ジーコ氏がパリ五輪視察で窃盗の被害に、ロレックスやダイヤモンドなど総額8300万円の被害か
2024.07.26 23:35 Fri
かつてはブラジル代表として活躍し、鹿島アントラーズでもプレーした元日本代表監督のジーコ氏。ブラジルの選手団によってパリ・オリンピックに招待された中、窃盗の被害に遭ってしまったようだ。
ジーコ氏は盗難の被害届を提出し、捜査が行われているとのことだ。
今大会、オリンピック3大会連続の金メダルを目指した男子サッカーは南米予選で敗退し不参加。ブラジル女子代表は、なでしこジャパンとグループステージで同居している。
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フランス『ル・パリジャン』によると、ジーコ氏は25日の夜にパリ市内で被害に。タクシーに乗車する際、ジーコ氏は後部座席にブリーフケースを置いたとのこと。その際に、何者かが運転手の注意を惹きつけ、その隙に盗まれたという。ジーコ氏のブリーフケースには、ロレックスの腕時計や宝石類、現金2000ユーロ(約33万円)と2000ドル(約30万円)が入っていたとのこと。被害総額は推定で50万ユーロ(約8300万円)になると見られており、大きな被害となった。今大会、オリンピック3大会連続の金メダルを目指した男子サッカーは南米予選で敗退し不参加。ブラジル女子代表は、なでしこジャパンとグループステージで同居している。
オリンピックを視察に来たジーコ氏にとっては、飛んだ災難といったところだろう。
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