山本昌邦

Masakuni YAMAMOTO
ポジション
国籍 日本
生年月日 1958年04月04日(67歳)
利き足
身長 182cm
体重 77kg
ニュース 人気記事 監督データ

山本昌邦のニュース一覧

20日、北中米W杯アジア最終予選を戦った日本。埼玉スタジアム2002でバーレーン代表と対戦し、鎌田大地、久保建英のゴールで2-0で勝利を収め、8大会連続8度目のW杯出場が決定。3試合を残しての決定は史上最速であり、開催国以外では世界最速での出場決定となった。 一夜明けた21日、日本サッカー協会(JFA)は報告会見 2025.03.22 15:30 Sat
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日本代表のキャプテンを務めるMF遠藤航(リバプール)が、2026年北中米ワールドカップ(W杯)出場を決め、改めてW杯優勝に向けての思いを語った。 20日、北中米W杯アジア最終予選を戦った日本。埼玉スタジアム2002でバーレーン代表と対戦し、鎌田大地、久保建英のゴールで2-0で勝利を収め、8大会連続8度目のW杯出場 2025.03.21 23:00 Fri
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21日、日本サッカー協会(JFA)は、日本代表の2026年北中米ワールドカップ(W杯)の出場が決定したことを受け、記者会見を実施した。 20日、北中米W杯アジア最終予選を戦った日本。埼玉スタジアム2002でバーレーン代表と対戦し、鎌田大地、久保建英のゴールで2-0で勝利を収め、8大会連続8度目のW杯出場が決定。3 2025.03.21 20:50 Fri
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日本代表の森保一監督が、ワールドカップ(W杯)出場権獲得が懸かる大事な試合を前に思いを語った。 2026年北中米ワールドカップ(W杯)アジア最終予選を戦う日本。3月20日にバーレーン代表、25日にサウジアラビア代表と埼玉スタジアム2002で対戦する。 日本はバーレーンに勝利すれば、3試合を残しての8大会連続 2025.03.13 21:45 Thu
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日本代表の森保一監督が、自身の“欧州移住”発言について訂正した。 2026年北中米ワールドカップ(W杯)アジア最終予選を戦う日本。3月20日にバーレーン代表、25日にサウジアラビア代表と埼玉スタジアム2002で対戦する。 日本はバーレーンに勝利すれば、3試合を残しての8大会連続8度目のW杯出場が決定。史上最 2025.03.13 21:40 Thu
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ジュビロ磐田のニュース一覧

Jリーグは14日、5月15日の「Jリーグの日」を記念し、開幕当時に多くのファンに親しまれた「Jリーグチップス」を特別に復刻することを発表した。 1993年の開幕とともに人気を博した「Jリーグチップス(選手カード付)」が、32周年を迎えるJリーグに帰ってくることに。復刻版では、J1、J2、J3の全60クラブから各3 2025.05.14 15:55 Wed
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明治安田J2リーグ第15節の10試合が10日、11日に行われた。 【RB大宮vs仙台】2位・3位の上位対決はRB大宮が快勝 前節は首位のジェフユナイテッド千葉を国立競技場で下した3位のRB大宮アルディージャと、藤枝MYFCを下して2位をキープしたベガルタ仙台の一戦。仙台は8試合無敗の中で迎えた一戦だったが 2025.05.11 17:40 Sun
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Jリーグは9日、Jリーグ開幕32周年を記念して、過去のリーグ戦32試合をJリーグ公式YouTube・TikTokチャンネルにて連続ライブ配信することを発表した。 1993年5月15日に開幕したJリーグ。今年で32周年を迎える中、Jリーグの日 特別企画として5月15日(木)の5時15分から「32試合フルマッチライブ 2025.05.09 14:15 Fri
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ジュビロ磐田は9日、ギラヴァンツ北九州に期限付き移籍しているGK杉本光希(23)とのプロA契約締結を発表した。 杉本は磐田のU-18出身で、立正大学時代の2021年にはU-22日本代表も経験したGK。今シーズンから磐田でプロ入りを果たすと、北九州へ期限付き移籍。ここまで明治安田J3リーグで11試合に出場し、通算出 2025.05.09 11:30 Fri
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6日、明治安田J2リーグ第14節の10試合が全国各地で行われた。 【札幌vs磐田】昨季のJ1対決は磐田に軍配 12位の北海道コンサドーレ札幌と9位のジュビロ磐田の対戦。昨季はJ1で戦った両者が上位に向かうために大事な試合に臨んだ。 試合は開始38秒に動く。リカルド・グラッサのロングフィードを裏に 2025.05.06 18:40 Tue
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山本昌邦の人気記事ランキング

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山本昌邦ナショナルチームダイレクターの役割とは?/六川亨の日本サッカー見聞録

JFA(日本サッカー協会)の技術委員会は2月2日に技術委員会を開き、会議後に反町康治技術委員長がズームでの記者会見に応じた。 この会見で反町技術委員長は、新たにナショナルチームダイレクター(NTD)を復活させることを明らかにし、96年アトランタ五輪や02年日韓W杯で代表コーチを務め、04年アテネ五輪では監督としてチームを率いた山本昌邦氏の名前を挙げた。 反町技術委員長によるとNTD復活の経緯は次のようだ。 「私が(技術)委員長に就任したときは(NTDに)関塚さんがいた。コロナで代表の活動が中止や延期になった。サムライブルーだけ活動を続けたが、私が兼務してもやりくりできたが、ウイズコロナになり活動が増えるので、切り離してやらないと活動が希薄になってしまう。アンダーカテゴリーのマッチメイクも各国としっかり話をしたい。本来の形に戻っただけ。コロナが落ち着き、充実度を高めたい」ということだった。 確かに今年は3月にU20アジアカップウズベキスタン2023が、5月にはU17アジアカップ2023バーレーンが予定されていて、6月にはインドネシアで、11月にはペルーでそれぞれのW杯が控えている。さらに9月にはU23アジアカップカタール2024の予選が、12月には同じくカタールでパリ五輪のアジア最終予選が開催される。 森保ジャパンの活動が秋にならないと本格化しないぶん、アンダーカテゴリーの強化に専念するのは当然と言える。このため反町技術委員長も「マッチメイクは私一人で判断したい」としつつ、サムライブルーに帯同するのはNTDで、「私はダイレクターをサポートし、監督の評価とサポートをする」と役割の違いを話した。 さて、このNTDである。JFAにこの役職が誕生したのは2016年と記憶している。原博実技術委員長からバトンを受けた霜田正浩技術委員長(現松本山雅FC監督)だったが、西野朗氏が技術委員長に就任したことで、霜田氏はNTDという肩書きになった。 そして霜田氏は17年暮れ、ヴァイッド・ハリルホジッチ監督には西野技術委員長とコミュニケーションを密にして欲しいとの思いからNTD職を辞した。ところがその後はご存じのように、JFAはハリルホジッチ監督とは契約を解除し、西野技術委員長がサムライブルーの監督に就任。ロシアW杯ではラウンド16でベルギーをあと一歩まで追い詰める「ロストフの悲劇」を演じた。 そしてロシアW杯の2ヶ月ほど前の18年4月、関塚隆氏が西野氏に代わって技術委員長に就任。森保ジャパンが誕生したが、20年3月に関塚氏はNTDとなり、新たに反町氏が技術委員長に就任した。本来なら関塚氏が森保ジャパンを検証する立場にあったが、同氏は20年11月に契約解除をJFAに申し入れてNTDを退任した。 こうして振り返ると、NTDそのものが新設されたポジションであり、過去2人の例からはその役割がはっきりしていない印象が強い。霜田氏が身を引いた理由は前述した通りだが、関塚氏はアジア最終予選の始まる21年を前に辞めている。反町技術委員長も述べていたように、20年はコロナで満足な活動ができなかったことも一因だろうか。 そして山本NTDである。海外での指導経験が豊富で、暑熱対策など特に中東での試合のエキスパートでもある。反町技術委員長が話したように、今後の山本NTDの役割はもっぱら森保監督のサポート役・相談役になるのではないかと推測している。例えて言うなら、磐田の監督に就任した横内昭展氏のような存在だ。 新たにサムライブルーのコーチに就任した名波浩氏と前田遼一氏は森保監督より5~10歳若い。このため経験豊富な山本氏をNTDとしてサポート役につけつつ、“チーム磐田”でバックアップしようとしているのではないだろうか。 2023.02.03 19:30 Fri
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宮本新会長誕生で『会長の決断』とは/六川亨の日本サッカー見聞録

JFA(日本サッカー協会)は3月23日、新会長に「内定」していた宮本恒靖氏を新たな理事による第5回理事会で、互選を経て第15代の会長に正式に就任したことを発表した。 この会見には22日に亀岡でのU-23日本対U-23マリを取材し、その足で24日のJ2リーグ山口対愛媛、25日に小倉でU-23日本対U-23ウクライナの取材を予定していて移動中だったため参加することができなかった。 ところが仕事仲間が当日、宮本会長の会見を取材した折り、机の上に昨年の会長選の際に作成した“マニュフェスト”があったため、余分に確保して親切にも郵送してくれた。 初めて目にしたマニュフェストの冒頭には「会長選の流れを決定づけた」と言われた岡田武史JFA副会長との対談が6ページにわたってあった。 対談の冒頭、岡田副会長は「代表監督選びについては技術委員会で候補者を選出して、最終的には会長と技術委員長を含めた数名で決めるんだけど、俺は最終的には会長がリーダーシップを発揮して決めなくてはいけないと考えている」と断言した。 その理由として「俺も代表監督時代から言ってはきたけど、技術委員長ではなくてやっぱり会長がやるべきことなんだよね」 「自分のサッカー観を持ったうえで決断するわけだから、(会長は)サッカーをしっかりと知っている人のほうが望ましいし、ツネなら言うまでもない」 元日本代表監督で現職の副会長にここまで言われては、会長選に立候補した鈴木徳昭氏の出番はないだろうと思った。鈴木氏は日本代表でもなければ、日産自動車に所属していた時でもJSLでのプレー経験はない。JFAとJリーグ、さらにW杯招致委員会、AFC、東京五輪招致委員会などで実務を担当してきた“裏方”だったからだ。 そして岡田副会長の「代表監督人事は会長」にも納得してしまった。 岡田監督は加茂周前監督からバトンタッチされ、“ジョホールバルの歓喜”で日本を初のW杯へ導いた。しかしフランスでは3連敗を喫したため、岡田監督の続投を求める声は皆無だった。99年にJ2札幌の監督に就任すると、2000年にはJ2優勝とJ1復帰を果たす。さらに03年からは横浜F・マリノスを率いてJ1リーグ連覇を達成するなど黄金時代を築いた。 そんな同氏が再び代表監督に就任したのが07年12月、イビチャ・オシム監督が脳梗塞で倒れたからだった。小野剛JFA技術委員長からの打診だったが、小野はフランスW杯でコーチに抜擢した旧知の仲だけに断ることはできなかっただろう。 こうして臨んだ南アW杯だったが、大会前にちょっとした“事件”があった。JFA会長に犬飼基昭が就任すると、技術委員長の強化担当に原博実を招聘。小野は「育成」の技術委員長と役職が変更になった。それでも小野は南アW杯前のスイス・オーストリアキャンプから岡田ジャパンを陰ながらサポートした。 南アW杯で岡田は日本人監督として初めてグループリーグを突破した。しかしラウンド16でパラグアイにPK戦の末に敗れた。中村俊輔の負傷が長引き、本田圭佑の0トップという大胆な発想も、岡田監督の評価にはつながらなかった。当時のサッカー界に、「監督は4年で代わるもの」という固定観念も少なくなかった。 岡田監督にしてみれば、早稲田大学の後輩であり、Jリーグでは監督としてこれといった実績のない原技術委員長に出処進退を決められるのは納得のできないことだったのではないだろうか。だから監督人事は「技術委員長ではなくてやっぱり会長がやるべきこと」と断言したと思えてならない。 この「会長が決断する」流れは田嶋幸三・前会長に受け継がれた。 JSLでのプレー経験こそあれ、Jリーグと代表での経験はないもののその実務手腕を見込んで原技術委員長が招いた霜田正浩(現松本監督)は、原がJFA専務理事に転出すると技術委員長に就任。しかし初めての会長選で原を破って会長に就任した田嶋は、原を2階級降格の理事にすることでJFAでの立場を失脚させる。 田嶋会長はロシアW杯を前に技術委員会を再編し、西野朗を技術委員長に招聘し、霜田をNTD(ナショナル・チーム・ダイレクター)に降格。霜田も自ら身を引くことになった。そしてW杯直前にはヴァイッド・ハリルホジッチ監督を解任し、西野を代表監督に据える人事を強行した。 22年カタールW杯で森保ジャパンはグループリーグでドイツとスペインを倒すジャイアントキリングを演じながらもベスト16でPK戦により散った。反町技術委員長は、一説には元チリ代表のビエルサ監督の招聘に乗り気だったという。しかし田嶋会長は大会直後にも森保続投を支持。森保監督と反町技術委員長との関係に配慮して、山本昌邦NTDを招聘したとの噂もある。そして反町技術委員長は3月を持って退任する予定だ。 代表監督人事は、最終的な決断は会長が下すのはどこの国も同じだろう。では技術委員会の役割は何なのか。これはこれで、はっきりさせておく必要がある。会長が「こう言ったから右に倣え」では、“忖度”であり技術委員会の存在意義そのものが問われかねない。 影山雅永技術委員長(男子)や佐々木則夫技術委員長(女子)などを理事職から外し、理事会のスリム化と女性理事の登用に積極的な宮本新会長。男女の代表戦の放映権の高騰により地上波で試合が見られないなど厳しい船出が待ち受けているかも知れないが、まずはパリ五輪男子の出場権獲得に万全の態勢で臨んで欲しい。 2024.03.30 11:00 Sat

山本昌邦の監督履歴

就任日 退任日 チーム 種類
2004年11月9日 2006年6月19日 磐田 監督
2004年8月11日 2004年8月31日 日本オリンピック代表 監督
2002年8月1日 2004年8月10日 U-23日本 監督
1998年10月1日 2002年7月31日 日本 アシスタントコーチ
1997年8月1日 1998年9月30日 磐田 アシスタントコーチ
1995年1月1日 1997年7月31日 日本 U20 監督