マラドーナに続きロッシまで/六川亨の日本サッカー見聞録

2020.12.19 14:30 Sat
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Jリーグは16日にJ1とJ2の最終節(19日と20日)前の試合を開催し、記録の更新も含めてACL出場チームやJ1昇格チームが決まった。記録では、川崎F対浦和戦で興梠がPKから浦和の先制点を決めた。これで興梠はJ1記録を更新する9年連続2桁得点をマーク。J1歴代最多得点でも中山雅史と並ぶ157の3位で、2位・佐藤寿人の161も視野に入ってきた。


試合はリーグ優勝を決めている川崎Fが後半の3ゴールであっさり逆転。2点目を決めた三笘は通算13得点で、大卒ルーキーの最多得点記録を持つ渡邊千真(当時は横浜FM)と武藤嘉紀(同FC東京)に並び、最終戦で記録の更新に挑む。

そして2位のG大阪が横浜FCに2-0と勝ち、4位のC大阪が鳥栖に1-2で敗れたため、1試合を残してG大阪の2位が確定した。G大阪は27日から始まる天皇杯準決勝と来シーズンのACLの出場権を獲得した。

J1リーグの上位3チームに与えられるACLの出場権は、3位の名古屋、4位のC大阪、5位の鹿島の3チームによる争いに絞られた。しかしながら天皇杯の出場チームがJ1の1位と2位のため、ACLの出場権は天皇杯ではなくリーグ戦の4位まで枠は広がるはずだ。このため最終戦でのC大阪(勝点59)対鹿島(同58)の直接対決は痺れる試合になるだろう。3位の名古屋は勝点60のため、鹿島は勝つしかACLの道は開けない。

Jリーグの詳しい総括については別の機会に譲るとして、年末は悲報が相次いだ。マラドーナの訃報に続き、12月9日には元イタリア代表FWのロッシが肺がんのため64歳でこの世を去った。

パオロ・ロッシがW杯にデビューしたのは1978年のアルゼンチン大会だった。同大会ではブラジルのジーコ、フランスのプラティニらがデビューしたものの、その後ロッシの名前が日本のサッカー雑誌に載ることはほとんどなかった。

それというのもペルージャ在籍時代の80年に、八百長に連座したとの疑いから3年間の出場停止処分を受けたからだ。

幸か不幸かロッシの出場停止処分は2年に軽減され、82年の4月にはスペインW杯の最終メンバーにエンツォ・ベアルゾット監督はロッシを加えた。まず日本では、八百長事件に連座した選手を代表に加えることは100%ないだろう。さらに2年間の出場停止ということで、実戦からも遠ざかっている。

当然イタリア国内でもベアルゾット監督に対する批判は凄まじいものがあった。ただ、エースはあくまでもベテランのロベルト・ベッテガであり、ロッシはサブという扱いだったこと。そして、イタリア国民の大多数が母国の活躍をほとんど期待していなかったことが幸いしたのではないだろうか。

優勝候補の筆頭はブラジルだった。なにしろ前年5月に行った長期にわたるヨーロッパ遠征では敵地にもかかわらずイングランド、西ドイツ、フランスを撃破。偶然にもテレビ中継していたイングランド対ブラジル戦を見たが、前後半ともブラジルのワンサイドゲーム。というか、ほとんどイングランド陣内でのハーフコートマッチだった。いくらテストマッチとはいえ、ここまでヨーロッパの強豪を圧倒するチームを見たのは初めてだった。

変幻自在の中盤、「クワトロ・ジ・オーロ(黄金の4人)」と言われたジーコやファルカンらが織りなすゲームメイクはまさに圧巻ものだった。

そんなブラジルの対抗馬は前回優勝国で、新たにマラドーナやディアスらを加えたアルゼンチン。そしてヨーロッパ勢では西ドイツと、キャプテンになったプラティニとジレス、ティガナら中盤のタレントから「4銃士」と呼ばれたフランスだった。

イタリアは……34年と38年に優勝したが、それははるか大昔のこと。70年メキシコ大会こそ決勝に勝ち進んだが、その前後の66年イングランド大会と74年西ドイツ大会は1次リーグで敗退と、蓋をあけてみないとわからないのがイタリアだった。

案の定イタリアはスペイン大会の1次リーグを過去の実績からシードされながら3引き分けのスタート。総得点でカメルーンをかわして2次リーグに進んだ。ところが2次リーグでは、ブラジルとアルゼンチンと同居したため「草刈場になる」という大方の予想を大きく裏切る活躍を見せた。

アルゼンチンに2-1の勝利を収めると、ブラジル戦ではロッシがハットトリックの爆発で3-2と競り勝ちブラジルに引導を渡したのだ。この試合は両チームともほとんどミスのない、いまで言うアクチュアル・プレーイングタイムの長い、W杯史に残る好ゲームと言える。

南米2強を倒して勢いに乗ったイタリアは、準決勝のポーランド戦でもロッシの2ゴールで勝ち上がると、決勝の西ドイツ戦でもロッシの先制点から3-1の勝利を収め、実に44年ぶりとなる3度目のW杯制覇を果たしたのだった。

このときの教訓から、W杯でのイタリアは1次リーグでは「死んだふり」をするとか、1次リーグのイタリアは「当てにならない」とも言われるようになった。

そしてロッシは得点王とMVPを獲得し、「バンビーノ・デル・オロ(黄金の子供)」と称えられた。同年にはバロンドールも受賞してピークを迎えたロッシだったが、代表でのキャリアで輝いたのはこのスペインW杯だけだった。

このロッシと、90年イタリア大会で得点王を獲得したスキラッチは「ごっつぁんゴール」を得意とする選手の代名詞と思われがちだが、けしてこぼれ球だけを得意とする選手ではなかった。ブラジル戦での1点目、攻撃的左SBカブリーニからのクロスをファーサイドで、ヘッドで決めたゴールはポジショニングの巧みさ、後にディエゴ・フォルランも得意とした「アザーサイドへ流れる」動きからのゴールである。

2点目はトニーニョ・セレーゾの横パスをカットして、自らドリブルで持ち込むと豪快なミドルで決めた。そして3点目は右CKのクリアから味方のミドルシュートをゴール前で反応してコースを変えたように、違ったパターンからハットトリックを達成している。

この3ゴールからわかることは、ロッシはストライカーとして多彩な得点パターンを持っているということだ。82年の夏に「一瞬の輝き」を残したロッシは、イタリアに3回目のW杯優勝という偉業をもたらして64歳の生涯を閉じた。

記録に残る選手ではないが、同時代を過ごしたファン・サポーターにとっては記憶に残る選手であることに間違いはない。

余談だが、今回の原稿を書く際に参考資料として当時のダイジェストの増刊号を見返した。するとユーゴスラビアの選手紹介ページで、昨夏ナントへ移籍したパワフルなCFとして若き日のハリルホジッチが写真付きで掲載されていた。なかなか甘いマスクのハンサムな選手だった。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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今季の判定基準とVARに期待すること/六川亨の日本サッカー見聞録

JFA(日本サッカー協会)は2月16日、今年最初となるレフェリングの判定基準(スタンダード)とVARの説明会を開催した。これは今シーズンのJリーグの判定基準を紹介するもので、ルールに変更があった場合は適用される時期も含めて把握しておかなければならない重要なブリーフィングだ。 結論から言うと、特に新たな変更点はなかった。脳しんとうにより交代した選手は再出場できないことはJリーグで決定しているものの、グラスルーツのレベルではJFAの理事会での承認を経てからの決定となる。 そして司会役の元国際主審の扇谷マネジャーは以下の4つのプレーについて留意点を強調した。 (1)コンタクトプレーについては昨シーズン同様、レフェリーは選手が倒れたからといって簡単に笛を吹かずノーファウルとする。 (2)昨年7月に改正された通り、守備側の選手がスライディングで倒れた際に、攻撃側の選手のクロスが手に当たったとしても、守備側の選手の手は体を支えるためハンドとならない。ただし、その手が横や縦に伸びていたらハンドとなる。 このジャッジに関してオブザーバーで会議に参加した松尾主審は「ボールが手のどこに当たったか、どういう風に当たったのか判断は難しい」と、ペナルティーエリア内ではPKに直結するだけに、ジャッジの難しさを話した。 (3)オフサイドでは、直接ボールに触れなくても、インパクト(妨害)するプレー、GKを惑わすようなプレーはオフサイドであることが確認され、具体例としてクラブW杯決勝のバイエルン・ミュンヘンのレバンドフスキのプレーが指摘された。 (4)著しく不正な、一発レッドに相当するプレーは、ファウルを受けた選手のチームが1タッチでゴールできるなど得点に結びつく可能性があればアドバンテージを取るが、そうでなければ攻撃側のアドバンテージは取らず、プレーを止めて不正を行った選手を即座に退場処分にする。 これは、アドバンテージによるプレー続行で、ファウルを犯した選手が万が一にも得点したり、さらなるカードに値するプレーをしたりした場合など余計なリスクを背負うことになるからだ。本来なら退場にする選手が新たなアクションに関与してしまうことを避けるためである。 ただ、不正なプレーがイエローの場合は、主審の判断により攻撃側のアドバンテージをとることは認められる。 そして最後に、昨シーズンは第1節で終わったVARの説明が行われ、「どこまで戻ることができるか」についてのレクチャーがあった。VARらはスタジアム外のコンテナ内などで映像を見ながら、プレーをチェックしている。J1リーグでは12台のカメラが映像をとらえ、1プレーにつき3~4台のカメラでチェックしているそうだ。 そこであるチームがボールを奪い、攻撃をスタートさせるとVARは「APPスタート」と言って映像をチェックする。このAPPとはVARのタグ付けを意味し、「事象に関して最後の攻撃の起点にタグ付け」することだという。 そう言われてもピンとこない読者も多いのではないだろうか。そこでヒントになるのが昨年のACL準決勝、蔚山現代対神戸戦である。 試合は52分に右CKから山口蛍のゴールで神戸が先制した。さらに75分、MF安井拓也のボール奪取から神戸はカウンターを仕掛け、最後はMF佐々木大樹が押し込んで追加点を奪ったかに見えたが、VARによるオンフィールドレビューの結果、主審はゴールを取り消した。 安井がボールを奪った時点でAPPはスタートし、ゴールが決まったものの事象は安井まで戻された。そして安井のプレーが反則か反則ではないかのジャッジで、最初はノーファウルと判定した主審がオンフィールドレビューを見てジャッジを覆したため、神戸の追加点は取り消された。 このプレーに関しては昨年末のコラムでも書いた。安井のプレーが反則かどうか。これはもう主観の問題のため論議しても結論は出ないだろうし、主審がジャッジを下した以上、それを覆すことはできない(その後、蔚山の同点ゴールに副審はオフサイドのフラッグを上げたものの、VARでゴールが認められ、延長で神戸はPKからの失点で敗退)。 日本(Jリーグ)においてVARは、2019年にルヴァン杯(決勝トーナメント)などで試験的に採用され、リーグ戦では20年のJ1リーグから本格運用する予定でいた。しかしご存じのようにコロナ禍でリーグは延期され、VARも密になることなどから採用が見送られた。 このため今シーズンが実質的な本格運用となる。そこで気になるのが、「VARオンリーレビュー」と「オンフィールドレビュー(OFR)」の違いだ。 両者の違いについてJFAのHPには、 「VARオンリーレビュー(VARの助言だけ)」→オフサイドポジションでいたかどうか? ボールが手にあたったかどうか? という、映像から事実として確認できる事象に対して使用する。 それに対して 「オンフィールドレビュー(OFR。主審が映像を確認する)」→選手同士がどの程度の強さで接触したのか? ボールが腕にあたったが意図的であったか? また、その腕を用いて自身の体を不自然に大きくしたか? という、主観的な判断が必要となる事象に対して使用する。 とある。前者は明らかな事実を確認できるため、確認中に映像がスタジアム内のオーロラビジョンに流されることはない。それに対して後者はファン・サポーターも映像を確認できるものの、あくまで最終決定権は主審にある。 この「主観的な判断」が正しいのかどうか。これこそが一番難しい判断ではないだろうか。VARの本格導入により、例えばゴール後の歓喜のシーンにタイムラグが生じるかもしれないし、VAR判定を求めるファン・サポーターのブーイングが起きるかもしれない。それは選手も同じだろう。 VAR元年となる今シーズンのJ1リーグ。これはこれで楽しみでもある。 <hr><div id="cws_ad">【文・六川亨】<br/>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.02.20 13:30 Sat
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モンゴル戦の変更で思い出すホームゲームの変更/六川亨の日本サッカー見聞録

JFA(日本サッカー協会)は2月9日に技術委員会を開き、3月30日に予定されているW杯2次予選のモンゴル戦を、当初のウランバートルではなく日本で開催すると発表した。委員会後のブリーフィングで反町技術委員長が明かした。 反町技術委員長によると、「モンゴル政府の考え方として、6月末まで国内では国際試合ができない。鎖国状態で(コロナを)ブロックしているので、6月まで禁止している」状況だという。 そして「推測ですが」と断った上で、中立地の第3国での開催を模索したが、コロナ禍で代替地が見つからず、「最終的に日本でやりたい」という結論に落ち着いたようだ。 日時は3月30日の19時30分キックオフで、会場は千葉のフクダ電子アリーナ。試合は無観客で行われ、モンゴルのホームゲームとして開催される。 フクダ電子アリーナで開催される経緯について、反町技術委員長は「僕らが決めてはいないので理由は不明」としながらも、「コミュニケーションは取っている」ことから、成田空港に近いこと、都心より千葉県の方がホテル代も安いことを指摘した。 それに加えてスタジアムの使用料も抑えられ、スポーツトラック(来日した選手・スタッフは宿泊ホテル、練習場、試合会場以外は外出禁止)も遵守しやすいなどが推測できる。 3月25日には日産スタジアムでミャンマー戦も予定されているが、現在のミャンマーは軍部のクーデターにより非常事態宣言が出されている。これについて反町技術委員長は「コロナだけでなく政治的な事情に驚いていて難しい状況。あと1ヶ月しかないが連絡は取れている。情報と状況は得ている」と説明しつつ、試合を開催できるかどうかに関しては「はっきり言えません」と言葉を濁した。 反町委員長ならずとも、頭を抱えたくなることの連続だ。対戦相手のホームゲームが日本で開催されるのは、たぶん初めての出来事ではないだろうか。 しかし、その逆は過去にもあった。1976年3月に開催されたモントリオール五輪予選だった。 最終予選に進出したのは日本と韓国、それに当時はAFC(アジアサッカー連盟)に所属していたイスラエルだった。 ここで簡単にイスラエルの歴史を紹介しよう。ユダヤ人国家としての独立は第二次世界大戦後の1948年だったが、パレスチナ人を支援するアラブ諸国とは独立当初から戦争状態にあった。 サッカーでは1956年にAFCに加盟し、70年メキシコW杯に初出場してベスト8に入る。しかし当時からアラブ諸国はイスラエルとの対戦を拒否したため、予選では東アジアやオセアニアに入ることが多かった。 そして1973年に第4次中東戦争が勃発し、イスラエルが占領地を拡大したためサウジを中心とするOPEC(石油輸出国機構)は原油の生産を制限した。世に言う「オイルショック」である。日本もその影響で、スーパーマーケットからティッシュペーパーやトイレットペーパーが買いだめのため姿を消した。 その後もイスラエルはパレスチナだけでなくヨルダン川西域を占領したため、アラブの過激派はテロ攻撃に出る。当時の日本には左翼の過激派として連合赤軍なども活動しており、アラブの過激派に同調したため、日本の警備当局と外務省は安全を保証できないとしてイスラエルの入国を認めなかった(74年に平壌4・25が来日して日本代表と対戦したときは、右翼の街宣車が国立競技場を周回したこともあった)。 この結果、日本はホームで韓国と対戦(0-2)したが、ホームゲームはこの1試合だけ。イスラエルとのホームゲームは韓国のソウルで行い(0-3)、アウェーゲームはテルアビブで1-4の大敗を喫した(アウェーの韓国戦は2-2)。 モントリオール五輪にはイスラエルが出場してベスト8に進出したが、イスラエルが国際舞台に出たのはこれが最後だった。それというのも1974年にAFCを除名になると、地域連盟未登録での予選参加を余儀なくされ、アジアやオセアニア地域で試合を重ねたものの、ボイコットが予想されるアラブ諸国とは一度も同じグループに入らなかった。 FIFA(国際サッカー連盟)にとってもイスラエルは扱いづらい“鬼っ子"だった。こうした問題は1992年にイスラエルがUEFA(欧州サッカー連盟)に加盟したことで解決した。以来、一度も予選を突破できずW杯とEUROには出場できていない。 当時のイスラエルにはシュピーグラーという名MFがいて、非常にエレガントなプレーをしていた記憶がある。ソ連出身で、代表での歴代最多ゴール(32)を誇り、パリSGやニューヨーク・コスモスでもプレーし、コスモスではペレとチームメイトだった。 サッカーが政治に翻弄された76年の出来事でありイスラエルの歴史だったが、まさか100年に一度という厄災(コロナ禍)と予期せぬクーデターでホームゲームが変更になるとは予想できなかった。 3月は無事に2試合を開催できるよう、コロナの収束を願わずにいられない。 <hr><div id="cws_ad">【文・六川亨】<br/>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.02.12 15:00 Fri
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マンチェスター・ユナイテッドのユニ苦情で障害者への気づき/六川亨の日本サッカー見聞録

ちょっと前の出来事だが、1月17日のイングランド・プレミアリーグ、リバプール対マンチェスター・ユナイテッド戦のユニホームについてSNSに苦情が殺到した。それを毎日新聞の1月27日夕刊が一面で大々的に報じたことがあった。 苦情の内容は、リバプールがホームカラーである「赤」のユニホームを着用したのに対し、マンチェスター・Uはアウェーのユニホームとして「深緑」のユニホームを着用。これ自体は特に問題になるとは思われなかったが、色覚障害を持つ人々にとって「深緑」は「黒」に見え、同じく濃い色の「赤」と見分けがつきにくかったことが問題になった。 毎日新聞によると、国内では男性で20人に1人、女性で500人に1人、計約320万人以上に色覚障害があるという。そして冒頭の問題は14年のCL(チャンピオンズリーグ)でも発生し、プレミアリーグでは試合の10日前に対戦チームが着用するユニホームを提出し、色覚障害を持っていても識別できるかどうかをチェックしてきたそうだ。 今回も試合前に紛らわしいことが指摘されたものの、マンチェスター・Uがストッキングを「深緑」から「白」に変更することで許可されたという。しかし近年は「スマホなど小さな画面で試合を見るファンも増えているため、対応として不十分だった」との識者の声を掲載していた。 これらの記事を読んで思い出したのがテレビとサッカー(W杯)の関係である。 いまでこそサッカーボールはカラフルになり、大会ごとに違うデザインのボールが使われたり、W杯やCLではデザインが一新されたりするのは通例となった。それ以前のサッカーボールはというと、五角形と六角形の革を貼り合わせた「白黒」のサッカーボールを思い出すのではないだろうか。 日本が銅メダルを獲得した68年メキシコ五輪でも、ブラジルが3度目の優勝を果たした70年メキシコW杯でも、この「白黒」ボールが試合球として初めて使われた。 この「白黒」のボールが登場したのは60年代と言われている。それ以前は「白」一色のボールが一般的だった(さらにその前になると「茶色」一色で革紐がついていたそうだが、さすがにそのボールを蹴った経験はない)。 ではなぜ「白黒」のボールが登場したかというと、テレビの普及と無関係ではないらしい。当時のテレビはもちろんモノクロだ。このため「単色」だとテレビでは見にくいこと、「白黒」だと土のグラウンドでも見分けやすいこと、選手(特にGK)にとってはボールの回転がわかりやすいことなどの利点があって急速に普及した。 そしてユニホームについてだが、FIFA(国際サッカー連盟)は近年まで「色つきユニホーム」同士の対戦を認めていなかった。どちらかが「色つき」なら、対戦相手は基本的に「白」を着用しなければならなかった。 これは元FIFA会長のジョアン・アベランジェの戦略として、「発展途上国へのサッカーの普及」があったからだ。 日本は64年の東京五輪を契機にテレビのカラー化が進んだものの、一般の家庭に普及したのは70年代後半だった。しかしながらアフリカを始めとする発展途上国では80年代に入ってもカラーテレビの普及は進まず、まだまだモノクロのテレビでW杯を視聴する人々が多かった。 このため「赤」対「青」のユニホームの試合では、濃淡の差こそあるものの見分けがつきにくい。このためFIFAは長らく「色」対「白」のユニホームの着用を義務づけてきた。例えば06年ドイツW杯決勝は「青(イタリア)」対「白(フランス)」、3位決定戦は「白(ドイツ)」対「エンジ(ポルトガル)」、準決勝なら「白(フランス)」対「エンジ(ポルトガル)」、「青(イタリア)」対「白(ドイツ)」といった具合だ。 それが10年南アW杯決勝では「赤(スペイン)」対「オレンジ(オランダ)」、14年ブラジルW杯決勝は「白(ドイツ)」対「青(アルゼンチン)」、18年ロシアW杯決勝は「青(フランス)」対「白と赤のチェック(クロアチア)」と「色」対「色」の試合が許されるようになった。 その詳細な理由はわからないが、発展途上国では大がかりな工事が必要な固定電話よりもスマホの普及率が高いように、カラーテレビよりスマホやタブレットで試合を視聴するファンが多くなったからかもしれない。 しかし今回の件で色覚障害者に配慮する必要が指摘された。 Jリーグは今シーズンから、視認性に優れたユニバーサルデザインの書体と色彩による背番号と選手名を導入する。過去の例ではデザインを優先した背番号のため「2」と「7」、「11」と「17」など区別のつきにくい番号があったし、縞模様のユニホームにより背番号が見にくかったり、濃い色だと汗をかくことによってさらに濃くなり背番号を判別できなかったりすることが多かった。 それらを解消し、色覚障害者にも判別しやすいよう専門家からアドバイスを受けて視認性を確保するようだが、今回の変更は背番号と名前に限られ、ユニホームの「色」までは規定されていない。こちらはシーズンが始まってからでも構わないので、実際の試合から専門家にアドバイスをもらうなど色覚障害者への配慮もお願いしたい。 <hr><div id="cws_ad">【文・六川亨】<br/>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.02.05 12:25 Fri
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Jリーグが決定した脳しんとうの交代枠での疑問/六川亨の日本サッカー見聞録

Jリーグは今年最初の理事会会見を、女子プロリーグのWEリーグも同様にメディアブリーフィングを28日に実施した。WEリーグの岡島チェアは開幕を9月中旬の11、12日になるプランを明かし、プレシーズンマッチを4月に開催する予定だ。 Jリーグはコロナ禍における「みなし開催」のルール、「移籍ウインドー」の期限、「交代枠5人の継続」と「飲水タイム」の変更点、「脳しんとう」に関するルールの制定などを決定した。これらはすでに当サイトの国内ニュースで報じられているので詳細は割愛する。 脳しんとうに関してJリーグは、5人の交代枠とは別に1試合1人の交代を認めた。 村井チェアマンも「選手の安全を守るために極めて重要。本人が気付かずにプレーを続けてしまう。一定期間に2度だと生命に影響があるので速やかに対処すべき問題だった。トップリーグのJリーグが啓発・予防することは極めて重要だと思う」とルールの必要性を訴えた。 おそらく村井チェアマンには18年の柏GK中村の事例が脳裏にあったのではないだろうか。 中村は18年5月の名古屋戦で、巨漢FWジョーと競った際に空中で体が1回転して頭から落下。すぐに試合はタイムアップを迎えたものの、中村は起き上がることができずに担架でピッチを後にした。その後、脳しんとうと頸椎捻挫の診断で入院を余儀なくされた。 さらに7月のFC東京戦では東のクロスに対応しようとしたところ、FW富樫の膝が中村の頭部に入り、仰向けに倒れたまま意識を失った。名古屋戦と同様にそのまま病院へ搬送されて2度目の入院となり、3ヶ月半の離脱となった。 その後、中村は無事に復帰したが、クロスを処理する際にボールの落下点に入れていないと感じるシーンを目撃した。柏ファンのカメラマンにその話をすると、彼も同様の印象を抱いていた。 元日本代表FWの原副チェアマンも現役時代は「何度もやりましたよ。1年くらい半身に痺れが残りました。後遺症が出るというのはいろんなデータを見てもハッキリと分かっていること。本人も『大丈夫です』と言ってしまう」と、骨折や捻挫と違って目に見えない症状もあることの難しさを話した。 ずいぶん昔のことだが、1982年元旦の天皇杯決勝でのことだった。日本鋼管(93年に廃部)対読売クラブ(現東京V)の試合(2-0で日本鋼管が初優勝)で、日本鋼管の日本代表でもある長身FWが空中戦で頭部を負傷した。 脳しんとうのためゴール裏で治療を受け、ドクターは交代してベンチに下がるよう促したが、本人は断ってピッチに戻ろうとした。しかし2、3歩ほど歩いたところで意識を失い前のめりに倒れるところをチームメイトに支えられ、ベンチに下がらざるを得なかった。 今回のルール化によりドクターの判断で交代させられることが明記されたのは朗報だ。とはいえ、「脳しんとうによる交代は、その前に何人の交代が行われているにかかわらず、行うことができる」としながら、「1試合において、各チーム最大1人の脳しんとうによる交代を使うことができる」と限定することに疑問を感じるのは筆者だけだろうか。 たぶんこれは、IFAB(国際サッカー評議会)の通達通りの決定だろう。しかし、90分の試合中に脳しんとうでプレー続行が不可能になる選手は1人とは限らない。「コロナ禍で3人から5人に交代枠が増えたのだから、それで対応すればいい」という意見もあるだろう。 個人的には、交代枠が3人だろうが5人だろうが、「選手の安全を守る」(村井チェアマン)ためなら、Jリーグは独自に「人数制限のない」脳しんとうの交代枠を作るべきである。そうすることで、何か不具合が生じるとも思えないからだ。 そして最後に、28日のJリーグ理事会で一番聞きたかったことは、昨年12月に参与となった元東京V社長の羽生氏の件についてである。28日発売の週刊文春はクラブを子会社化したゼビオが、羽生氏の不正会計や背任疑惑を報じた。 すでに昨年暮れから羽生氏とゼビオ側は、ネットメディアなどを通じてそれぞれの「言い分」を発信。主張は真逆だっただけに、その成り行きに注目していた。 この件に関し村井チェアマンは「オリジナル10で(この導入はさすが!と思った)、日本サッカーにとってブランド力が高く、ヴェルディとともにJリーグはスタートしました。メディアは様々に報じていて危惧しています。いまは事実確認をするしかありません。現在チームからは『事実を確認中』との報告なので待っています。1月中旬にヴェルディから内部監査に関して、事実確認をしていると監査部に報告があり、注視しているところです」答えるにとどめた。 現状、答えられるのはここまでだろう。これまた個人的な感想だが、「1月中旬に~」以降の「監査部に報告があり注視している」は、言わなくてもよかったと思う。それをあえて言ったことに、問題の深刻さと村井チェアマンの決意を感じてしまった次第でもある。 <hr><div id="cws_ad">【文・六川亨】<br/>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.01.30 17:45 Sat
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今季は「#atarimaeni CUP」のみ開催、大学サッカーに思うこと/六川亨の日本サッカー見聞録

今シーズンの大学サッカーは、新型コロナの影響で夏の総理大臣杯、冬の全日本大学選手権(インカレ)が中止に追い込まれた。その代わりに、今年限定の大会として「サッカーができる当たり前」に感謝をこめて#atarimaeni CUPが1月6日に開幕した。 全国各地の大学32チームがトーナメントで争った同大会は1月21日に準決勝2試合を行い、法政大が早稲田大を2-0で下して23日の決勝戦に進出。リーグ戦は4位に終わった法政大だが、17年の総理大臣杯優勝、18年のインカレ優勝、19年の総理大臣杯準優勝と4年連続して全国大会の決勝戦に進出し、カップ戦に強いところを見せた。 決勝で対戦するのは2回戦で優勝候補の本命だった明治大をPK戦で下した東海大だ。神奈川県リーグ所属だが、準決勝でも関東リーグ3位の順天堂大を1-0で下すジャイアントキリング。県リーグ所属の大学が全国大会の決勝戦に勝ち進むのは史上初の快挙だ。 準決勝の2試合を取材した印象は、「法政大が頭1つ抜けている」というのが正直なところ。リーグ戦2位の早稲田大を相手に、前後半ともハーフコートマッチに近いワンサイドゲームからキャプテンの右SB関口が機敏な状況判断で2ゴールを奪った。 関口は卒業後に甲府へ加入し、ゴールを守った身長2メートルのGK中野はすでに昨シーズン、札幌でJ1デビューを果たしている。彼ら以外にもプロに進む選手が総勢8名もいるのだから、ワンサイドゲームになるのも当然だったかもしれない。 前半はリトリートして守備を固め、0-0で折り返した早稲田大だったが、後半になると前線から積極的なプレスを仕掛けた。しかし法政大はそのプレスを個人技とグループ戦術の組み合わせで、いとも簡単にくぐり抜けて攻撃につなげて早稲田大ゴールに迫った。 ただし早稲田大もMF鍬先(長崎に内定)、キャプテンのDF杉山、卒業後は清水に内定している3年生FW加藤を欠くなど必ずしもベストメンバーではなかった。リーグ戦を取材したことのある記者がノートを見ながら、「その時に出ていたのはキーパーとセンターバックとサイドバックの3人だけ」と教えてくれたが、そうだとしたら一方的な展開になったのも致し方ないだろう。 この#atarimaeni CUP、1回戦から3回戦までは非公開で、準決勝と決勝はメディアとスカウトに公開しつつ有観客試合にする予定だった。しかし非常事態宣言により無観客試合になったのは残念だった。 そして第1試合のハーフタイムには懐かしい早稲田大サッカー部OBと会った。昨年、京都の強化育成本部長に就任した、元日本代表の加藤久氏である。 加藤氏は「我々の頃とはレベルが違う」と笑いながら長足の進歩を遂げた大学サッカーに驚きながら、「どのチームも似たような選手が多いですね」と正直な感想を漏らした。 昔の早稲田大のサッカーは、「百姓一揆」と揶揄されるロングキック主体のサッカーだった。前線には大型ストライカーを擁し、制空権を握った。古くは釜本邦茂氏に始まり、70~80年代はこの日、取材に訪れていた原君の父である原博実氏(Jリーグ副チェアマン)や関塚隆氏(元JFAナショナルチームダイレクター)らが活躍した。 しかしプロリーグ誕生により日本サッカー全体が底上げされたこと、人工芝の普及により練習環境が整ったこと、体系的な指導体制が整備されたことなどから選手の技術は飛躍的に向上。どの大学もボールを保持して攻めるスタイルを採用するようになった。 そこで思い出すのが18年のインカレで、上田(鹿島)、紺野(FC東京)を擁して優勝した時の長山監督の言葉だ。彼ら2人をスタメンではなく交代で起用した理由を聞くと、次のような答えが返ってきた。 「上田がいると彼に合わせてロングキックを蹴ってしまう。紺野がドリブルを始めると、みんな彼のドリブルを見て足が止まってしまう」 長山監督の説明を聞いて「なるほど」と思った。2人がいると彼らに頼る、単調な攻撃になってしまうのだろう。 だがしかし、それがストライカーとしての上田と、ドリブラー紺野のスキルを伸ばしたのではないだろうか。 選手の個性、ストロングポイントを伸ばす指導は大事だし、特に長身のGK、CB、FWの育成は喫緊の課題だ。そのためには、例えばロングキック主体のチームがあっていいような気もする。 たぶん簡単には答えが出ない問いかけでもあるだろう。 <hr><div id="cws_ad">【文・六川亨】<br/>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.01.23 08:30 Sat
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