新体制移行のローマがスモーリング獲得に再び動く! 本人はイタリア残留希望を示唆?
2020.08.09 18:00 Sun
ローマが元イングランド代表DFクリス・スモーリング(30)の完全移籍での買い取りに向け、再び動き始めたようだ。イタリア『カルチョメルカート』が報じている。今夏、マンチェスター・ユナイテッドから300万ユーロ(約3億7000万円)の有償レンタルで加入したスモーリングは、公式戦35試合に出場し3ゴールを記録。首都ローマの新たな防衛大臣としてクラブ、ティフォージの双方から高い評価を集めていた。
しかし、2000万ユーロ(約25億円)を要求するユナイテッドに対して掲示した1400万ユーロ(約17億5000万円)のオファーは拒絶され、交渉は決裂。また、レンタル期間の延長オファーも断られ、同選手は今シーズンのセリエA終了後、レンタル期間終了に伴い、クラブを去っていた。
ただ、スモーリング退団後にローマは、ジェームズ・パロッタ会長からアメリカ『フリードキン・グループ』への5億9100万ユーロ(約738億円)のクラブ売却が合意に至っており、今月末までに新体制への移行が完了する予定だ。
これにより、財政問題を一時的に解決することができたローマは、積極的な補強に動くことはないものの、噂される一部主力の流出を回避できる見込みだ。さらに、新シーズンに向けて戦力を維持するため、今シーズンの主力を担ったスモーリングの買い取りを優先事項として交渉を進めていく構えだ。
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なお、当のスモーリング本人は9日、自身の公式ツウイッターを通じて、家族との休暇の様子を写した写真と共に、笑顔とハートマーク、イタリアの国旗を並べた絵文字を投稿しており、イタリア残留を希望しているとも取れるメッセージを残している。
◆イタリア残留希望を示唆?
— Chris Smalling (@ChrisSmalling) August 9, 2020
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