ユベントスが全てを勝ち取ったロッシ氏を追悼「古いポスターを見つけたら貼ってください」
2020.12.10 22:11 Thu
ユベントスが64歳で他界したレジェンド、パオロ・ロッシ氏を追悼した。10日、現役時代はイタリア代表やユベントスなどで活躍したロッシ氏の訃報が舞い込んだ。
11月にはアルゼンチンのレジェンドであるディエゴ・マラドーナ氏が亡くなったばかりだったが、今度はイタリアのレジェンドが他界。サッカー界がまた1人、貴重な人間を失った。
ロッシ氏は、セリエAで214試合に出場し82ゴールを記録。ユベントス時代には、セリエAを2度、コッパ・イタリアを1度、ヨーロピアンカップ(現在のチャンピオンズリーグ)を1度制していた。
また、イタリア代表としては1982年のスペイン・ワールドカップで優勝。2次リーグのブラジル代表戦ではトリプレッタ(イタリア語でハットトリック)の活躍。準決勝のポーランド代表戦で2ゴールを記録すると、決勝の西ドイツ代表戦でも1ゴールを記録し、大会得点王に輝くとともに、同年のバロンドールを受賞していた。
「パオロ・ロッシ、“パブリート”は去りました。国全体にとって、忘れられない世界的な男であり、我々にとって、彼はそれ以上のものでした」
「パオロは、毎週テレビの前で喜んだ全国のユベントスファンにとって象徴的な存在でした。そして、テレビはカラーになりアクションを表現し始めましたが、彼との栄光の瞬間は我々にとってはビアンコネロ(白黒)のままでした」
「子どの頃の寝室やロフトを見ると、おそらく信じられないほどのユベントスの古いポスターが見つかるでしょう。パオロが偉大なゴールを決めるために所属した1981年から1985年は文字通り全てを勝ち取ったチームです」
「彼はユベントスで生まれ変わり、困難な時期を過ごし、1982年のその爽やかな夏に全てのイタリアの街の広場や噴水で祝福された選手となりました」
「1973年から1975年の間に、ユベントスのユースレベルでプレーし、コッパ・イタリアに3度出場したパオロのビアンコネリでの“本当の”キャリアは、1981年に始まりました」
「彼はそのシーズン、セリエAで3回しか出場できませんでした。しかし、この3回の出場は、イタリア代表のエンツォ・ベアルゾット監督がスペインに連れていくことを決めるのに十分でした」
「スペインでは、素晴らしい試合で素晴らしいゴールを決め、忘れられない大会となったワールドカップの後に帰国しました」
「彼の努力は1982年の終わりにバロンドールで報われ、彼は地球上で最高の選手として認められました」
「パオロは、ユニークな身体的な特徴を有効活用し、あらゆるタイプのゴールを決めました。『ロッシに気をつけろ』とゴールキーパーは言いますが、ディフェンダーが自分の居場所を確認する前に、パオロはすでに背後でボールを持ち、ネットを揺らしました」
「彼はユベントスで44のゴールを記録し、チームが2度のスクデット、1つのコッパ・イタリア、3つのヨーロッパのトロフィー(カップウィナーズ・カップ、ヨーロッパスーパーカップ、ヨーロピアンカップ)を獲得するのに貢献しました」
「おそらく、最も象徴的なパオロのゴールは、1984年にユベントスをカップウィナーズ・カップ決勝に導いた、準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦で記録したものでした」
「マンチェスターでのアウェーレグで1-1と引き分けた後、ユベントスはトリノに戻って、90分間を1-1で終えようとしていました。時間が刻々と過ぎていく中、エリアの端からガエターノ・シレアがシュートを放つと、ユナイテッドの選手に当たったものの、最も早く反応したのはパオロでした」
「パオロはルーズボールに飛び込み、GKを颯爽と通り過ぎるシュートを決めました。彼が祝福する前に、ファンが熱狂しました」
「その古いユベントスのポスターを見つけることができたなら、それを貼ってください。その偉大なるNo.9に別れを告げてください。彼のような人はあまり存在しません」
「チャオ、パブリート」
11月にはアルゼンチンのレジェンドであるディエゴ・マラドーナ氏が亡くなったばかりだったが、今度はイタリアのレジェンドが他界。サッカー界がまた1人、貴重な人間を失った。
ロッシ氏は、セリエAで214試合に出場し82ゴールを記録。ユベントス時代には、セリエAを2度、コッパ・イタリアを1度、ヨーロピアンカップ(現在のチャンピオンズリーグ)を1度制していた。
また、イタリア代表としては1982年のスペイン・ワールドカップで優勝。2次リーグのブラジル代表戦ではトリプレッタ(イタリア語でハットトリック)の活躍。準決勝のポーランド代表戦で2ゴールを記録すると、決勝の西ドイツ代表戦でも1ゴールを記録し、大会得点王に輝くとともに、同年のバロンドールを受賞していた。
クラブに数々のタイトルをもたらしたロッシ氏について、ユベントスが追悼の声明を発表。偉大なストライカーの氏を偲んだ。
「パオロ・ロッシ、“パブリート”は去りました。国全体にとって、忘れられない世界的な男であり、我々にとって、彼はそれ以上のものでした」
「パオロは、毎週テレビの前で喜んだ全国のユベントスファンにとって象徴的な存在でした。そして、テレビはカラーになりアクションを表現し始めましたが、彼との栄光の瞬間は我々にとってはビアンコネロ(白黒)のままでした」
「子どの頃の寝室やロフトを見ると、おそらく信じられないほどのユベントスの古いポスターが見つかるでしょう。パオロが偉大なゴールを決めるために所属した1981年から1985年は文字通り全てを勝ち取ったチームです」
「彼はユベントスで生まれ変わり、困難な時期を過ごし、1982年のその爽やかな夏に全てのイタリアの街の広場や噴水で祝福された選手となりました」
「1973年から1975年の間に、ユベントスのユースレベルでプレーし、コッパ・イタリアに3度出場したパオロのビアンコネリでの“本当の”キャリアは、1981年に始まりました」
「彼はそのシーズン、セリエAで3回しか出場できませんでした。しかし、この3回の出場は、イタリア代表のエンツォ・ベアルゾット監督がスペインに連れていくことを決めるのに十分でした」
「スペインでは、素晴らしい試合で素晴らしいゴールを決め、忘れられない大会となったワールドカップの後に帰国しました」
「彼の努力は1982年の終わりにバロンドールで報われ、彼は地球上で最高の選手として認められました」
「パオロは、ユニークな身体的な特徴を有効活用し、あらゆるタイプのゴールを決めました。『ロッシに気をつけろ』とゴールキーパーは言いますが、ディフェンダーが自分の居場所を確認する前に、パオロはすでに背後でボールを持ち、ネットを揺らしました」
「彼はユベントスで44のゴールを記録し、チームが2度のスクデット、1つのコッパ・イタリア、3つのヨーロッパのトロフィー(カップウィナーズ・カップ、ヨーロッパスーパーカップ、ヨーロピアンカップ)を獲得するのに貢献しました」
「おそらく、最も象徴的なパオロのゴールは、1984年にユベントスをカップウィナーズ・カップ決勝に導いた、準決勝のマンチェスター・ユナイテッド戦で記録したものでした」
「マンチェスターでのアウェーレグで1-1と引き分けた後、ユベントスはトリノに戻って、90分間を1-1で終えようとしていました。時間が刻々と過ぎていく中、エリアの端からガエターノ・シレアがシュートを放つと、ユナイテッドの選手に当たったものの、最も早く反応したのはパオロでした」
「パオロはルーズボールに飛び込み、GKを颯爽と通り過ぎるシュートを決めました。彼が祝福する前に、ファンが熱狂しました」
「その古いユベントスのポスターを見つけることができたなら、それを貼ってください。その偉大なるNo.9に別れを告げてください。彼のような人はあまり存在しません」
「チャオ、パブリート」
ディエゴ・マラドーナの関連記事
イタリア代表の関連記事
セリエAの関連記事
|
ディエゴ・マラドーナの人気記事ランキング
1
「僕はサッカー界のマヌと言われるべき」メッシが殿堂入りした母国のNBAスター・ジノビリを祝福し驚き広がる
パリ・サンジェルマン(PSG)のアルゼンチン代表FWリオネル・メッシの発言が大きな話題となっている。 アルゼンチン人の元プロバスケットボール選手であるマヌ・ジノビリ(45)は、2022年9月10日にバスケットボール殿堂入りを果たした。 誰もが知るマイケル・ジョーダンや不慮の事故で他界したコービー・ブライアントら、歴代の一流選手が名を連ねるバスケットボール殿堂。10日に2022年の殿堂入り選手が発表されていた。 ジノビリはイタリアのセリエAでキャリアをスタート。ボローニャではユーロリーグを制し、MVPを受賞し、2008年にはユーロリーグ史上の偉大な50人の貢献者の1人に撰ばれていた。 2002-03シーズンにNBAのサンアントニオ・スパーズに移籍しデビュー。そこから16年間プレーし、2018年に現役を引退。現在はスペシャルアドバイザーを務めている。 フランチャイズ・プレイヤーとして活躍したジノビリは、NBAファイナルで4度の優勝を経験。また、アルゼンチン代表として2004年のアテネ・オリンピックで金メダルを獲得しMVPに選ばれると、2008年の北京オリンピックでは銅メダルを獲得。ユーロリーグ、NBAファイナル、オリンピック金メダルを経験した2人目の選手となっていた。 そのジノビリだが、優れたボディバランスで繰り広げるドリブルが得意で、その動きはメッシに例えられることがしばしばあった。 すると、今回の殿堂入りを知ったメッシが祝福のメッセージを送り、驚きを与えることとなった。 「ジャーナリストが『マヌはバスケットボール界のメッシだ』という言葉を聞くと、とても誇らしくなる」 「むしろ、僕はサッカー界のマヌと言われるべきだろう」 アルゼンチンを代表する世界的なアスリートの2人。レジェンドであるディエゴ・マラドーナ氏もジノビリを高く評価しており、「サッカー界におけるメッシやロナウドのような“フェノーメノ(超常現象)”だ」と評価。アルゼンチン史上最高のアスリートかという質問にも「そうだと思う。もう1人、10番でプレーしていた選手が、彼の後を追っている」と、メッシが背中を追いかけているとしていた。 <span class="paragraph-title">【動画】メッシのように狭いコースを抜いていくドリブルも!ジノビリのプレー集!</span> <span data-other-div="movie"></span> <blockquote class="twitter-tweet"><p lang="en" dir="ltr"><a href="https://twitter.com/hashtag/TBT?src=hash&ref_src=twsrc%5Etfw">#TBT</a> to <a href="https://twitter.com/manuginobili?ref_src=twsrc%5Etfw">@manuginobili</a> still delivering some magic at 40-years-old in his final season with the Silver & Black<a href="https://twitter.com/hashtag/ManuHOF?src=hash&ref_src=twsrc%5Etfw">#ManuHOF</a> Enshrinement Ceremony - Sept 10 at 6pm CT on <a href="https://twitter.com/NBATV?ref_src=twsrc%5Etfw">@NBATV</a><a href="https://twitter.com/HEB?ref_src=twsrc%5Etfw">@HEB</a> | <a href="https://twitter.com/hashtag/22HoopClass?src=hash&ref_src=twsrc%5Etfw">#22HoopClass</a> <a href="https://t.co/dGcp6nGhxk">pic.twitter.com/dGcp6nGhxk</a></p>— San Antonio Spurs (@spurs) <a href="https://twitter.com/spurs/status/1567977449459179520?ref_src=twsrc%5Etfw">September 8, 2022</a></blockquote> <script async src="https://platform.twitter.com/widgets.js" charset="utf-8"></script> 2022.09.12 12:33 Mon2
マラドーナの5人抜きを彷彿とさせるメッシの歴史的5人抜きゴール【インクレディブル・ゴールズ】
サッカーファンなら誰もが一度は見たことがあるであろう歴史に残るスーパーゴール。今回の企画『Incredible Goals』(信じられないゴール)では、これまでに生まれた驚愕のゴールを紹介していく。 今回はバルセロナのアルゼンチン代表FWリオネル・メッシが決めたゴールだ。 <div style="margin:0 auto; max-width:100%; min-width:300px; " id="cws_ad"><div style="position: relative; padding-bottom:56.25%; height: 0; overflow: hidden; "><iframe src="https://embed.dugout.com/v2/?p=eyJrZXkiOiJ1UE1aUEQ0NiIsInAiOiJ1bHRyYXNvY2NlciIsInBsIjoiIn0=" style="width: 300px; min-width: 100%; position: absolute; top:0; left: 0; height: 100%; overflow: hidden; " width="100%" frameborder="0" allowfullscreen scrolling="no"></iframe></div></div> 2004-05シーズンのトップデビュー以降、バルセロナの絶対的なエースとして君臨し続けるメッシ。6月24日に33歳の誕生日を迎えるが、今シーズンも公式戦31試合に出場して24得点を挙げ、フットボール界のトップを走り続けている。 これまでのキャリアで数多くのスーパーゴールを決めてきたメッシだが、中でも圧巻だったのが、2007年4月18日のコパ・デル・レイ準決勝、ヘタフェとの1stレグでのゴールだ。 バルセロナが1点リードで迎えた前半28分、メッシはMFチャビ・エルナンデスからのパスを自陣内右サイドで受けると、まずはマークについていた相手DFハビエル・パレデスをかわす。 さらに、カバーに来たDFナチョの股を抜き、一気にスピードを上げるとボックス付近まで来たメッシは、相手DFアレクシス・ルアーノとDFダビド・ベレンゲルの間を突破しボックス内に侵入。最後は前に出てきたGKルイス・ガルシアをもかわし、右足でゴールを決めた。 元アルゼンチン代表FWディエゴ・マラドーナ氏が1986年メキシコ・ワールドカップのイングランド代表戦で見せた5人抜きゴールを豊富とさせるこのスペクタクルなゴールは、これまでのキャリアで通算700ゴール近く決めているメッシの中でも最高のゴールと言えるだろう。 2020.06.12 18:30 Fri3
【伝説のチーム】マラドーナ全盛期のナポリはどんなチーム?後に柏でプレーするFWカレカにゾラの名も
フットボール界のレジェンドであるディエゴ・マラドーナ氏(60)が25日に急逝した。 10月30日に60歳の誕生日を迎えたばかりのマラドーナ氏だったが、その後に硬膜下血腫が見つかり緊急手術。無事に手術は成功していたが、この度心不全で帰らぬ人となった。 そのマラドーナ氏が全盛期を過ごし、チームに黄金期をもたらせたのがナポリだった。 現在はイタリア屈指の強豪として認知されているナポリだが、初めて歓喜の渦に包まれたのは1980年代後半だった。1984-1985シーズンにバルセロナからやってきたディエゴ・マラドーナによって、チームは数々のタイトルを獲得した。 マラドーナが中心のチームは、1986-87シーズンにセリエAとコッパ・イタリアの2冠に輝き、その後も優勝を争いながら、1988-89シーズンにはUEFAカップ(現EL)を獲得。そして、迎えた1989-90シーズンにクラブ史上2度目となるスクデットを手に入れることとなる。 <div style="text-align:center;" id="cws_ad"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/800/img/2020/1989-90napoli.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:x-small;"><</div><div style="padding: 0.5em 1em;margin: 2em 0;border: double 5px #4ec4d3;"><p style="margin: 0; padding: 0;">監督:アルベルト・ビゴン(52) 獲得タイトル:セリエA 攻撃力9:★★★★★★★★★☆ 守備力8:★★★★★★★★☆☆ タレント7:★★★★★★☆☆☆ 連係8:★★★★★★★★☆☆ 選手層7:★★★★★★★☆☆☆</p></div> <div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">◆マラドーナのチーム</div> 開幕から順調に勝ち点を積み重ねたナポリは、このシーズンにチャンピオンズリーグ2連覇を達成したミランやインテルと優勝争いを繰り広げた。後半戦ではそのミランとインテルとの直接対決に敗れたが、粘りを見せて最後の5試合で5連勝を達成。ミランを追い抜いて見事に優勝を決めた。 フットボールの世界では、絶大なる個の力を有する選手がそのチームの戦術となることがしばしばある。そして、この頃のナポリは、まさにマラドーナのチームだった。 そのマラドーナを支えるため、チロ・フェラーラを中心とした守備陣とフェルナンド・デ・ナポリなどの中盤の選手は守備に奔走した。ナポリは、当時のイタリア代表メンバーを中心にマラドーナを支える土台を固めていた。 攻撃は前線のトライアングルで形成した。自由を与えられたマラドーナは攻撃の全権を掌握。また、後に柏でプレーするブラジル代表FWカレカとイタリア代表FWアンドレア・カルネバーレの2トップがゴールを重ね、当時23歳のジャンフランコ・ゾラも存在感を示した。 “ナポリの王様”と評されたマラドーナは、イタリア随一の陽気な街に2度のスクデットをもたらした。数々の魅力的なプレーで観客を魅了し、自身が付けた10番が永久欠番になるほどサポーターから愛された。ただ、かねてからコカイン使用が疑われるなど、イタリアマフィアの巣窟であるナポリで麻薬に染まり、プロ選手としてのキャリアが終焉に向かっていった。 <div id="cws_ad">◆全盛期のマラドーナがナポリで見せたスーパーゴール集<br/><div style="margin:0 auto; max-width:100%; min-width:300px; " ><div style="position: relative; padding-bottom:56.25%; height: 0; overflow: hidden; "><iframe src="https://embed.dugout.com/v2/?p=eyJrZXkiOiJRQkZwNEVQayIsInAiOiJ1bHRyYXNvY2NlciIsInBsIjoiIn0=" style="width: 300px; min-width: 100%; position: absolute; top:0; left: 0; height: 100%; overflow: hidden; " width="100%" frameborder="0" allowfullscreen scrolling="no"></iframe></div></div></div> 2020.11.26 17:30 Thu4
皇帝の逝去から一年。スーパーカップの冠名に決定/六川亨の日本サッカー見聞録
早いもので、西ドイツが生んだ偉大なフットボーラーであるフランツ・ベッケンバウアー氏が亡くなってから一年が経とうとしている(24年1月8日に逝去。78歳)。現役時代は「皇帝」のニックネームで尊敬を集め、守備だけでなく攻撃にも自由に参加する「リベロ」という概念を確立した。 W杯は66年イングランド大会で準優勝、70年メキシコ大会は3位、そして自国開催となった74年西ドイツ大会では母国に2度目となるトロフィーをもたらした。監督(肩書きはチームシェフ)として86年メキシコ大会こそディエゴ・マラドーナ率いるアルゼンチンに敗れて準優勝に甘んじたが、90年イタリア大会ではアルゼンチンに雪辱を果たし、選手と監督でW杯を制した2人目という偉業を達成した。 同じく選手と監督でW杯に優勝したブラジルの名将マリオ・ザガロ氏も24年1月5日にこの世を去り(享年92歳)、選手・監督でW杯に優勝したのはディディエ・デシャン1人になった。 さらに昨年10月6日には、西ドイツW杯決勝でベッケンバウアー氏と好勝負を演じたオランダのヨハン・ニースケン氏も逝去した(73歳)。西ドイツとの決勝戦での先制点、ゴール中央に強シュートを突き刺した衝撃は今でも忘れられない。彼のシュートは、それまで左右のスミを狙うのが常識だったPKに、新たな発想をもたらしたのではなだろうか(パネンカのチップキックによるPKも伝説だ)。 すでに2016年3月24日には、もう一人の“ヨハン”であるクライフ氏も亡くなっている。「トータルフットボール」の具現者として世界に衝撃を与えただけでなく、指導者としてバルセロナでは超攻撃的なスタイルを確立。現在のバルサの礎を築いたと言っても過言ではないだろう。彼の出現で背番号「14」は特別な番号になったはずだ。 そんなレジェンドの1人である「皇帝」の功績を称え、昨年12月20日、ドイツサッカーリーグ機構(DFL)は25~26シーズンからDFLスーパーカップの名称にフランツ・ベッケンバウアー氏の名前を冠することを発表した。 すでにバイエルン・ミュンヘンはベッケンバウアー氏の現役時代の背番号「5」を永久欠番にすると発表していた。それに続き、シーズン開幕前にブンデスリーガ優勝クラブとDFBポカール優勝クラブが激突する大会の名称が「フランツ・ベッケンバウアー・スーパーカップ」に変更されることになった。 かつてW杯のトロフィーは、ブラジルが70年メキシコ大会で3度目の優勝を果たし、永久保持するまでは、W杯の提唱者であるフランス人の「ジュール・リメ杯」と呼ばれていた(74年以降は特別な名称はない)。同じくEUROのトロフィーも提唱者であるフランス人の名前をとって「アンリ・ドロネー杯」と呼ばれていた。 しかし公式戦の名前に選手個人の名前が冠されるのは今回が初めてではないだろうか。近年の大会名にはネーミングライツ権を売ることで、企業の名前が冠されることが一般的になりつつある。そんななかで、今回のDFLの英断に拍手を送ると同時に、今年8月16日の大会では古巣バイエルンの復活にも期待したい。 文・六川亨 2025.01.04 11:00 Satイタリア代表の人気記事ランキング
1
ザッカーニのラストプレー劇的同点弾でイタリアが2位通過、2戦連続逃げ切り失敗のクロアチアは敗退濃厚に【ユーロ2024】
ユーロ2024グループB最終節、クロアチア代表vsイタリア代表が24日に行われ、1-1で引き分けた。 5日前のアルバニア代表戦を2-2の引き分けに持ち込まれ1分け1敗の最下位に沈むクロアチアは、勝利すれば突破となる中、4選手を変更。ペトコビッチやペリシッチらに代えてマリオ・パシャリッチやスチッチを起用した。 一方、4日前のスペイン代表戦を0-1のスコア以上の内容差で敗れた1勝1敗の2位イタリアは、引き分け以上で突破となる中、3選手を変更。スカマッカやキエーザらに代えてレテギやラスパドーリを起用し、[3-5-2]で臨んだ。 5バックで構えるイタリアに対し、クロアチアは5分、スチッチのミドルシュートでゴールに迫るもGKドンナルンマの好守に阻まれる。 その後もクロアチアが押し込み、イタリアが守る構図で試合は推移。そんな中27分、イタリアに決定機。CKの流れからバレッラの右クロスをバストーニがヘッドで合わせたが、GKリヴァコビッチのファインセーブに阻まれた。 互いの守護神が好守を見せた中、ハーフタイムにかけては好機なくゴールレスで前半を終えた。 迎えた後半、フラッテージを投入したイタリアは52分、ボックス内でのフラッテージのハンドによりクロアチアにPKが与えられる。しかしキッカーのモドリッチはGKドンナルンマにシュートを止められてしまう。 それでも二次攻撃の流れからクロアチアが押し切る。ブディミルのボレーは再びドンナルンマにファインセーブで止められるも、ルーズボールに詰めたモドリッチが押し込んだ。 PK失敗を取り戻すモドリッチのユーロ史上最年長弾で先制したクロアチアに対し、追う展開となったイタリアはキエーザを投入。 前線に人数をかけ出した中、61分にはCKからバストーニのヘディングシュートでゴールに迫ると、イタリアが攻勢を強めていく。 それでも守勢のクロアチアは選手交代を使って粘り強く凌ぎ、時間を消化。80分にはモドリッチを下げた中、イタリアの攻撃をうまく抑え込んで逃げ切るかに思われた。 しかしラストプレーの追加タイム8分、イタリアに劇的同点弾。カラフィオーリの持ち上がりからラストパスをボックス左で待ち構えていたザッカーニがダイレクトシュート。見事にコントロールされたフィニッシュがゴールに吸い込まれた。 直後にタイムアップを迎え、イタリアが2位通過に。一方、引き分けに持ち込まれたクロアチア(勝ち点2)はスロベニア(勝ち点2)とチェコ(勝ち点1)の結果次第だが、敗退濃厚となっている。 クロアチア 1-1 イタリア 【クロアチア】 ルカ・モドリッチ(後10) 【イタリア】 マッティア・ザッカーニ(後53) <span class="paragraph-title">【動画】白熱の2位争いは劇的な結末に! クロアチアvsイタリア</span> <span data-other-div="movie"></span> <script>var video_id ="RoycwidfK8o";var video_start = 0;</script><div style="text-align:center;"><div id="player"></div></div><script src="https://web.ultra-soccer.jp/js/youtube_autoplay.js"></script> 2024.06.25 06:09 Tue2
2025年最初のFIFAランク、大きく変動も日本は15位をキープ! 2位にスペイン、6位にオランダが浮上【FIFAランキング】
国際サッカー連盟(FIFA)は4日、最新のFIFAランキングを発表した。 2025年最初の発表となった今回のランキング。3月には2026年北中米ワールドカップ(W杯)予選やUEFAネーションズリーグ、CONCACAFネーションズリーグなどが行われた。 前回のランキングが発表された2024年12月以降、世界中で245試合の国際試合が実施。ランキングには大きな変動があった。 日本代表は、3月のW杯予選でバーレーン代表に勝利してW杯出場を決定。サウジアラビア代表とは引き分けに終わった中、15位をキープすることとなった。 上位では、2位のフランス代表と3位のスペイン代表が入れ替わることに。また、6位のポルトガル代表と7位のオランダ代表も入れ替わっている。また、11位以下はウルグアイ代表、コロンビア代表、クロアチア代表、モロッコ代表となっていたが、クロアチア、モロッコ、ウルグアイ、コロンビアに並びが変更となっている。 <h3>◆全体ランキング トップ30</h3> ()内=前回順位 1.アルゼンチン(1) 2.スペイン(3)[↑] 3.フランス(2)[↓] 4.イングランド(4) 5.ブラジル(5) 6.オランダ(7)[↑] 7.ポルトガル(6)[↓] 8.ベルギー(8) 9.イタリア(9) 10.ドイツ(10) 11.クロアチア(13)[↑] 12.モロッコ(14)[↑] 13.ウルグアイ(11)[↓] 14.コロンビア(12)[↓] 15.日本(15) 16.アメリカ(16) 17.メキシコ(19)[↑] 18.イラン(18) 19.セネガル(17)[↓] 20.スイス(20) 21.デンマーク(21) 22.オーストリア(22) 23.韓国(23) 24.エクアドル(24) 25.ウクライナ(25) 26.オーストラリア(26) 27.トルコ(28)[↑] 28.スウェーデン(27)[↓] 29.ウェールズ(29) 30.カナダ(31) <h3>◆アジア ランキング</h3> ※北中米W杯アジア最終予選出場国 15.日本(15)※⭐︎ 18.イラン(18)※⭐︎ 23.韓国(23)※ 26.オーストラリア(26)※ 55.カタール(48)※[↓] 57.ウズベキスタン(58)※ 58.サウジアラビア(59)※ 59.イラク(56)※[↓] 62.ヨルダン(64)※[↑] 65.UAE(63)※[↓] 77.オマーン(80)※[↑] 84.バーレーン(81)※[↓] 93.シリア(95)[↑] 94.中国(90)※[↓] 99.タイ(97)[↓] 101.パレスチナ(101)※ 103.キルギス(107)※[↑] 104.タジキスタン(104) 109.ベトナム(114)[↑] 112.レバノン(112) 118.北朝鮮(115)※[↓] 123.インドネシア(127)※[↑] 127.インド(126)[↓] 131.マレーシア(132)[↑] 134.クウェート(134)※ 2025.04.03 17:50 Thu3
イタリア代表に痛手…レテギ、カラフィオーリに続き、DFカンビアーゾが足首のケガで代表を離脱
イタリアサッカー連盟(FIGC)は21日、イタリア代表に参加していたユベントスのDFアンドレア・カンビアーゾが離脱することを発表した。 カンビアーゾは16日に行われたセリエA第29節のフィオレンティーナ戦に69分から出場したが、プレー中に左足首を負傷すると、86分にFWサミュエル・バングーラと交代していた。 それでもイタリア代表に合流したカンビアーゾは、同代表のトレーニングセンターで治療を続けてきたが、23日に行われるドイツ代表との2ndレグに間に合わないと判断され、所属クラブへ帰還することが決定した。 イタリア代表では、すでにアタランタのFWマテオ・レテギとアーセナルのDFリッカルド・カラフィオーリが離脱しており、カンビアーゾは3人目の離脱者となった。 2025.03.22 08:00 Sat4
「家族との時間を楽しみたい」元日本代表監督のザッケローニ氏、監督業を引退へ
かつて日本代表も率いたアルベルト・ザッケローニ氏が、監督業からの引退を明かした。イタリア『チェゼーナ・トゥデイ』が伝えた。 ザッケローニ氏は、監督としてウディネーゼやミラン、ラツィオ、インテル、トリノ、ユベントスと指揮。イタリアのビッグ3全てで指揮を執るなどの功績があった中、2010年9月に日本代表の監督に就任した。 2010年の南アフリカ・ワールドカップでベスト16入りした日本を率いたザッケローニ監督は、就任から16戦負けなし。2011年のアジアカップでは決勝でオーストラリア代表を下して優勝するなどの功績を残した。 しかし、2014年のブラジル・ワールドカップでは、大きな期待を寄せられた中3戦未勝利、1分け2敗でグループステージ敗退。そのまま退任となっていた。 その後は、北京国安、UAE代表の監督を歴任。しかし、2019年1月以降はフリーとなっていた。 17日、自身の故郷でもあるチェゼナーティコで行われたパーティに参加したザッケローニ氏がインタビューに応対。古巣のミランやセリエAについて語る中で、日本代表監督時代についても語った。 「特別な4年だった。世界のどこにも存在しないほど、そこにはリスペクトがあった。天皇陛下に会った時、2500人の人がいた。しかし、彼は私に手を差し伸べてくれた。これは今までになかったことだ」 「人々は彼らを目にした時、泣き始めた。その国を去ることがとても大変だった。3日間涙した」 「ある女性からは、生まれたばかりの息子にザックという名前を付けたとも聞いた」 また、自身の今後についても問われると、意外な返答が。監督としての仕事を行わないと明かした。 「私はもうトレーニングしない。チェゼナーティコで、私の家族との時間を楽しみたい」 2020.07.19 12:35 Sun5