サッカージャーナリストの偉大な先達者の賀川さんの思い出/六川亨の日本サッカーの歩み
2024.12.10 11:00 Tue
2014年ブラジルW杯レシフェで取材を受ける賀川浩さん[写真=六川亨]
サッカージャーナリストの草分け的存在で、フリーランスの記者の大先達である賀川浩さんが12月5日、神戸市内の病院で逝去された。99歳の高齢で、老衰とみられている。今月29日が誕生日で、百寿を迎えられる前に天寿をまっとうされた。
昔からのサッカーファンなら誰もがその名をサッカー専門誌などで耳にしたことがあるはずだ。サッカーダイジェストに勤務していた時代には、「賀川浩のサッカーセミター」というタイトルで大人のためのサッカー入門講座を1年半(18回。当時は月刊誌だった)と、その後は「サッカーくに・ひと・あゆみ」という連載を35か国(1か国2~4回の紹介)の長期にわたり執筆していただいた。
毎月、決められた締め切り日に郵送で送られてくる400字詰め原稿用紙10枚ほどの原稿をワープロでリライトするのは、編集者として密かな楽しみでもあった。
「サッカーくに・ひと・あゆみ」は、その国のサッカーを紹介するだけではなく、サッカーにまつわる文化的・歴史的・民族学的な背景を紹介する連載だった。かつて「三菱ダイヤモンドサッカー」で解説者の岡野俊一郎さん(元JFA会長)が、なぜこうしたサッカースタイルになったのかを歴史的に紹介していたが、それをさらに掘り下げた連載でもあった。
1924(大正15)年生まれの賀川さんは神戸一中(現神戸高)からサッカーを始め、神戸大でもプレー。所属した大阪サッカークラブでは全国大会優勝、東西対抗戦に出場し、天皇杯では準優勝を2回経験した名選手でもあった。お兄さんである太郎氏は日本代表としてアジア大会や54年スイスW杯のアジア予選にも出場した経歴を持つ。
そして賀川さんは偉ぶるところは一切なく、いつも笑顔で気さくに接していた。
1952年に産経新聞に入社し、サッカーはもちろんのこと、様々なスポーツを取材。W杯の取材は1974年の西ドイツ大会からだったが、賀川さんだけでなく朝日新聞の中条一雄さん(故人)、毎日新聞の荒井義行さん(故人)らも自費で取材した。当時のW杯は、一部のマニアックなサッカーファン以外は見向きもされていなかった。
新聞紙の記者というと、常に批判的な精神も持ち合わせていることが多い。しかし賀川さんは、サッカーに関して批判的な記事を読んだ記憶がない。いつも愛情にあふれた原稿か、日本サッカーが強くなることを願って技術的な指摘をされていた。
親善試合で来日したヨハン・クライフやマリオ・ケンペス、79年に日本で開催されたワールドユース(現U-20W杯)で来日したディエゴ・マラドーナらにインタビューしたが、マラドーナについても「あの子はね」と、まるで父親のように話されていたのが印象的だ。賀川さんにとって、サッカー選手は誰もがかわいい子供のような存在だったのかもしれない。
そんな賀川さんだが、二度ほど死にかけた経験がある。最初は10代のころ、第二次世界大戦で志願して航空隊に入り、特攻隊に選ばれた。戦闘機を背景に、若くてりりしい戦闘服姿のモノクロ写真を見せていただいたことがある。
二度目は1995年1月17日に神戸を中心に発生した阪神淡路大震災だった。地震の一報を自宅で知り、出社後に気にはなったが昼過ぎまで待って賀川さんに電話した。すると元気な声が返ってきたときは安堵の気持ちでいっぱいになった。
神戸の自宅では、マンションの1階と2階を住居にしていて、1階は寝室、2階は仕事場として使っていたそうだ。そして当日は、原稿執筆のため朝方まで2階で過ごしていたとのこと。新聞社の記者に限らず、かつての物書きは昼に取材して、原稿を書くのは夜から明け方にかけてというのが一般的なパターンだった。
フリーとなった賀川さんも、こうしたサイクルで原稿を執筆されていたのだろう。大地震によりマンションの1階は「重みでペシャンコに潰れました。寝ていたらお陀仏だったけど、仕事をしていたので助かりました」と、いつもの柔和な声で、電話越しに当時の状況を冷静に話していた。
そんな賀川さんと、賀川さんの大好きなワインとチーズでサッカー談義ができなくなったことが寂しい限りでならない。改めてご冥福をお祈りします。
文・六川亨
昔からのサッカーファンなら誰もがその名をサッカー専門誌などで耳にしたことがあるはずだ。サッカーダイジェストに勤務していた時代には、「賀川浩のサッカーセミター」というタイトルで大人のためのサッカー入門講座を1年半(18回。当時は月刊誌だった)と、その後は「サッカーくに・ひと・あゆみ」という連載を35か国(1か国2~4回の紹介)の長期にわたり執筆していただいた。
毎月、決められた締め切り日に郵送で送られてくる400字詰め原稿用紙10枚ほどの原稿をワープロでリライトするのは、編集者として密かな楽しみでもあった。
1924(大正15)年生まれの賀川さんは神戸一中(現神戸高)からサッカーを始め、神戸大でもプレー。所属した大阪サッカークラブでは全国大会優勝、東西対抗戦に出場し、天皇杯では準優勝を2回経験した名選手でもあった。お兄さんである太郎氏は日本代表としてアジア大会や54年スイスW杯のアジア予選にも出場した経歴を持つ。
かつて天皇杯の決勝が元日に行われていた頃、記者にとっては関係者と新年の挨拶をかわす場でもあった。そんな決勝の国立競技場に賀川さんが現われると、当時は専務理事だった長沼健一さん(68年メキシコ五輪監督で元JFA会長)やメキシコ五輪銅メダリストのGK横山謙三さんらは、賀川さんのところに足を運び、丁重に新年のご挨拶をしていた。サッカー界の大先輩だけに、リスペクトする気持ちがあったのは言うまでもない。
そして賀川さんは偉ぶるところは一切なく、いつも笑顔で気さくに接していた。
1952年に産経新聞に入社し、サッカーはもちろんのこと、様々なスポーツを取材。W杯の取材は1974年の西ドイツ大会からだったが、賀川さんだけでなく朝日新聞の中条一雄さん(故人)、毎日新聞の荒井義行さん(故人)らも自費で取材した。当時のW杯は、一部のマニアックなサッカーファン以外は見向きもされていなかった。
新聞紙の記者というと、常に批判的な精神も持ち合わせていることが多い。しかし賀川さんは、サッカーに関して批判的な記事を読んだ記憶がない。いつも愛情にあふれた原稿か、日本サッカーが強くなることを願って技術的な指摘をされていた。
親善試合で来日したヨハン・クライフやマリオ・ケンペス、79年に日本で開催されたワールドユース(現U-20W杯)で来日したディエゴ・マラドーナらにインタビューしたが、マラドーナについても「あの子はね」と、まるで父親のように話されていたのが印象的だ。賀川さんにとって、サッカー選手は誰もがかわいい子供のような存在だったのかもしれない。
そんな賀川さんだが、二度ほど死にかけた経験がある。最初は10代のころ、第二次世界大戦で志願して航空隊に入り、特攻隊に選ばれた。戦闘機を背景に、若くてりりしい戦闘服姿のモノクロ写真を見せていただいたことがある。
二度目は1995年1月17日に神戸を中心に発生した阪神淡路大震災だった。地震の一報を自宅で知り、出社後に気にはなったが昼過ぎまで待って賀川さんに電話した。すると元気な声が返ってきたときは安堵の気持ちでいっぱいになった。
神戸の自宅では、マンションの1階と2階を住居にしていて、1階は寝室、2階は仕事場として使っていたそうだ。そして当日は、原稿執筆のため朝方まで2階で過ごしていたとのこと。新聞社の記者に限らず、かつての物書きは昼に取材して、原稿を書くのは夜から明け方にかけてというのが一般的なパターンだった。
フリーとなった賀川さんも、こうしたサイクルで原稿を執筆されていたのだろう。大地震によりマンションの1階は「重みでペシャンコに潰れました。寝ていたらお陀仏だったけど、仕事をしていたので助かりました」と、いつもの柔和な声で、電話越しに当時の状況を冷静に話していた。
そんな賀川さんと、賀川さんの大好きなワインとチーズでサッカー談義ができなくなったことが寂しい限りでならない。改めてご冥福をお祈りします。
文・六川亨
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完封勝利の裏に「もっとやれた」。早川友基、“第3GK”からW杯へのロードマップ
ガーナ戦のピッチに立った鹿島アントラーズの守護神・早川友基。正GK鈴木彩艶の負傷、第2GK大迫敬介の不在の中で巡ってきたチャンスを、無失点という最高の形で終えた。だが、試合後のミックスゾーンに現れた早川の表情に、満足の色はなかった。代表2戦目にして、“守るだけ”のGKでは終わらない次のステージを見据えていた。 ■ピッチで感じた想像以上の「圧」 先発出場を告げられたのは試合の2日前だったという。 「今まで培ってきたものをピッチで出すだけだと思っていました」 鹿島で見せる特徴は、セービングだけではない。足元の技術と配球判断、そして試合を読む力だ。しかし、この日感じたのは、想像以上の「圧」だった。 「トラップしてからの駆け引きとか、出しどころを消される感覚。持ち運ぼうとした瞬間にプレッシャーがかかる。そのスピード感と背後を狙う走力はすごかった」 それでも、背後の対応では冷静だった。 「足の速い選手が背後を狙ってくると聞いていたので、試合を通じてカバーを意識できました」 早川は身体能力で上回る相手にも、読みとポジショニングで対抗した。後半も集中を切らさず、チームを完封へ導いた。 ■“第3GK”が描く、W杯への道筋 試合後のコメントには、自己評価の厳しさがにじむ。 「欲を言えば、もっとやれた。パスの質、長短の判断、その精度はまだ上げられる」 無失点でも課題を口にするのは、すでに次を見ているからだ。 「みんなとも話したんですけど、代表の試合にでてこそ得られる経験値があるなと。僕自身も今までにない緊張感はありました」 そう語る早川の目には、明確なターゲットがある。 「目指しているのはワールドカップ。そこがぶれることはないです」 ミックスゾーンでは何度も“成長”という言葉を繰り返した。 「こういう経験ができたのは素晴らしいと思いますし、しっかり振り返って、また次の試合につなげていきたい」 無失点という結果の裏にあるのは、静かな決意だ。“第3GK”から、“守護神”へ。そのロードマップは、もう動き始めている。 取材・文=北健一郎 2025.11.18 15:30 Tue3
大怪我から復活した“最終ラインの司令塔”。33歳・谷口彰悟が示したDFリーダーの価値
ガーナ代表戦、ボリビア代表戦と続いた11月シリーズを、日本代表は2試合連続の無失点で締めくくった。その中心にいたのが、フィールドプレーヤーで唯一2試合フル出場を果たした33歳――谷口彰悟だ。2024年11月にアキレス腱を断裂。大怪我から戻ってきた男は、再び日本代表の最終ラインで存在感を放っている。2026年北中米ワールドカップ、その真ん中を任されるのは彼なのかもしれない。 ■1年ぶりの復帰で見せた安定感 ボリビア戦後、ミックスゾーンに姿を見せたDF谷口彰悟は、どこか晴れやかな表情だった。 チームは11月シリーズを2試合連続の完封で終え、自身はフィールドプレーヤーで唯一の2試合フル出場。数字だけを見れば、十分すぎる結果だ。 「まずはゼロで終われたこと。苦しい時間もありましたけど、こういう難しいゲームを勝ち切るのは本大会でもあり得る。勝って終われたのは非常に良かったと思います」 言葉の端々からは「代表に帰ってこられた」という安堵よりも、すでに次を見据えている姿勢のほうが強く伝わってくる。 10月のブラジル戦で約1年ぶりに復帰し、歴史的勝利に貢献した。そこからクラブでコンスタントに試合に出続け、11月の代表活動を迎えると、再び最終ラインの中心に収まった。 「3枚の真ん中はめちゃくちゃ大事なポジション。簡単には譲りたくないですし、リーダーシップを取っていかないといけない」 両脇の選手が変わっても、谷口を中心としたDFラインの安定感は変わらない。そこには、ベテランらしい“気遣い”がある。 「気遣い、してなさそうに見えて結構してるんですよ(笑)。特徴は理解してますし、いい形で受けてもらうためのパスのタイミングとか、右か左かの判断は真ん中だからこそ見える。できるだけ“ハメパス”にならないようにというのはこだわってます」 周りの選手が思い切って前に出られるように、背後のカバーは責任を持って引き受ける。 「広範囲は僕がカバーして、目の前の選手にはバトルしてもらう。後ろに保障があると前に行きやすいので」 谷口がいると、両サイドのDFが伸び伸びとプレーできる――。それこそがクリーンシートでの2連勝につながったのは間違いない。 ■33歳はアップデートし続ける ただし、全てがよかったわけではない。むしろ、完封だからこそ課題が際立つと語る。 「相手のプレッシャーもあって、打開しきれないところや、ショートカウンターを食らったり、イージーなミスもあった。次のレベルでは致命的になるので減らしていかないといけない」 象徴的だったのが、MF鎌田大地との縦パスのリターンが相手に狙われて、シュートを放たれた場面だ。 「日本の選手が(最終ラインに)落ちてきた時に、そのまま食いついてくる相手だったので、そこをもっと利用しながらスペースを見つけられれば。できた時は前に運べていたので、意図的にやれたら良かった」 ボランチの組み合わせが変わる中で、ラインのスライドや立ち位置の整理にも改善点はある。 「ワタル(遠藤航)が落ちるのか、自分たちで4枚っぽく回すのかはやりながらのところが多かった。前半の中で修正できればもっとスムーズにやれた。こういうゲームはワールドカップでもあり得るので、焦れずにゼロで進めることは大事」 自身の年齢について問われると、照れ笑いを浮かべながらも自信は揺らがない。 「年取ったのに(笑)。でも、フィジカルが衰えてても感じさせないメンタリティでやれている。まだまだ伸びている自信はあります。おじさん、まだまだ頑張ります」 アキレス腱断裂という選手生命を揺るがす大怪我から1年。本来ならキャリアの下降線に入っていても不思議ではない33歳が今、代表で一段階上の存在感を放っている。 「自分が出るからにはゼロで終わらせてチームを勝たせる。それは毎試合こだわってます」 2026年――日本代表の最終ラインを束ねるのは誰か。「谷口彰悟」という答えは、確かに現実味を帯び始めている。 取材・文=北健一郎 2025.11.19 01:35 Wed4
菅原由勢はアピールに“失敗”したのか?右のスペシャリストが45分で表現したもの
キックオフ直後から、気合という燃料を積んでいることは明らかだった。このチャンスを、モノにしてやるんだ。攻守両面でのアグレッシブなプレーから、この試合に懸ける思いは全身から溢れ出ていた。タフに右サイドを守りながら、同学年のMF久保建英と一緒に決定機も演出した。サイドバックを本職とする選手が生み出すハーモニーが顔を覗かせていたからこそ、後半開始のピッチに背番号2の姿がなかったことに驚き、ガッカリしてしまった。 誰よりも落胆していたのは本人だろう。もっとプレーしたかった。まだまだアピールしたかった。あの時、ああいう選択をしていれば──。後悔に似た気持ちは、自分の中を隅々まで探せばキリがないかもしれない。 それでも、試合後のミックスゾーンで悔しさに引っ張られている様子はあまり感じられなかった。下を向いて言葉を探す場面も少なくはなかったが、要所要所で顔を上げ、成長や向上を誓っていた。その瞳は真っ直ぐで、力強いものだった。 DF菅原由勢が日本代表の先発に名を連ねたのは、約8カ月ぶりのことだった。前回は2025年3月25日に行われたW杯アジア最終予選の第8節サウジアラビア代表戦まで遡る。その後は代表の常連とは言えない時期を過ごした。9月の北米遠征では招集されるも、プレータイムはアメリカ代表戦で後半から途中出場した18分のみ。ブラジル代表を撃破した10月シリーズでは招集されなかった。今回の11月シリーズでは、初戦のガーナ代表戦で出場機会を得るも、68分からのプレーであり、すでに2-0と勝負が決まっている状況だった。 失意のベスト8に終わったAFCアジアカップ2024以降、システムが4バックから3バックに変更した影響もあり、明らかに出場機会を減らしていた。カタールW杯後の第二次森保ジャパン発足時、右サイドバックという本職のポジション自体がなくなることを想像していただろうか。敵地でのドイツ代表撃破にもアシストで貢献していただけに、、まさか「当落線上」という言葉が付き纏うことになるとは……。 生き物のように変化が目まぐるしい代表チームで、もう一度、自分の居場所を確保するために──。5万人以上が駆けつけた国立競技場でのボリビア代表戦、キックオフの笛がピッチ内にいる自身の心臓を震わせた。 ■先制点を生んだ堅守 開始直後に左サイドでボールの奪い合いが発生する中、右サイドのタッチライン沿いに立ち、両手を広げてボールを呼び込む。GK早川友基からのハイボールに対し、フルパワーで落下地点に向かって走る。目の前の相手に構うことなくジャンピングヘッドを狙う。わずかにボールに当たらなかったが、最後尾に向かって親指を立てた。 意気軒昂と右サイドを走ると、開始早々の4分のことだった。 FW小川航基からのパスを目の前で相手選手にカットされたが、すぐさま右足を踏ん張り、一気に寄せた。持ち上がりを阻むだけでなく、左半身側からの密着マークで中央へ誘導。その先にいたMF遠藤航がボールを回収した。そしてMF久保建英に縦パスが入り、MF鎌田大地の先制点が生まれた。 「相手がけっこう縦に蹴ってくるという分析があったので、縦の選択肢を切った。そうなった時、中にもドリブルするという癖もあったので。誘いながら、うまく来てくれて、(遠藤)航くんとの距離感も良かったので、良い形で守備はできたのかなと思います」 電光石火の先制点を生み出す舞台を整えた狙い通りの守備は、横のスライドを駆使し味方と連携して守るサイドバック本職の選手らしいプレーでもあった。 「まずは個人で勝っていくところが大前提ですけど、ハメに行く中では素晴らしい相手だった。組織で守ることも同時にやっていかなきゃいけない中では、良い距離感でやれたと思います」 5バック時のウイングバックは、縦スライドを駆使して目の前の相手の突破を阻むという個人での守備力を求められる場面が多い。しかし、4バック時のサイドバック経験が豊富な菅原だからこそ、攻撃に出ようとしたところからの守備対応にもかかわらず、臨機応変に賢く守ることができた。 ■クロス光るも、前半45分で無念の交代 幸先よくチームに貢献した後も、積極的なプレーを続けた。切磋琢磨し共闘してきた同世代の久保と一緒に、プレッシャーを掛けていく。苦し紛れのロングボールを蹴らせた時には、テクニカルエリアの森保監督も拍手を送っていた。15分には縦パスを受ける相手選手のトラップ際にガツンとアプローチ。ファウルと判定されたが、指揮官の目の前でファイトした。 「サイドバックの選手なので、そこでやられていたら、自分の存在価値はないと思っていたので。そこはしっかりやろうとは思ってました」 そして、23分には真骨頂を発揮する。同学年のDF瀬古歩夢からのサイドチェンジに反応すると、久保の落としを収め、右サイドのスペースに抜け出す久保へ絶妙なスルーパスを出す。そのまま久保を猛然と追いかけ、外側から追い越してリターンパスを受け、ワンタッチでクロス。ニアに飛び込んだ小川の頭にピタリと届けた。惜しくもシュートはクロスバーを叩いたが、座席から身体が浮くような決定機を作り出した。 しかし、その2分後には後ろから相手選手を倒してイエローカードを提示された。「ヨーロッパの試合でもそうだし、ああいう部分でカウンターを防ぐとか、前に運ばれて相手が勢いづくというのを考えたら、止める判断をして、僕は今良かったと思っています」と口にしていたが、その直前のプレスを掻い潜られた場面では背中と正面に相手選手が1人ずついる中で後ろのサイドハーフを捨てて前に出る選択をしていた。一瞬の迷いやプレスのオーガナイズの部分で後手に周り、ワンタッチで剥がされ、ボールは一度捨てたサイドハーフの選手のもとへ。プレスバックして追いかけたのは集中していたが、自分のけつを自分で拭くことは回避できたかもしれない。 警告が理由だったかどうかは断言できないものの、前半45分のみで交代となった理由に結びつけることもできてしまう。本大会では勝利のために汚れ仕事を請け負わなければならない状況があるかもしれないが、少しでも多くアピールしたい現状において適切だったとは言い切れない。 「(交代の理由は)監督に聞いてみないとわからない。もちろん試合に勝つためにオーガナイズしていかなきゃいけないというところで、いろいろな理由はあると思いますけど、自分がもっと良いパフォーマンスをしていたらもう少し出れたなというのはあるので、まずはしっかりと試合を見て振り返って反省したいなと思います」と冷静に自分を見つめていた。 「クロスまで行けてるシーンもありましたし、あんまりネガティブじゃないかなと思っています」と45分を振り返ったように、自分のプレーを出せていた感覚はあったはず。その中で、ハーフタイムに唯一の交代。不完全燃焼という言葉がよぎるし、後半にもっとギアを上げてアピールしたかったに違いない。立場を想像すれば、唇を噛みちぎりたくなってしまう。 ■自問自答の連続で、本大会へ しかし、菅原はヤワではない。試合後は同ポジションのライバルであるMF堂安律と抱擁し、健闘を称えていた。その姿に負の感情はないように見えた。W杯本大会まで残すところ5カ月。弱音を吐き、後ろを振り返る時間はない。自分のすべきことは明確だから。 「最終予選からチームとしての形を試してやってきて、素晴らしい結果を手にしているし、その中で自分の立ち位置はわかっている部分もある。ナーバスにならずに、自分の良さを見失わずに、しっかりとチームでやることが大事。自分を良くするために毎日、謙虚に、小さいことも積み重ねながらやっていくことが大事だと思います。代表が、代表がという見方じゃなくて、チームがあっての代表というのは間違いない。今は僕自身もチームで信頼して使ってもらっている部分があるし、自分がやれている部分も課題の部分も試合に出ながら学べている。チームで試合に出ること、出た時にしっかりと自分の存在価値をチームでも見せていくことが代表につながってくると思います。とにかく、自分自身が成長して良い選手になれば、自ずと代表での立ち位置もチームでの立ち位置も変わってくるので、毎日毎日自分と向き合って、自分に負けずにやっていくことが大事だなと思います」 強みのクロスで決定機を作ったという事実に驕るつもりもない。求めているのは、ハッキリとした結果だから。 「入る時もあれば入らない時もあるし、あれを続けていくことが大事だと思う。紙一重のところを合わせていく作業は、自分自身、チームでもやらなきゃいけないし、もっともっとプレーの精度や質は上げられる部分があると思うので。ただ、結果が出る出ないというのは、その時の運もあるんでね。しっかりと日頃から自分を見つめ直して続けていくことが大事だと思います」 右ウイングバックは堂安、伊東純也に加え、望月ヘンリー海輝も成長中で、鈴木淳之介もプレー可能だろう。ライバルとのメンバー争いは熾烈を極めている。もう一度チャンスを得るためには、自問自答を繰り返しながらブンデスリーガの舞台を戦っていくしかない。その先にW杯本大会のピッチがあると信じて。茨の道であっても、菅原由勢は力強く歩み続ける。 取材・文=難波拓未 2025.11.20 21:00 Thu5
