ACLのシーズン移行に疑問、Jのシーズンはどうすべきか/六川亨の日本サッカー見聞録

2022.08.12 23:00 Fri
Getty Images
AFC(アジアサッカー連盟)は8月1日、来シーズンのACL(AFCチャンピオンズリーグ)を現行の春秋制から秋春制へ移行する日程を発表した。来シーズンのACL1次リーグは9月に開幕し、決勝は2024年5月11日と18日に行われる予定だ。

これまでも「シーズン移行」については幾度となく議論が重ねられ、そのたびに結論は先送りされてきた。ご存じのように日本をはじめ韓国や中国といった極東の国々は“春秋制"を、中東勢は“秋春制"を採用している。このため“春秋制"によるACLは、中東勢にとって1次リーグと決勝トーナメントではメンバーが入れ替わる可能性の高い大会でもあった。
それでも結論が先送りされてきたのは、「どちらがアジアにとって適しているか、公平性を保てるか」という点で、“正解"を見つけられなかったからでもある。

日本に関して言えば、16年1月に「最初で最後」になるであろうJFA(日本サッカー協会)会長選挙で、JFA副会長だった田嶋幸三氏は“秋春制"を、JFA専務理事だった原博実氏は現行の“春秋制"を訴えた。それが選挙の行方を左右したかと言えば、田嶋会長が4期目(任期は1期2年で最長4期まで再選が可能)を迎える現在もシーズン制に変化はないため「ノー」と言える。

もちろん過去にはJSL(日本サッカーリーグ)時代も“秋春制"を採用したこともあった。1985年のことだ。2月から5月にかけて開催されたメキシコW杯アジア1次予選で、日本は本命と目された北朝鮮をFW原博実のゴールで1-0と破る大金星をあげた。アウェーではきっちり0-0で引き分けて2次予選に進出した。
すると2次予選は中国が勝ち上がると思われたが、香港に足元をすくわれ1次予選で敗退。2次予選は8月と9月にホーム&アウェーで行われ、日本は3-0、2-1で香港を退け、W杯予選で初の決勝へと進出した。

そこでJSLも9月6日に開幕し、翌年の3月26日に閉幕するロングランとなった(チーム数も10から12に増えた)。W杯予選を勝ち上がったためにJSLは“秋春制"にならざるを得なくなり、翌86年からは正式に“秋春制"(翌年制)へと移行。シーズンも86/87年と表記され、それは91年まで7シーズン続いた。

当時のJSLが“秋春制"を導入できた大きな理由の1つに地域性があげられる。読売クラブや日産自動車、三菱重工、古河電工とほとんどのチームが東京と神奈川に集中し、それ以外ではヤマハと本田技研の静岡勢、ヤンマーの大阪、マツダの広島と関東以西に集中していた。

北にあるチームとしては当時JSL2部の住友金属の茨城県が“北限"のため、降雪による試合中止の心配はほとんどなかった。

関東にも雪は降る。87年のトヨタカップではFCポルトとペニャロールが降雪のなか熱戦を繰り広げたし、98年には全国高校選手権の決勝で東福岡と帝京が名勝負を演じた。しかし、それは年に1~2回あるかないかである。このため“秋春制"もスムーズに導入することができた。

しかし、それらはチーム数が少なく特定の地域に集中していたJSL時代の話。全国に58チームもある現在のJリーグでは、青森県を筆頭に日本海側の北部には豪雪地帯が多い。そうした環境下で“秋春制"を導入したら、札幌、山形、秋田、新潟、富山、鳥取などは、スタジアムはもちろん練習グラウンドを確保するのにも苦労するだろう。

そうした地域では、快適な観戦環境を提供するためスタジアムにヒーターなどの暖房設備も必要になるが、それには半端ない投資が必要になる。

ウインターブレイクを採用すれば、1~2月の厳寒期での試合開催を避けることはできる。しかし、ただでさえ過密日程のJ1リーグは、さらなる日程的な負担を強いられることになり、代表選手はオフシーズンがなくなる危険すらある。

そして問題はスタジアムや練習環境といったハード面だけではない。年度をまたぐ問題――学校は年度替わり、企業は決算時期――というハードルもある。ただ、こちらはJSL時代もクリアできただけに、企業努力によって乗り越えることができるはずだ。

高校生や大学生は、例えばFC東京の松木玖生のように、卒業式を待たずにJリーグでプレーしていた。こちらは登録ウインドーの設定変更で対応することが可能だ。企業の決算時期に関しては、JSL時代に主流だった「重厚長大」な日本の基幹産業と比べ、親会社の企業形態がかなり劇的に変化しているだけに、一概に比較することはできない。しかしながら検討の余地はあるのではないだろうか。

むしろ難問は、やはりスタジアム問題となる。柏やG大阪のように“自前"のスタジアムがあるクラブはいい。問題は地方自治体が所有しているスタジアムだ。企業と同様に4月から新年度が始まり、3月末で決算となる。

もしもJリーグが“秋春制"を採用したら、クラブは建前上シーズン開幕から3月までしかスタジアムの使用許可を取れない。4月以降は、改めて使用許可を取ることになる。これだけJリーグが浸透しているのだから、スタジアムの使用に関しても行政サイドは理解を示してくれると思うが、手続きが煩雑になることは避けられないだろう。

そして結論である。

“秋春制"への移行に関する問題点を長々と書いてきたが、メリットよりもデメリットの方が多いと言わざるを得ない。

そしてACLである。大会に出場できるのはJ1リーグの上位3~4チームだけ。そして、例えACLで優勝しても、4年に1度開催の拡大版クラブW杯(24チーム参加)は新型コロナウイルスの影響で開催のメドが立っていない。

現状では、4年に1度あるかないかの大会のために、多大な犠牲(になるだろう)を払ってまでシーズンを移行するメリットはほとんどないと言っていいだろう。それなら現行の“春秋制"を維持しつつ、ACLに出場する3~4チームにはJリーグとして日程的、経済的な配慮をすることで十分ではないだろうか。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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伝説の試合74年W杯決勝で残念だったこと/六川亨の日本サッカー見聞録

先週日曜日からNHK BSの『Jリーグタイム』の放送時間が変更された。そして『Jリーグタイム』の後に新番組、『FIFAワールドカップ伝説の試合ノーカット』という新番組がスタートした。過去のW杯の名勝負を4Kの高画質で再現した番組で、確かに画像は明るく鮮明で見やすかった。 記念すべき第1回は1974年西ドイツW杯決勝の西ドイツ対オランダ戦。“皇帝”フランツ・ベッケンバウアーと“空飛ぶオランダ人”ヨハン・クライフの対戦でも注目を集めた試合だった。当時の記憶によると、すでにベッケンバウアーは西ドイツで“カイザー(皇帝)”というニックネームをつけられていたと思う。これに対しクライフは、西ドイツW杯2次リーグのブラジル戦で、左サイドのルート・クロルからのクロスを右足インサイドのジャンピングボレーで決めたことから“空飛ぶオランダ人”のニックネームがつけられたと記憶している。 番組はジョン・カビラ氏がMCを務め、ゲストには日本人プロ第1号の奥寺康彦氏、2011年女子W杯優勝メンバーでMVPと得点王を獲得した澤穂希氏、そして東京芸大学長でアーティストの日比野克彦氏が当時のサッカー界の思い出などを語った。 試合はゲスト解説に藤田俊哉氏と森岡隆三氏を迎えてスタートした。藤田氏は1971年生まれだが、当時はまだ3歳だったためライブでの記憶はないだろう。森岡氏は1975年生まれのため当然ながら覚えていない。 ミュンヘンの旧オリンピア・シュタディオンは7万人超の満員の観衆で埋まった。このスタジアムは1988年のEUROで訪れたが、陸上のトラックがある割にはスタンドの傾斜が急なため見やすいスタジアムだった。残念ながら地元の西ドイツは準決勝でオランダに敗れたため超満員とはいかなかった(試合はオランダがルート・フリットとマルコ=ファン・バステンのゴールでソ連を2-0と破って国際大会で初優勝)。 西ドイツ対オランダ戦に話を戻すと、74年はまだビデオデッキは普及していなかったため、決勝戦を録画することはできなかった。そこで後年、社会人になってからビデオデッキを購入した際に英国BBC製作の西ドイツ対オランダ戦のVHSビデオを入手した。 試合が始まってから、アナウンサーは数字をカウントするだけ。最初は意味がわからなかったが、それはキックオフからオランダがパスをつないだ本数だった。イングランドといえば1966年イングランドW杯決勝の因縁もあり西ドイツとはライバル関係というか、両国ともヨーロッパでは嫌われている印象が強い。このためBBCのアナウンサーは西ドイツをバカにしたのだろう。 オランダはキックオフからDFラインでパスをつなぎ、10本目のパスでクライフが自陣に下がりパス受けて出す。そして16本目のパスを再びクライフが受けるとドリブル突破を開始、マーカーのベルティ・フォクツを振り切りペナルティーエリアに侵入したところでウリー・ヘーネスに倒されPKを獲得した。 試合開始から西ドイツは一度もボールに触れることなくPKから失点。それをBBCのアナウンサーは強調したいため、あえてオランダのパスの本数をカウントしていたというわけだ。 藤田氏と森岡氏は当然知らなかっただろうが、できればNHKのスタッフにはPKの獲得に至る冒頭のシーンを紹介して欲しかった。そして当時のPKは左右の下か上のスミを狙うのがセオリーだったが、ヨハン・ニースケンスは真正面に強シュートを放った。いまでは多くの選手が試みているが、最初に目撃したのはニースケンスのこのシュートで、76年のEURO決勝、チェコスロバキア対西ドイツ戦でチェコスロバキアのアントニーン・パネンカのチップキックによるPK以来の衝撃だった(その後、チップキックによるPKをパネンカと呼ぶようになる)。 次回14日の放送カードは1986年メキシコW杯の準々決勝、フランス対ブラジル戦。この試合はメキシコ第2の都市グァダラハラのハリスコ・スタジアムで開催され、メキシコシティからオンボロのバスに揺られて取材に行った。グァダラハラはブラジルがグループリーグ3試合を戦ったことから多くのブラジル人ファン、サポーターが居残り(誰もが優勝を信じていたため)、さらに地元メキシコのファンもブラジルを応援していた。 記者席では、ベンチスタートのブラジルの背番号『10』がいつアップを開始するのか、試合を取材しながらもジーコの一挙手一投足から目を離せなかった。そして試合は、第1回目と同様にPKがカギを握ることになる。これ以上は番組をお楽しみにお待ちください。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2024.04.11 21:30 Thu

攻撃陣が楽しみなU-23日本代表/六川亨の日本サッカー見聞録

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