「ダイヤモンドサッカー」があるから今がある/六川亨の日本サッカーの歩み
2023.08.30 13:00 Wed
「サッカーを愛するみなさん、ごきげんいかがでしょうか」の名台詞で始まる『三菱ダイヤモンドサッカー』のアナウンサー、金子勝彦さんが20日にご逝去された。88歳だった。JFA(日本サッカー協会)の田嶋幸三会長は「サッカーを始めて間もなかった小学生時代、毎週土曜日の夕方は『ダイヤモンドサッカー』を見るために慌てて家に帰っていたことが思い出されます。前後半を2週に分けて放送しており、次の放送をワクワクしながら待っていたことを覚えています」とお悔やみの言葉を述べた。
田嶋会長とは奇しくも同学年で、彼の言葉は同世代の小中学生の気持ちを代弁したと言ってもいい。サッカーがマイナーなスポーツだったからこそ、『三菱ダイヤモンドサッカー』は貴重な情報源であり、解説の岡野俊一郎氏(第9代JFA会長)が紹介するヨーロッパ各国の歴史や文化に憧れを抱いたものだった。
番組がスタートしたのは1968年だった。元日本代表で、当時は三菱化成(現三菱ケミカル)の社長だった篠島英雄氏(後にJFA副会長)が、イングランドリーグのダイジェスト番組『Match of the day』を日本に輸入することを東京12チャンネル(現テレビ東京)に提案。解説に大学(東京大学)の後輩である岡野氏を推薦したのも篠島氏だった。
70年のメキシコW杯でペレの妙技や、若き日のベッケンバウアーをブラウン管越しに見て、ワールドカップの凄さを実感したのも『三菱ダイヤモンドサッカー』だった。74年には西ドイツW杯の決勝戦を初めて衛星生中継する。それまでサッカー専門誌で名前しか知らなかったクライフのプレーを初めて見たときの衝撃はいまでも忘れられない。なにしろキックオフから一度も西ドイツにボールを渡すことなくパスをつないで、クライフのドリブル突破からPKを獲得してしまったのだから。
テレビでもお馴染みとなった柔和な笑顔とソフトな語り口で、サッカーの話を始めたら、何時間でもしゃべり続けられる情熱と知識の持ち主だった金子さん。2012年には日本サッカー殿堂入りを果たしたが、放送界からの選出は金子さんが初めてだった。
再会を果たした岡野さんとは、カタールW杯での日本の活躍を祝しつつ、近年のドイツの不甲斐なさを嘆いているかもしれない。
田嶋会長とは奇しくも同学年で、彼の言葉は同世代の小中学生の気持ちを代弁したと言ってもいい。サッカーがマイナーなスポーツだったからこそ、『三菱ダイヤモンドサッカー』は貴重な情報源であり、解説の岡野俊一郎氏(第9代JFA会長)が紹介するヨーロッパ各国の歴史や文化に憧れを抱いたものだった。
番組がスタートしたのは1968年だった。元日本代表で、当時は三菱化成(現三菱ケミカル)の社長だった篠島英雄氏(後にJFA副会長)が、イングランドリーグのダイジェスト番組『Match of the day』を日本に輸入することを東京12チャンネル(現テレビ東京)に提案。解説に大学(東京大学)の後輩である岡野氏を推薦したのも篠島氏だった。
テレビでもお馴染みとなった柔和な笑顔とソフトな語り口で、サッカーの話を始めたら、何時間でもしゃべり続けられる情熱と知識の持ち主だった金子さん。2012年には日本サッカー殿堂入りを果たしたが、放送界からの選出は金子さんが初めてだった。
川淵三郎JFA相談役も「日本サッカー102年の歴史の中でその発展の礎となった出来事がいくつかありますが、『ダイヤモンドサッカー』がその一つであることは誰もが認めるところでしょう」と故人の功績を称えた。
再会を果たした岡野さんとは、カタールW杯での日本の活躍を祝しつつ、近年のドイツの不甲斐なさを嘆いているかもしれない。
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“サッカーの神様”と呼ばれたジーコ、W杯での輝きと苦しみ
サッカー界に数多く存在してきたスター選手。その中でも、異名を持つ選手はそこまで多くない。 際たるものは"サッカーの王様"と呼ばれたキング・ペレ。ブラジルの英雄であり、ワールドカップ(W杯)で3度も優勝を経験しているレジェンド中のレジェンドだ。そして、そのペレにも例えられ"白いペレ"と呼ばれ、"サッカーの神様"として知られているのが、ジーコだ。 日本でも住友金属、鹿島アントラーズとプレーし、その後に日本代表監督を務めたことからも、知らない人はいないほどの知名度だろう。サッカー界でも指折りの偉大なレジェンドだ。 <span class="paragraph-subtitle">◆実力も世界でトップの1人</span> ジーコは愛称であり、本名は「アルトゥール・アントゥネス・コインブラ」、172cmと大きくない身体でありながら、ゴールやパスでチームに貢献した。 18歳でブラジルの名門・フラメンゴでファーストチームに昇格した。元々は体が小さく、線も細かったために、あまり期待はされていなかったが、その才能を高く評価され、体を鍛えることでチャンスを手にした。 フラメンゴでは12年プレーし4度のリーグ優勝を経験。その後ウディネーゼに移籍しセリエAでプレー。フラメンゴに戻ると、38歳で来日。Jリーグ2年目の1994年に41歳で現役を引退した。 クラブチームでも偉大な成績を残し、Jリーグでは初年度の開幕戦で圧巻のハットトリックを記録。これはJリーグ史上初のハットトリックであり、相手の名古屋グランパスには元イングランド代表FWのギャリー・リネカーがいた。リネカーも大きな注目の的となったが、神様の前ではただの脇役になってしまったのだ。 <span class="paragraph-subtitle">◆ワールドカップでの輝きと挫折</span> そのジーコは、当然ブラジル代表でも輝いた。W杯には1978年、1982年、1986年と3大会連続で出場。残念ながら、ブラジル代表にジュール・リメ杯(W杯のトロフィー)をもたらすことはできなかったが、運のなさもあった。 初めてのW杯となった1978年のアルゼンチン大会。初戦のスウェーデン代表戦では、試合終了間際にCKからゴールを決めたが、取り消しに。シュートを打つ前に笛が吹かれたという、今では考えられない状況で試合が終わることとなった。 ただ、ジーコはあまり出場機会を得られず、さらに大会中に負傷。チームも決勝にたどり着けずに終わっていた。 その4年後の1982年、スペイン大会ではソクラテス、ファルカン、トニーニョ・セレーゾとの「黄金のカルテット」と呼ばれる中盤を形成。巧みなパスワーク、そして圧倒的な攻撃力で優勝候補となっていた。 ジーコも4年前の悔しさを晴らそうと、1次リーグで3ゴールを挙げる活躍。2次リーグもアルゼンチン戦で1ゴール2アシスト、イタリア戦でもアシストを記録したが、チームは敗退。結果は伴わなかったが、この時のブラジル代表のパフォーマンスは世界で称賛され、「ブラジルサッカー史上最も魅了したチーム」とも称えられている。 そして3度目となる1986年のメキシコ大会だったが、今度は大会前にケガ。ヒザを負傷した状態で臨み、チームに貢献できず。"サッカーの神様"に本当の神様は微笑むことはなかった。 <span class="paragraph-subtitle">◆監督としてもW杯では悔しい思い</span> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/1200/img/2022/zico20221124_tw1.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:small;" id="cws_ad" class="desc">Getty Image<hr></div> サッカー王国ブラジルにおいても、数多のスター選手の中でトップクラスの評価を受けるジーコ。選手としてW杯では良い思い出はないが、監督としても苦い思いをした。 現役時代の「黄金のカルテット」は、日本代表でも実現。中田英寿、中村俊輔、小野伸二、稲本潤一が大きな注目を集めた。 しかし、W杯では稲本や小野はベンチに座ることに。日本代表として個々の能力や特徴が突出した選手が多く集まっていたが、逆に一体感をチームに作り上げることができず、1分け2敗で敗退。監督としても、W杯で結果を残せず、クラブチームはその他の代表戦とは異なり、ジーコにとっては苦い思い出となってしまった。 それでも、ジーコが現役時代に見せた華やかなプレー、そしてクラブチームで残した功績は数知れず。日本でもギリギリでJリーグ入りを果たし、オリジナル10となった鹿島に対し、常勝軍団となるべく改革したのはジーコ本人。それは、今でも"ジーコ・スピリット"として、鹿島の中で生き続けている。"サッカーの神様"と呼ばれる選手は、この先に生まれることはないのかも知れない。 <span class="paragraph-title">【動画】現役時代の“神様”ジーコの輝き、圧巻プレー集</span> <span data-other-div="movie"></span> <div class="dugout-video dugout-embed-eyJrZXkiOiJMSTU2Vm9ZNSIsInAiOiJ1bHRyYXNvY2NlciIsInBsIjoiIn0="></div><script type="text/javascript" src="https://embed.dugout.com/v3.1/ultrasoccer.js"></script> ブラジル代表で活躍し、Jリーグでも活躍した"サッカーの神様"ジーコが大人気スポーツ育成シミュレーションゲーム『プロサッカークラブをつくろう!ロード・トゥ・ワールド』(サカつくRTW)に登場! 現役時代に魅せたプレーが『サカつくRTW』でも再現。是非一度チェックしてみよう。 <a href="https://ryan.onelink.me/C7cD/5uev4c53" target="_blank"><div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/1200/img/2022/sega20221124.jpg" style="max-width:100%;"></div></a> 2022.11.24 21:00 Thu4
