ベッカム、MLS参戦に元同僚ジダン指揮官就任を希望?

2018.09.24 18:10 Mon
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▽元イングランド代表MFデイビッド・ベッカムが、自身が共同オーナーを務めるクラブの指揮官にジネディーヌ・ジダン氏(46)を招へいすることを目指しているようだ。イギリス『デイリー・ミラー』が伝えている。

▽2020年からのメジャーリーグ・サッカー(MLS)への新規参入が決定しているインテル・マイアミ。最近ではバルセロナに所属するアルゼンチン代表FWリオネル・メッシ(31)やユベントスに所属するポルトガル代表FWクリスティアーノ・ロナウド(33)の獲得を画策していることが伝えられるなど、参戦に向けて着々と準備を進めている。

▽そんな中、今回伝えられるところによると、ベッカム氏は同チームの指揮官としてレアル・マドリー時代の同僚であるジネディーヌ・ジダン氏を招へいすることを希望。すでにベッカム氏はジダン氏に接触しており、軽い話し合いが行われたという。
▽昨シーズンまでレアル・マドリーで指揮を執っていたジダン氏は、現在マンチェスター・ユナイテッドのジョゼ・モウリーニョ監督の後任候補として浮上。ジダン氏は現状ヨーロッパでの仕事が理想的であると考えているようで、インテル・マイアミへの就任が早期決定する可能性は低いとみられている。

▽しかし、同メディアはユナイテッド就任の話が長引くことになれば、ベッカム氏との再タッグの可能性は高まっていくと見解を示している。

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