ヴォルフスブルク

VfL Wolfsburg Football Club
国名 ドイツ
創立 1945年
ホームタウン ヴォルフスブルク
スタジアム フォルクスワーゲン・アレーナ
愛称 ヴォルフス

今季の成績

ブンデスリーガ 勝点 勝数 引分数 負数 得点 失点 得失差 試合数
11 アウグスブルク 43 11 10 12 34 49 -15 33
12 ヴォルフスブルク 40 10 10 13 55 54 1 33
13 ウニオン・ベルリン 38 9 11 13 34 48 -14 33
ニュース 人気記事 選手一覧 試合日程

ヴォルフスブルクのニュース一覧

ヴォルフスブルクは4日、ラルフ・ハーゼンヒュットル監督(57)を即時解任したことを発表した。 なお、U-19チーム監督のダニエル・バウアー氏(42)が暫定監督をと務め、U-19チームでアシスタントコーチを務めるユリアン・クラムト氏とU-16チーム監督のトビアス・ホルム氏がコーチを務めるとのことだ。 オースト 2025.05.05 11:00 Mon
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ドルトムントは3日、ブンデスリーガ第32節でヴォルフスブルクをホームに迎え、4-0で快勝した。 前節ホッフェンハイム戦を3-2で競り勝って連勝とし、6位浮上としたドルトムント(勝ち点48)は、ホッフェンハイム戦のスタメンからジャンに代えて負傷明けのグロスのみを変更した。 12位ヴォルフスブルク(勝ち点39) 2025.05.04 05:57 Sun
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フライブルクは26日、ブンデスリーガ第31節でヴォルフスブルクとのアウェイ戦に臨み、1-0で勝利した。フライブルクのMF堂安律は87分までプレーしている。 前節ホッフェンハイム戦を堂安のゴールなどで3-2と競り勝って連勝とし、5位に順位を戻したフライブルク(勝ち点48)は堂安が[4-2-3-1]の右MFでスタメン 2025.04.27 04:31 Sun
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マインツは19日、ブンデスリーガ第30節でヴォルフスブルクをホームに迎え、2-2で引き分けた。マインツのMF佐野海舟はフル出場している。 前節ホッフェンハイムに敗れて4試合勝ちなしと足踏みの5位マインツ(勝ち点46)は佐野が[3-4-2-1]のボランチで先発となった。 12位ヴォルフスブルク(勝ち点38)に 2025.04.20 06:28 Sun
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DFBポカール準々決勝の2試合が25、26日に行われた。 2年ぶりの王座を目指すRBライプツィヒは、ホームでヴォルフスブルクと対戦し1-0で勝利した。 ライプツィヒは開始早々の4分にカンプルが左サイドのスペースへロングパスを送ると、左サイドを駆け上がったシェシュコがダイレクトクロス。これをニアに走り込んだオ 2025.02.27 08:10 Thu
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チェルシーも狙ったドイツ女子代表、レナ・オーバードルフがバイエルン移籍

バイエルンは15日、ヴォルフスブルクからMFレナ・オーバードルフ(22)の獲得を発表した。契約は2028年6月30日までとなる。 オーバードルフは守備的MFで、2020-21シーズンからヴォルフスブルクでプレーし、ブンデスリーガ通算99試合に出場。ドイツ女子代表では44キャップを積み上げ、2022年の欧州選手権では大会最優秀若手選手に輝いた。 イギリス『スカイ・スポーツ』によると、ヴォルフスブルクとの契約満了が迫るなかのフリー移籍で、契約金は40万ユーロ(約6400万円)ほど。チェルシーも獲得を狙ったというが、ドイツ内移籍で去就決着となった。 バイエルンの女子チームマネージャーを務めるビアンカ・レヒ氏は「ドイツで最も才能のある選手の1人であり、将来有望な選手」と喜んだ。 「レナにバイエルン入団を説得できてとても嬉しく思う。彼女は私たちがこれからも成功を収め続けるのに不可欠な価値観を体現してくれると確信しているし、夏から私たちのためにプレーするのを楽しみにしている」 また、オーバードルフは「監督や強化部長と良い話ができたし、クラブがこれからの数年で達成したいビジョンをとても気に入った」と話した。 「彼女らは私にどれだけ可能性があるのか、何を引き出せるのかを説明してもくれた。私はまだ完成された選手だと思わない。夏まではヴォルフスブルクで全力を尽くし、それからの新たな挑戦を楽しみにしている」 2024.02.16 10:55 Fri
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【引退会見全文】J史上最高のストライカー、大久保嘉人「本当に最高のサッカー人生」「今は整理もついてスッキリした気持ち」

セレッソ大阪の元日本代表FW大久保嘉人(39)が22日、引退記者会見を実施した。 19日にクラブから今季終了をもって引退することが発表された大久保。JリーグではプロデビューしたC大阪をはじめ、ヴィッセル神戸や川崎フロンターレ、近年ではジュビロ磐田や東京ヴェルディなど6チームを渡り歩いた。また、2005年から2006年にかけてはスペインのマジョルカ、2009年1月から半年間はヴォルフスブルクでプレーするなど、20代半ばに海外挑戦も果たした。 J1通算191ゴール(11/22時点)の最多ゴール記録を誇り、3年連続でのJ1得点王と、成し遂げることが困難な記録を作り続けた大久保。引退発表には各方面から惜しむ声が届く中、記者会見に臨んだ大久保は冒頭から涙を流し、時折言葉を詰まらせながら、引退決断の経緯や、これまでのキャリア、引退後のこと、そして家族のことなどを語った。 「大久保嘉人は…今シーズンをもって…引退します」 「20年間という長い間でしたけど、本当に最高のサッカー人生でした」 「まだ、伝えたいことが本当にたくさんあるんですけど、皆様に感謝したいと思います。ありがとうございました」 ー(司会)今日はどんな引退会見にしたいと思っていますか 泣かない予定でしたが、速攻で泣いてしまいました。すいません。本当に素晴らしい会見にできたらと思います ー(代表質問)まだまだプレーできると見ているが、今回引退を決断した理由は 自分はプロになった時に引退はこういう引退がしたいなというプランがありまして、そうなるかは自分次第でわからないと思っていましたが、自分が動けるうちに、まだまだできるだろうと言われるうちに辞めたいと思っていて、それが今なのかなと思い決断しました ーJ1通算200ゴールまであともう少しだが、もったいないなと思うことは それは結構言われるんですけど、取りたいという気持ちはやっぱりありました(涙) だけど、まだまだ自分の力が足りなかったのかなと思っています ー今回の引退を決断された時に誰かに相談したか 特には相談しなかったです。自分がこういう性格で、決めたことは曲げないので、気持ちは固めて、すぐ妻に伝えました ー引退を伝えたときの奥様のご様子は 本当にそれで良いの?という感じでした。まだ整理がついていない感じでした ー子供たちにはどう伝えたか 決めて、発表する前日に横浜に帰りまして、長男も部活、次男もサッカーで帰ってくるのが夜10時過ぎで、帰りを待っていて椅子に座らせました 伝えようとした時に察したと思うんですが、自分がサッカーを辞めることではなく、5人目?女の子?と言われまして、そうじゃなくて、サッカーを辞めると伝えました ー伝えた時の子供たちのの反応はいかがでしたか 長男はもう分かっていると思うので、隠しながら、「お疲れさん」と言っていました。一緒に暮らしていないので、また一緒に暮らせる嬉しさと、サッカー選手じゃなくなる寂しさがあったように僕は見えました 三男は一緒に住んでいるので、大阪の友達ができて、もう別れるのという寂しさと、また家族で住める嬉しさを、今もどう表現して良いかわからない感じです ーお母様にはどう報告をされたか 辞めると決めていたので、今シーズンで辞めるねと電話しました ーその時の反応はいかがでしたか ダメとか、戸惑った感じは自分には見せていなかったです。ただ、妻と電話で話した時は寂しさはあったと思います ー最後はセレッソの選手として終わることとなりました。その気持ちは それについては、自分が最初に入ったチームがセレッソ大阪で、セレッソ大阪がなければ、自分がサッカー選手としてここまでやれていなかったと思いますし、このセレッソ大阪で全てを学び、移籍して色々なことを伝えられるようにもなりました まさか1回移籍して、色々なチームを渡り歩いて、またセレッソ大阪に戻してもらえたことは感謝しかないです 自分にはセレッソ大阪しかないんだなと。今、そういう思いでいっぱいです ー大久保嘉人にとってサッカーとはどんなものか 小さい時からサッカーをしてきて、自分がプロになり、子供たちに夢を与えられる仕事だと思っていました ー改めてファンへメッセージを 自分はこのサッカー選手になって、自分という、こういう汚いプレーヤーでしたけど、その中でも全然悔いはないですし、サッカーの時と普段の時の性格は全く違いますけど、サッカーで自分を貫き通せたことはあり、ここまでよくやってこれたなと自分でも誇りに思います そういうのは真似しない方が良いことはたくさんありましたが、それもサッカーだと思っていたので、悔いなくサッカー人生を終えられると。今は幸せです ー今回引退を決断されたタイミング、最大の理由は 引退を決断した時は、11月16日です。本当に最近なんですが、ふと車の中だったり、家に帰ったり、1人の時間が多い時に、ここ最近は引退しようかなと思っていた時もありましたし、そう思っていた時にメンタル的なこともそうですが、20年間苦しい思いの方が非常に強くて、それを見せないようにしないといけないなとずっと思っていたので、ずっと細い糸がギリギリ繋がっている状態でやっていました その中で1人になった時に、ここで辞めた方が良いのかなとふと思い、家でその場で決めて、すぐ妻に伝えました ー選手やOB、ファン・サポーターはまだやれる、寂しいという声もある。尊重するという前提がありながら、そういった声に関してはどういう思いが 一緒に戦った仲間だったり、ファン・サポーター、対戦したチームの関係者、選手だったり、皆さんには、自分としては感謝しかないです 一緒に戦っている選手たちには、これからサッカーを楽しんで欲しいなという気持ちと、もっともっと上を目指して、やって欲しいなというのを、これから伝えていきたいかなと思っています ープロ1年目の自身から考えて、J1最多得点、3年連続得点王を経て、今の姿はどう写っているか 1年目からメチャクチャで、長くサッカーはできないだろうと思われていたでしょうし、自分でも長くサッカーはできないと思っていました まさか39歳までやれるとは思っていなかったですし、得点王を3年連続取ることも想像していなかったので、思っていた以上のサッカー人生を送れました。幸せのまま終われると思います ー今後のことについてはどう考えているのか シーズンが終わっていないので、まだですが、シーズンが終わってこれから話し合いながら、色々なことにチャレンジしたいなと思っています 今すぐ言える目標はゴルフで90切りをやりたいなと。早めに切れたら良いなと今は思っています ーこの20年間、どう自分と向き合ってきたのか 自分は逆境に立ち向かっていかないと力が出ないタイプの選手だったので、このまま行ったら這い上がれないと思った時は、記者の皆様に自分にプレッシャーをかけるようなことを言って、そのように色々書いてもらったり、そうなると自分にプレッシャーがかかりますし、そこで立ち向かっていくということを20年間やってきました ーヒザのケガを抱えていた時期もあり、ケガとの戦いもあったと思う サッカー選手である以上はケガはつきものだと思いましたし、痛みに強く、ケガしていても弱いところは見せたくなかったです 大きなケガの時以外は、あまり休むことなく、やり続けてきました ー一番印象に残っている場面、シーンは いっぱいあります。入団した時のジュビロ磐田戦の初ゴールは自分のキャリアがスタートしたなと思いますし、その場面がすぐ浮かんできます ーやんちゃなプレー。色々と、そう言われてきたことについてはどう思っているか そういった選手がなかなかいなかったので、そういう選手でありたいと思っていましたし、やんちゃだとか、退場も多かったですし、言ってくださったことは自分らしいと思ってもいました それはサッカーの時だけですけど、突き通せたことは自分らしいかなと思いましたし、そこは誇りに思って辞めていけるかなと思います ーまだまだやれると言われることへの気持ちの整理は 200得点は誰よりも思いが強かったですし、そのチャンスがあるのは自分だけだったので、取れるまでやれとしか言われませんでした 自分の中でも良かったら取れるだろうし、悪かったら何年かかるかわからないので、今やめた方がスッキリするのかなと思っていました 皆さんに伝えたときは本当にスッキリして、言われることもないという気持ちで、今は整理もついてスッキリした気持ちです ー今後の日本サッカーについてどういう期待をしているか これからは日本サッカー界も色々な外国籍選手だったり、スーパースターも来たりすると思います。もっともっと盛り上げて、みんなが目標とするリーグになって欲しいと思っています ー息子(三男)と一緒に暮らして子供の成長、自身の成長はどうだったか 三男と2人暮らしで、今まで洗濯も家事も何もしてこなかった自分がやらないと、三男が可哀想だなとか、ご飯食べさせないと痩せていくなと考えて、それを考えるだけでも成長したなと自分は思います 自分が思ったことで行動ができるようになったかなと思います。子供のためにやらないといけない。やらないといけないけど、面倒なのでゴロゴロしていたものが動くようになりました。そこは成長しました 三男は妻とかと住んでいた時は何も自分のことはできませんでしたが、今はしないとついていけない、やっていけないので、自分で洗濯物を干したりするようになりました 2人で苦しい環境に置けば成長するんだなとつくづく思いました ー今後は指導者の可能性もあるのか 今までの経験を伝えなきゃいけないと思います。指導者ということも、どう指導するか、ライセンスゼロなので分からないですが、もっともっとサッカーのことも知りたいし、勉強したいということもあります 他にも違うことにチャレンジしていきたいというのもありますので、少しゆっくりして考えていきたいと思います ーセレッソに復帰するときに森島寛晃社長も大きかったと思う。背番号20を背負うときは西澤明訓への思いもあったと思うが引退はどう伝えたのか 自分の中で決めて、お伝えしました。辞めますと セレッソに戻ってこれたことに感謝していますし、恩返しという気持ちできたと伝えました ー2人からの言葉は まだできるだろうと言われました ー引退後の一番の楽しみは 今はゴルフに毎日行きたいぐらい、チャレンジしたいと思います まずは90切りを狙っていきたいなと。それを達成できたら、次の目標を立てて色々やっていきたいです 今のベストスコアは「91」です。あとちょっとです ーJリーガーを目指す全国の子供たちへメッセージを 今はサッカーを本当に好きになってもらって、これから大きくなっていくにつれて、大変なこと、上手くいかないことも出てくると思います そんな時にも投げやりにならずに、少しずつでも良いので、努力して、コツコツやることで後で大きくなり、自信につながる。諦めずに苦しいことにも立ち向かって、頑張って欲しいなと思います そうすると夢が叶うと僕は思っています ーライバル視していたDFの方、影響を受けた攻撃の選手は ディフェンスの選手は特にライバルという風に全く見たことがないです。凄い選手は一杯いましたが、僕はどう崩して点を取ることしか考えていなかったので、ライバルはいません 前の選手は森島さんに憧れてセレッソを選びましたし、森島さんを抜かないと試合に出られないと思っていたので、森島さんから全てを学んで、いつか抜ければ良いなと思って頑張ってきました ー天国のお父さんににどんなことを伝えたか (涙が止まらない大久保)やっぱり凄く厳しい父でしたけど、父が居なければ、サッカー選手になれていないかなと思います 報告したら、よくやったなと言われると思います ーストライカーとしての矜持。191ゴール以外にも海外でもゴールを決めた。自分でどういうストライカーだったと思うか。嗅覚という言葉で表現してきたが、今だから言えるゴールの極意があれば 野生的と言われてきましたけど、動くところとかは野生的だったと思います ゴールを取るために、確率を求めていましたし、その中でも、自分は元々ストライカーではなく中盤の選手だったので、パスの出し手の気持ちも分かることもあり、逆算をしながら、常にプレーをしていました FWのところから後ろに下がって行ったりしましたし、それはボールを触りたいからではなく、DFを見ながらプレーをすることで、DFがついてくれば、空いたスペースを他の選手が使ったりすれば得点のチャンスが増えると思ったり、パスを出す、センタリングを出す選手の位置、ここにボールを置いたらこっちにしか来ないと思った時は、どう相手のことを動かすべきか、考えることが多かったです 野生的と言われましたが、凄く色々考えていましたと今は伝えたいです ーそんな中での会心のゴールは プロになる前からスペインリーグでやりたいと思った時に、プロに入って4年後にマジョルカからオファーをもらい、行って、開幕戦。デビュー戦でのゴールは、いつも緊張しない自分が試合前に緊張しました その中でのアシストとゴールは今でも本当に忘れられないゴールになっています ーサッカーという仕事で、よくあそこまでキレられるなと。ピッチの近くで見ていても、口に出せないようなことを言ったりしていた。なかなか感情を仕事の場では出せないものだが、それをやっていた。どこからその感情を出していたのか まずは一番負けず嫌いなところがあります。サッカーを始めた頃は負けても全く何も思わず、声を出さないことばかりで、声を出さないから試合に使わないと言われたこともあります どこかで自分に自信がついた時に、自分は発言することは自信がなければできませんでした。サッカーをやって自信がついてきたと思います 自分のために言っているのではなく、その人のため、チームのために言うことで後々響くと思っていました 伝えないといけないという。黙っていても伝えないとわからないこともあったので、言ってしまいました 言わなくて良いこともいっぱいありましたけど、それは自分の中で消化できないので、一応伝えておこうと言うことで、伝えていました それが自分の強みにもなりました 伝え方はキレているので悪かったかもしれないですが、伝えることで自分のプレーができるんですが、もっと落ち着けば良くなると言われましたが、大人しくなればプレーも大人しくなったり、力を出せなくなるとわかっていたので、感情を出して力、エネルギーを出していました それは出してやって行って良かったなと今になっても悔いはないですし、良かったです 2021.11.22 23:01 Mon
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【平成史に残るレジェンドチーム50選】vol.38“鬼軍曹マガト”日本人選手の活躍も/ヴォルフスブルク[2008-09]

1989年1月8日に日本で始まった「平成」。日本では31年にわたって使用されてきたが、2019年4月30日をもってその時代が終わりを告げる。 日本サッカーにおいても激動の時代であった「平成」だが、目をヨーロッパに向け、同じ時代で印象に残ったレジェンドチームを超ワールドサッカー編集部が選出。記憶や記録に残る50チームを紹介していく。 <div style="position: relative;margin: 2em 0;padding: 25px 10px 7px;border: solid 2px #FFC107;"><span style="position: absolute;display: inline-block;top: -2px;left: -2px;padding: 0 9px;height: 25px;line-height: 25px;vertical-align: middle;font-size: 17px;background: #FFC107;color: #ffffff;font-weight: bold;">vol.38</span><p style="margin: 0; padding: 0;font-weight:800">2008-2009シーズン/ヴォルフスブルク 〜鬼軍曹の下で初戴冠〜</p></div> <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/1200/img/2021/2008-09wolfsblug.jpg" style="max-width: 100%;"></div><div style="text-align:right;font-size:x-small;">(C)CWS Brians,LTD.<hr></div><div style="padding: 0.5em 1em;margin: 2em 0;border: double 5px #4ec4d3;"><p style="margin: 0; padding: 0;">監督:フェリックス・マガト(56) 獲得タイトル:ブンデスリーガ 攻撃力9:★★★★★★★★★☆ 守備力7:★★★★★★★☆☆☆ タレント7:★★★★★★★☆☆☆ 連係7:★★★★★★★☆☆☆ 選手層6:★★★★★★☆☆☆☆ </p></div> <div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">鬼軍曹マガト</div> 世界的な自動車メーカーであるフォルクスワーゲンを親会社に持ちながら、ドイツの中で中堅クラブという地位に過ぎなかったヴォルフスブルク。しかし、バイエルンで2連覇を達成したマガト監督を2007年に招へいしたチームは、初年度こそ11位に終わったものの、続く2008-09シーズンにクラブ史上初となるリーグ制覇を成し遂げる。 シーズン序盤は不安定な戦いが続き、前半戦を9位で終えた。しかし、ウィンターブレイクを挟んで後半戦に入ると一変。19節から連勝街道を走り(結果的に10連勝)、第26節でバイエルンを5-1で下してついに首位に躍り出た。 その後、ヴォルフスブルクは首位の座を明け渡すことなく、本拠地フォルクスワーゲン・アレーナでの最終節を迎える。そして、ブレーメンに5-1で勝利を収めて優勝決定。悲願となるクラブ史上初のマイスターシャーレを掲げた。 この当時のヴォルフスブルクは、長谷部と大久保の日本人2選手が在籍していた。2007-08シーズンの冬に移籍した長谷部は、厳しい練習を課すマガト監督の信頼を勝ち取り、ポジションを奪取。シーズン終盤こそケガで戦列を離れたが、チームの優勝に大きく貢献した。一方の大久保は2008-09シーズンの冬に移籍したが、ジェコとグラフィッチの強力2トップの存在もあり、あまり出場機会を得ることができず。大きなインパクトを残せなかった。 <div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">2トップの威力</div> 鬼軍曹・マガト監督の下、厳しいトレーニングを乗り越えたチームの特徴は、破壊力のある2トップ。得点王のタイトルを獲得したグラフィッチが28得点、得点ランク2位のジェコが26得点と2人でゴールを荒稼ぎした(チームの総得点は80得点)。 この強力2トップに良質なボールを供給したのがトップ下のミシモビッチ。正確なパスで攻撃を司り、7ゴール20アシストという素晴らしい成績を残した。脇を固めた長谷部、ゲントナー、リーターらは豊富な運動量で攻守に奔走。中盤の底に位置したジョズエが守備に徹してチームを支えた。 最終ラインは、このシーズンにイタリアからやってきたバルザーリを中心に安定した守備を披露。最後尾に位置した守護神のベナーリオは抜群のショットストップを見せた。 <div style="padding: 0.25em 0.5em;font-weight:800;font-size:1.2em;color: #494949;background: #dbeeff;border-left: solid 5px #7db4e6;">ピックアップ・プレイヤー</div> <span style="font-weight:700;font-size:1.1em;">FWエディン・ジェコ(23)&FWグラフィッチ(30)</span> 合わせて54得点を叩き出した強力2トップ。大型ストライカー2人は、足元のうまさも兼備し、抜群の破壊力を見せた。特に、このシーズンで評価を大きく高めたジェコは、ビッグクラブから狙われる移籍市場の大目玉となり、2011年にはマンチェスター・シティへ移籍を果たした。その後はローマでプレーしている。 2019.04.22 12:00 Mon
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新星ザークツィーがまたも大仕事! バイエルンが終盤の2発で3連勝!《ブンデスリーガ》

バイエルンは21日、ブンデスリーガ第17節でヴォルフスブルクをホームに迎え、2-0で勝利した。 4日前に行われた前節フライブルクとの上位対決をザークツィーのデビュー戦ゴールで劇的な勝利を飾り、3位に浮上したバイエルン(勝ち点30)は、フライブルク戦のスタメンから累積警告のチアゴに代えてハビ・マルティネスを起用した。 8位ヴォルフスブルク(勝ち点23)に対し、[4-3-3]で臨んだバイエルンは3トップに右からニャブリ、レヴァンドフスキ、ペリシッチと並べた。 そのバイエルンが立ち上がりから押し込むと、12分にペリシッチのヘディングシュートでGKを強襲。しかし16分にピンチ。スルーパスに抜け出たクラウスに決定的なシュートを打たれたが、GKノイアーがファインセーブで凌いだ。 その後も攻勢に出るバイエルンはアラバの直接FKやミュラーのミドルシュート、ニャブリの枠内シュートでゴールに迫っていく。 しかし、GKカスティールスの好守もあってゴールを割れずにいると、ハーフタイムにかけては膠着状態に陥り、42分にはアーノルドに際どいシュートを打たれてしまう。そして前半終了間際にはハビ・マルティネスが右足太ももを負傷した中、ゴールレスで前半を終えた。 迎えた後半、53分にコウチーニョがミドルシュートでゴールに迫ったバイエルンだったが、ここもGKカスティールスのファインセーブに阻まれると、膠着状態に持ち込まれていく。 ゴールが遠いバイエルンは終盤の83分にザークツィーを投入。すると85分、またも大仕事を果たす。ニャブリのパスをボックス右で受けたミュラーが折り返したグラウンダーのクロスを右足ダイレクトで蹴り込んだ。 さらに89分、レヴァンドフスキの落としに反応したボックス中央のニャブリが左足ダイレクトで蹴り込み、終盤の2発でヴォルフスブルクを押し切ったバイエルンが3連勝で前半戦を終えている。 2019.12.22 01:34 Sun
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ヴォルフスブルク、生え抜きMFアルノルトと2026年まで契約延長

ヴォルフスブルクは12日、元ドイツ代表MFマキシミリアン・アルノルト(26)と2026年6月まで契約を延長したことを発表した。現行の契約から4年延長した格好だ。 2009年にヴォルフスブルクの下部組織に入団したレフティーのプレーメーカーであるアルノルトは、2011年にトップチームデビューを飾って以降、ヴォルフスブルクで公式戦296試合に出場して33ゴール37アシストを記録。 今季もブンデスリーガ17試合の出場で2ゴール4アシストと活躍し、3位と好調なチームを牽引する役割を果たしている。 クラブ生え抜きでチームの顔となっているアルノルトは今回の契約延長について「人生の半分近くをヴォルフスブルクで過ごしている。ここでプロ選手としてステップアップし、ブンデスリーガで結果を残すことができ、家族も持つことができた。そんなクラブを簡単に出ていくことはできないね」とコメントしている。 2021.02.13 02:30 Sat

ヴォルフスブルクの選手一覧

1 GK カミル・グラバラ
1999年01月08日(26歳) 190cm 28 0
12 GK パヴァオ・ペルヴァン
1987年11月13日(38歳) 194cm 0 0
29 GK マリウス・ミュラー
1993年07月12日(32歳) 192cm 6 0
30 GK ニクラス・クリンガー
1995年10月13日(30歳) 187cm
2 DF キリアン・フィッシャー
2000年10月12日(25歳) 182cm 32 1
3 DF セバスティアン・ボルナウ
1999年03月22日(26歳) 14 2
4 DF コンスタンティノス・コウリエラキス
2003年11月28日(22歳) 187cm 29 0
5 DF マッズ・ルアスレウ
1999年06月24日(26歳) 184cm 7 0
13 DF ロジェリオ
1998年01月13日(27歳) 178cm
18 DF デニス・ヴァヴロ
1996年04月10日(29歳) 190cm 27 2
21 DF ヨアキム・メーレ
1997年05月20日(28歳) 186cm 79kg 27 3
22 DF マタイス・アンジェリ
2007年04月21日(18歳) 190cm 0 0
33 DF デビッド・オドグ
2006年06月03日(19歳) 3 0
44 DF ティル・ネイニンジャー
2007年04月03日(18歳) 0 0
6 MF アステル・ヴランクス
2002年10月04日(23歳) 183cm 14 0
16 MF ヤクブ・カミンスキ
2002年06月05日(23歳) 179cm 21 0
19 MF ロヴロ・マイェル
1998年01月17日(27歳) 176cm 74kg 8 2
24 MF ベンス・ダルダイ
2006年01月24日(19歳) 189cm 20 1
27 MF マキシミリアン・アルノルト
1994年05月27日(31歳) 184cm 27 3
31 MF ヤニック・ゲルハルト
1994年05月13日(31歳) 184cm 28 1
32 MF マティアス・スヴァンベリ
1999年01月05日(26歳) 185cm 75kg 20 3
38 MF ベニット・ブレーガー
2006年07月01日(19歳) 0 0
39 MF パトリック・ヴィマー
2001年05月30日(24歳) 182cm 28 3
7 FW アンドレアス・スコフ・オルセン
1999年12月29日(25歳) 187cm 78kg 11 1
9 FW モハメド・アムーラ
2000年05月09日(25歳) 170cm 30 11
10 FW ルーカス・エンメチャ
1998年12月14日(26歳) 185cm 18 2
11 FW チアゴ・トマス
2002年06月16日(23歳) 180cm 32 6
14 FW バルトシュ・ビアリェク
2001年11月11日(24歳) 191cm 0 0
17 FW ケビン・ベーレンス
1991年02月03日(34歳) 184cm 17 1
23 FW ヨナス・ヴィンド
1999年02月07日(26歳) 190cm 82kg 31 9
37 FW ジョナサン・アカエグボビ
2006年04月25日(19歳) 0 0
40 FW ケビン・パレデス
2003年05月07日(22歳) 170cm 2 0
監督 ラルフ・ハーゼンヒュットル
1967年08月09日(58歳)

ヴォルフスブルクの試合日程

ブンデスリーガ
第1節 2024年8月25日 2 - 3 vs バイエルン
第2節 2024年8月31日 0 - 2 vs ホルシュタイン・キール
第3節 2024年9月14日 1 - 2 vs フランクフルト
第4節 2024年9月22日 4 - 3 vs レバークーゼン
第5節 2024年9月28日 2 - 2 vs シュツットガルト
第6節 2024年10月5日 1 - 3 vs ボーフム
第7節 2024年10月20日 2 - 4 vs ブレーメン
第8節 2024年10月26日 0 - 0 vs ザンクト・パウリ
DFBポカール
2回戦 2024年10月29日 1 - 0 vs ドルトムント
ブンデスリーガ
第9節 2024年11月2日 1 - 1 vs アウグスブルク
第10節 2024年11月10日 1 - 3 vs ハイデンハイム
第11節 2024年11月23日 1 - 0 vs ウニオン・ベルリン
第12節 2024年11月30日 1 - 5 vs RBライプツィヒ
DFBポカール
ラウンド16 2024年12月4日 3 - 0 vs ホッフェンハイム
ブンデスリーガ
第13節 2024年12月8日 4 - 3 vs マインツ
第14節 2024年12月13日 3 - 2 vs フライブルク
第15節 2024年12月22日 1 - 3 vs ドルトムント
第16節 2025年1月11日 0 - 1 vs ホッフェンハイム
第17節 2025年1月14日 5 - 1 vs ボルシアMG
第18節 2025年1月18日 3 - 2 vs バイエルン
第19節 2025年1月24日 2 - 2 vs ホルシュタイン・キール
第20節 2025年2月2日 1 - 1 vs フランクフルト
第21節 2025年2月8日 0 - 0 vs レバークーゼン
第22節 2025年2月15日 1 - 2 vs シュツットガルト
第23節 2025年2月22日 1 - 1 vs ボーフム
DFBポカール
準々決勝 2025年2月26日 1 - 0 vs RBライプツィヒ
ブンデスリーガ
第24節 2025年3月1日 1 - 2 vs ブレーメン
第25節 2025年3月8日 1 - 1 vs ザンクト・パウリ
第26節 2025年3月15日 1 - 0 vs アウグスブルク
第27節 2025年3月29日 0 - 1 vs ハイデンハイム
第28節 2025年4月6日 1 - 0 vs ウニオン・ベルリン
第29節 2025年4月11日 2 - 3 vs RBライプツィヒ
第30節 2025年4月19日 2 - 2 vs マインツ
第31節 2025年4月26日 0 - 1 vs フライブルク
第32節 2025年5月3日 4 - 0 vs ドルトムント
第33節 2025年5月9日 2 - 2 vs ホッフェンハイム
第34節 2025年5月17日 22:30 vs ボルシアMG