長谷川健太監督の意外な采配/六川亨の日本サッカーの歩み

2021.04.27 20:50 Tue
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2018年に長谷川健太氏を監督に迎えたFC東京は、翌19年に悲願のリーグ初優勝にまい進していた。残念ながら終盤の失速で横浜FMに優勝を譲ってしまったが、昨シーズンも優勝が期待された。「ファスト・ブレイク」――前線からの守備によるショートカウンターを武器に、永井とディエゴ・オリベイラの2トップは多少アバウトなロングパスでもマイボールにしてくれる機動力があった。

それまで天敵だったアウェーの浦和戦では、20年9月30日の試合で1-0の勝利を収めた。実に17年ぶりに“鬼門”だった埼玉スタジアムで勝利したのだ。さらに、どのチームにとっても勝つのが難しいカシマスタジアムでも18年に勝利するなど、3シーズンで3勝1分け2敗と勝ち越している。

その一方で、苦手としているのが鳥栖戦だ。とくに昨シーズンはホームで2-3と競り負けると、アウェーでは0-3と完敗。「今日はすべての面で鳥栖が上回った。完敗です」と潔く敗北を認めた。シーズン途中には室屋に続き橋本も海外へ移籍するなどの戦力ダウンに加え、東京五輪の影響から夏場にアウェーの連戦が続くなど、6位と不本意な順位で終えた。

そして迎えた今シーズンの鳥栖戦も、前半に左サイドの攻撃から2失点し、1-2と4連敗を喫した。

鳥栖は左サイドの仙頭と小屋松の京都橘高コンビがFC東京の右SB岡崎とCB渡辺剛にプレスを掛けてビルドアップを封じると、奪ったボールを素早く右サイドに展開して2点を奪った。FC東京の左SB小川とFWアダイウトンはストロングポイントではあるが、小川の攻撃参加によって生まれたスペースを鳥栖は利用した。

そこで長谷川監督が取った采配は、ハーフタイムに岡崎に代え内田、渡辺剛に代えて青木という選択だった。本来、内田はドリブル突破を得意とする攻撃的な選手である。中村帆高が負傷により長期離脱中とはいえ、彼を右SBに起用したことは、守備よりも攻撃を優先するという指揮官からのメッセージだろう。

そしてケガをしたようにも見えない渡辺剛を下げてボランチの青木を起用し、アンカーの森重を右CBに戻した。このコンバートについて森重は「ビルドアップするため、センターバックからのフィードで1枚剥がしたりするとか。前半はスムーズにやれていなかった。落ち着いて回せれば攻撃の時間は増えるかなと意識した」と理由を語った。

反撃するために攻撃的な選手を増やすのは素人目にもわかりやすい。しかし長谷川監督はまず自陣からのビルドアップを優先する一手を打った(その後は三田やレアンドロ、田川ら攻撃的な選手を投入)。確かに渡辺剛はプレスを受けると近くにいる岡崎にボールを預けることが多かった。時折ロングパスを試みるが、その精度は森重とは比べようがない。そこで森重をCBに戻すことでDF陣からのビルドアップを優先した。

この起用を見て思い出したのが、長谷川監督が就任した18年の試合だった。サイドMFでのプレーが多く、「シュートよりもクロスの意識が強かった」(長谷川監督)という永井を2トップで起用し、「シュートで終われ」とアドバイスすることでFW永井を再生した。

そして劣勢になると長身FW前田遼一を起用してパワープレーに出た。その際に、左SB太田に代えて21歳の小川をピッチに送ることが多かった。その理由を聞くと、「太田のクロスはニアの壁を越えていない」というものだった。

確かに試合開始から上下動を繰り返し、セットプレーキッカーも務めれば、蓄積された疲労もかなりのものになるだろう。試合終盤は曲がって落ちるクロスの精度が落ちるのも当然だ。そこで長谷川監督はサイドからのキッカーも交代させたのだ。

似たような話はヨハン・クライフ監督がバルセロナ時代にフリオ・サリーナスを交代で起用するときは、クロスの精度の高いサイドアタッカーも同時に投入すると聞いたことがある。サリーナスに質の高いクロスを供給できなければ、彼を投入した意味がないからだ。

森重をCBに戻したことで後半はFC東京もゲームを支配する。8分にその森重が左CKからヘッドで1点を返すと、その後も永井や小川、さらにアディショナルタイムにはレアンドロが決定的なシュートを放つ。いずれもGK朴一圭のスーパーセーブに阻まれて同点に追いつけなかったが、選手交代の効果はあった長谷川監督の采配だった。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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オナイウと坂元がアピールしたキルギス戦/六川亨の日本サッカーの歩み

15日のW杯アジア2次予選のキルギス戦は、日本代表が順当に5-1の勝利を収めた。そして代表初ゴールを含めハットトリックを達成したオナイウ阿道がクローズアップされたのは当然だろう。 今シーズンのJ1リーグでも、特に右サイドからのクロスに対し、最初はニアに走り込んでマーカーの注意を引きつけつつ、回り込むようにマーカーの裏をとってファーに流れてフリーになり、右クロスを決めるシーンを何度か目撃した。キルギス戦の31分の2点目がこのパターンだ。 そして3点目、バイタルエリアで簡単にボールを処理するとペナルティーエリア左へと侵入する。原口が左サイドの小川に展開すると、すーっと右サイドに流れた。これはボール保持者の小川、敵GKとDFの3者を同一視野に入れる「アザーサイド」と呼ばれるポジショニングで、南アW杯得点王のディエゴ・フォルランやJ1得点王の大久保嘉人が得意とするプレーである。 そして小川のクロスにフリーで落下点に走り込み、余裕を持ってヘディングシュートを決めた。 今シーズンのオナイウは、ストライカーとして“基本的な動き"を繰り返している。ついボールにつられて飛び出したい気持ちを押さえ、マーカーとの駆け引きや基本的な動きを入れることで有利な状況を作り出している。 これまでオールラウンドなストライカーとして大迫の後継者はなかなかいなかった。浅野、伊東、古橋に加え田川や前田など、スピード系の選手は多いものの、オールラウンダーとなると上田くらいしか候補はいなかった。 そこに名乗り出たのがキルギス戦のオナイウだった。今シーズンのリーグ戦でどこまでゴールを伸ばすのか楽しみでもある。 そしてオナイウと同じくアピールに成功したのが右MFの坂元だろう。今年3月に初めて代表に招集されたがケガで途中離脱したため、今回が代表デビューになる。 「代表は世代別の代表にも手が届く選手ではなかった。プロになれるかどうかもわからなかったのに、代表に選ばれたのはうれしい。いま燻っている選手に夢を与えられたのではないかと思う」と正直な感想を述べていた。 レフティーならではのカットインはもちろん、タテに抜け出しての右足のクロスも精度は高い。A代表では伊東とのポジション争いになるが、ストライカータイプの伊東とは違うスタイルだけに、起用法によっては試合のリズムを変えられる選手として面白い存在になるかもしれない。 今シーズン、浦和に加入した小泉とはFC東京U-15むさしでチームメイトだった。そして2人ともユースチームに進めず前橋育英高に進学。今シーズン、FC東京に加入した渡辺凌磨も前橋育英高のチームメイトで、高校3年生の時は高校選手権で準優勝を果たした。 しかし3人とも大学を経由して加入したのはJ2チーム。しかし坂元は昨シーズンから、小泉と渡辺凌も今シーズンからJ1に活躍の舞台を移した。そんな経緯を話しつつ、坂元は「みんな高校の時からライバルとして切磋琢磨して、お互いに抜いたり抜かれたりした。いま代表だからとリードしていると思わない。自分も負けられないと思うし、一緒にプロとしてやれていることは大きいと思う」とライバルの存在の重要性を口にした。 オナイウの活躍に、当然横浜FMのチームメイトである前田は刺激を受けたことだろう。そして坂元の代表でのプレーに小泉も闘志を燃やしているかもしれない(渡辺凌は負傷治療中)。19日に再開されるJリーグでは、U-24日本の代表候補を含めて彼らのプレーに注目してみるのもいいだろう。22日には東京五輪の代表18名が発表されるため、19、20日は最後のアピールの場になる。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.06.17 18:30 Thu
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森保ジャパンとシドニー五輪の類似点/六川亨の日本サッカーの歩み

五輪の男子サッカーにオーバーエイジ(OA)枠が採用されたのは、1992年のバルセロナ五輪からだった。当時のU-23日本はJリーグ誕生の前年ということもあり、澤登正朗(東海大)、相馬直樹(早稲田大)、名波浩(順天堂大)ら大学勢が主力だった。 しかし1次予選は突破したもののアジア最終予選では1勝1分け3敗で、6チーム中5位に終わった。当時は日本代表の監督だった横山氏が総監督を務め、山口監督を補佐する形だったが、基本的に1人の監督が日本代表を率いてW杯予選と五輪予選を戦っていた。 それというのもバルセロナ五輪以前は男子の五輪に年齢制限がなかったことと、日本がまず出場を目指したのはW杯ではなく五輪だったからだ。W杯は「手の届かない夢の舞台」と思っていた。 そうした風潮に変化が起きたのは、もちろんJリーグの影響もある。94年に日本代表の監督に就任した加茂氏は「W杯は夢見るものでなく出場するもの。そのためにはまず指導者が(出場を)目指さないといけない」と意識の変革を訴えた。 もう1つの変化が、2人の代表監督が誕生したことである。W杯を目指す日本と、五輪出場を目指すU-23日本。前者の監督は加茂氏で、後者の監督には西野氏が就任した。しかし当時のチームは、攻撃的な加茂監督の日本と、守備的な西野監督のU-23日本とタイプの異なるチームだった。 初めてプロの選手で挑んだ96年アトランタ五輪アジア予選で、U-23日本は準決勝で中東の盟主サウジアラビアを2-1で下して決勝戦に進出。上位3チームに与えられる五輪の出場権を28年ぶりにつかんだ。 そしてアトランタ五輪では初戦で優勝候補のブラジルを1-0で倒す「マイアミの奇跡」を演出。しかし2勝1敗と勝ち越しながら得失点差で3位となり、ベスト8進出を逃してしまった。 当時のチームにOA枠で23歳以上の選手を招集することは可能だったが、議論すらされなかったと記憶している。前園真聖や城彰二、GK川口能活ら若きスター選手が自力でつかんだ五輪切符である。そこに後から入って五輪に出場しようなどとは虫の良い話、といった雰囲気すら漂っていた。 当時のチームにOA枠を使うとして、改めて考えてみると、ラモス瑠偉は有力な候補と思うが、果たして中田英寿と両立できるのか。三浦知良と城の2トップは魅力的だが、高さのある高木琢也か、俊足の岡野雅行の方が攻撃の幅が広がるような気もする。 いずれにせよ、西野朗監督、山本昌邦コーチも含めてファミリー的な雰囲気のあるチームだっただけに、OA枠は考えられなかった。 日本が初めてOA枠を使ったのは00年シドニー五輪のトルシエ監督だった。トルシエ監督は前年の99年はU-20日本を率いてワールドユース(現U-20W杯)で準優勝を果たした。小野伸二、本山雅志、高原直泰、小笠原満男ら、その後は日本代表で活躍する選手が数多くいた。 彼らに、97年のワールドユースでベスト8入りした宮本恒靖や松田直樹らの融合したチームはアジア予選を苦もなく突破した。 そして本大会では経験豊富なGK楢崎正剛、DF森岡隆三、FW三浦淳宏の3人のOA枠も使い、32年ぶりにグループリーグを突破してベスト8に進出した。このチームの強みを一言で表すとしたら「継続性」ということになるだろう。 過去に例を見ない、1人の監督が3チームを率いたからだ。指導方法についてケチをつけるつもりはないが、99年にU-20日本を率いて準優勝、00年の五輪ではベスト8,そして02年日韓W杯でベスト16と、3大会で結果を残した。 こうして過去を振り返ってみると、当時のトルシエ・ジャパンと現在の森保ジャパンは共通点が多い。「1チーム2カテゴリー」で活動を続け、OA枠にも国際舞台、海外経験が豊富で数々の修羅場をくぐり抜けてきた3人を加えた。 まずは負けないこと。そのためには守備を安定させるというポリシーも似ている。12日のジャマイカ戦が終われば、誰が最終メンバーに残るかが注目されるだろう。こちらはこちらで楽しみたいと思う。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.06.11 11:45 Fri
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難しいハンドの判定/六川亨の日本サッカーの歩み

JFA(日本サッカー協会)は31日、競技規則改正のメディア説明会を実施した。項目は以下の4点だった。 ・手に当たればすべてがハンドになるわけではない。 ・脳しんとうによる交代の試行。 ・コロナによる交代要員の追加の延期。 ・オフサイドに関して、「どこまでが腕なのかの定義(脇の下の最も奥の位置)」が明記。 この中で時間を割いて扇谷審判委員会トップレフェリーグループマネジャーが説明したのがハンドについてで、「IFAB(国際サッカー評議会)のルールブックからも多くの文言が消えた」とのことだ。 具体的な例をあげるとすれば、まず意図的に手で触った場合はもちろんハンドとなる。相手のシュートやクロスをブロックに行った際に、手が体から離れて広がっていたり、手が肩より上ならいままで通りハンドの判定だ。 そしてノーハンドとなるのは、体に近い自然な動き、避けようとした手や腕が体の内側にある場合(体に密着している)、自分でプレーしてトラップやキックミスから手に当たった場合、スライディングした手や腕が自分の体を支えていた場合、偶発的に手に当たってこぼれたボールを味方がシュートして得点した場合(自分で得点したらハンドになる)などが報告された。 スライディングした手が体を支えていても、19年のアジアカップ準決勝のイラン戦ではハンドの判定から日本にPKが与えられた。 同じくアジアカップでは準々決勝のベトナム戦でCKから吉田のヘディングシュートが自分の手に当たったことでゴールを取り消されたし、決勝のカタール戦では相手のヘディングシュートが吉田の上げた手に当たりPKと判定されたことも記憶に新しいだろう。いずれもVARの判定結果だった。 ただし、こうした事例と実際のVTRを見ても、どこまでがハンドで、どこからはノーハンドか判断が難しい。扇谷審判委員会トップレフェリーグループマネジャー自身も「ハンドは難しい判定。ノーマルスピードでは分からなくても、VARだとハンドに見えてしまう事例が増えた。判定は主観的なため一貫性が欠如する」と話し、「選手の動きが妥当かどうか」が判断基準になると説明した。 Jリーグの映像を見ても、故意でも偶発的でも守備側の選手の手にボールが当たれば、攻撃側の選手は反射的に「ハンド!」と叫んでいる。これはJリーグに限らず少年からシニアまで、サッカー経験者なら誰もが同じリアクションをするはずだ。 そして、ややこしいのは、例えばVARで主審がオンフィールドレビューをしたら、同じ映像がスタジアム内で流される。しかし、例えば大相撲は物言いがついた理由を説明するが、サッカーでは主審がジャッジについて説明することはない。 だからこそ、ファン・サポーターの間で「議論を呼ぶ」ことも確かだが、ペナルティエリア内のハンドの判定は簡素化されたとはいえ、やはり判断は難しい。 ちなみに冒頭に書いた4点は6月19日から導入される。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.06.02 12:15 Wed
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20世紀のアジア男子ベストイレブン/六川亨の日本サッカーの歩み

国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)という組織があるらしい。ウィキペディアによると「サッカーに関する様々な歴史や記録などを扱っている組織である。略称はIFFHS。1984年3月27日にライプツィヒにて発足。国際サッカー連盟(FIFA)は協力関係にないと明言している」そうだ。現在はクラブチームの世界ランキングのベスト10を発表していて、ザルツブルクが10位にランクインしている。 このIFFHSが今月8日、公式サイトで20世紀のアジア男子ベストイレブンを発表した。ジャーナリスト、元選手、専門家の投票に基づいて選定されたとある。フォーメーションは3-4-3で、選出選手を国別に見ると、日本から3人、韓国から3人、サウジアラビアから3人、イランから2人と、ほぼ順当な顔ぶれと言える。 「20世紀」と限定することで、日本は98年のフランスW杯の1回しか出場していないが、それはイラン(78年と98年の2回)とサウジ(94年と98年)も似たようなもの。この3カ国は21世紀に入ってW杯の出場回数を増やしているからだ。 それでは次に具体的な選手名をあげていこう。 GKはサウジのモハメド・アル・デアイエ。 日本は94年のアメリカW杯アジア最終予選の初戦でサウジと対戦した。高木琢也、ラモス瑠偉とヘッドでつないだボールを福田正博がボレーシュート。決まったかに見えた一撃をアル・デアイエは左手1本でストップし、0-0のドローに持ち込んだ。しなやかな身のこなしから好セーブを連発し、サウジのW杯初出場の立役者となった。 DFは3人で、右から井原正巳、ホン・ミョンボ(韓国)、奥寺康彦。 この3人は、今さら説明の必要はないだろう。ホン・ミョンボは90年イタリアW杯から02年の日韓大会まで4大会連続出場。00年のシドニー五輪にもOA枠で出場し、12年ロンドン五輪では監督として銅メダルを獲得。14年の南アW杯にも監督として参加した。 井原はホン・ミョンボと並び「アジア最高のリベロ」と評された。若くして代表入りし、クレバーなプレーなど共通点も多い。W杯は98年大会しか出ていないが、国際Aマッチ出場123試合と長期間に渡って日本のDF陣を牽引した。 難しいのは奥寺だ。W杯も五輪の出場もない。とはいえ当時は今と違い、2大会とも「狭き門」だった。しかし「アジア人初のプロサッカー選手」であり、当時は欧州で最もレベルの高かったブンデスリーガの1FCケルンでリーグ戦とカップ戦の優勝を経験。さらにチャンピオンズ・カップでもベスト4に進出した。いずれも日本人はもとよりアジア人としても初の快挙であるため、選出は妥当と思われる。 MFは右からサイード・オワイラン(サウジ)、キム・ジュソン(韓国)、アリ・パービン(イラン)、三浦知良の4人。オワイランとカズはウイングバックというポジションだ。 まずアリ・パービンという選手は残念ながら記憶にない。1946年生まれだから、健在なら75歳ということで、釜本邦茂氏らメキシコ五輪銅メダル組と同年代だ。しかし当時の対戦記録を調べてみても、彼の名前を発見することはできなかった。 オワイランは本来FWだが、チーム構成上MFに入れたのだろう。“ドーハ組"の1人で、GKデアイエとともにサウジのW杯初出場に貢献。アメリカでの本大会ではグループリーグのベルギー戦で60メートルのドリブル突破からゴールを決めて観客の度肝を抜いた。初出場でサウジをベスト16に導いたストライカーだった。 韓国のキム・ジュソンの選出には首をかしげざるをえない。スピードに乗ったドリブルを得意とするストライカーで、W杯もメキシコ大会から3大会連続して出場している。しかし彼を選出する前に、チェ・スンホという才能豊かなオールラウンダーがいる。86年メキシコ大会のグループリーグ、イタリア戦では強烈なミドルシュートを決めていて、90年イタリア大会はキャプテンを務めた。たぶんキム・ジュソンはIFFHSのアジア年間最優秀選手賞を3年連続して受賞しているから選出されたのだろう。 三浦知良、キング・カズはW杯も五輪も出場経験はない。しかし日本人として初めてブラジルでプロ契約を結び、アジア人で初めてセリエAでプレーしたパイオニアであることが評価されたようだ。さらに、いまもまだ現役である点もリスペクトされたのかもしれない。 最後にFWである。チャ・ブングン(韓国)、アリ・ダエイ(イラン)、マジェド・アブドゥラー(サウジ)の3人だ。 チャ・ブングンは奥寺がブンデスリーガ入りしたのに刺激を受けてフランクフルトへ移籍。UEFAカップ優勝2回を誇り、ブンデスリーガ通算98得点はアジア人最多である。308試合出場も20年6月に長谷部誠に抜かれるまで最多だった。 アリ・ダエイはイランが誇るスーパースターだ。国際Aマッチ通算109得点は世界記録である。93年のアメリカW杯予選第2戦では日本から決勝点を奪い(2-1)、98年フランスW杯の第3代表決定戦でも一時はリードする2点目を決めるなど“日本キラー"でもあった。バイエルン・ミュンヘンではリーガ優勝を経験するなどヨーロッパでも優れた得点感覚を発揮した。 最後はサウジのマジェド・アブドゥラーだ。オワイランが「砂漠のマラドーナ」なら、アブドゥラーは「砂漠のペレ」と言われたストライカーだ。84年にシンガポールで開催されたロス五輪予選アジア最終戦では日本と別グループだったため直接の対戦はなかったが、そのスピードは桁外れに速かった。ロス五輪とアメリカW杯に出場し、139試合67得点の記録を残しているが、これは現在もサウジ史上最多記録である。 こうしてみると妥当な人選だが、日本人ならもう1人、名前をあげたくなる。メキシコ五輪得点王の釜本邦茂だ。アリ・パービンに代わって釜本が入れば非常に攻撃的なチームが作れる。 ただ、ゲームを作る選手がいないのが難点でもある。木村和司を起用するか。それとも名波浩、中田英寿、小野伸二? 誰にするかは読者にお任せしたい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.05.26 12:30 Wed
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5月15日Jリーグの日にまつわる思い出/六川亨の日本サッカーの歩み

5月15日は「Jリーグの日」と言われている。今から28年前の93年5月15日、国立競技場でヴェルディ川崎(現東京V)対横浜マリノス(現横浜FM)の試合が開催された(2-1でマリノスの勝利)。 当時は翌16日の日曜日に残りの4試合がデーゲームとナイトゲームで開催された。昨日のJ1リーグではガンバ大阪と浦和レッズの試合が17時から開催されたが、奇しくも93年の開幕戦と同一カードだった。 この「Jリーグの日」、93年から制定されていたわけではない。2017年にJリーグが初めて制定して数々のイベントを開催するようになった。たぶん村井チェアマンの発案ではないだろうか。 というのも、初代の川淵チェアマン以降、歴代のチェアマンである鈴木氏(鹿島)、鬼武氏(C大阪)、大東氏(鹿島)の3氏はいずれもJクラブの社長経験者だった。このため「5月15日」は身近なため特別な感情を抱いていなかったのではないだろうか。その点、村井氏は一サッカーファンだったため、「5月15日」に特別な思いがあったと推測される。 28年前の開幕戦は、ヴェルディ川崎のマイヤーのJリーグ初ゴールに始まり、同年の得点王になったラモン・ディアスの決勝点、翌日の鹿島対名古屋戦でのジーコのハットトリックなど話題満載の2日間だった。 当時について、JSL(日本サッカーリーグ)時代は日産でプレーし、Jリーグの創設に伴い出身地の清水エスパルスへ加入した長谷川健太氏(現FC東京監督)は、「一番は我々がどうすればいいのか困った」と回顧する。 それもそうだろう。昨日まではアマチュアでプレーしていたのが、明日からはプロとしてプレーする。しかし「Jリーグができたからといって、すぐに上手くなるわけではない」からだ。 そこで長谷川監督は「とりあえず気持ち、姿勢だけはお客さんに満足してもらおうと開幕を迎えたと思います。戸惑いはあったが、逆にそれで注目していただいて、何か変わらなきゃ、技術はすぐに上手くならないので、気持ちでやろうと。そういう意味で大きく変わったと思います」と当時の心境を述懐した。 当時の試合を見返すと、技術・戦術のレベルは低いものの、行き来の激しい試合を90分以上も続けていた。球際での競り合いは現在より激しく、このため大けがをする選手もいた。そうした激しさ、肉弾戦がファン・サポーターの熱狂を呼び、Jリーグブームを巻き起こしたのだろう。 当時のチケットは「プラチナチケット」と呼ばれ、チケット欲しさに殺人事件が起きる悲しい出来事もあった。 ちなみに当時のサッカーダイジェストはJSL時代もJリーグが誕生してからも、選手インタビューに金銭を支払っていなかった。しかし清水エスパルスの広報から謝礼を要求された際にその理由を聞くと、「選手はプロなので」という返事だった。「プロとは何か」、誰もが試行錯誤の時代だったのかもしれない(もちろん取材は遠慮した)。 「Jリーグの日」に話を戻すと、万博で開催されたG大阪対浦和戦は19時04分キックオフのため、開幕を特集したダイジェストに掲載することはできなかった。なぜかというと、当時はまだデジタル化は到来していないのと、インターネットも現在のように普及していなかったからだ。 撮影はフィルムで行い、現像する必要がある。デーゲームなら新幹線で当日に持ち帰ることができるが、ナイトゲームでは締め切りに間に合わない。そこで掲載を断念しなければならなかった。 今から10数年ほど前のことである。縁あって浦和のムック本を制作することになった。そこで93年の開幕戦のチーム集合写真を国内最大手の写真エージェントに探しに行った。ポジフィルムで撮影された試合だったが、写真の総数は20点くらいで、いずれも選手は豆粒のように小さかった。 当時のカメラは今と違い、オートフォーカスではなく手動でピントを合わせなければならないため技術が要求される。加えて300ミリ以上の望遠レンズも欠かせない。しかし、目の前にある写真はどう考えても素人が撮影したものとしか思えなかった。 そして浦和の集合写真はない。ホームのG大阪の集合写真はあるため、そちらを優先したことで浦和の集合写真は撮り損ねたのだろう。そこでクラブを始め共同通信社などに確認したところ、判明したのはどこも93年の開幕戦の浦和の集合写真は「ない」ということだった。ちょっと衝撃的な事実である。 最後に思いついたのは、地元である埼玉新聞だった。新聞社のためモノクロかもしれないが、知人のサッカー担当記者に電話したところ、結果は「ビンゴ!」だった。ネガフィルムではあるがカラー写真で集合を撮影していた。 これもJリーグが掲げた「地域密着」のおかげかもしれない。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.05.17 21:45 Mon
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