スコルジャ監督の割り切りとWEリーグを取材しての比較/六川亨の日本サッカーの歩み

2023.03.22 12:50 Wed
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先週末の18日はJ1リーグの浦和対新潟戦を、19日はWEリーグの日テレ・ベレーザ対INAC神戸の試合を取材した。

新潟に先制点を許した浦和だったが、前半のうちに右SB酒井宏樹と左SB明本考浩の両サイドバックのゴールで逆転。特に明本のジャンピングシザースボレーは圧巻だった。そして興味深かったのは後半の浦和の戦い方だ。新潟躍進の原動力であるトップ下の伊藤涼太郎を、岩尾憲と伊藤敦樹のダブルボランチがサンドイッチする形で持ち味を封じにかかった。
さらに新潟が前線からプレスをかけると、アレクサンダー・ショルツとマリウス・ホイブラーテンの両CBは、無理をしてビルドアップせずロングボールを選択。酒井を右サイドのハーフライン辺りに上げて、彼の頭に合わせて長いボールを送り、こぼれ球を回収して時計の針を進めた。

新潟の松橋力蔵監督は「空中戦が苦手なわけではないが、長いボールに対するセカンドボールを回収できなかった。拾えれば景色もがらりと変わったと思う」と悔やんだが、マチェイ・スコルジャ監督のスカウティング勝ちといったところか。

スコルジャ監督自身も「すべての要素を変えないといけない。まだチームを作っている段階」と言いながらも、現状で打てる手をすべて打ちながら結果を残している。後半24分には右MFダヴィド・モーベルグとCFブライアン・リンセン、31分にはトップ下の安居海渡と左SB荻原拓也を同時起用し、明本を左MFに上げた。その理由を「ハイプレスをやるために前線の4人を代えた」と狙いもシンプルで明確だ。
若手にチャンスを与えつつ、コンディションが万全ではない外国人選手の出場時間をしっかり確保しているだけに、プラス材料しか見当たらない浦和と言える。

そして翌日の上位対決となった日テレ・ベレーザ対INAC神戸戦である。この2チームに浦和レッズレディースを加えた3強に、なでしこジャパンの選手も数多く所属している(海外組をのぞけば2月のアメリカ遠征に9選手が参加)。

試合は両チームとも前線からのプレスの掛け合いと、インテンシティの高い“個の戦い”が見られたものの、ミドルサードでの潰し合いの多い試合でもあった。お互いに連動してプレスを掛けるため、そのプレスをかいくぐって敵ゴール前までなかなかボールを運べないからだった。

そんなとき、前日の浦和ではないが、前線に長身選手か俊足の選手がいれば、ロングボールは局面を打開する有効な手段になる。しかし残念ながら日テレ・ベレーザにも、INAC神戸にも、そして現在のなでしこジャパンにもそうした選手はいない。辛うじて元なでしこで浦和レッズレディースのCF菅澤優衣香が長身のポストプレーヤーだが、彼女にしても国際舞台で通用したとは言い難い。

それを思うと、日本が初優勝した11年の女子W杯や、銀メダルを獲得した12年ロンドン五輪のメンバーには、オールラウンダーで危機察知能力の高い澤穂希がいた。前線には体幹が強くてスピードもあり、シュートにパンチ力のあった永里優季がいた。宮間あやは稀代のパサーだったし、川澄奈穂美は無尽蔵のスタミナを誇るドリブラーだった。そして控えには準々決勝のドイツ戦で決勝点を決めたスピードスターの丸山桂里奈がいた。個性豊かなタレントが一堂に会す、奇跡的なチームだったと言える。

それに引き換え現状はというと、19日の観衆は1,777人。1月の皇后杯決勝(日テレ・ベレーザ対INAC神戸戦)が1,939人、昨年10月のWEリーグ、日テレ・ベレーザ対浦和レッズレディース戦が2,210人だったから、WEリーグの観客動員は2,000人前後がアッパーといったところか。これでプロの興行として成り立つのか疑問である。

さらに、女子の日本代表の愛称が“なでしこジャパン”なのに、“なでしこリーグ”はアマチュアのトップリーグなのだから男子ならJFLといったところ。ここらあたりもWEリーグが一般のファンに浸透していない理由の1つではないだろうか。そして秋春制によるウインターブレイクと、11チームによる2回戦制のため試合数が絶対的に少なく、試合間隔が大きく空いているため、いつリーグ戦が開催されているのかわかりにくいという弊害もある。

名称とシーズン制をどうするのかも含めて、女子リーグは再検討する必要があるのではないか。強い“なでしこジャパン”を復活させるためにも、関係者の英断に期待したい。



【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた


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シーズン移行の会見を取材「かなり慎重になっている」印象だった/六川亨の日本サッカーの歩み

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全日空と浦和の事件に思うこと/六川亨の日本サッカーの歩み

板橋区で生まれ育ったため、西が丘サッカー場(現・味の素フィールド西が丘。この名称にはどうも馴染めない)は身近なホームグラウンドだ。そんな西が丘サッカー場で行われた第21回JSL(日本サッカーリーグ)第22節、86年3月22日の三菱重工対全日空戦で前代未聞の事件が起きた。 デーゲームの試合で、ピッチに整列した両チームのイレブンのうち、全日空の選手は8人しかいなかったのだ。当時のJSLは前年にメキシコW杯予選で勝ち上がったため、初めて“秋春制”を採用。3月の第22節は最終節だったが、すでに古河電工がDF岡田武史(現今治.夢スポーツ代表取締役)やMF前田秀樹(現東京国際大学監督)らの活躍で優勝を決めていたため、西が丘での試合は『消化試合』と言えた。 そんな状況での試合なので、取材した記者もカメラマンも数が少なかったのは言うまでもない。後で判明したのだが、全日空の選手はチームの待遇に不満を抱き、6人のベテラン選手が試合直前にボイコットを表明して西が丘サッカー場を後にしたそうだ。このため試合開始時間は10分以上も遅れ、栗本直監督は控えの選手2名をスタメンに起用するなどして試合が成立する8人を揃え、没収試合となることを免れた。 当時のサッカー界は、例えば読売クラブや日産などは、金額はJリーグと比べられないまでも“プロ”に近かった。全日空も将来的にはプロ化を目指していたかもしれないが、ボイコットした選手には元古河のベテラン選手がいるなど、待遇にはかなりの差があったようだ。 試合は6-1で三菱が圧勝し、全日空は2部へと降格した。そして問題となったのはボイコットした選手たちである。彼らにも言い分があった。それは当時のJSL総務主事である森健兒が事情聴取した。しかし、JSLの規定には「選手の無断欠場」に関しての罰則や条文は存在しなかった。 このため森総務主事はJFA(日本サッカー協会)の長沼健(元JFA会長)が委員長を務めるJFA規律委員会にコトの次第を報告。長沼は緊急規律委員会を招集し、ボイコットした選手には「国内のあらゆるチームへの登録禁止」を通達した。当時の罰則規定では、「有料公式戦において試合放棄は社会人選手として許されざるべきこと」、「グラウンド内外でのふさわしくない行為に抵触する」として、ボイコットした6選手に対して「無期限登録停止処分」を下した。 しかしながら、形式上は「無期限登録停止処分」でも、長沼さんは「永久追放」と厳しく断罪した。メディアも同様に報じたため、彼らのサッカー人生もそこでリセットされることになった。それでも後年、サッカー界に復帰できことは、長沼さんや森さんら往時の人々の“懐の広さ”を感じずにはいられない。 そして改めて思うのは、JFAの“あまちゃん”体質だ。先月の天皇杯での名古屋戦、浦和のサポーターは、現場で取材した方々に聞くと、蹴る、殴るの暴行を目撃したと言う。実際に現場で目撃したわけではないので、これ以上の記述はできないが、もしもそれが事実なら、もうこれは“犯罪”でしかない。それをJFAとJリーグ、浦和はどう認識しているのか。まずはビデオを含めて映像による事実確認をどこまでしたのか、これは簡単に幕引きをして済まされる問題ではない。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.09.05 22:45 Tue

「ダイヤモンドサッカー」があるから今がある/六川亨の日本サッカーの歩み

「サッカーを愛するみなさん、ごきげんいかがでしょうか」の名台詞で始まる『三菱ダイヤモンドサッカー』のアナウンサー、金子勝彦さんが20日にご逝去された。88歳だった。JFA(日本サッカー協会)の田嶋幸三会長は「サッカーを始めて間もなかった小学生時代、毎週土曜日の夕方は『ダイヤモンドサッカー』を見るために慌てて家に帰っていたことが思い出されます。前後半を2週に分けて放送しており、次の放送をワクワクしながら待っていたことを覚えています」とお悔やみの言葉を述べた。 田嶋会長とは奇しくも同学年で、彼の言葉は同世代の小中学生の気持ちを代弁したと言ってもいい。サッカーがマイナーなスポーツだったからこそ、『三菱ダイヤモンドサッカー』は貴重な情報源であり、解説の岡野俊一郎氏(第9代JFA会長)が紹介するヨーロッパ各国の歴史や文化に憧れを抱いたものだった。 番組がスタートしたのは1968年だった。元日本代表で、当時は三菱化成(現三菱ケミカル)の社長だった篠島英雄氏(後にJFA副会長)が、イングランドリーグのダイジェスト番組『Match of the day』を日本に輸入することを東京12チャンネル(現テレビ東京)に提案。解説に大学(東京大学)の後輩である岡野氏を推薦したのも篠島氏だった。 70年のメキシコW杯でペレの妙技や、若き日のベッケンバウアーをブラウン管越しに見て、ワールドカップの凄さを実感したのも『三菱ダイヤモンドサッカー』だった。74年には西ドイツW杯の決勝戦を初めて衛星生中継する。それまでサッカー専門誌で名前しか知らなかったクライフのプレーを初めて見たときの衝撃はいまでも忘れられない。なにしろキックオフから一度も西ドイツにボールを渡すことなくパスをつないで、クライフのドリブル突破からPKを獲得してしまったのだから。 テレビでもお馴染みとなった柔和な笑顔とソフトな語り口で、サッカーの話を始めたら、何時間でもしゃべり続けられる情熱と知識の持ち主だった金子さん。2012年には日本サッカー殿堂入りを果たしたが、放送界からの選出は金子さんが初めてだった。 川淵三郎JFA相談役も「日本サッカー102年の歴史の中でその発展の礎となった出来事がいくつかありますが、『ダイヤモンドサッカー』がその一つであることは誰もが認めるところでしょう」と故人の功績を称えた。 再会を果たした岡野さんとは、カタールW杯での日本の活躍を祝しつつ、近年のドイツの不甲斐なさを嘆いているかもしれない。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.08.30 13:00 Wed

WEとJのダブルヘッダーでリーグを盛り上げてほしい/六川亨の日本サッカーの歩み

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