森保ジャパンとシドニー五輪の類似点/六川亨の日本サッカーの歩み

2021.06.11 11:45 Fri
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五輪の男子サッカーにオーバーエイジ(OA)枠が採用されたのは、1992年のバルセロナ五輪からだった。当時のU-23日本はJリーグ誕生の前年ということもあり、澤登正朗(東海大)、相馬直樹(早稲田大)、名波浩(順天堂大)ら大学勢が主力だった。

しかし1次予選は突破したもののアジア最終予選では1勝1分け3敗で、6チーム中5位に終わった。当時は日本代表の監督だった横山氏が総監督を務め、山口監督を補佐する形だったが、基本的に1人の監督が日本代表を率いてW杯予選と五輪予選を戦っていた。

それというのもバルセロナ五輪以前は男子の五輪に年齢制限がなかったことと、日本がまず出場を目指したのはW杯ではなく五輪だったからだ。W杯は「手の届かない夢の舞台」と思っていた。

そうした風潮に変化が起きたのは、もちろんJリーグの影響もある。94年に日本代表の監督に就任した加茂氏は「W杯は夢見るものでなく出場するもの。そのためにはまず指導者が(出場を)目指さないといけない」と意識の変革を訴えた。

もう1つの変化が、2人の代表監督が誕生したことである。W杯を目指す日本と、五輪出場を目指すU-23日本。前者の監督は加茂氏で、後者の監督には西野氏が就任した。しかし当時のチームは、攻撃的な加茂監督の日本と、守備的な西野監督のU-23日本とタイプの異なるチームだった。

初めてプロの選手で挑んだ96年アトランタ五輪アジア予選で、U-23日本は準決勝で中東の盟主サウジアラビアを2-1で下して決勝戦に進出。上位3チームに与えられる五輪の出場権を28年ぶりにつかんだ。

そしてアトランタ五輪では初戦で優勝候補のブラジルを1-0で倒す「マイアミの奇跡」を演出。しかし2勝1敗と勝ち越しながら得失点差で3位となり、ベスト8進出を逃してしまった。

当時のチームにOA枠で23歳以上の選手を招集することは可能だったが、議論すらされなかったと記憶している。前園真聖や城彰二、GK川口能活ら若きスター選手が自力でつかんだ五輪切符である。そこに後から入って五輪に出場しようなどとは虫の良い話、といった雰囲気すら漂っていた。

当時のチームにOA枠を使うとして、改めて考えてみると、ラモス瑠偉は有力な候補と思うが、果たして中田英寿と両立できるのか。三浦知良と城の2トップは魅力的だが、高さのある高木琢也か、俊足の岡野雅行の方が攻撃の幅が広がるような気もする。

いずれにせよ、西野朗監督、山本昌邦コーチも含めてファミリー的な雰囲気のあるチームだっただけに、OA枠は考えられなかった。

日本が初めてOA枠を使ったのは00年シドニー五輪のトルシエ監督だった。トルシエ監督は前年の99年はU-20日本を率いてワールドユース(現U-20W杯)で準優勝を果たした。小野伸二、本山雅志、高原直泰、小笠原満男ら、その後は日本代表で活躍する選手が数多くいた。

彼らに、97年のワールドユースでベスト8入りした宮本恒靖や松田直樹らの融合したチームはアジア予選を苦もなく突破した。

そして本大会では経験豊富なGK楢崎正剛、DF森岡隆三、FW三浦淳宏の3人のOA枠も使い、32年ぶりにグループリーグを突破してベスト8に進出した。このチームの強みを一言で表すとしたら「継続性」ということになるだろう。

過去に例を見ない、1人の監督が3チームを率いたからだ。指導方法についてケチをつけるつもりはないが、99年にU-20日本を率いて準優勝、00年の五輪ではベスト8,そして02年日韓W杯でベスト16と、3大会で結果を残した。

こうして過去を振り返ってみると、当時のトルシエ・ジャパンと現在の森保ジャパンは共通点が多い。「1チーム2カテゴリー」で活動を続け、OA枠にも国際舞台、海外経験が豊富で数々の修羅場をくぐり抜けてきた3人を加えた。

まずは負けないこと。そのためには守備を安定させるというポリシーも似ている。12日のジャマイカ戦が終われば、誰が最終メンバーに残るかが注目されるだろう。こちらはこちらで楽しみたいと思う。


【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた


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WEリーグ開幕戦で感じたこと/六川亨の日本サッカーの歩み

昨日12日、華々しく開幕したWEリーグ。味の素フィールド西が丘の東京V対浦和の試合を取材した。試合はカウンターから浦和のDFラインの裏を突いた東京Vが植木理子のゴールで先制すれば、前線に安藤梢(165cm)と塩越柚歩(166cm)の大型FWを擁し、後半からはエースの菅澤優衣香(169cm)を投入した浦和が、菅澤と塩越のゴールで2-1と逆転勝利を収めた。 開幕戦にもかかわらず、タイムアップの瞬間に東京Vの選手はピッチに崩れ落ち、浦和の選手は優勝したかのように喜びを爆発させた。それだけ女子初のプロリーグである「WEリーグ」の誕生は、彼女たちにとって画期的な出来事だったのだろう。 WEリーグのチームには15名以上のプロ契約選手を保有することが義務づけられている。そして東京Vの登録選手は20名。そのせいかどうか詳細を確かめることはできなかったが、スタメンのリザーブ選手の登録枠は7名に対し、東京Vは6名の選手しか登録していなかった。ベテランの岩清水梓や大会前に移籍した宇津木瑠美らはメンバー外だった。ここらあたりもプロとなったことで、クラブチームの運営(経営)の難しさが出ているのかもしれない。 そもそもWEリーグは、地盤沈下の著しい日本代表の強化のための環境整備、選手の地位向上、小中高生の育成など底辺の拡大を目的に創設された。 93年に開幕したJリーグもそうだったが、「昨日までアマチュアの選手が、今日からプロになりました」と言ってすぐに技術が向上するわけではない。こちらは長い時間を要する。しかしそれでも環境が整備されたおかげで徐々にではあるが、選手のフィジカル(スピードとスタミナ)強化とプロとしての自覚は促進された。選手は毎日サッカーに専念できるからだ。 そして今までは、対外的に所属クラブの親会社の社員だったりアルバイトだったりという身分が、晴れて「プロ選手」と名乗れるようになった。これまでも「プロ選手」と名乗ることはできても、社会的に認知されていなかった。その意味でもWEリーグの創設は意義深い。 底辺の拡大も時間をかけて地道にやるしかないが、昨日の西が丘サッカー場では、バックスタンド右側に水色のユニホームを着た女子小学生の一団がいた。Jリーグが成功した一因に「地域密着」がある。WEリーグも同様に、ホームタウンの女子小学生チームを毎試合招待したり、サッカー教室を開いたりして地域密着を積極的に進めるべきだろう。 すでに西が丘サッカー場の周辺には、東京Vが北区と板橋区をホームタウンにするポスターが掲出されている(西が丘サッカー場は北区にあるが板橋区とも隣接)。そして、いかに露出を増やして認知度を高めていくか。これが今後のWEリーグの一番の課題になるだろう。選手たちは子供たちにとって、憧れの存在にならなければいけないからだ。 露出に関してはもう一言。昨日の試合では東京VがA4で6ページの観戦パンフレットを無料配布していた。これまであまり女子リーグを取材してこなかったので、サッカー専門誌が発行しているJリーグのような、全チームを網羅した選手名鑑が売っていないか探したところ、残念ながら発見することはできなかった。 もしかしたらコロナ禍で、金銭のやりとりによる感染のリスクを避けるためスタジアム内では販売していなかったのかもしれない。そこでネットで検索したら、ぴあMOOKから「オフィシャルガイドブック2021-22」(1100円)が発行されているのを知ったので、早速ポチッと購入した。 どんな選手が、どのチームにいるのか調べるのも名鑑の楽しみではないだろうか。そして試合会場でも、名鑑を販売していることをアナウンスするだけでも効果はあると思うが、いかがだろうか。まずはファンに知ってもらうことがプロ選手のスタートだと思うからだ。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.09.14 12:10 Tue
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対策連絡会議での斉藤コミッショナーの鋭い指摘/六川亨の日本サッカーの歩み

カタール・ドーハで行われたW杯アジア最終予選の中国対日本戦は、日本が大迫のゴールで初勝利を奪った。前半は5BKで守備を固める中国に手こずったものの、伊東の突破から大迫が最終予選初ゴールを奪取。1-0のスコアには物足りなさが残ったものの、いまの森保ジャパンでは勝点3がなりよりの“良薬"になるに違いない。 さて今回は9月6日に開催されたNPB(日本野球機構)とJリーグによる対策連絡会議の話題をお届けしたい。第38回目となる会議だったが、東京五輪・パラリンピック前の同会議は、NPBとJリーグはともに「やるべきことはやり尽くした」感が強かった。 ところが昨日の会議は、久々に建設的(?)な意見を聞くことができた。 口火を切ったのはNPBの斉藤惇コミッショナーだった。 「フランスはイベントの際にワクチンを2回接種した証明書か、72時間以内のPCR検査の陰性証明がないと入れない。MLB(メジャーリーグ)でもテスト的に似たようなことが行われている。球団によって違うが、ワクチンを2回打った人と、72時間以内にPCR検査を受けた人のゾーンがあり、データ作りをしている。プロ野球はすでにチケットを売ってしまっているが、2度のワクチン接種かPCR検査の陰性証明を導入したい。しかし政府は宣言を先延ばしするだけで、着地点はなく、同じ政策を繰り返しているだけ。これでは政策ではない」と大谷翔平もビックリするような“直球"を投げ込んだ。 現職の総理大臣が「コロナの感染拡大の防止に専念したい」と続投を断念するやいなや、総裁の後継者争いに奔走している政権政党。その最有力候補がコロナ対策の“ワクチン担当"で後手を踏んだ当人なのだから、斉藤コミッショナーならずとも呆れるところだろう。 この提案に、座長の賀来満夫(東北医科薬科大学)ドクターは「ワクチンは効果があるものの、ブレイクスルー、(2回)打っても感染したり、感染しても症状が出ない人もいたりする。このため打ったとしても注意が必要」と警鐘をならした。 一方、オリ・パラの検査を担当した愛知医科大学の三鴨廣繁ドクターは、「オリ・パラはNPBとJを参考に、毎日厳しく検査をしたことで感染を制御できた」と報告しつつ、「陰性かワクチンの証明が経済的にも有効だ」という見解を示した。さらに東邦大学の舘田一博ドクターは「NPBとJの1年半のエビデンスを元に提案して社会経済を再生すべきである」とさたに一歩踏み込んだ発言もあった。 ワクチンを2回接種した証明書か、PCR検査による陰性証明書で、現状の5000人か収容率の50%の少ない方という現行の入場制限を緩和することができれば、これはこれで一歩前進と言えるのではないだろうか。 しかしながら賀来ドクターはメリットとデメリットの両方を指摘した。まずメリットは「安心安全な観戦ができること。ワクチンもPCRも100%ではないが、感染リスクを下げるメリットはある」と言う。一方のデメリットとしては「PCRか抗原か抗体か、いろいろな検査がある。それらの証明書をスタジアムで管理する難しさがある」と指摘した。同じように舘田ドクターも「ワクチンを打ちたくない人、受けたくても受けられない人もいるので、差別的な風潮が起きるのもデメリット」と危惧した。 さらに三鴨ドクターも「実際に検査体制を作るのは各自治体になるだろうが、誰がその費用を負担するのか。PCR検査よりはワクチン証明の方が現実的だが、ワクチンの有効期間をどうするかという問題もある」と実現に向けてのハードルを指摘した。 村井チェアマンは常々上限5000人ではなく、スタジアムのキャパに応じての50%を提言している。ニッパツ三ツ沢や浦和駒場の5000人と、日産スタジアムや埼玉スタジアムの5000人では密集度がケタ外れに違うため、一律に制限するのは整合性を欠いているからからだが、実現するのはやはりそう簡単ではなさそうだ。 そして、これらの結論として、再び斉藤コミッショナーに登場してもらったほうがいいだろう。 「これは国の制度として、イベントを認可しようという方向にはなっていない。検討しているものの、発表を恐れている。批判されることを恐れているので、我々NPBも動けない。(プラスして試合の)興行権は各球団が持っているので、よほどルールから逸脱しないとNPBも介入できないのが現状です」 いろいろと勉強になった対策連絡会議だった。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.09.08 22:30 Wed
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五輪初勝利のブラサカ。ビーチに続いて快挙達成を期待/六川亨の日本サッカーの歩み

楽しみにしていたロシアでのビーチサッカー決勝は、地元ロシアに2-5と完敗して初優勝は果たせなかった。ピヴォの赤熊が意地の2ゴールを決めて得点王の3位(2位と同ゴールもアシスト数で3位)に入賞したものの、“決定力の差"が出た決勝だった。 ロシアのシュートはほとんどが「GKにとってノーチャンス」と言えるポストギリギリか、意図的なグラウンダーにより砂のピッチ状況で予期しない軌道を描くシュートが多かった。対する日本もオーバーヘッドで対抗したが、いわゆる“普通のシュート“はGKの好セーブに防がれていた。 それでも初のファイナル進出である。18年ロシアW杯決勝と同じ舞台であるルジキニで開催された決勝で、日本の選手は初めて見た光景を忘れずに2年後のリベンジを果たして欲しい。 一方、国内で開催されているパラリンピックのブラインドサッカーで、念願の初出場を果たした日本は初戦でフランスに4-0と完勝した。12年ロンドン五輪で銀メダルに輝いたフランスは、今回もヨーロッパ予選を2位で通過して出場権を獲得したが、攻守に精彩を欠いての完敗だった。 もしかしたらトップアスリートではないだけに、日本特有の蒸し暑さに順応できなかったのかもしれない。試合会場である青海の特設会場は周囲が海に囲まれているため、湿度もかなり高かったことが予想された。 不世出のストライカー釜本邦茂氏の実姉である釜本美佐子さんは、日本交通公社(現JTB)のツアーコンダクター第一期生として世界各地で活躍後、1993年に網膜色素変性症(現在も根治する治療法はなく、徐々に視力を失い失明する病気)を患い69歳の時に失明したが、その後は全国視覚障害者外出支援連絡会会長、網膜色素変性症協会会長などを歴任。そして01年に視覚障害者サッカーが韓国で開催されていると知り視察へ訪れ、ブラインドサッカー専用の鈴が入ったサッカーボールを持ち帰った。 そして翌年の02年、日本視覚障害者サッカー協会(日本ブラインドサッカー協会)を設立し、同時に理事長に就任して“ブラサカ"の普及と発展に尽力してきた。当時のブラインドサッカーを支えていたのは、障害者のスポーツに理解のある外資系の会社がほとんどで、新大久保の雑居ビルの2階にあったブラインドサッカー協会も、職員のほとんどはボランティアだったと記憶している。 ブラサカに転機が訪れたのは13年9月7日、アルゼンチンのブエノスアイレスで開催されたIOC(国際オリンピック委員会)総会だった。昨日死去した前IOC会長のジャック・ロゲ氏(79歳)が、2020年の東京五輪・パラリンピックの開催を発表。障害者サッカーには視覚障害だけでなく、聴覚障害や知的障害など様々なカテゴリーがあるが、パラリンピックの種目はブラインドサッカーだけ。このため徐々にスポンサー企業は増えていった。 その結果、チーム強化のためのキャンプや海外遠征による強化試合など、日本代表を取り巻く環境は飛躍的に改善された。その成果が、今回のフランス戦で現れたと言ってもいいだろう。 しかし、王者ブラジルはやはり別格だった。日本は0-4と完敗したが、ほとんど日本陣内で試合は行われ、日本のシュートは0本。パス、ドリブル、シュートといった基本プレーのスピードがブラジルとは違った。後半から出場して2ゴールを決めたレジェンドであるリカルジーニョのシュートは、健常者であるGKも反応が遅れるほど速かった。 それでも日本はフランス戦の貯金から、得失点差は±0だ。ライバルである3位・中国はブラジルに0-3と健闘したが、フランスには1-0と1点しか奪えなかったため得失点差は-2。このため日本は引き分け以上でグループリーグを突破できる。中国も簡単な相手ではないが、ブラインドサッカーもビーチサッカーに続いて新たな歴史を築いて欲しい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.08.31 11:00 Tue
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サガン鳥栖躍進の立役者/六川亨の日本サッカーの歩み

Jリーグは8月13日に2回目となる今シーズンの移籍ウインドウを閉じた。昨シーズンと違い、J1とJ2も降格があるためか、チームによっては積極的な動きを見せ、早くも効果の現れたチームがある。 14日のJ1リーグ第24節では、柏から浦和に加入した江坂任が鳥栖戦でPKから決勝点を奪い2-1の勝利に貢献した。そして浦和から横浜FMに新天地を求めた杉本健勇は、12日の名古屋戦(第18節)で得意のヘディングから移籍初ゴールとなる先制点を決めてチームを2-0の勝利に導いた。 彼ら以外にも、21日の第25節では6年ぶりにJリーグへ復帰した神戸の武藤嘉紀が、鹿島戦の後半34分に好判断からの絶妙クロスで決勝点をアシストして健在をアピールした。 その第21節で試合を取材して驚いたのが、柏対鳥栖の一戦だった。何に驚いたかというと、鳥栖の完成度の高いサッカーと、それを実現した金明輝監督の手腕に、である。 鳥栖が選手への高額な人件費などで約7億円の債務超過に陥っていたのは周知の事実。それでも昨シーズンは13位でJ1残留を果たしたが、今シーズンは特にチーム名は上げないが、鳥栖が降格候補の1チームであったことに異を唱える人はいないだろう。 それがフタを明けてみれば、第25節終了時点でACL圏内の3位(勝点44)と大健闘。4位神戸とは同勝点、5位の名古屋とは1勝点差、6~7位の鹿島と浦和とは3勝点差と気の抜けない状況ではあるが、ライバルはいずれもリーグ優勝や天皇杯を獲得したことのある強豪だ。 加えて今シーズン開幕前は加入1年目で活躍した右SB森下龍矢を名古屋に、東京五輪後はストライカーの林大地をシント=トロイデンに引き抜かれた。また、チームの中心であった生え抜きのMF松岡大起も清水エスパルスへと移籍した。にもかかわらず、現在の順位をキープしているのは“奇跡”と言ったら大げさだろうか。 実際の試合では、ワンタッチやツータッチのパス交換でゴールをこじ開けて来た。柏戦でもボールポゼッションで圧倒して3-1の勝利を収めたが、鳥栖の凄さが表れていたのが2点目だった。 前半29分にパスをつなぎ始め、幅と深さを使ったパス交換で守備を崩す。柏の選手に奪われることなく21本のパスをつないで、最後は仙頭啓矢のクロスを中野嘉大がボレーシュート。これはGKキム・スンギュに弾かれたが、仙頭に戻しのパスを出した小屋松知哉がフリーで押し込んでリード広げた。小屋松、仙頭、中野はいずれもワンタッチだったため、柏DF陣も対応が遅れた。 鳥栖が鮮やかなのは、ワンタッチ、ツータッチでパスをつなぐために、パスの受け手となる選手の動き出しが相手より早いことと、その動きに連動して複数の選手が反応していることだった。だからこそ、ワンタッチでのプレーが可能になる。 そして、言葉にすれば簡単なことでも、サッカーではいざ実践するとなると上手くいかないことが多い。ところが金監督は、柏戦では8月上旬に移籍してきた選手をスタメンで起用すると、何の違和感もなく“鳥栖スタイル”のサッカーで柏を粉砕した。 右サイドMFの小泉慶とインサイドハーフの白崎凌兵は8月10、11日に移籍してきて10日あまりだが、すでに何年も鳥栖でプレーしているかのように、すっかりチーム戦術に適応していた。元々のポテンシャルが高かった上に、2人とも鹿島からの移籍ということで気心が知れていたのかもしれない。 今シーズン、京都から完全移籍した仙頭と、2シーズン目となる小屋松は京都橘高校の先輩後輩の間柄。だからといって2人の間に共通した“サッカー言語”が存在するかどうかは別問題としても、チームの完成度は高い。 ここらあたり、シーズンを通じたチーム作りが着実に進んでいる証拠かもしれない。当の金監督は試合後に「我々はボールポゼッションや細かいパス回しにこだわっていません。試合に勝つことにこだわっているので、選手たちが判断してやったということです」と謙遜する。 Jリーグの監督には、自分の理想とするスタイルを追求してコツコツとチーム作りを進めるタイプもいれば、選手の適性と能力を見抜いて獲得し、新たなタスクを与えることで才能を開花させる監督もいる。 前者の代表例が元川崎Fの風間監督であり、かつては広島や浦和を指揮し、現在は札幌のペトロヴィッチ監督だろう。そして後者なら浦和のリカルド・ロドリゲス監督やFC東京の長谷川監督、柏やG大阪の監督を務め、元日本代表の監督だった西野氏と言えるかもしれない。 そして金監督は、その中間に位置している監督のような気がする。鳥栖の快進撃とあわせて、その手腕に注目したい監督でもある。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.08.24 20:30 Tue
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記録と記憶に残るストライカーのミュラー氏の訃報/六川亨の日本サッカーの歩み

元西ドイツ代表で、ストライカーとして数々の得点記録を樹立したゲルト・ミュラーが昨日15日に永遠の眠りについた。享年75歳、ちょっと早すぎる訃報だった。 彼のことを若い読者は知らなくて当然だろう。74年の西ドイツW杯で母国を2度目の世界1に導くと、28歳の若さで代表チームからの引退を表明したからだ。キャリアのほとんどをバイエルン・ミュンヘンで過ごし、ありとあらゆる栄光を手にしたものの、当時は彼のプレーを見ることはなかなかできなかった。 唯一、日本ファンの前でプレーしたのは75年1月、バイエルンの一員として来日し、国立競技場で2試合を行った(いずれも1-0でバイエルンの勝利)。 身長は175センチとけして高くない。しかし独特の嗅覚をペナルティエリア内で発揮し、ミートの巧さ、強シュートではないもののゴール枠に飛ばす正確なシュートでゴールを量産した。利き足は右足だったが、左足でも頭でも、それこそ体のどこかに当ててゴールをモノにした。 バイエルン時代は15年間で4度のリーグ優勝を果たし(1969年、72年、73年、74年)、7度の得点王に輝いた(1967年、69年、70年、72年、73年、74年、78年)。通算427試合に出場して365ゴールはいまなおリーグとクラブの両方で歴代最多得点記録である。 その他にもチャンピオンズカップ(現チャンピオンズリーグ)優勝3回(1974年、75、76年)、カップウィナーズカップ(現ヨーロッパリーグ)優勝1回(1967年)、ドイツカップ優勝4回(1966年、67、69、71年)という輝かしい実績がある。 それは西ドイツ代表でも同様で、デビューとなった70年メキシコ大会は準決勝でイタリアと壮絶な点の取り合いから3-4で敗れたものの(準々決勝でもイングランドと延長戦の末に3-2で勝って前回大会の雪辱を果たす)、3位決定戦でウルグアイを1-0で下して3位の成績を収めた。 この大会でミュラーは10ゴールを決めて大会得点王となると同時にバロンドールも獲得。そして4年後の74年西ドイツ大会でも7試合に出場し(2次リーグを採用したため試合数が増加)、オランダとの決勝戦での決勝ゴールを含め4ゴールをマーク。W杯通算14ゴールは、06年ドイツW杯でロナウドに破られるまで32年間にわたり最多記録だった(ロナウドは98年フランス大会で4ゴール、02年日韓大会は8ゴールで得点王、06年ドイツ大会で3ゴール。通算15ゴールで記録を更新)。 ちなみにミュラー以前のW杯最多得点記録は58年スウェーデン大会でフランスのジュスト・フォンテーヌがマークした13ゴールで、1大会での最多得点記録としていまなお破られていない。ミュラーの10ゴールは50年スイス大会の得点王シャーンドル・コチシュ(ハンガリー)に次いで3位である。 W杯の通算最多得点記録は同じドイツ代表のミロスラフ・クローゼが、14年ブラジル大会で16に更新したが(02年日韓大会は5ゴール、06年ドイツ大会は5ゴールで得点王、10年南ア大会は4ゴール、14年ブラジル大会は2ゴール)、ミュラーは2大会13試合で14ゴールに対し、クローゼは4大会24試合で16ゴールである。 同じことはドイツ代表の通算得点記録にも当てはまり、ミュラーは62試合出場で68ゴールを記録。これは14年にクローゼに破られたとはいえ(71ゴール)、クローゼは136試合、36歳での記録更新である。このことからも、ミュラーの得点率がいかに高かったかわかるだろう。 現役引退後はビジネス界に転身したものの事業に失敗し、一時はアルコール依存症に苦しんだこともあった。しかし、かつてのチームメイトである“皇帝"フランツ・ベッケンバウアー(現バイエルン名誉会長)やウリ・ヘーネス(現バイエルン会長)らのサポートによりアルコール依存症を克服。バイエルンのアマチュアや育成部門のコーチとして穏やかな日々を過ごしていた。 現役引退後はずいぶんとスリムな体型になったものの、トレードマークの口ひげは白髪ながら健在だった。あらためて哀悼の意を表したい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.08.17 20:10 Tue
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