エルナン・クレスポ

Hernan CRESPO
ポジション 監督
国籍 アルゼンチン
生年月日 1975年07月05日(49歳)
利き足
身長 184cm
体重 81kg
ニュース 人気記事 クラブ 監督データ

エルナン・クレスポのニュース一覧

アル・アインFCの守備が破綻している。 UAE随一の名門にして、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)2023-24王者のアル・アイン。決勝戦では、横浜F・マリノスを完全粉砕した。 そのACLでの勝ち上がり方が物語る通り、もともと失点上等の“撃ち合い”を好むチーム性質。稀代の点取り屋、エルナン・クレスポ氏が監 2024.11.06 17:00 Wed
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UAEのアル・アインは1日、フィオレンティーナからアルゼンチン人MFジノ・インファンティーノ(21)を1年間のレンタル移籍で獲得したことを発表した。 イタリアにルーツを持ち、アルゼンチンのロサリオで生まれ育ったインファンティーノ。2018年に地元の名門ロサリオ・セントラルの下部組織に加入し、2020年11月に行わ 2024.10.02 08:10 Wed
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アル・ヒラルのエルナン・クレスポ監督が、アジア王者を喜んだ。『Dzair Sport』が伝えた。 2023-24シーズンのAFCチャンピオンズリーグ(ACL)が25日に終了。決勝2ndレグが行われ、アル・アイン(UAE)が横浜F・マリノスを5-1で下し、2戦合計6-3で勝利を収めた。 共にAFCチャンピオン 2024.05.26 10:50 Sun
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11日、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)2023-24決勝戦1stレグの横浜F・マリノスvsアル・アインが行われ、ホームの横浜FMが2-1と逆転勝利。25日の敵地2ndレグを前に、悲願のアジア王者へ一歩前に出た。 アジア王者を目指し、東地区を勝ち抜いた日本の横浜FMと、西地区を勝ち抜いたUAEのアル・アイン。 2024.05.11 21:02 Sat
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AFCチャンピオンズリーグ(ACL)2023-24決勝戦1stレグの横浜F・マリノスvsアル・アイン。ホームの横浜FMは前半を1点ビハインドで終えた。 [前半終了] 横浜F・マリノス 0-1 アル・アイン 【アル・アイン】 モハメド・アル・バルーシ(前12) アジア王者を目指し、東地区を勝ち抜いた日本 2024.05.11 19:53 Sat
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アル・アインFCのニュース一覧

国際サッカー連盟(FIFA)は11日、来夏のFIFAクラブ・ワールドカップ(W杯)2025の組み合わせ抽選が12月5日に行われることを発表した。 来年6月のアメリカ大会から各大陸の32クラブが集う大規模コンペディションとなるクラブW杯。出場チームは続々と決まり、欧州からは過去3季のチャンピオンズリーグ(CL)王者 2024.11.12 08:30 Tue
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UAEのアル・アインは8日、ポルトガル人指揮官のレオナルド・ジャルディム氏(45)の監督就任を発表した。 昨シーズンはAFCチャンピオンズリーグ(ACL)2023-24王者に輝いたアル・アインだが、今シーズンは開幕から失点が止まらす、UAEプロリーグでは5試合で9失点。連覇を目指すACLエリート(ACLE)でも4 2024.11.08 23:55 Fri
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UAEのアル・アインが、レオナルド・ジャルディム氏(45)の新指揮官招へいで合意に至ったようだ。 昨シーズンはAFCチャンピオンズリーグ(ACL)2023-24王者に輝いたアル・アインだが、今季は今季は開幕から失点が止まらす、UAEプロリーグでは5試合で9失点。連覇を目指すACLEでも4試合で15失点を喫しており 2024.11.08 08:30 Fri
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UAEのアル・アインは6日、エルナン・クレスポ監督(49)の解任を発表した。 現役時代にリーベル・プレートやパルマ、ラツィオ、インテル、チェルシー、ミランなどでストライカーとして活躍したクレスポ監督は、昨年11月にアルフレッド・スロイデル前監督の後任としてアル・アインの指揮官に就任。 就任初年度の昨季は、決 2024.11.07 08:00 Thu
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アル・アインFCの守備が破綻している。 UAE随一の名門にして、AFCチャンピオンズリーグ(ACL)2023-24王者のアル・アイン。決勝戦では、横浜F・マリノスを完全粉砕した。 そのACLでの勝ち上がり方が物語る通り、もともと失点上等の“撃ち合い”を好むチーム性質。稀代の点取り屋、エルナン・クレスポ氏が監 2024.11.06 17:00 Wed
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エルナン・クレスポの人気記事ランキング

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世界一にもなれた稀代の創造主、ファン・セバスティアン・ベロン

これまでのサッカー界には、数多くのクリエイティブな選手が存在した。それは、サッカーのスタイルが大きく変化した現代にも存在しているが、当然のことながらそのプレースタイルも変化している。 一方で、自分のスタイルを崩さずに輝きを放ち続けようともがいた選手も多くいる。しかし、その多くが、サッカースタイルの波に敗れたり、リーグの特性、チームコンセプトの犠牲になっていった。 クリエイティブな選手としてパッと想像される中には、現在はレアル・マドリーで指揮を執るジネディーヌ・ジダンがいるだろう。ボールを持った時の立ち姿やドリブルで相手をかわす姿勢など、そのプレー自体がエレガントさに溢れており、現役ラストマッチとなった2006年ドイツ・ワールドカップ決勝での頭突きは世界が衝撃に包まれた。 そのジダンと肩を並べるクリエイティビティを持ち、自身のスタイルを貫き通したがために、意外なキャリアを歩むこととなったのが、元アルゼンチン代表MFファン・セバスティアン・ベロンだ。 <div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">◆流浪の創造主 </div> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/800/img/2020/veron3.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:x-small;">Getty Images<hr></div> ベロンがキャリアをスタートさせたのは、母国のエストゥディアンテス。クラブの歴史において偉大な人物であり、“ブルッハ(魔法使い)”の愛称で親しまれたファン・ラモン・ベロン氏を父に持つベロンは、同じ道を歩んだ。 プロキャリアスタートから1年半で名門のボカ・ジュニアーズに移籍。すると半年で海を渡り、21歳でサンプドリアへと加入した。 当時からベロンのプレースタイルは異次元と言って良いもの。誰もが想像つかないような創造性を備え、独自のルールでプレーをしていた様にさえ見えるほど。ただ、その創造性がズバ抜けていたことで、チームの中心選手でもあった。 1998年に加入したパルマでは、同胞のFWエルナン・クレスポとのコンビがフィーバー。2人のコンビネーションの破壊力は抜群で、“ミラクル・パルマ”と呼ばれるチームの中心を担った。 プロビンチャ(地方クラブ)に過ぎなかったパルマだが、このシーズンは若きジャンルイジ・ブッフォンを守護神に、ファビオ・カンナバーロ、リリアン・テュラム、ネストル・センシーニの3バックが構えた。ベロンはトップ下で攻撃をコントロール。チームはUEFAカップ(現ヨーロッパリーグ)とコッパ・イタリアを制した。 強力なクレスポとのコンビは、1999年にそのままラツィオへと移籍。すると、ラツィオではスクデットとコッパ・イタリア優勝を成し遂げ、その創造性でチームを牽引した。 イタリアでの3クラブでは遺憾なく創造性を見せつけていたベロンは、2001年7月にマンチェスター・ユナイテッドへと加入。この移籍が1つの転機となった。 <div id="cws_ad">◆稀代の創造主 ベロンの魔法のようなプレーの数々<br/><div style="margin:0 auto; max-width:100%; min-width:300px; " ><div style="position: relative; padding-bottom:56.25%; height: 0; overflow: hidden; "><iframe src="https://embed.dugout.com/v2/?p=eyJrZXkiOiI2djQyV3dxayIsInAiOiJ1bHRyYXNvY2NlciIsInBsIjoiIn0=" style="width: 300px; min-width: 100%; position: absolute; top:0; left: 0; height: 100%; overflow: hidden; " width="100%" frameborder="0" allowfullscreen scrolling="no"></iframe></div></div><div style="text-align:center;" id="cws_ad"><hr><a href="https://web.ultra-soccer.jp/link.php?url=https://ryan.onelink.me/C7cD/1fb76a70&c=sega_20201102_1">バティストゥータ、サネッティ、ベロンが<br />「サカつくRTW」に登場!</a><hr></div><div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">◆守れなかった自分のスタイル </div> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/800/img/2020/veron2.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:x-small;">Getty Images<hr></div> 当時のイングランド史上最高の移籍金2810万ポンド(当時のレートで約50億円)でユナイテッドへと加入したベロンは、異色の存在だったと言える。当時のメンバーでは、92年組と呼ばれるデイビッド・ベッカムやポール・スコールズ、ライアン・ギグスの他、ロイ・キーンやオーレ・グンナー・スールシャール、ルート・ファン・ニステルローイなどがいた。 超名門であってもベロンはその持ち前の感覚で、チームに違いをもたらす。2002-03シーズンにはプレミアリーグを制覇と結果も残した。 しかし、ベロンが異彩を放てた試合はセリエA時代と比べると大きく制限がされていた。その理由の1つは、ポジションの変更だ。 当時トップ下を置いていたセリエAとは違い、イングランドでは伝統的にフラットな[4-4-2]が採用。そのため、ベロンのポジションは1列下がったところに置かれた。 加えてプレミアリーグの激しいスタイルもベロンを困らせる。創造的なプレーに集中できなくなったベロンは、ユナイテッドでは自ら汗をかき、守備のタスクもこなす必要があったのだ。 チャンピオンズリーグというヨーロッパの舞台や、守備を重点的にプレーするフィル・ネビルとのコンビではその力を存分に発揮したベロンだが、リーグ戦では結果が出せず。ロマン・アブラモビッチ氏がオーナーとなったチェルシーに2003年8月へ移籍。しかし、チェルシーでも結果を残せず、インテルへと移籍し、イタリアで再びプレーした。 <div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">◆旅の終わりは故郷へ、そして会長に </div> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/800/img/2020/veron4.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:x-small;">Getty Images<hr></div> インテルでプレーした後、2006年7月にプロキャリアをスタートさせたエストゥディアンテスへと復帰。すでに終わった選手としてのレッテルを剥がし、完全復活を果たした。 2009年には父と同じように愛するクラブをコパ・リベルタドーレス優勝に導き、自身も2008、2009年と2年連続で南米最優秀選手に選出。ベロンには欧州からのオファーもあったが、エストゥディアンテスへの愛情を示して残留すると、2014年にスパイクを脱ぐ。その後2017年に一度現役復帰するも、引退後はクラブの会長職を務めている。 キャリアを通してセリエAやプレミアリーグのタイトルも勝ち取ってきたベロンだが、キャリアで最も印象的な瞬間について、2009年のコパ・リベルタドーレス優勝だと語っており、いかにその瞬間がベロンにとって大きなものだったかが分かる。世界一にもなれた創造主は、母国で新たな才能を生み出すことに力を割いている。 <div style="text-align:left;" id="cws_ad"><hr>魔法のようなプレーとテクニックで往年のセリエAファンを魅了したベロンが、大人気スポーツ育成シミュレーションゲーム『プロサッカークラブをつくろう!ロード・トゥ・ワールド』(サカつくRTW)に登場!<br /><br />ベロンとともにアルゼンチン代表として1998年のフランスW杯で日本代表と戦った、FWガブリエル・バティストゥータとDFハビエル・サネッティも同時に登場している。『サカつくRTW』で“小さな魔法使い”の姿を観たい方は是非一度チェックしよう。</div><hr> 2020.11.04 18:05 Wed
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日本代表が初めて感じた世界の壁、ストライカーが認める“9番”ガブリエル・バティストゥータ

遡る事22年前──1998年の6月は日本サッカーが初めて世界を知った1カ月だった。 “ジョホールバル”の歓喜で初めてワールドカップの出場権を獲得した日本代表。プロリーグがスタートしてから初めて実感した世界のサッカーは、次元の違うものだった。 当時から攻撃力に秀でていた南米の雄・アルゼンチン代表がワールドカップ初戦の相手。日本はディフェンシブな布陣で臨んだが、一瞬の隙を突かれてやられた。 前半28分、クリアミスを拾われるとパスを繋がれる。現在はアトレティコ・マドリーで指揮を執るディエゴ・シメオネからの縦パスが入ったところで当時の10番・名波浩がアリエル・オルテガのスルーしたボールに対応できないと、これが絶妙なパスとなってしまい、そのままゴールを許してしまった。 日本代表のワールドカップの歴史に最初に名を刻んだ男。それが、アルゼンチン代表のエース、ガブリエル・バティストゥータだった。 <div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">◆日本を沈めた“バティゴール” </div> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/800/img/2020/Batistuta_20201028_3.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:x-small;">Getty Images<hr></div> フィオレンティーナでキャリアの全盛期を過ごしていたバティストゥータは、エースとして日本戦に先発出場。FWクラウディオ・ロペス、FWアリエル・オルテガとともに日本ゴールを脅かしていた。 そして日本に少し疲れが見え始めた28分にゴールを奪う。 名波が対応をミスしたボールを受けたバティストゥータは、飛び出してきたGK川口能活の上を通す冷静沈着なチップキックでゴールを決めた。 ゴール前でのこの落ち着きは、今の日本にも必要な要素。意図しないこぼれ球であったが、しっかりと胸トラップでコントロールし、名波のプレッシャー、川口の飛び出しにも冷静に対処した。まさに、ストライカーらしいゴールだった。 <div id="cws_ad">◆日本を沈めた“バティゴール” も!バティストゥータのゴール集<br/><div style="margin:0 auto; max-width:100%; min-width:300px; " ><div style="position: relative; padding-bottom:56.25%; height: 0; overflow: hidden; "><iframe src="https://embed.dugout.com/v2/?p=eyJrZXkiOiJzTmlYUDBZeSIsInAiOiJ1bHRyYXNvY2NlciIsInBsIjoiIn0=" style="width: 300px; min-width: 100%; position: absolute; top:0; left: 0; height: 100%; overflow: hidden; " width="100%" frameborder="0" allowfullscreen scrolling="no"></iframe></div></div><div style="text-align:center;" id="cws_ad"><hr><a href="https://web.ultra-soccer.jp/link.php?url=https://ryan.onelink.me/C7cD/1fb76a70&c=sega_20201028_1">バティストゥータ、サネッティ、ベロンが<br />「サカつくRTW」に登場!</a><hr></div><div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">◆フィレンツェの英雄</div> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/800/img/2020/Batistuta_20201028_2.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:x-small;">Getty Images<hr></div> 1988年に母国のニューウェルズ・オールドボーイズにてプロデビューを果たしたバティストゥータは、リーベル・プレートを経て加入したボカ・ジュニアーズで才能を一気に開花させる。 ここでの活躍からセリエAの強豪チームの1つであったフィオレンティーナへ加入。ロベルト・バッジョ氏の後釜としての加入だった彼に不信感を抱く者もいたが、デビュー戦となった1991年9月1日のユベントス戦でいきなりゴールを記録。その後も得点を量産し、フィオレンティーナの旗手としてチームを牽引し続けた。 1992-93シーズンにフィオレンティーナがまさかのセリエBに降格した際には、誰もがチームを離れる事を予想したが、バティストゥータはチームに残留。1年でのセリエA復帰に貢献するだけでなく、1994-95シーズンには26ゴールを挙げて得点王も獲得している。 <div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">◆ローマで日本代表戦士と共に悲願のスクデット</div> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/800/img/2020/Batistuta_20201028_5.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:x-small;">Getty Images<hr></div> しかし、フィオレンティーナでは本人の夢であるスクデット獲得には至らず、その夢を果たすため2000-01シーズンにローマへ電撃移籍。シーズン途中にケガでの離脱がありながら20得点を挙げる活躍を見せ、移籍1年目、そしてイタリア10年目にして祈願のスクデットを獲得した。 このシーズンは、前年の途中にペルージャから加入していた元日本代表MF中田英寿もローマに所属。フランチェスコ・トッティとのポジション争いもある中で、中田もスクデット獲得に貢献。1998年のフランスW杯で敵として黒星をつけた男と、2年後にはチームメイトになっていたのだから、中田の凄さも計り知れないところだ。 <div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">◆ストライカーから認められる “ストライカー”</div> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/800/img/2020/Batistuta_20201028_4.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:x-small;">Getty Images<hr></div> その後もローマでプレーしたバティストゥータだが、2002-03シーズン途中、ローマにて出場機会を失いつつあった彼はインテルへレンタル移籍。母国の後輩であり、ケガで離脱していたFWエルナン・クレスポの穴埋めと期待されたが、12試合で2ゴールと期待された結果を残せず。翌シーズンにはカタールのアル・アラビへと完全移籍。2005年3月に現役を退いた。 アルゼンチンに収まらず、1990年代最高のストライカーの1人であったバティストゥータだが、その姿は現代で活躍するストライカーたちの目にも焼き付いている。 ウルグアイが誇る現代屈指のストライカーであるFWルイス・スアレス(アトレティコ・マドリー)は、バティストゥータの同胞フアン・パブロ・ソリンとのインタビューでその強烈な憧れを明かしている。 「子供の頃からアイドルだったということを伝えたい。あなたは私が今まで見たサッカー選手の中で最も偉大な存在だった。子供の頃から真似してみたけど、だからこそ憧れてしまう。あなたは私にとってアイドルです」 さらには、ウルグアイ代表でスアレスの相棒であるFWエディンソン・カバーニ(マンチェスター・ユナイテッド)もバティストゥータに憧れを抱いた1人だ。 「昔から憧れているストライカーを1人選ばなければならないのなら、バティストゥータを選ぶよ。フィオレンティーナの9番を背負った彼は最強だった。9番は特別な数字で得点を挙げる人間を表す。よく似合っていた」 破壊的な右足とヘディングに高い決定力を備え、どこからでもゴールを貪欲に狙う姿勢。最もゴールにこだわり、ゴールを決めてきたバティストゥータこそ、"9番”の象徴であり、“ストライカー”の神髄と呼べる存在だった。 <div style="text-align:left;" id="cws_ad"><hr>日本代表を沈める“バティゴール”を決めた1990年代最高のストライカーの一人であるバティストゥータが、大人気スポーツ育成シミュレーションゲーム『プロサッカークラブをつくろう!ロード・トゥ・ワールド』(サカつくRTW)に登場!<br /><br />さらに日本戦にもフル出場していたMFファン・セバスティアン・ベロンとDFハビエル・サネッティも同時に登場している。『サカつくRTW』で“バティゴール”を観たい方は是非一度チェックしよう。</div><hr> 2020.10.30 15:30 Fri
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【スーパーゴール図鑑/インテル編】まるでメッシ! ブラジルの名サイドバックが覚醒した衝撃スラローム

【得点者プロフィール】 マクスウェル(当時25歳) 国籍:ブラジル 所属:インテル ポジション:DF 身長:176cm クルゼイロでキャリアをスタートさせたマクスウェル氏は、アヤックス、インテル、バルセロナ、パリ・サンジェルマン(PSG)と欧州の列強を渡り歩いた。左サイドバックでの起用が多かったマクスウェルだが、アヤックス時代はウイングも務めており、攻撃性能が高く、攻守に存在感を発揮した。 【試合詳細】 日程:2007年4月1日 大会:セリエA第30節 対戦相手:パルマ 時間:後半11分(0-0) <div id="cws_ad">◆DFマクスウェルの華麗なドリブルゴール<br/><div class="dugout-video dugout-embed-eyJrZXkiOiJaeTlxM0w2ZSIsInAiOiJ1bHRyYXNvY2NlciIsInBsIjoiIn0="></div><script type="text/javascript" src="https://embed.dugout.com/v3.1/ultrasoccer.js"></script></div> 0-0で迎えた56分に、マクスウェルはタッチラインを割ろうかというボールをギリギリのところでキープ。ライン外にいた第4審判とぶつかりそうになりながら、相手DFダミアーノ・フェロネッティの股間を抜きかわす。 マクスウェルは一度味方FWのエルナン・クレスポにボールを預け、そのまま相手ゴール近くまで攻撃参加。クレスポからのリターンを受けると、ボックス内に侵入しながら相手DF3人の間を繊細なタッチで突破し、最後は強烈なシュートをゴールに突き刺した。 このゴールはマクスウェル氏にとって2006-07シーズンの唯一のゴールだったが、その動きはまるでアルゼンチン代表FWリオネル・メッシを彷彿とさせる見事なゴールであった。 2021.01.03 18:00 Sun
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アジア王者アル・アイン、フィオレンティーナからアルゼンチン人MFを獲得

UAEのアル・アインは1日、フィオレンティーナからアルゼンチン人MFジノ・インファンティーノ(21)を1年間のレンタル移籍で獲得したことを発表した。 イタリアにルーツを持ち、アルゼンチンのロサリオで生まれ育ったインファンティーノ。2018年に地元の名門ロサリオ・セントラルの下部組織に加入し、2020年11月に行われたCAバンフィエルドでファーストチームデビュー。以降は公式戦74試合に出場し、6ゴール2アシストの数字を記録していた。 また、U-20アルゼンチン代表では主力を担い、U-20南米選手権やFIFA U-20ワールドカップでも中心選手として活躍。その活躍が評価されて昨夏加入したフィオレンティーナでは公式戦9試合に出場していた。 セントラルMFを主戦場とする左利きのプレーメーカーだが、左右のウイングなど、より攻撃的なポジションでもプレー可能。フィジカル能力に傑出した部分はないものの、テクニックと駆け引きの巧さを生かしたドリブル突破や高精度の左足から繰り出される仕掛けのパスなど、攻撃面の特長に優れる。 同胞のレジェンドでエルナン・クレスポ監督の下、昨季はAFCアジアチャンピオンズリーグ制覇を成し遂げたアル・アインでは中盤の新たなオプションとしての活躍が期待される。 2024.10.02 08:10 Wed
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コウチーニョがアル・ドゥハイルにレンタル移籍…指揮官クレスポにオルンガら在籍

カタールのアル・ドゥハイルは8日、アストン・ビラから元ブラジル代表MFフィリペ・コウチーニョ(31)を1年間のレンタル移籍で獲得したことを発表した。背番号は「9」に決定している。 なお、移籍市場に精通するジャーナリストのファブリツィオ・ロマーノ氏によると、レンタル期間のコウチーニョのサラリーはアル・ドゥハイルが全額支払うことになるという。 リバプールで輝かしい成績を残したコウチーニョだが、2018年1月にバルセロナへ移籍するとキャリアが停滞。余剰戦力扱いとなると、バイエルンへとレンタル移籍。だが、超高額な移籍金がネックとなり、完全移籍が見送られると、バルセロナへのローンバックを経て2022年1月にアストン・ビラへレンタル移籍。その後、2022年7月から完全移籍に切り替わった。 昨シーズンはアストン・ビラでプレミアリーグ20試合に出場し1ゴール。シーズン後半戦はメンバーに選ばれなくなり、ウナイ・エメリ監督の下では余剰戦力扱いとなった。 なお、コウチーニョが加入したアル・ドゥハイルは、元アルゼンチン代表FWのエルナン・クレスポ氏が監督を務めており、柏レイソルで活躍したケルン代表FWマイケル・オルンガや韓国代表DFキム・ムンファン、元サウサンプトンMFイブラヒマ・ディアロといった選手が在籍している。 2023.09.09 06:30 Sat

エルナン・クレスポの移籍履歴

移籍日 移籍元 移籍先 種類
2012年1月1日 パルマ 引退 -
2010年1月29日 ジェノア パルマ 完全移籍
2009年7月16日 インテル ジェノア 完全移籍
2008年7月3日 チェルシー インテル 完全移籍
2008年6月30日 インテル チェルシー レンタル移籍終了
2006年8月7日 チェルシー インテル レンタル移籍
2005年6月30日 ミラン チェルシー レンタル移籍終了
2004年7月15日 チェルシー ミラン レンタル移籍
2003年8月26日 インテル チェルシー 完全移籍
2002年8月31日 ラツィオ インテル 完全移籍
2000年7月11日 パルマ ラツィオ 完全移籍
1996年8月14日 リーベル・プレート パルマ 完全移籍
1994年1月1日 リーベル・プレート 完全移籍

エルナン・クレスポの監督履歴

就任日 退任日 チーム 種類
2023年11月14日 アル・アイン 監督
2022年3月24日 2023年10月11日 アル・ドゥハイル 監督
2021年2月26日 2021年10月13日 サンパウロ 監督
2020年1月27日 2021年2月8日 デフェンサ 監督
2019年1月1日 2019年9月3日 バンフィエルド 監督
2017年7月28日 2018年6月30日 パルマ 副会長
2015年7月1日 2016年3月26日 モデナ 監督
2014年7月13日 2015年6月30日 Parma U19 監督