シーズン移行の結論は12月or先送り?/六川亨の日本サッカー見聞録

2023.11.30 15:00 Thu
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JFA(日本サッカー協会)は、来年3月に改選を迎える会長選で、宮本恒靖JFA専務理事を唯一の会長候補として29日に発表した。宮本専務理事が立候補に必要な評議員16人以上の推薦を集めたからで、出馬が噂されていたJリーグチェアマン室特命担当オフィサーの鈴木徳昭氏は16人以上の推薦を集めることができなかった。

宮本専務理事は12月24日の評議員会で過半数の承認が得られれば会長就任が決定する。評議員会は都道府県協会やJリーグ、各連盟の代表など79人の評議員で構成されているが、鈴木氏への推薦が16人以下というのは意外だった。会長選が実施されないことで、両者のマニフェストを比較できないのも残念と言わざるを得ない。
さてJリーグは11月28日に第11回の理事会を開き、24シーズンのJ3クラブライセンスの判定結果(レイラック滋賀に交付)と、シーズン移行の検討状況についての記者会見を実施した。

野々村芳和チェアマンは所用があり冒頭の挨拶だけで退席したが、「大きなテーマとして、どこにどれだけ投資すれば成長、伸びていけるか話し合われた。これもコロナが終息したおかげ」と無事に今シーズンの終わりを迎えられて安堵した様子だった。そして「Jの3チームはすべて初優勝。ルヴァンカップも福岡と初物づくし。いろんなクラブが頑張っている」と優勝チームの健闘を称えた。

そしてシーズン移行については「チェアマンになると決まった時からこの話は避けて通れないのではと考えていた。話し合いを始めていくなかで、クラブの人たち、ステークホルダーの考えを聞けて理解が深まった。日本のサッカーやJリーグの抱えている課題を発見できた、実りのあるいい時間だった。日本の良さを再認識できたし、Jリーグの社会的責任を共有できたことも良かった」と、シーズン移行について検討してきた今シーズンを振り返った。
ただし、「決着は明言できない。僕らも含めてバラバラだったのが一つの方向性を目指せたのではないかな」と改めてシーズン移行に含みを持たせた。

それだけ、まだクリアしなければならない問題が多いということだろう。

今回の理事会では、シーズンを移行した際に、8月1週に開幕し、新たに12月2週までリーグ戦を実施してウインターブレイクに入り、2月の3週から再開する『案B'』が提案された。それでも降雪地域のクラブは試合が開催できずにアウェーゲームの連続になる可能性が高い。

Jリーグが各クラブに自己申告でどれだけ冬期はアウェーゲームが連続するのかヒアリングしたところ、札幌、新潟、仙台、秋田、山形、金沢、岩手、松本の8チームが12月2週はアウェーにならざるを得ないと回答した。さらに2月3週から最長3月3週まで、前記の8チームに加えて八戸、福島、長野、富山、鳥取の5チームが最低で2試合、最長で5試合がアウェーになると申告した。

今シーズンと比較すると、札幌はドームが使えるので2月でもアウェーの連戦はなかったが、新潟は2月開幕後の2試合が、松本は3月開幕後の3試合がアウェーの連戦だった。これがシーズン折り返しでのアウェー最長6連戦となるとどれだけハンデになるのか。試合結果にも影響を及ぼすことが大いに予想されるものの、事前に調べる術がないのが悩ましい。

シーズンをまたぐため、スタジアムの確保も課題の一つだ。

これまでは、シーズン終盤の11月中旬に翌年のリーグ戦38節(20チームのリーグと想定して)の試合日程を確定。12月上旬にシーズン終了後(昇降格が決定)、ホームとアウェーの調整を開始し、ここで各クラブにはイベント等を考慮して「ホームNG5試合」を申請してもらい、38-5=33節分のホーム会場を確保してもらう。そして年明けに“日程くん"を稼働させてホームとアウェーの組合せを確定し、各チームは19節分のホームを確保してきた。

自前のスタジアムがあるクラブは別として、公共のスタジアムでホームゲームを開催するクラブは行政から借りなければならない。その年度開始時期は4月となっていて、翌年の3月締めが日本のカレンダーになっている。シーズンを移行しなければ問題はないが、移行した時は事前に33節分を確保しておかなければならず、実際に必要な19節に加えて14節を余分に抑えなければならなくなる。そうなると、同じスタジアムを使う他団体にも影響を及ぼすし、コスト的にも無駄が生じかねない。

これらを解決するための方法として、Jの各カテゴリーは各20チーム、38節に統一されたため、前倒しして3月以前に翌シーズンのスタジアムを確保しようという案である。ただし、こちらは「確保できるクラブはできる限り多くのホームを確保する」ことと「確保できないクラブは最低19節分を確保する」ことを目標にしつつ、“日程くん"の進化、各スタジアムとの調整、運用の工夫をさらなるアップデート課題としてあげていた。

スタジアム確保については、来シーズンは広島と長崎、金沢にサッカー専用スタジアムが誕生するのは明るい話題と言えるだろう。

こうした環境面での課題に加え、シーズン移行期の大会はどうするかについても各クラブと意見交換をしているという。1.5シーズンとするのか0.5シーズンとするのか。リーグ戦か特別大会にするのか。そして昇降格はあるのかどうか、などだ。

シーズンを移行した場合はシーズンオフ(夏)だけでなく、ウインターブレイク(冬)でのキャンプ費用もかかる。こちらについてはJリーグも1クラブ平均1500万円として、100億円規模でサポートする予定だ。各クラブも恒常的な支援は求めていないという。しかし、スポーツができるエアドームや降雪エリアのスタジアム対応、降雪エリア以外の暑熱対策などを「本気でやるなら200億円は必要」(樋口順也フットボール本部長)というのが実情のようだ。

樋口本部長によると、シーズン移行を決定するのかどうか、「12月(19日)の理事会での決定方法は決まっていない」とのことだ。その前に12月6日の臨時実行委員会と12月14日の実行委員会で案を示しながら決めたいとしている。14日には地方クラブの意思確認も行う予定だ。

その上で、「12月の理事会が最終決定に変わりはない」としつつも、「まだ結論を出すべきではない、という結論になるかもしれない」とのコメントを残した。それだけシーズン移行は難事業だということだろう。

正直、1年間での議論・検証での決定は「移行ありき」が前提と思われても仕方がないだろう。ここはじっくりと、時間をかけてJリーグの未来を話し合う貴重な「移行期」にすべきではないだろうか。




【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた

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伝説の試合74年W杯決勝で残念だったこと/六川亨の日本サッカー見聞録

先週日曜日からNHK BSの『Jリーグタイム』の放送時間が変更された。そして『Jリーグタイム』の後に新番組、『FIFAワールドカップ伝説の試合ノーカット』という新番組がスタートした。過去のW杯の名勝負を4Kの高画質で再現した番組で、確かに画像は明るく鮮明で見やすかった。 記念すべき第1回は1974年西ドイツW杯決勝の西ドイツ対オランダ戦。“皇帝”フランツ・ベッケンバウアーと“空飛ぶオランダ人”ヨハン・クライフの対戦でも注目を集めた試合だった。当時の記憶によると、すでにベッケンバウアーは西ドイツで“カイザー(皇帝)”というニックネームをつけられていたと思う。これに対しクライフは、西ドイツW杯2次リーグのブラジル戦で、左サイドのルート・クロルからのクロスを右足インサイドのジャンピングボレーで決めたことから“空飛ぶオランダ人”のニックネームがつけられたと記憶している。 番組はジョン・カビラ氏がMCを務め、ゲストには日本人プロ第1号の奥寺康彦氏、2011年女子W杯優勝メンバーでMVPと得点王を獲得した澤穂希氏、そして東京芸大学長でアーティストの日比野克彦氏が当時のサッカー界の思い出などを語った。 試合はゲスト解説に藤田俊哉氏と森岡隆三氏を迎えてスタートした。藤田氏は1971年生まれだが、当時はまだ3歳だったためライブでの記憶はないだろう。森岡氏は1975年生まれのため当然ながら覚えていない。 ミュンヘンの旧オリンピア・シュタディオンは7万人超の満員の観衆で埋まった。このスタジアムは1988年のEUROで訪れたが、陸上のトラックがある割にはスタンドの傾斜が急なため見やすいスタジアムだった。残念ながら地元の西ドイツは準決勝でオランダに敗れたため超満員とはいかなかった(試合はオランダがルート・フリットとマルコ=ファン・バステンのゴールでソ連を2-0と破って国際大会で初優勝)。 西ドイツ対オランダ戦に話を戻すと、74年はまだビデオデッキは普及していなかったため、決勝戦を録画することはできなかった。そこで後年、社会人になってからビデオデッキを購入した際に英国BBC製作の西ドイツ対オランダ戦のVHSビデオを入手した。 試合が始まってから、アナウンサーは数字をカウントするだけ。最初は意味がわからなかったが、それはキックオフからオランダがパスをつないだ本数だった。イングランドといえば1966年イングランドW杯決勝の因縁もあり西ドイツとはライバル関係というか、両国ともヨーロッパでは嫌われている印象が強い。このためBBCのアナウンサーは西ドイツをバカにしたのだろう。 オランダはキックオフからDFラインでパスをつなぎ、10本目のパスでクライフが自陣に下がりパス受けて出す。そして16本目のパスを再びクライフが受けるとドリブル突破を開始、マーカーのベルティ・フォクツを振り切りペナルティーエリアに侵入したところでウリー・ヘーネスに倒されPKを獲得した。 試合開始から西ドイツは一度もボールに触れることなくPKから失点。それをBBCのアナウンサーは強調したいため、あえてオランダのパスの本数をカウントしていたというわけだ。 藤田氏と森岡氏は当然知らなかっただろうが、できればNHKのスタッフにはPKの獲得に至る冒頭のシーンを紹介して欲しかった。そして当時のPKは左右の下か上のスミを狙うのがセオリーだったが、ヨハン・ニースケンスは真正面に強シュートを放った。いまでは多くの選手が試みているが、最初に目撃したのはニースケンスのこのシュートで、76年のEURO決勝、チェコスロバキア対西ドイツ戦でチェコスロバキアのアントニーン・パネンカのチップキックによるPK以来の衝撃だった(その後、チップキックによるPKをパネンカと呼ぶようになる)。 次回14日の放送カードは1986年メキシコW杯の準々決勝、フランス対ブラジル戦。この試合はメキシコ第2の都市グァダラハラのハリスコ・スタジアムで開催され、メキシコシティからオンボロのバスに揺られて取材に行った。グァダラハラはブラジルがグループリーグ3試合を戦ったことから多くのブラジル人ファン、サポーターが居残り(誰もが優勝を信じていたため)、さらに地元メキシコのファンもブラジルを応援していた。 記者席では、ベンチスタートのブラジルの背番号『10』がいつアップを開始するのか、試合を取材しながらもジーコの一挙手一投足から目を離せなかった。そして試合は、第1回目と同様にPKがカギを握ることになる。これ以上は番組をお楽しみにお待ちください。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2024.04.11 21:30 Thu

攻撃陣が楽しみなU-23日本代表/六川亨の日本サッカー見聞録

パリ五輪の出場権がかかるU-23アジアカップ2024に出場する日本代表23名が決定した。意外だったのは左SBのレギュラー候補と思っていたバングーナガンデ佳史扶が外れたことだ。当初はGKに鈴木彩艶が招集可能ということで、「1クラブ3名」という招集制限からFC東京は松木玖生、荒木遼太郎に加えて佳史扶で、GK野澤大志ブランドンが招集外になるかと予想していた。 しかしシント=トロイデンのトルステン・フィンク監督は鈴木の招集を拒否したことから、野澤がFC東京の「3人目の枠」として招集されたようだ。大岩剛監督も「人数制限だったり、悩みは大会で選手を選ぶ時には起こりえること」と選手招集の難しさをのぞかせれば、山本昌邦NTDは「何が正しいかわからないなか、ここまでたどり着いた。全クラブが合意に基づいて協力してくれた。そこは感謝しかないのでみんなの力を結集したい」とお礼の言葉を述べていた。 「3人枠」といえば、12年ロンドン五輪の際にC大阪にはU-23日本代表候補に清武弘嗣、山口蛍(現神戸)、扇原貴宏(現神戸)、杉本健勇(現大宮)の4人がいた。このままでは代表に選ばれるかどうか微妙なため、杉本は東京Vへ移籍することで「3人枠」を回避し、大迫勇也とのポジション争いに勝って代表の座をつかんだのは有名な話。4人ともレギュラーだったため選択できた決断だろう。 そして大岩監督や山本NTDは多くを語らなかったが、斉藤光毅(スパルタ)や鈴木唯人(ブレンビー)など、呼びたくても呼べなかった海外組がいたことも確かだろう。それでも攻撃陣は、FC東京への移籍でストライカーとして活躍することで代表入りを果たした荒木らJでもレギュラーで活躍している選手が多いだけに人材は豊富だ。 日中の気温は30度を超える厳しい環境で、グループリーグは中2日の3連戦となる。前線からの守備など消耗の激しいFW陣はターンオーバーでの戦いを余儀なくされるだろう。そこで、絶対に負けてはならない初戦の中国戦は細谷真大の1トップでカウンタースタイルから最低限でも勝点1を確保しつつ、1-0の僅差で逃げ切る戦い方で臨むことができる。 そして勝利が必要なUAE戦は、ポストプレーを得意としてフィジカルの強さが武器の藤尾翔太で厚みのある攻撃を仕掛けるのはどうだろう。状況によっては荒木との2トップでも面白い。そして第3戦の韓国戦は、グループAの1位と2位は地元カタールなのか、近年は安定した成績を残しているオーストラリアなのか、1位抜けと2位抜けのどちらがベターかを判断しながら戦うことができれば理想的だ。 そしてJ1リーグの第6節、FC東京が浦和戦で見せた荒木と松木の2トップは日本の秘策として残しておいてもいい。準々決勝を突破しても、次にはサウジアラビアやイラク、ウズベキスタンなどが控えていて、ここを突破しない限り五輪キップはつかめないだけに、攻撃の選択肢は多ければ多いほどいい。 不安は経験不足が否めないGKとCB陣だが、これはもう現メンバーで戦い抜くしかない。山本NTDもこの年代は21年のU-20W杯インドネシアが新型コロナウイルスの影響で中止となり、23年のアルゼンチン大会は1勝2敗でグループリーグ敗退と「世界大会の経験不足がある」ものの、これはこれから補っていくしかない。 16年のリオ五輪予選からホーム・アンド・アウェーではなくセントラルでの一発勝負という難しい大会になったが、カタールでは痺れるような経験を積みながら、パリへの出場権を獲得して欲しい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2024.04.04 21:30 Thu
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