遠藤保仁の偉大な記録/六川亨の日本サッカーの歩み

2019.08.05 18:00 Mon
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©︎J.LEAGUE
先週末は何かと話題の多いサッカー界だった。8月4日のJ1リーグでは、2011年に心筋梗塞で亡くなった松田直樹さん(享年34歳)の命日であり、彼の所属した松本が強敵・川崎Fと0-0のドローを演じた。通算4試合目にして初の勝点獲得である。

G大阪からオランダ1部リーグのトゥエンテに移籍した中村敬斗は、開幕戦で古豪のPSVアイントホーフェンからゴールを奪い1-1のドローに貢献した。驚いたのは札幌の小野伸二が琉球への移籍が決まったことだ。今後はカズや中村俊輔のいる横浜FC戦(8月17日)でのデビューを目指すそうだ。

そんなトピックスのなかで注目したいのが、8月2日の神戸戦で公式戦通算1000試合出場を果たした遠藤保仁だ。鹿児島実業高校を卒業して横浜F(フリューゲルス)に入団すると、1年目の開幕戦、対横浜M(マリノス)戦でデビューを飾る。ストライカーではないし、小野のような天才肌のパサーでもない遠藤だが、長短のパスを緩急織り交ぜてゲームを組み立てる才能を当時の監督カルロス・レシャックは見抜いていたのだろう。

その遠藤が輝いたのは、小野らと出場した1999年のワールドユース(現U-20W杯)だ。当初は稲本潤一の控えだったが、稲本の負傷により1ボランチとしてチームを支え、初の準優勝に貢献した。

ワールドユースで戦ったチームメイトで今も現役なのは小野と、稲本(相模原)、高原直泰(沖縄)の3人しかいない。海外に目を向けても決勝戦で戦ったスペインのシャビ、準決勝で対戦したウルグアイのディエゴ・フォルラン、MVPに輝いたマリのセイドゥ・ケイタ(マリ人として初めてバルセロナでプレー)はすでに引退している。このことからも、遠藤はいかに息の長い選手かがわかる。

日本代表には2002年にジーコ監督のよって初招集され、2004年のアジアカップ優勝に貢献したが2006年のドイツW杯は中田英寿や福西崇史、小笠原満男、稲本らボランチは激戦区だったため、フィールドプレーヤーで唯一ピッチに立てなかった。

遠藤といえばFKとPKの名手であり、特に「ころころPK」は代名詞と言える。2007年のアジアカップの時だ。オシム監督は練習後にチーム全員でPKの特訓をした。PKを外した選手はピッチを1周する決まりだったが、3人だけ罰走をしなかった選手がいた。それは遠藤と中村俊、そして駒野友一の3人だった。

2010年の南アW杯で日本はパラグアイとのラウンド16をPK戦で敗れた。5人目のキッカー駒野がクロスバーに当ててしまったが、PKの名手がコントロールできなかったのは、120分間サイドを上下動して疲れがたまっていたからではないかと当時は思ったものだ。

遠藤の記録として、J1リーグ出場621試合は、昨シーズンで引退した楢崎正剛の631試合に次ぐ史上2位の記録で、フィールドプレーヤーとしてはトップの数字だ。あと10試合で楢崎と並ぶが、記録更新は呉宰碩(オ・ジェソク)や今野泰幸、米倉恒貴らベテランを放出して若返りを図る宮本恒靖監督が、どこまで遠藤に出場機会を与えるかどうかだろう。

日本代表としては国際Aマッチに152試合出場している。これは2位の井原正巳を30試合上回る歴代1位の記録だ。この記録を破る可能性があるのは18歳で代表入りした久保建英らごく限られた選手になるだろう。W杯は3大会連続、アジアカップは4大会連続の出場も遠藤ならではの記録だ。

偉大なるレジェンドがどこまで記録を伸ばし、記憶に残るプレーを披露するか。これもまたJリーグの楽しみの1つである。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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