中村憲剛と等々力の関係/六川亨の日本サッカーの歩み
2020.12.23 22:40 Wed
Jリーグは12月22日のアウォーズで今シーズンのMVPなど各賞の受賞者を発表した。ベストイレブンには川崎FからGK、DF、MFの9人が選出されたものの、MVPはオルンガが得点王とのダブル受賞に輝いた。優勝した川崎Fだが、誰か1人をMVPに選出するのは逆に難しかったのかもしれない。
都立久留米高校時代は山口隆文監督(現JFA技術委員指導者養成ダイレクター)の指導を受け、中央大学を経て川崎に加入後、その才能が開花したのは周知の事実。彼以外にも東京都出身のJリーガーは数多いるし、日本代表(FC東京と東京V出身が多い)も多いが、都立高校サッカー部出身の日本代表は中村くらいではないだろうか(近年では橋本拳人が途中まで都立高校に在籍も、サッカーはFC東京でプレー)。
そんな中村と川崎(等々力)との出会いには感慨深いものがある。中村が川崎に加入したのは03年だが、3年前まで等々力はヴェルディ川崎のホームだった。
ヴェルディと等々力は「不幸な結婚」だったかもしれない。当時は人気絶頂だったチームの要求に応じて観客席の増築などを行った。しかし人気に陰りが見え、観客動員も頭打ちになった99年には親会社の撤退により、経営立て直しのため東京への移転を計画。01年に川崎市から東京都に移り(東京をホームにすることが認められ)、呼称を東京ヴェルディ1969に変更し、東京スタジアム(現味の素スタジアム)をホームスタジアムにした。
一方川崎フロンターレの前身は富士通サッカー部で、古くは富士通川崎工場の従業員らが母体となって発足した歴史を持つだけに、元々川崎とは縁があった。Jリーグ参入を見据えた96年に富士通川崎FCに改称し、97年には準会員となり、名称も公募により川崎フロンターレとなった。そして99年に発足したJ2リーグに参加したことで、川崎市もフロンターレを支援することになる。
00年にフロンターレがJ1に昇格したことで、ヴェルディとの“川崎ダービー”が実現した。だが01年にヴェルディは東京へ移転し、フロンターレもJ2へ降格すると4シーズンをJ2リーグで過ごすことになる。そんな過渡期の03年に中村はフロンターレの一員となった。
この03年は中村以外にも錚錚たるメンバーが加入している。スピードスターのFWジュニーニョ、大型ストライカーの我那覇和樹、レフティーのSBアウグストらだ。翌04年も鹿島から相馬直樹、新潟からJ2得点王のマルクスを獲得し、J1復帰を果たす。
以来、中村は川崎の歴史とともにサッカー人生を歩んできた。試合での活躍はもちろん、地域密着のために様々な活動に参加してきたことは、ファンもよく知っているはずだ。憲剛にとって残された唯一のタイトルを掲げることができるのか。元日決戦の見所と言っていいだろう。
【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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とはいえ、まだ柏は1月4日のルヴァン杯決勝を残しているし、昨日21日は等々力陸上競技場で中村憲剛の引退セレモニーが行われたものの、天皇杯の準決勝と決勝が残っているだけに、こちらも“引退”のイメージが沸きにくい。それでも中村の「みんなが言ってくれたが、『ありがとう』を言いたいのは僕のほう。なんでもない大学生を拾ってくれたフロンターレに感謝しかない。最高のプロサッカー人生でした。みんなに会えて良かった」との言葉には実感がこもっていたし、飾り気のない中村らしい別れの挨拶だった。そんな中村と川崎(等々力)との出会いには感慨深いものがある。中村が川崎に加入したのは03年だが、3年前まで等々力はヴェルディ川崎のホームだった。
Jリーグの初代チェアマンである川淵三郎は、チーム名から企業名を外すことと東京都をホームタウンにすることを禁じた。JSL(日本サッカーリーグ)時代は国立競技場と西が丘サッカー場(現味の素フィールド西が丘)、駒沢陸上競技場などをホームにしていた“丸の内グループ”の三菱と日立は行き場所を失い、読売サッカークラブも等々力をホームにすることでチームの呼称をヴェルディ川崎に変更した(読売新聞などは読売ヴェルディと表記して抵抗)。
ヴェルディと等々力は「不幸な結婚」だったかもしれない。当時は人気絶頂だったチームの要求に応じて観客席の増築などを行った。しかし人気に陰りが見え、観客動員も頭打ちになった99年には親会社の撤退により、経営立て直しのため東京への移転を計画。01年に川崎市から東京都に移り(東京をホームにすることが認められ)、呼称を東京ヴェルディ1969に変更し、東京スタジアム(現味の素スタジアム)をホームスタジアムにした。
一方川崎フロンターレの前身は富士通サッカー部で、古くは富士通川崎工場の従業員らが母体となって発足した歴史を持つだけに、元々川崎とは縁があった。Jリーグ参入を見据えた96年に富士通川崎FCに改称し、97年には準会員となり、名称も公募により川崎フロンターレとなった。そして99年に発足したJ2リーグに参加したことで、川崎市もフロンターレを支援することになる。
00年にフロンターレがJ1に昇格したことで、ヴェルディとの“川崎ダービー”が実現した。だが01年にヴェルディは東京へ移転し、フロンターレもJ2へ降格すると4シーズンをJ2リーグで過ごすことになる。そんな過渡期の03年に中村はフロンターレの一員となった。
この03年は中村以外にも錚錚たるメンバーが加入している。スピードスターのFWジュニーニョ、大型ストライカーの我那覇和樹、レフティーのSBアウグストらだ。翌04年も鹿島から相馬直樹、新潟からJ2得点王のマルクスを獲得し、J1復帰を果たす。
以来、中村は川崎の歴史とともにサッカー人生を歩んできた。試合での活躍はもちろん、地域密着のために様々な活動に参加してきたことは、ファンもよく知っているはずだ。憲剛にとって残された唯一のタイトルを掲げることができるのか。元日決戦の見所と言っていいだろう。
【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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