サッカージャーナリストの偉大な先達者の賀川さんの思い出/六川亨の日本サッカーの歩み
2024.12.10 11:00 Tue
2014年ブラジルW杯レシフェで取材を受ける賀川浩さん[写真=六川亨]
サッカージャーナリストの草分け的存在で、フリーランスの記者の大先達である賀川浩さんが12月5日、神戸市内の病院で逝去された。99歳の高齢で、老衰とみられている。今月29日が誕生日で、百寿を迎えられる前に天寿をまっとうされた。
昔からのサッカーファンなら誰もがその名をサッカー専門誌などで耳にしたことがあるはずだ。サッカーダイジェストに勤務していた時代には、「賀川浩のサッカーセミター」というタイトルで大人のためのサッカー入門講座を1年半(18回。当時は月刊誌だった)と、その後は「サッカーくに・ひと・あゆみ」という連載を35か国(1か国2~4回の紹介)の長期にわたり執筆していただいた。
毎月、決められた締め切り日に郵送で送られてくる400字詰め原稿用紙10枚ほどの原稿をワープロでリライトするのは、編集者として密かな楽しみでもあった。
「サッカーくに・ひと・あゆみ」は、その国のサッカーを紹介するだけではなく、サッカーにまつわる文化的・歴史的・民族学的な背景を紹介する連載だった。かつて「三菱ダイヤモンドサッカー」で解説者の岡野俊一郎さん(元JFA会長)が、なぜこうしたサッカースタイルになったのかを歴史的に紹介していたが、それをさらに掘り下げた連載でもあった。
1924(大正15)年生まれの賀川さんは神戸一中(現神戸高)からサッカーを始め、神戸大でもプレー。所属した大阪サッカークラブでは全国大会優勝、東西対抗戦に出場し、天皇杯では準優勝を2回経験した名選手でもあった。お兄さんである太郎氏は日本代表としてアジア大会や54年スイスW杯のアジア予選にも出場した経歴を持つ。
そして賀川さんは偉ぶるところは一切なく、いつも笑顔で気さくに接していた。
1952年に産経新聞に入社し、サッカーはもちろんのこと、様々なスポーツを取材。W杯の取材は1974年の西ドイツ大会からだったが、賀川さんだけでなく朝日新聞の中条一雄さん(故人)、毎日新聞の荒井義行さん(故人)らも自費で取材した。当時のW杯は、一部のマニアックなサッカーファン以外は見向きもされていなかった。
新聞紙の記者というと、常に批判的な精神も持ち合わせていることが多い。しかし賀川さんは、サッカーに関して批判的な記事を読んだ記憶がない。いつも愛情にあふれた原稿か、日本サッカーが強くなることを願って技術的な指摘をされていた。
親善試合で来日したヨハン・クライフやマリオ・ケンペス、79年に日本で開催されたワールドユース(現U-20W杯)で来日したディエゴ・マラドーナらにインタビューしたが、マラドーナについても「あの子はね」と、まるで父親のように話されていたのが印象的だ。賀川さんにとって、サッカー選手は誰もがかわいい子供のような存在だったのかもしれない。
そんな賀川さんだが、二度ほど死にかけた経験がある。最初は10代のころ、第二次世界大戦で志願して航空隊に入り、特攻隊に選ばれた。戦闘機を背景に、若くてりりしい戦闘服姿のモノクロ写真を見せていただいたことがある。
二度目は1995年1月17日に神戸を中心に発生した阪神淡路大震災だった。地震の一報を自宅で知り、出社後に気にはなったが昼過ぎまで待って賀川さんに電話した。すると元気な声が返ってきたときは安堵の気持ちでいっぱいになった。
神戸の自宅では、マンションの1階と2階を住居にしていて、1階は寝室、2階は仕事場として使っていたそうだ。そして当日は、原稿執筆のため朝方まで2階で過ごしていたとのこと。新聞社の記者に限らず、かつての物書きは昼に取材して、原稿を書くのは夜から明け方にかけてというのが一般的なパターンだった。
フリーとなった賀川さんも、こうしたサイクルで原稿を執筆されていたのだろう。大地震によりマンションの1階は「重みでペシャンコに潰れました。寝ていたらお陀仏だったけど、仕事をしていたので助かりました」と、いつもの柔和な声で、電話越しに当時の状況を冷静に話していた。
そんな賀川さんと、賀川さんの大好きなワインとチーズでサッカー談義ができなくなったことが寂しい限りでならない。改めてご冥福をお祈りします。
文・六川亨
昔からのサッカーファンなら誰もがその名をサッカー専門誌などで耳にしたことがあるはずだ。サッカーダイジェストに勤務していた時代には、「賀川浩のサッカーセミター」というタイトルで大人のためのサッカー入門講座を1年半(18回。当時は月刊誌だった)と、その後は「サッカーくに・ひと・あゆみ」という連載を35か国(1か国2~4回の紹介)の長期にわたり執筆していただいた。
毎月、決められた締め切り日に郵送で送られてくる400字詰め原稿用紙10枚ほどの原稿をワープロでリライトするのは、編集者として密かな楽しみでもあった。
1924(大正15)年生まれの賀川さんは神戸一中(現神戸高)からサッカーを始め、神戸大でもプレー。所属した大阪サッカークラブでは全国大会優勝、東西対抗戦に出場し、天皇杯では準優勝を2回経験した名選手でもあった。お兄さんである太郎氏は日本代表としてアジア大会や54年スイスW杯のアジア予選にも出場した経歴を持つ。
かつて天皇杯の決勝が元日に行われていた頃、記者にとっては関係者と新年の挨拶をかわす場でもあった。そんな決勝の国立競技場に賀川さんが現われると、当時は専務理事だった長沼健一さん(68年メキシコ五輪監督で元JFA会長)やメキシコ五輪銅メダリストのGK横山謙三さんらは、賀川さんのところに足を運び、丁重に新年のご挨拶をしていた。サッカー界の大先輩だけに、リスペクトする気持ちがあったのは言うまでもない。
そして賀川さんは偉ぶるところは一切なく、いつも笑顔で気さくに接していた。
1952年に産経新聞に入社し、サッカーはもちろんのこと、様々なスポーツを取材。W杯の取材は1974年の西ドイツ大会からだったが、賀川さんだけでなく朝日新聞の中条一雄さん(故人)、毎日新聞の荒井義行さん(故人)らも自費で取材した。当時のW杯は、一部のマニアックなサッカーファン以外は見向きもされていなかった。
新聞紙の記者というと、常に批判的な精神も持ち合わせていることが多い。しかし賀川さんは、サッカーに関して批判的な記事を読んだ記憶がない。いつも愛情にあふれた原稿か、日本サッカーが強くなることを願って技術的な指摘をされていた。
親善試合で来日したヨハン・クライフやマリオ・ケンペス、79年に日本で開催されたワールドユース(現U-20W杯)で来日したディエゴ・マラドーナらにインタビューしたが、マラドーナについても「あの子はね」と、まるで父親のように話されていたのが印象的だ。賀川さんにとって、サッカー選手は誰もがかわいい子供のような存在だったのかもしれない。
そんな賀川さんだが、二度ほど死にかけた経験がある。最初は10代のころ、第二次世界大戦で志願して航空隊に入り、特攻隊に選ばれた。戦闘機を背景に、若くてりりしい戦闘服姿のモノクロ写真を見せていただいたことがある。
二度目は1995年1月17日に神戸を中心に発生した阪神淡路大震災だった。地震の一報を自宅で知り、出社後に気にはなったが昼過ぎまで待って賀川さんに電話した。すると元気な声が返ってきたときは安堵の気持ちでいっぱいになった。
神戸の自宅では、マンションの1階と2階を住居にしていて、1階は寝室、2階は仕事場として使っていたそうだ。そして当日は、原稿執筆のため朝方まで2階で過ごしていたとのこと。新聞社の記者に限らず、かつての物書きは昼に取材して、原稿を書くのは夜から明け方にかけてというのが一般的なパターンだった。
フリーとなった賀川さんも、こうしたサイクルで原稿を執筆されていたのだろう。大地震によりマンションの1階は「重みでペシャンコに潰れました。寝ていたらお陀仏だったけど、仕事をしていたので助かりました」と、いつもの柔和な声で、電話越しに当時の状況を冷静に話していた。
そんな賀川さんと、賀川さんの大好きなワインとチーズでサッカー談義ができなくなったことが寂しい限りでならない。改めてご冥福をお祈りします。
文・六川亨
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J3からJ2、そしてJ1へ。段階を踏むように成長してきたDF安藤智哉は、2025年の日本代表活動でついに日の丸を背負った。だが、そこでは手応えと同じだけ、国際基準の厳しさも突きつけられた。残念ながら出番を与えられなかった11月18日のボリビア代表戦後、ミックスゾーンを通った安藤に声をかけると「もっと日常を変えないとこの先はない」と課題を口にする。 それでも怪我人が続出する最終ラインにおいて、190cmの高さ、3バックのどこでも対応できる柔軟性は確かな武器。ワールドカップを見据えて重要なオプションになり得るだろう。そんな遅咲きのセンターバックは、日の丸を背負って改めて何を感じたのか。 ■国際基準の前で実感した“成長の必然性”と向き合う課題 年内の代表活動を終えた安藤の最初の言葉は、喜びではなく厳しい自己評価だった。 「もっと日常を変えていかないとこの先はない。自分との戦いですし、これまで以上にもっと成長が必要。アビスパでの活躍が大事になってくる」 国内組で構成されたメンバーで臨んだ7月のEAFF E-1サッカー選手権2025で、日本代表デビューを飾り、2試合に出場して2大会連続3度目となる優勝に貢献した。怪我による辞退となったが、海外組も交えた9月のアメリカ遠征のメンバーにも選出されるなど一気に評価を高めた。 その後も継続してメンバー入りすると、11月14日のガーナ代表戦、75分からピッチに立つ。限られた出場時間の中で手応えもあった。「高さでは負けない」。これは安藤が国内外の相手に通用する確信として得たものだ。一方で、同時に浮き彫りになったのは“1対1の局面”における国際水準とのギャップだった。 「剥がされないこと、中を切ること、奪った後のパスを前につけるところ。ついていく、一歩寄せる、寄せた後のドリブルへの対応……まだまだ挙げればキリがない」 言葉のひとつひとつに、試合に出られなかったもどかしさと、より高い基準に近づく必要性が滲む。 「試合に出られないからというのもあるけど、一番はもっとレベルアップしたいという思い。海外組とは差がある」 E-1でのデビュー、そしてフル代表での招集。階段は確かに上った。しかし、その先を望むなら、日常の基準ごと変えなくてはいけない。そう気づかせた1年だった。 「自分次第で変われる、自分次第で掴めるというのをこの1年で感じた。まだまだ上に行きたい思いが強くなった」 国際舞台で痛感した課題は、安藤の中で確かな危機感へと変わっている。 ■求められた役割を“こなしてきた”強み──代表に必要な高さと柔軟性 では、課題がある中でなぜ安藤は代表で呼ばれ続けるのか──。それは、彼がキャリアを通して示してきた“適応力”に理由がある。 J3今治ではフィジカルと空中戦の強さを磨き、J2大分では守備構造の理解と3バックの経験を積んだ。福岡ではJ1の強度に適応しつつ、3バックの左だけでなく中央でもプレー。求められるタスクを遂行し、役割が変わっても結果を出してきた。 「アビスパでは3バックのどこでも使ってもらっていますが、それは代表でも生きている。どこがやりやすいとかはない。出られればどこでも。その立場ではない」 この柔軟性は、今の代表にとって大きな価値を持つ。 森保ジャパンはDF冨安健洋(無所属)、DF伊藤洋輝(バイエルン/ドイツ)、DF町田浩樹(ホッフェンハイム/ドイツ)、DF高井幸大(トッテナム/イングランド)ら、コアメンバーに負傷者が続き、試合ごとに構造や最終ラインの組み合わせが変わる状況が続いた。ワールドカップを見据えても、彼らが万全の状態で臨めるかは未知数だ。そこで、190cmの高さを持ちながら、右・中央・左のすべてをこなせるCBは希少だ。 さらに、安藤自身も日本代表での役割を「クローザー」として自覚している。 「スタメンの機会はなかったが、逆にクローズの部分でチョイスされるように。安藤が入ったら守り切る安心感を持たせたい」 リードを守り切る終盤、セットプレーの局面、相手のロングボールが増える時間帯。日本代表の“最終ライン”を支えるピースとして、安藤の役割は明確だ。 そして、本人はその立場に甘んじるつもりはない。 「これからの自分の取り組み次第。福岡に帰ってアピールしていくだけ」 高さ、適応力、実直な成長曲線。代表で求められる要素と、安藤が積み上げてきたキャリアは確かに接続している。 取材・文=川嶋正隆 2025.11.28 19:00 Fri3
なぜ18歳・佐藤龍之介はファジアーノ岡山でブレイクできたのか? E-1選手権で“内田篤人超え”が期待される若き才能の適応力とブレないメンタリティ
突出した適応力だ。今シーズンにFC東京からファジアーノ岡山に育成型期限付き移籍で加入した佐藤龍之介は、新たな環境に素早く順応し、自身の力を遺憾なく発揮している。 久保建英と同じ16歳でFC東京とプロ契約を結んだMFは、高卒1年目となるシーズンに武者修行を決断。約18年を過ごした東京を飛び出し、約660km離れた岡山に移り住んだ。 未到の地で単身生活をしながら、プロサッカー選手として結果を出すことを目指す。私生活をはじめ不慣れなことも多く、決して簡単ではない。さらに、主に起用されるのは、サッカーキャリアで「初めて」のウイングバックである。まさに、初めて尽くしだ。しかし、ピッチ上では圧倒的なパフォーマンスを発揮している。 第23節終了時点では、17試合に出場してチーム最多の4ゴールを記録。第19節・湘南ベルマーレ戦では、先制点を奪うだけでなく、両チームトップの走行距離12.1kmとスプリント18回を叩き出した。右WBで攻守にハードワークしながら、74分からはシャドーに移り、タイムアップまでプレー。試合後に木山隆之監督は「1番ゴールを取る可能性がある人をピッチに残すのは、勝つのであれば当然かなと思います」とフル出場の意図を明かしており、その信頼は絶大だ。 地元の西東京市と岡山の雰囲気が「似ていた」ことも佐藤の背中を押したが、適応を可能にしている大きな要素は、素直さと向上心のように思う。 開幕前のキャンプ時にWBで起用された時は、「(WBは)オプションになればいいかな。メインはシャドーになると思う」と受け止めていた。だが、監督からのオーダーに応えながら、パスやドリブルで密集地を打開したりラストパスでチャンスを作ったりといった自分の良さを発揮することを両立させ、“WB・佐藤龍之介”は、完全に板についた。その結果、「18歳の今は自分のポジションを『ここだ』と決める段階でもないと思う。『トップ下やシャドーをやれていない』というネガティブな考えは、本当にゼロなんです。『WBで使ってみたい』と思わせるような特徴を自分は少なからず持っていると思うので、実際に使ってくれている今はその証明にもなっています」と、岡山で発見した自身の新たな可能性と向き合い、意識を変化させている。 第21節・横浜Fマリノス戦では初めて左WBで先発した。負傷によるイレギュラーな起用だったが、「練習で『左、やれるか?』と言われて、『うん、行けます』と言ってやりました」と、逆サイドでプレーすることによって発生する身体の向きやボールの置き所の変化も物ともせず。第22節・鹿島アントラーズ戦では鋭いカットインで左サイドを切り裂き、逆転ゴールを呼び込んだ。 “置かれた場所で咲きなさい”を体現している18歳の姿を、木山監督は「輝いている」と表現し、「『自分は絶対に上に行くんだ』って疑わないメンタリティを持っている。『とにかく上に行きたい』という意欲が、輝いている。ある意味、与えられた才能というか。誰かに教えられるものではないと思う。自分を疑っていないところが素晴らしい」と称賛する。 環境やチーム戦術、監督からのリクエストは、自分がコントロールできない部分だ。時には自分のイメージと違うこともある。それでも、全てのことを素直に受け止め、受け入れ、自分の成長を促す肥料に変えていく。 「将来的には世界のトップリーグでプレーしたり、日本代表としてワールドカップに出て活躍したりすることが目標です」。そう宣言する佐藤は、7月3日に発表される東アジアE-1選手権のメンバーに選出されれば、2008年大会での内田篤人の20歳という同大会の日本代表における最年少記録を更新することになる。 E-1選手権は、過去に柿谷曜一朗や森重真人、相馬勇紀や町野修斗らが1年後のW杯のメンバー入りを勝ち取っており、言わばサバイバルの場だ。チームとして戦いながらも、個人として強みを発揮するなどのアピールが是が非でも必要になる。もしかしたらチームメイトは仲間よりもライバルという側面の方が強いかもしれない。しかし、きっと佐藤なら特有のチーム状況下でも、自分の力を最大限に発揮できるのではないか。そう期待したくなる適応力を、岡山で十二分に見せている。 取材・文 難波拓未 2025.07.02 18:00 Wed4
菅原由勢はアピールに“失敗”したのか?右のスペシャリストが45分で表現したもの
キックオフ直後から、気合という燃料を積んでいることは明らかだった。このチャンスを、モノにしてやるんだ。攻守両面でのアグレッシブなプレーから、この試合に懸ける思いは全身から溢れ出ていた。タフに右サイドを守りながら、同学年のMF久保建英と一緒に決定機も演出した。サイドバックを本職とする選手が生み出すハーモニーが顔を覗かせていたからこそ、後半開始のピッチに背番号2の姿がなかったことに驚き、ガッカリしてしまった。 誰よりも落胆していたのは本人だろう。もっとプレーしたかった。まだまだアピールしたかった。あの時、ああいう選択をしていれば──。後悔に似た気持ちは、自分の中を隅々まで探せばキリがないかもしれない。 それでも、試合後のミックスゾーンで悔しさに引っ張られている様子はあまり感じられなかった。下を向いて言葉を探す場面も少なくはなかったが、要所要所で顔を上げ、成長や向上を誓っていた。その瞳は真っ直ぐで、力強いものだった。 DF菅原由勢が日本代表の先発に名を連ねたのは、約8カ月ぶりのことだった。前回は2025年3月25日に行われたW杯アジア最終予選の第8節サウジアラビア代表戦まで遡る。その後は代表の常連とは言えない時期を過ごした。9月の北米遠征では招集されるも、プレータイムはアメリカ代表戦で後半から途中出場した18分のみ。ブラジル代表を撃破した10月シリーズでは招集されなかった。今回の11月シリーズでは、初戦のガーナ代表戦で出場機会を得るも、68分からのプレーであり、すでに2-0と勝負が決まっている状況だった。 失意のベスト8に終わったAFCアジアカップ2024以降、システムが4バックから3バックに変更した影響もあり、明らかに出場機会を減らしていた。カタールW杯後の第二次森保ジャパン発足時、右サイドバックという本職のポジション自体がなくなることを想像していただろうか。敵地でのドイツ代表撃破にもアシストで貢献していただけに、、まさか「当落線上」という言葉が付き纏うことになるとは……。 生き物のように変化が目まぐるしい代表チームで、もう一度、自分の居場所を確保するために──。5万人以上が駆けつけた国立競技場でのボリビア代表戦、キックオフの笛がピッチ内にいる自身の心臓を震わせた。 ■先制点を生んだ堅守 開始直後に左サイドでボールの奪い合いが発生する中、右サイドのタッチライン沿いに立ち、両手を広げてボールを呼び込む。GK早川友基からのハイボールに対し、フルパワーで落下地点に向かって走る。目の前の相手に構うことなくジャンピングヘッドを狙う。わずかにボールに当たらなかったが、最後尾に向かって親指を立てた。 意気軒昂と右サイドを走ると、開始早々の4分のことだった。 FW小川航基からのパスを目の前で相手選手にカットされたが、すぐさま右足を踏ん張り、一気に寄せた。持ち上がりを阻むだけでなく、左半身側からの密着マークで中央へ誘導。その先にいたMF遠藤航がボールを回収した。そしてMF久保建英に縦パスが入り、MF鎌田大地の先制点が生まれた。 「相手がけっこう縦に蹴ってくるという分析があったので、縦の選択肢を切った。そうなった時、中にもドリブルするという癖もあったので。誘いながら、うまく来てくれて、(遠藤)航くんとの距離感も良かったので、良い形で守備はできたのかなと思います」 電光石火の先制点を生み出す舞台を整えた狙い通りの守備は、横のスライドを駆使し味方と連携して守るサイドバック本職の選手らしいプレーでもあった。 「まずは個人で勝っていくところが大前提ですけど、ハメに行く中では素晴らしい相手だった。組織で守ることも同時にやっていかなきゃいけない中では、良い距離感でやれたと思います」 5バック時のウイングバックは、縦スライドを駆使して目の前の相手の突破を阻むという個人での守備力を求められる場面が多い。しかし、4バック時のサイドバック経験が豊富な菅原だからこそ、攻撃に出ようとしたところからの守備対応にもかかわらず、臨機応変に賢く守ることができた。 ■クロス光るも、前半45分で無念の交代 幸先よくチームに貢献した後も、積極的なプレーを続けた。切磋琢磨し共闘してきた同世代の久保と一緒に、プレッシャーを掛けていく。苦し紛れのロングボールを蹴らせた時には、テクニカルエリアの森保監督も拍手を送っていた。15分には縦パスを受ける相手選手のトラップ際にガツンとアプローチ。ファウルと判定されたが、指揮官の目の前でファイトした。 「サイドバックの選手なので、そこでやられていたら、自分の存在価値はないと思っていたので。そこはしっかりやろうとは思ってました」 そして、23分には真骨頂を発揮する。同学年のDF瀬古歩夢からのサイドチェンジに反応すると、久保の落としを収め、右サイドのスペースに抜け出す久保へ絶妙なスルーパスを出す。そのまま久保を猛然と追いかけ、外側から追い越してリターンパスを受け、ワンタッチでクロス。ニアに飛び込んだ小川の頭にピタリと届けた。惜しくもシュートはクロスバーを叩いたが、座席から身体が浮くような決定機を作り出した。 しかし、その2分後には後ろから相手選手を倒してイエローカードを提示された。「ヨーロッパの試合でもそうだし、ああいう部分でカウンターを防ぐとか、前に運ばれて相手が勢いづくというのを考えたら、止める判断をして、僕は今良かったと思っています」と口にしていたが、その直前のプレスを掻い潜られた場面では背中と正面に相手選手が1人ずついる中で後ろのサイドハーフを捨てて前に出る選択をしていた。一瞬の迷いやプレスのオーガナイズの部分で後手に周り、ワンタッチで剥がされ、ボールは一度捨てたサイドハーフの選手のもとへ。プレスバックして追いかけたのは集中していたが、自分のけつを自分で拭くことは回避できたかもしれない。 警告が理由だったかどうかは断言できないものの、前半45分のみで交代となった理由に結びつけることもできてしまう。本大会では勝利のために汚れ仕事を請け負わなければならない状況があるかもしれないが、少しでも多くアピールしたい現状において適切だったとは言い切れない。 「(交代の理由は)監督に聞いてみないとわからない。もちろん試合に勝つためにオーガナイズしていかなきゃいけないというところで、いろいろな理由はあると思いますけど、自分がもっと良いパフォーマンスをしていたらもう少し出れたなというのはあるので、まずはしっかりと試合を見て振り返って反省したいなと思います」と冷静に自分を見つめていた。 「クロスまで行けてるシーンもありましたし、あんまりネガティブじゃないかなと思っています」と45分を振り返ったように、自分のプレーを出せていた感覚はあったはず。その中で、ハーフタイムに唯一の交代。不完全燃焼という言葉がよぎるし、後半にもっとギアを上げてアピールしたかったに違いない。立場を想像すれば、唇を噛みちぎりたくなってしまう。 ■自問自答の連続で、本大会へ しかし、菅原はヤワではない。試合後は同ポジションのライバルであるMF堂安律と抱擁し、健闘を称えていた。その姿に負の感情はないように見えた。W杯本大会まで残すところ5カ月。弱音を吐き、後ろを振り返る時間はない。自分のすべきことは明確だから。 「最終予選からチームとしての形を試してやってきて、素晴らしい結果を手にしているし、その中で自分の立ち位置はわかっている部分もある。ナーバスにならずに、自分の良さを見失わずに、しっかりとチームでやることが大事。自分を良くするために毎日、謙虚に、小さいことも積み重ねながらやっていくことが大事だと思います。代表が、代表がという見方じゃなくて、チームがあっての代表というのは間違いない。今は僕自身もチームで信頼して使ってもらっている部分があるし、自分がやれている部分も課題の部分も試合に出ながら学べている。チームで試合に出ること、出た時にしっかりと自分の存在価値をチームでも見せていくことが代表につながってくると思います。とにかく、自分自身が成長して良い選手になれば、自ずと代表での立ち位置もチームでの立ち位置も変わってくるので、毎日毎日自分と向き合って、自分に負けずにやっていくことが大事だなと思います」 強みのクロスで決定機を作ったという事実に驕るつもりもない。求めているのは、ハッキリとした結果だから。 「入る時もあれば入らない時もあるし、あれを続けていくことが大事だと思う。紙一重のところを合わせていく作業は、自分自身、チームでもやらなきゃいけないし、もっともっとプレーの精度や質は上げられる部分があると思うので。ただ、結果が出る出ないというのは、その時の運もあるんでね。しっかりと日頃から自分を見つめ直して続けていくことが大事だと思います」 右ウイングバックは堂安、伊東純也に加え、望月ヘンリー海輝も成長中で、鈴木淳之介もプレー可能だろう。ライバルとのメンバー争いは熾烈を極めている。もう一度チャンスを得るためには、自問自答を繰り返しながらブンデスリーガの舞台を戦っていくしかない。その先にW杯本大会のピッチがあると信じて。茨の道であっても、菅原由勢は力強く歩み続ける。 取材・文=難波拓未 2025.11.20 21:00 Thu5
