かつて磐田でも活躍のスキラッチ氏が59歳で逝去…90年W杯得点王&MVPの元イタリア代表FW
2024.09.18 19:15 Wed
元イタリア代表FWのサルバトーレ・スキラッチ氏が逝去した。59歳だった。
磐田では1994年から1997年までの4シーズンにわたってプレーし、加入2年目の1995年には得点ランキング2位の31ゴールを記録。1999年に現役を引退し、磐田が現役最後のクラブだった。
引退後は故郷パレルモで自身のサッカースクールを運営する傍ら、タレントや解説者としても活躍。さらに、イタリアへの難民で構成されたアサンテ・カルチョを指揮する慈善活動にも携わっていた。
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かつてはジュビロ磐田にも所属し、Jリーグでもプレーしたスキラッチ氏。今週末に病状悪化による緊急入院が報じられたが、このたびのイタリア『スカイ』によると、数年前に大腸がんと診断されてから、闘病が続いていたようだ。現役時代に“トト”の愛称で知られたスキラッチ氏はメッシーナ、ユベントス、インテルと国内クラブで活躍。1990年のイタリア・ワールドカップ(W杯)では6ゴールで得点王とともにMVPに輝き、母国大会で3位に導いた。引退後は故郷パレルモで自身のサッカースクールを運営する傍ら、タレントや解説者としても活躍。さらに、イタリアへの難民で構成されたアサンテ・カルチョを指揮する慈善活動にも携わっていた。
重篤な状態での入院が報じられてから、家族からSNSを通じて容体の安定が明らかにされていたなかの別れ。イタリアサッカー連盟(FIGC)も訃報に接し、哀悼の意を表すとともに、本日から週末までの試合で黙祷を明らかにしている。
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スキラッチの思い出/六川亨の日本サッカー見聞録
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かつてJリーグのジュビロ磐田でも活躍した元イタリア代表FWサルバトーレ・スキラッチ氏(59)が、重篤な状態で入院していることが判明した。イタリア『ANSA通信』など複数国内メディアが報じている。 報道によると、数年前からガンの治療を受け、過去に2度の手術も経験していたスキラッチ氏は、今週末に病状が悪化してパレルモのマッダレーナ病院の呼吸器科に緊急入院したという。 重篤な状態と報じられているが、同氏の家族はSNSを通じて「トトは安定した状態にあり、医師チームによって昼夜問わず状態を監視されています。フォルツァ、トト」と現時点で状態が安定していることを報告している。 現役時代に“トト”の愛称で知られたスキラッチ氏は、メッシーナ、ユベントス、インテルと国内クラブで活躍。1990年イタリア・ワールドカップ(W杯)では得点王に輝き、母国開催の大会で3位に導いた。 その後、1994年に磐田へ完全移籍で加入しJリーグに参戦。加入2年目の1995シーズンには得点ランキング2位の31ゴールを挙げる活躍を見せるなど、日本の地でもその得点力を遺憾なく発揮。1997シーズン途中に腰痛の悪化を理由にクラブを退団し、最終的に1999年に現役引退を発表した。 現役引退後は故郷パレルモで自身のサッカースクールを運営する傍ら、タレントや解説者の仕事をこなし、イタリアへの難民で構成されたアサンテ・カルチョを指揮する慈善活動にも携わっていた。 2024.09.09 05:30 Monジュビロ磐田の人気記事ランキング
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