力がある。もちろん、彼はクオリティの高い選手で、我々を大いに助けてくれるだろう」
中島はポルトで不遇の時期を過ごしたあと、2021年1月にUAEのアル・アインへとレンタル移籍。しかし、2試合を行ったところでトレーニング中に脛骨骨折とじん帯断裂の重傷を負い、アル・アインでのキャリアが終了。手術とリハビリをして、8カ月もの間ピッチから離れていた。
ここから復調し、かつての輝きを取り戻すのかに注目だ。
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