韓国対マレーシア戦は想定外のドローで日本の相手はバーレーンに/六川亨の日本サッカー見聞録

2024.01.26 23:10 Fri
Getty Images
1月12日に始まったアジアカップ2023も25日でグループリーグの全試合が終了した。日本がイラクに完敗して2位通過となったのは当初の予想と違ったものの、イラクの勝利は順当だっただけに、グループAからDの各1位(カタール、オーストラリア、イラン、イラク)とグループF1位のサウジアラビアは予想通りといったところ。

そうした中で想定外だったのが韓国の入ったグループEだ。韓国は初戦こそバーレーンを3-1と一蹴したが、ヨルダン戦は1-2とリードを許し、アディショナルタイムのゴールで2-2のドローに追いついた。
前日の日本はイラクに2点のリードを許し、CKから遠藤航のゴールで1点を返すのが精いっぱい。しかし韓国はドローに持ち込むあたり、粘り強さと勝負強さを感じたものだ。

この結果、グループEはヨルダンと韓国が1勝1分けの勝点4で並び、得失点差でヨルダンが1位、韓国が2位で最終戦を迎えた。韓国の相手は2連敗で最下位のマレーシア、ヨルダンはマレーシアを1-0で下したバーレーン(1勝1敗)が相手。韓国が勝点3を奪うのは確実だろうし、ヨルダンもドロー狙いを遂行すると思われた。

ところが「サッカーは何が起こるかわからない」から面白い。元々バーレーンはカウンターに定評があり、2000年以降の日本も苦しめられた経験がある。FIFAランクもバーレーン86位、ヨルダン87位と拮抗していたこともあり、結果はバーレーンが1-0の勝利を収めて2勝1敗で勝点を6に伸ばした。
そして韓国である。1トップに長身FWチョ・ギュソン(ミッティラン/デンマーク)を据え、トップ下にソン・フンミン(トッテナム)、右MFイ・ガンイン(パリ・サンジェルマン)、左MFチョン・ウヨン(シュツットガルト)、ボランチにイ・ジェソン(マインツ)とファン・インボム(ツルヴェナ・ズヴェズダ)、CBにキム・ミンジェ(バイエルン)と並ぶ豪華な布陣は日本に勝るとも劣らない。

しかし、ボール保持率で圧倒的にマレーシアを上回りながら、攻撃は両サイドからのアーリークロスという単調な攻めに終始。FWチョ・ギュソンはファーサイドに流れてヘディングシュートを狙ったものの、クロスはその前にマレーシアCBに跳ね返されて彼まで届かない。それでも前半21分に左CKから先制点を奪ったが、後半6分には自陣ゴール前でファン・インボムが不用意なボールキープを奪われ同点ゴールを許してしまう。

さらに後半17分には左SBソル・ヨンウが相手の足ごとボールをクリアしてPKを与え、まさかの逆転弾。マレーシア・サポーターが詰めかけた会場が大いに沸いたのはいうまでもない。

リードを許したユルゲン・クリンスマン監督は、後半19分に機能しないFWチョ・ギュソンをファン・ヒチョン(ウォルバーハンプトン)に代えると、後半20分には失点に絡んだファン・インボム、後半31分にはソル・ヨンウをベンチに下げる。かなりシビアな采配と感じたものだ。

しかし、その甲斐あってか後半38分にイ・ガンインのFKからバーに当たった跳ね返りがGKの伸ばした手の甲に当たってゴールに飛び込み同点に追いつくと、アディショナルタイム1分には交代出場のオ・ヒョンギュ(セルティック)が倒されて獲得したPKをソン・フンミンが左下に決めて逆転に成功する。さすが韓国と感心せざるを得なかった。

ところが試合はまだ終わらない。アディショナルタイムは12分だったが、手元の時計で15分過ぎに(公式記録は45分+12分)交代出場のロメル・モラレスが値千金の同点弾をゴール右下に突き刺した。マレーシアベンチが大騒ぎになったのは言うまでもない。

後半の韓国はサイドバックの攻撃参加も絡めて両サイドを何度もえぐってマイナスのクロスを供給したが、マレーシア選手の身体を張ったブロックに阻まれたり、そのこぼれ球からのシュートも人の壁とGKによって無力化されたりした。

ボール保持率が高い割に、サイド攻撃にこだわった、効率の悪い攻撃に見えたものの、それが韓国伝統のストロングポイントでもあるのだろう。そしてソン・フンミンは、トップ下ではなくFWで起用した方が怖い選手だと思ったものだ。

25日は午前中に森保一監督と現地で取材している記者とのティータイムがセッティングされ、1時間ほど意見交換する機会があった。その場では、日本の決勝トーナメント1回戦の相手は韓国であることが無言の了解事項だった。

ところが韓国がマレーシアと3-3で引分けたため2位に後退。日本の相手はバーレーンということになった。韓国ほどの総合力はないだろうが、カタールとは目と鼻の先にある国だけに、大勢のサポーターがチームを後押しする可能性がある。

194センチの長身FWユスフ以外にも警戒すべき選手はいるだろう。日本は2位でのグループリーグ通過だが、1週間のインターバルがあることは、対戦相手の分析はもちろん、三笘薫の復帰にも好材料と考えたい。


【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた


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伝説の試合74年W杯決勝で残念だったこと/六川亨の日本サッカー見聞録

先週日曜日からNHK BSの『Jリーグタイム』の放送時間が変更された。そして『Jリーグタイム』の後に新番組、『FIFAワールドカップ伝説の試合ノーカット』という新番組がスタートした。過去のW杯の名勝負を4Kの高画質で再現した番組で、確かに画像は明るく鮮明で見やすかった。 記念すべき第1回は1974年西ドイツW杯決勝の西ドイツ対オランダ戦。“皇帝”フランツ・ベッケンバウアーと“空飛ぶオランダ人”ヨハン・クライフの対戦でも注目を集めた試合だった。当時の記憶によると、すでにベッケンバウアーは西ドイツで“カイザー(皇帝)”というニックネームをつけられていたと思う。これに対しクライフは、西ドイツW杯2次リーグのブラジル戦で、左サイドのルート・クロルからのクロスを右足インサイドのジャンピングボレーで決めたことから“空飛ぶオランダ人”のニックネームがつけられたと記憶している。 番組はジョン・カビラ氏がMCを務め、ゲストには日本人プロ第1号の奥寺康彦氏、2011年女子W杯優勝メンバーでMVPと得点王を獲得した澤穂希氏、そして東京芸大学長でアーティストの日比野克彦氏が当時のサッカー界の思い出などを語った。 試合はゲスト解説に藤田俊哉氏と森岡隆三氏を迎えてスタートした。藤田氏は1971年生まれだが、当時はまだ3歳だったためライブでの記憶はないだろう。森岡氏は1975年生まれのため当然ながら覚えていない。 ミュンヘンの旧オリンピア・シュタディオンは7万人超の満員の観衆で埋まった。このスタジアムは1988年のEUROで訪れたが、陸上のトラックがある割にはスタンドの傾斜が急なため見やすいスタジアムだった。残念ながら地元の西ドイツは準決勝でオランダに敗れたため超満員とはいかなかった(試合はオランダがルート・フリットとマルコ=ファン・バステンのゴールでソ連を2-0と破って国際大会で初優勝)。 西ドイツ対オランダ戦に話を戻すと、74年はまだビデオデッキは普及していなかったため、決勝戦を録画することはできなかった。そこで後年、社会人になってからビデオデッキを購入した際に英国BBC製作の西ドイツ対オランダ戦のVHSビデオを入手した。 試合が始まってから、アナウンサーは数字をカウントするだけ。最初は意味がわからなかったが、それはキックオフからオランダがパスをつないだ本数だった。イングランドといえば1966年イングランドW杯決勝の因縁もあり西ドイツとはライバル関係というか、両国ともヨーロッパでは嫌われている印象が強い。このためBBCのアナウンサーは西ドイツをバカにしたのだろう。 オランダはキックオフからDFラインでパスをつなぎ、10本目のパスでクライフが自陣に下がりパス受けて出す。そして16本目のパスを再びクライフが受けるとドリブル突破を開始、マーカーのベルティ・フォクツを振り切りペナルティーエリアに侵入したところでウリー・ヘーネスに倒されPKを獲得した。 試合開始から西ドイツは一度もボールに触れることなくPKから失点。それをBBCのアナウンサーは強調したいため、あえてオランダのパスの本数をカウントしていたというわけだ。 藤田氏と森岡氏は当然知らなかっただろうが、できればNHKのスタッフにはPKの獲得に至る冒頭のシーンを紹介して欲しかった。そして当時のPKは左右の下か上のスミを狙うのがセオリーだったが、ヨハン・ニースケンスは真正面に強シュートを放った。いまでは多くの選手が試みているが、最初に目撃したのはニースケンスのこのシュートで、76年のEURO決勝、チェコスロバキア対西ドイツ戦でチェコスロバキアのアントニーン・パネンカのチップキックによるPK以来の衝撃だった(その後、チップキックによるPKをパネンカと呼ぶようになる)。 次回14日の放送カードは1986年メキシコW杯の準々決勝、フランス対ブラジル戦。この試合はメキシコ第2の都市グァダラハラのハリスコ・スタジアムで開催され、メキシコシティからオンボロのバスに揺られて取材に行った。グァダラハラはブラジルがグループリーグ3試合を戦ったことから多くのブラジル人ファン、サポーターが居残り(誰もが優勝を信じていたため)、さらに地元メキシコのファンもブラジルを応援していた。 記者席では、ベンチスタートのブラジルの背番号『10』がいつアップを開始するのか、試合を取材しながらもジーコの一挙手一投足から目を離せなかった。そして試合は、第1回目と同様にPKがカギを握ることになる。これ以上は番組をお楽しみにお待ちください。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2024.04.11 21:30 Thu

攻撃陣が楽しみなU-23日本代表/六川亨の日本サッカー見聞録

パリ五輪の出場権がかかるU-23アジアカップ2024に出場する日本代表23名が決定した。意外だったのは左SBのレギュラー候補と思っていたバングーナガンデ佳史扶が外れたことだ。当初はGKに鈴木彩艶が招集可能ということで、「1クラブ3名」という招集制限からFC東京は松木玖生、荒木遼太郎に加えて佳史扶で、GK野澤大志ブランドンが招集外になるかと予想していた。 しかしシント=トロイデンのトルステン・フィンク監督は鈴木の招集を拒否したことから、野澤がFC東京の「3人目の枠」として招集されたようだ。大岩剛監督も「人数制限だったり、悩みは大会で選手を選ぶ時には起こりえること」と選手招集の難しさをのぞかせれば、山本昌邦NTDは「何が正しいかわからないなか、ここまでたどり着いた。全クラブが合意に基づいて協力してくれた。そこは感謝しかないのでみんなの力を結集したい」とお礼の言葉を述べていた。 「3人枠」といえば、12年ロンドン五輪の際にC大阪にはU-23日本代表候補に清武弘嗣、山口蛍(現神戸)、扇原貴宏(現神戸)、杉本健勇(現大宮)の4人がいた。このままでは代表に選ばれるかどうか微妙なため、杉本は東京Vへ移籍することで「3人枠」を回避し、大迫勇也とのポジション争いに勝って代表の座をつかんだのは有名な話。4人ともレギュラーだったため選択できた決断だろう。 そして大岩監督や山本NTDは多くを語らなかったが、斉藤光毅(スパルタ)や鈴木唯人(ブレンビー)など、呼びたくても呼べなかった海外組がいたことも確かだろう。それでも攻撃陣は、FC東京への移籍でストライカーとして活躍することで代表入りを果たした荒木らJでもレギュラーで活躍している選手が多いだけに人材は豊富だ。 日中の気温は30度を超える厳しい環境で、グループリーグは中2日の3連戦となる。前線からの守備など消耗の激しいFW陣はターンオーバーでの戦いを余儀なくされるだろう。そこで、絶対に負けてはならない初戦の中国戦は細谷真大の1トップでカウンタースタイルから最低限でも勝点1を確保しつつ、1-0の僅差で逃げ切る戦い方で臨むことができる。 そして勝利が必要なUAE戦は、ポストプレーを得意としてフィジカルの強さが武器の藤尾翔太で厚みのある攻撃を仕掛けるのはどうだろう。状況によっては荒木との2トップでも面白い。そして第3戦の韓国戦は、グループAの1位と2位は地元カタールなのか、近年は安定した成績を残しているオーストラリアなのか、1位抜けと2位抜けのどちらがベターかを判断しながら戦うことができれば理想的だ。 そしてJ1リーグの第6節、FC東京が浦和戦で見せた荒木と松木の2トップは日本の秘策として残しておいてもいい。準々決勝を突破しても、次にはサウジアラビアやイラク、ウズベキスタンなどが控えていて、ここを突破しない限り五輪キップはつかめないだけに、攻撃の選択肢は多ければ多いほどいい。 不安は経験不足が否めないGKとCB陣だが、これはもう現メンバーで戦い抜くしかない。山本NTDもこの年代は21年のU-20W杯インドネシアが新型コロナウイルスの影響で中止となり、23年のアルゼンチン大会は1勝2敗でグループリーグ敗退と「世界大会の経験不足がある」ものの、これはこれから補っていくしかない。 16年のリオ五輪予選からホーム・アンド・アウェーではなくセントラルでの一発勝負という難しい大会になったが、カタールでは痺れるような経験を積みながら、パリへの出場権を獲得して欲しい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2024.04.04 21:30 Thu

宮本新会長誕生で『会長の決断』とは/六川亨の日本サッカー見聞録

JFA(日本サッカー協会)は3月23日、新会長に「内定」していた宮本恒靖氏を新たな理事による第5回理事会で、互選を経て第15代の会長に正式に就任したことを発表した。 この会見には22日に亀岡でのU-23日本対U-23マリを取材し、その足で24日のJ2リーグ山口対愛媛、25日に小倉でU-23日本対U-23ウクライナの取材を予定していて移動中だったため参加することができなかった。 ところが仕事仲間が当日、宮本会長の会見を取材した折り、机の上に昨年の会長選の際に作成した“マニュフェスト”があったため、余分に確保して親切にも郵送してくれた。 初めて目にしたマニュフェストの冒頭には「会長選の流れを決定づけた」と言われた岡田武史JFA副会長との対談が6ページにわたってあった。 対談の冒頭、岡田副会長は「代表監督選びについては技術委員会で候補者を選出して、最終的には会長と技術委員長を含めた数名で決めるんだけど、俺は最終的には会長がリーダーシップを発揮して決めなくてはいけないと考えている」と断言した。 その理由として「俺も代表監督時代から言ってはきたけど、技術委員長ではなくてやっぱり会長がやるべきことなんだよね」 「自分のサッカー観を持ったうえで決断するわけだから、(会長は)サッカーをしっかりと知っている人のほうが望ましいし、ツネなら言うまでもない」 元日本代表監督で現職の副会長にここまで言われては、会長選に立候補した鈴木徳昭氏の出番はないだろうと思った。鈴木氏は日本代表でもなければ、日産自動車に所属していた時でもJSLでのプレー経験はない。JFAとJリーグ、さらにW杯招致委員会、AFC、東京五輪招致委員会などで実務を担当してきた“裏方”だったからだ。 そして岡田副会長の「代表監督人事は会長」にも納得してしまった。 岡田監督は加茂周前監督からバトンタッチされ、“ジョホールバルの歓喜”で日本を初のW杯へ導いた。しかしフランスでは3連敗を喫したため、岡田監督の続投を求める声は皆無だった。99年にJ2札幌の監督に就任すると、2000年にはJ2優勝とJ1復帰を果たす。さらに03年からは横浜F・マリノスを率いてJ1リーグ連覇を達成するなど黄金時代を築いた。 そんな同氏が再び代表監督に就任したのが07年12月、イビチャ・オシム監督が脳梗塞で倒れたからだった。小野剛JFA技術委員長からの打診だったが、小野はフランスW杯でコーチに抜擢した旧知の仲だけに断ることはできなかっただろう。 こうして臨んだ南アW杯だったが、大会前にちょっとした“事件”があった。JFA会長に犬飼基昭が就任すると、技術委員長の強化担当に原博実を招聘。小野は「育成」の技術委員長と役職が変更になった。それでも小野は南アW杯前のスイス・オーストリアキャンプから岡田ジャパンを陰ながらサポートした。 南アW杯で岡田は日本人監督として初めてグループリーグを突破した。しかしラウンド16でパラグアイにPK戦の末に敗れた。中村俊輔の負傷が長引き、本田圭佑の0トップという大胆な発想も、岡田監督の評価にはつながらなかった。当時のサッカー界に、「監督は4年で代わるもの」という固定観念も少なくなかった。 岡田監督にしてみれば、早稲田大学の後輩であり、Jリーグでは監督としてこれといった実績のない原技術委員長に出処進退を決められるのは納得のできないことだったのではないだろうか。だから監督人事は「技術委員長ではなくてやっぱり会長がやるべきこと」と断言したと思えてならない。 この「会長が決断する」流れは田嶋幸三・前会長に受け継がれた。 JSLでのプレー経験こそあれ、Jリーグと代表での経験はないもののその実務手腕を見込んで原技術委員長が招いた霜田正浩(現松本監督)は、原がJFA専務理事に転出すると技術委員長に就任。しかし初めての会長選で原を破って会長に就任した田嶋は、原を2階級降格の理事にすることでJFAでの立場を失脚させる。 田嶋会長はロシアW杯を前に技術委員会を再編し、西野朗を技術委員長に招聘し、霜田をNTD(ナショナル・チーム・ダイレクター)に降格。霜田も自ら身を引くことになった。そしてW杯直前にはヴァイッド・ハリルホジッチ監督を解任し、西野を代表監督に据える人事を強行した。 22年カタールW杯で森保ジャパンはグループリーグでドイツとスペインを倒すジャイアントキリングを演じながらもベスト16でPK戦により散った。反町技術委員長は、一説には元チリ代表のビエルサ監督の招聘に乗り気だったという。しかし田嶋会長は大会直後にも森保続投を支持。森保監督と反町技術委員長との関係に配慮して、山本昌邦NTDを招聘したとの噂もある。そして反町技術委員長は3月を持って退任する予定だ。 代表監督人事は、最終的な決断は会長が下すのはどこの国も同じだろう。では技術委員会の役割は何なのか。これはこれで、はっきりさせておく必要がある。会長が「こう言ったから右に倣え」では、“忖度”であり技術委員会の存在意義そのものが問われかねない。 影山雅永技術委員長(男子)や佐々木則夫技術委員長(女子)などを理事職から外し、理事会のスリム化と女性理事の登用に積極的な宮本新会長。男女の代表戦の放映権の高騰により地上波で試合が見られないなど厳しい船出が待ち受けているかも知れないが、まずはパリ五輪男子の出場権獲得に万全の態勢で臨んで欲しい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2024.03.30 11:00 Sat

北朝鮮戦の扱いをAFCはFIFAに丸投げ/六川亨の日本サッカー見聞録

JFAは22日、3月26日に平壌で開催が予定されていた北中米W杯アジア2次予選の朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)対日本戦が中止になったと発表した。これはAFCが「北朝鮮対日本の試合は予期せぬ事情により、予定通りには開催されない」という声明を受けてのもの。 そして、すでに3月20日の時点で北朝鮮サッカー連盟からは第三国での試合開催を要望していることも伝えられていたという。北朝鮮も北朝鮮なら、AFCもAFCである。なぜもっと早くその情報を開示しなかったのか。 日本は“海外組”が多いため、移動が選手の負担になることくらい知っているだろう。案の定、裁定・決断能力に欠けるAFCは今回の試合の顛末をどうするのか、判断をFIFAに“丸投げ”した。これではAFCの存在意義が問われても仕方ないだろう。果たしてFIFAはIMD以外の日程で再試合にするのか、それとも没収試合で日本の不戦勝を認めるのか。そして直前での入国禁止に対してホームゲームの開催権の剥奪など何らかのペナルティーが北朝鮮に課せられるのかどうか。 2006年ドイツW杯アジア最終予選では、イラン戦後に観衆が暴徒化して、ペナルティーとして日本戦は中立地タイ・バンコクのスパチャラサイ国際競技場で、無観客試合として行われた(無観客試合にもかかわらず、北朝鮮の関係者と家族が試合を観戦していた)。日本からもサポーターが駆けつけ、スタジアムの外から熱心な声援を送っていた。 FIFAは日本戦の扱いをどうするのか、その最終判断と、6月にシリアとミャンマーは北朝鮮に入国できるのかどうか。こちらも興味深いところである。 さて昨日はU-23日本対U-23マリの試合が京都の亀岡にあるサンガスタジアムで開催された。開始2分に平河悠のゴールで先制したまでは良かったが、15分を過ぎる頃からマリも日本の攻撃パターンに慣れたのか反撃を開始。日本のミスに乗じて前半で同点に追いつくと、後半も2ゴールを追加して日本を一蹴した。 両チームを比較して、顕著だったのがチームの完成度の違いだ。マリはアフリカ代表とはいえ、全選手が海外組で、多くの選手がフランスやスペイン、ポルトガル、イングランドなどヨーロッパでプレーしている。身体能力の高さに加え戦術的にも洗練されていた。 もうアジア最終予選は来月に迫っているため「今さら」だが、Jリーグで出場機会に恵まれない選手を週末に集め、大学勢やJFLのチームとテストマッチを組むなどして実戦経験の場を増やしておくべきだった。マリはもちろんパリ五輪出場を決めているウクライナとの試合も「いい経験」にはなるだろうし、選手の奮起と自覚を促すかもしれない。しかし試合が終われば所属チームに戻り、選手によっては以前と同じ環境に置かれるかもしれない。 個々の選手の才能は疑う余地はないものの、2月から4月に日程が変更されたことで、“海外組”の招集は難しくなった。今年のアジアカップの時は気温が下がり肌寒かったが、4月の予想気温は最低が25度、最高が35度と猛暑のなかでの消耗戦になる。 元々は23年夏に中国で開催予定だったアジアカップが24年1~2月にカタールで開催されることになったための変更だが、2月下旬から3月上旬にかけての開催なら問題ないだろう。カタールにも事情があったかもしれないが、これも「AFCは何も考えていない」としか思えない開催時期の変更である。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2024.03.23 22:15 Sat

伊東純也のメンバー外で思い出したこと/六川亨の日本サッカー見聞録

3月14日、14時からの代表メンバー発表ということで、誰もが気になったのが背番号14の去就だろう。結論から先に言うと、森保一監督は「ひとことで言うと、彼を守るために招集しなかったという判断を、私自身がさせていただいた」と切り出した。 スタッド・ランスでは活躍しているため「彼のパフォーマンスと状況を踏まえたうえで招集は可能だと思っているし、招集したいと思っていた」ものの、日本では性加害疑惑で訴えられているため、「招集した場合に日本で彼を取り巻く環境がどういうものになるかと想像したときに、彼が落ち着いて生活できる、落ち着いてプレーできる環境にはならないことを私自身が想像している。彼が一番大切している家族、大切にしている方々への影響を考えたときに招集しない方がいまはいいのかなと思って判断した」と心情を吐露した。 もしも伊東純也が北朝鮮戦のために来日したら、テレビはもちろん新聞、雑誌などあらゆるメディアが空港や練習会場に押し寄せ、伊東のコメントを取ろうと躍起になるはずだ。しかしサッカーで注目されるならともかく、サッカー以外でのコメントは伊東も出しようがないだろう。ここは森保監督の判断を尊重したい。 今回の森保監督の“配慮”で思い出したのが、98年フランスW杯前の岡田武史監督だった。「ジョホールバルの奇跡」で日本を初のW杯へ導いた岡田監督。当時は多くのメディアが岡田監督の自宅に押しかけ、コメントを取ろうと必死になった。いわゆる「岡ちゃんフィーバー(もはや死語か)」である。 見知らぬ自称“友人”がたくさんできて、メディアでコメントを発していた。 残念ながらフランスW杯は3連敗に終わり、中山雅史が1ゴールを決めるのがやっとだった。そして、この時の「岡ちゃんフィーバー」を見たJFAの幹部会は、次の日本代表監督に日本人ではなく外国人監督を招聘することを決断した。 自国開催のW杯で、過去の例からホストカントリーは最低限グループリーグを突破しなければならない(2010年の南アは初のグループリーグ敗退)。しかし、万が一グループリーグで敗退したら、大会前の盛り上がりから一転、監督はサッカーファン・サポーターだけでなく国民からも厳しい批判を受ける可能性が高い。場合によっては日本で二度と監督はできなくなるかもしれない。 そうした危惧を抱きつつ、外国人監督だったらグループリーグで敗退しても自国へ戻れば監督業を続けられるだろう。そうした思惑もあり、Jリーグで監督経験のあるアーセン・ヴェンゲル氏にオファーを出し、彼が紹介してくれたフィリップ・トルシエ監督と契約した。結果はご存知の通りW杯はグループリーグを突破したし、99年のワールドユース(現U-20W杯)では準優勝という好成績を収めた。 その一方で、2014年のブラジルW杯後に日本代表の監督に就任したハビエル・アギーレ氏は、サラゴサ時代に八百長疑惑があったと報道されたことで、翌年2月に「契約解除」という異例のケースで日本を去った。 まだ裁判で有罪か無罪か確定していないにもかかわらず、JFAとしては「八百長」という言葉に敏感に反応したのだろう。いささか潔癖症かもしれないが、外国人監督なら日本を去ってもヨーロッパや中南米で監督業を続けられるだろうという目論見があったとしても不思議ではない。 伊東の場合は戦力として欠かせないし、日本人のため今後もフォローは必要になるが、疑惑が晴れるまで国内の試合に招集するのは森保監督も躊躇うだろう。しかし、今年の秋からは(2次予選を突破したら)最終予選が始まり、北中米W杯は2年後に迫っている。どこかのタイミングで、誰かが伊東の代表復帰を決断しなければ、日本サッカーにとって大きな損失である。 森保監督にその責を担わせるのではなく、ここは宮本恒靖JFA会長が理事会の総意として伊東の代表復帰を後押しして欲しい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2024.03.15 08:30 Fri
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