マラドーナに続きロッシまで/六川亨の日本サッカー見聞録
2020.12.19 14:30 Sat
Jリーグは16日にJ1とJ2の最終節(19日と20日)前の試合を開催し、記録の更新も含めてACL出場チームやJ1昇格チームが決まった。
そして2位のG大阪が横浜FCに2-0と勝ち、4位のC大阪が鳥栖に1-2で敗れたため、1試合を残してG大阪の2位が確定した。G大阪は27日から始まる天皇杯準決勝と来シーズンのACLの出場権を獲得した。
J1リーグの上位3チームに与えられるACLの出場権は、3位の名古屋、4位のC大阪、5位の鹿島の3チームによる争いに絞られた。しかしながら天皇杯の出場チームがJ1の1位と2位のため、ACLの出場権は天皇杯ではなくリーグ戦の4位まで枠は広がるはずだ。このため最終戦でのC大阪(勝点59)対鹿島(同58)の直接対決は痺れる試合になるだろう。3位の名古屋は勝点60のため、鹿島は勝つしかACLの道は開けない。
パオロ・ロッシがW杯にデビューしたのは1978年のアルゼンチン大会だった。同大会ではブラジルのジーコ、フランスのプラティニらがデビューしたものの、その後ロッシの名前が日本のサッカー雑誌に載ることはほとんどなかった。
それというのもペルージャ在籍時代の80年に、八百長に連座したとの疑いから3年間の出場停止処分を受けたからだ。
幸か不幸かロッシの出場停止処分は2年に軽減され、82年の4月にはスペインW杯の最終メンバーにエンツォ・ベアルゾット監督はロッシを加えた。まず日本では、八百長事件に連座した選手を代表に加えることは100%ないだろう。さらに2年間の出場停止ということで、実戦からも遠ざかっている。
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記録では、川崎F対浦和戦で興梠がPKから浦和の先制点を決めた。これで興梠はJ1記録を更新する9年連続2桁得点をマーク。J1歴代最多得点でも中山雅史と並ぶ157の3位で、2位・佐藤寿人の161も視野に入ってきた。試合はリーグ優勝を決めている川崎Fが後半の3ゴールであっさり逆転。2点目を決めた三笘は通算13得点で、大卒ルーキーの最多得点記録を持つ渡邊千真(当時は横浜FM)と武藤嘉紀(同FC東京)に並び、最終戦で記録の更新に挑む。J1リーグの上位3チームに与えられるACLの出場権は、3位の名古屋、4位のC大阪、5位の鹿島の3チームによる争いに絞られた。しかしながら天皇杯の出場チームがJ1の1位と2位のため、ACLの出場権は天皇杯ではなくリーグ戦の4位まで枠は広がるはずだ。このため最終戦でのC大阪(勝点59)対鹿島(同58)の直接対決は痺れる試合になるだろう。3位の名古屋は勝点60のため、鹿島は勝つしかACLの道は開けない。
Jリーグの詳しい総括については別の機会に譲るとして、年末は悲報が相次いだ。マラドーナの訃報に続き、12月9日には元イタリア代表FWのロッシが肺がんのため64歳でこの世を去った。
パオロ・ロッシがW杯にデビューしたのは1978年のアルゼンチン大会だった。同大会ではブラジルのジーコ、フランスのプラティニらがデビューしたものの、その後ロッシの名前が日本のサッカー雑誌に載ることはほとんどなかった。
それというのもペルージャ在籍時代の80年に、八百長に連座したとの疑いから3年間の出場停止処分を受けたからだ。
幸か不幸かロッシの出場停止処分は2年に軽減され、82年の4月にはスペインW杯の最終メンバーにエンツォ・ベアルゾット監督はロッシを加えた。まず日本では、八百長事件に連座した選手を代表に加えることは100%ないだろう。さらに2年間の出場停止ということで、実戦からも遠ざかっている。
当然イタリア国内でもベアルゾット監督に対する批判は凄まじいものがあった。ただ、エースはあくまでもベテランのロベルト・ベッテガであり、ロッシはサブという扱いだったこと。そして、イタリア国民の大多数が母国の活躍をほとんど期待していなかったことが幸いしたのではないだろうか。
優勝候補の筆頭はブラジルだった。なにしろ前年5月に行った長期にわたるヨーロッパ遠征では敵地にもかかわらずイングランド、西ドイツ、フランスを撃破。偶然にもテレビ中継していたイングランド対ブラジル戦を見たが、前後半ともブラジルのワンサイドゲーム。というか、ほとんどイングランド陣内でのハーフコートマッチだった。いくらテストマッチとはいえ、ここまでヨーロッパの強豪を圧倒するチームを見たのは初めてだった。
変幻自在の中盤、「クワトロ・ジ・オーロ(黄金の4人)」と言われたジーコやファルカンらが織りなすゲームメイクはまさに圧巻ものだった。
そんなブラジルの対抗馬は前回優勝国で、新たにマラドーナやディアスらを加えたアルゼンチン。そしてヨーロッパ勢では西ドイツと、キャプテンになったプラティニとジレス、ティガナら中盤のタレントから「4銃士」と呼ばれたフランスだった。
イタリアは……34年と38年に優勝したが、それははるか大昔のこと。70年メキシコ大会こそ決勝に勝ち進んだが、その前後の66年イングランド大会と74年西ドイツ大会は1次リーグで敗退と、蓋をあけてみないとわからないのがイタリアだった。
案の定イタリアはスペイン大会の1次リーグを過去の実績からシードされながら3引き分けのスタート。総得点でカメルーンをかわして2次リーグに進んだ。ところが2次リーグでは、ブラジルとアルゼンチンと同居したため「草刈場になる」という大方の予想を大きく裏切る活躍を見せた。
アルゼンチンに2-1の勝利を収めると、ブラジル戦ではロッシがハットトリックの爆発で3-2と競り勝ちブラジルに引導を渡したのだ。この試合は両チームともほとんどミスのない、いまで言うアクチュアル・プレーイングタイムの長い、W杯史に残る好ゲームと言える。
南米2強を倒して勢いに乗ったイタリアは、準決勝のポーランド戦でもロッシの2ゴールで勝ち上がると、決勝の西ドイツ戦でもロッシの先制点から3-1の勝利を収め、実に44年ぶりとなる3度目のW杯制覇を果たしたのだった。
このときの教訓から、W杯でのイタリアは1次リーグでは「死んだふり」をするとか、1次リーグのイタリアは「当てにならない」とも言われるようになった。
そしてロッシは得点王とMVPを獲得し、「バンビーノ・デル・オロ(黄金の子供)」と称えられた。同年にはバロンドールも受賞してピークを迎えたロッシだったが、代表でのキャリアで輝いたのはこのスペインW杯だけだった。
このロッシと、90年イタリア大会で得点王を獲得したスキラッチは「ごっつぁんゴール」を得意とする選手の代名詞と思われがちだが、けしてこぼれ球だけを得意とする選手ではなかった。ブラジル戦での1点目、攻撃的左SBカブリーニからのクロスをファーサイドで、ヘッドで決めたゴールはポジショニングの巧みさ、後にディエゴ・フォルランも得意とした「アザーサイドへ流れる」動きからのゴールである。
2点目はトニーニョ・セレーゾの横パスをカットして、自らドリブルで持ち込むと豪快なミドルで決めた。そして3点目は右CKのクリアから味方のミドルシュートをゴール前で反応してコースを変えたように、違ったパターンからハットトリックを達成している。
この3ゴールからわかることは、ロッシはストライカーとして多彩な得点パターンを持っているということだ。82年の夏に「一瞬の輝き」を残したロッシは、イタリアに3回目のW杯優勝という偉業をもたらして64歳の生涯を閉じた。
記録に残る選手ではないが、同時代を過ごしたファン・サポーターにとっては記憶に残る選手であることに間違いはない。
余談だが、今回の原稿を書く際に参考資料として当時のダイジェストの増刊号を見返した。するとユーゴスラビアの選手紹介ページで、昨夏ナントへ移籍したパワフルなCFとして若き日のハリルホジッチが写真付きで掲載されていた。なかなか甘いマスクのハンサムな選手だった。
【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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