週末のJを襲ったコロナ禍/六川亨の日本サッカーの歩み

2020.08.04 21:05 Tue
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©︎J.LEAGUE
なんとも慌ただしい週末だった。先週8月1日はJ1リーグのFC東京対鳥栖戦を取材した。今シーズン未勝利の鳥栖だったが、4-3-3のフォーメーションから20歳の右FW石井快征がトップ下のポジションに入ることでフリーとなり、鳥栖の攻撃陣を牽引。前半30分には樋口雄太が右サイドをえぐると、その折り返しを石井が決めて鳥栖が先制した。

さらに43分には明治大卒のルーキーSB森下龍矢が右サイドを攻め上がり、目の覚めるようなロングシュートを突き刺す。金明輝監督は試合後に「今日のゲームは石井が肝だということは彼に伝えました。あそこ(バイタルエリア)がぽっかり空くのがFC東京の守備なので、そこでしっかりと起点を作って、相手の矢印(カウンター)をへし折ってくれた」と勝利の殊勲者を称えた。

さらに金監督は「あそこの守備(レアンドロ)の強度というか、どういう言い方をしていいのか、スキがあるような感じがするので十分に突けると思ったと同時に、サイドバック(小川諒也)が出てくるのが速いので逆手に取れるかなと。どのチームも狙っていると思いますけど」と勝因を指摘した。

金監督は正直な人だなと思った。これが日本人監督だと「まだシーズンの途中なので」とか、「戦術的なことはちょっと」と口を濁すことが多い。特に対戦相手の弱点を指摘することはほとんどないと言っていいだろう。

試合終盤は3-1とリードしたこともあり、金監督は高校2年生のSB中野伸哉をデビューさせると、FC東京も交代出場の長身FW原大智(21歳)がJ1初ゴールを決めるなど、見どころの多い試合だったが、試合後の会見が思わぬ緊張感をもたらした。

まずは21時30分、JFA(日本サッカー協会)の反町技術委員長がweb会見で、1日から始まる予定だったU-19日本代表の合宿初日に、参加者の1名からスマートアンプ法とPCR検査で陽性反応が出たことを報告。当該選手以外は全員陰性で、保健所により濃厚接触者がいないことも確認されたが、反町技術委員長はキャンプを中止し、選手は所属クラブに帰すことを発表した。

そして時をほぼ同じくして会見に臨んだFC東京の長谷川監督は、試合直前に鳥栖から前日に発熱した選手がいたが東京遠征のメンバーには入らなかったこと、Jリーグ側に連絡したが中止ではなく予定通りキックオフすることを知らされたことを明らかにした。

これは判断が非常に難しいケースだ。

7月26日の広島対名古屋戦が中止になったのは、PCR検査で明らかな「陽性者」がいたことと、濃厚接触者の特定に時間がかかり試合開始に間に合わないからだった。

しかし鳥栖の場合は、「発熱者」がいたものの「陽性」とは断定されていない。一般人でも「37.5度の発熱が5日続いたら保健所に連絡」ということになっている。発熱=コロナに感染ではないのだ。

とはいえ、指揮官が「選手の生活と健康を預かっている監督として、強引にやらせるというのは苦しい選択があった」と葛藤するのは当然だし、「安心が担保できないなかで試合をやらせるというのは、今後は考えてもらいたい」と訴えたのも頷ける。

試合直前に対戦相手に発熱した選手がいたことを知らされれば、例え陽性でなくても動揺するだろう。それはFC東京の選手だけでなく、チームメイトの鳥栖の選手も同様ではないだろうか。

では、発熱した鳥栖の選手は帯同しておらず、濃厚接触者も特定されなかったので、FC東京にそれらの事実を隠して試合に臨んだ場合はどうか。長谷川監督を始めFC東京の選手たちが動揺することはなく、普段通りの試合ができたかもしれない。

しかし試合後に何らかの形で実状を知れば、鳥栖とJリーグに対して不信感を抱く可能性は高いだろうし、簡単に払拭することはできないだろう。

そして“コロナ禍”は、これだけでは済まなかった。

翌2日の17時より、J2町田の大友社長が会見を開いた。前日のUー19日本代表合宿で陽性反応が出たのは町田のFW晴山岬であり、現在も37.2度の熱があること。先月31日に実施したJリーグのPCR検査で晴山以外の全員が陰性であることと、保健所の確認で濃厚接触者がいないことから、当日18時30分キックオフの京都対町田戦は予定通り行うことを発表した。

ところが、その1時間15分後には村井満チェアマンと大宮の森社長、福岡の川森社長が合同で会見を実施。福岡の選手1名の陽性の可能性が高く、濃厚接触者の有無も試合前までの判別が難しいことから、19時キックオフの試合を中止にすることを決定した。

Jリーグが金曜に実施しているPCR検査は、結果判明が週明けの火曜だ。これは水曜のリーグ戦やカップ戦に向けての検査である。しかし今回の鳥栖、町田、福岡の3例から、週末の試合開催に向けても検査の必要性が高まった。

今後、村井チェアマンはPCR検査に加え、Uー19日本代表の合宿でJFAが実施したスマートアンプ法の併用も検討していくとコメントした。スマートアンプ法は1時間程度で陽性の可能性が検討できるため、検査のスピードアップが期待できる。残る課題としては、濃厚接触者の特定のため、週末における各地域での保健機関との連携となるだろう。

来週末もJ1~J3の試合が数多く組まれている。「Jリーグのある日常」に加え、「何も起きない週末」が戻ることも期待したい。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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Jリーグは来季よりユニの背番号を統一/六川亨の日本サッカーの歩み

ステイホームの続く毎日だが、久しぶりに慌ただしい一日だった。10時に某週刊誌に内田篤人のロールモデルコーチ就任についてコメントを求められた。11時からは、明日J1リーグの試合を控えるJクラブの監督のweb会見に続いて、若手2選手の会見取材を終了する。 13時30分からは、今年のルヴァン杯の準決勝から取材の申請方法が変更されるので、その詳細に関してレクチャーを受けた。これまでもJリーグの取材はネットから申請していたものの、そのシステムも導入して10年が過ぎた。このため来シーズンからリニューアルされるので、たまたま今年のルヴァン杯は勝ち残っているのが首都圏の4チーム(川崎F、FC東京、横浜M、柏)のため、首都圏のメディアを対象に説明会が開催されたのだった。 その取材中にJFA(日本サッカー協会)からメールが届き、15時から急きょ森保一監督の会見を実施するというアナウンスがあった。先週は反町技術委員長が、10月に日本代表がオランダ遠征を行い、カメルーンとコートジボワールと対戦することを発表したばかり。それを受けての森保監督の会見だった。 そして締めは17時からの、Jリーグ定例実行委員会後の記者会見だ。さすがに1日4本のリモート会見になると肩も凝ってきた。 そうした様々なトピックスの中で「やっと」と思ったのが、Jリーグのユニホームの背番号のデザインとカラーの変更および統一だ。 どのようなコンセプトのもと、どういうデザインとカラーに変更されたのかは、当サイトでも詳しく紹介しているのでそちらをご覧いただきたい。 Jリーグのユニホームの色やデザインに関しては、遙か昔、Jリーグが誕生する前に一度統一されたことがあった。それまでのJSL(日本サッカーリーグ)時代は、例えば三菱(後の浦和)はプーマ(リーベルマン社)、ヤンマー(後のC大阪)ならアディダス(デサント社)と言った具合に(アシックスを採用しているチームももちろんあった)、各チームがそれぞれメーカーと個別に契約していた。 しかしJリーグの誕生にあたり、サッカー界では後発だったミズノ社が、J1全10チームのユニホームを一括してデザインから作製まで請け負い、なおかつJリーグに年間2億円の協賛金を支払うというオファーを出した。契約は3年間なので、計6億円になる。 当時、プーマ、アディダス、アシックスの3社は年度ごとに輪番で日本代表のオフィシャル・サプライヤーを務めていたが、年間の協賛金は1千500万円ほど。3社が束になってもミズノの提示した億という金額には届かなかった(日本代表のオフィシャル・サプライヤーは前述の3社の輪番で98―99シーズンまで続いたものの、ナイキ社の出現により99年に崩れた)。 カラーに関しても、それまでは会社のカラーをユニホームに採用しているチームが多かった。しかし、それだとレッドとブルーのチームばかりになってしまう。そこでJリーグは重ならないように、「静岡の名産はみかんなんだから、清水はオレンジでどうですか」と提案したり、「紫は高貴な色なんですよ」と広島を説得したりして10チームの色分けを半ば強引に実施した。 このチームカラーに関しては、もはや各クラブの伝統になりつつあるようだ。 そして当時のユニホームはデザイン優先だったから、背中の背番号はかなり見にくかった。鹿島の背番号は流線的なデザインだったため「3」と「5」が判別しにくかったし、加えて当時のJリーグの背番号はプレミアリーグを真似て、個人の固定番号制(97年に変更)ではなく、スタメンは1番から11番までと決まっていた。 当然、ユニホームに個人名は入っていないし、鹿島の「10」番はジーコだけでなく、彼が不在の時は石井(正忠。元鹿島監督)が着けるなど、試合によってバラバラだった。 その後は各チームとも紆余曲折を経て現在に至っているが、それでも年度によってデザインをリニューアルした際は、背番号がかなり見にくいチームもあった。似たような色で背番号がユニホームに溶け込んでいたり、縦縞のため部分的に色が飛んでいたりして、逆光になったらほとんど判読不能なチームもあった。 新デザインとカラーでは、縁取りをしつつ、それでも見づらい場合は色の違うゼッケンのようなもの(業界用語で「ざぶとん」と言うそうだ)を下に敷いて視認性を高めることもあるという。これなら縦縞のユニホームでも見やすくなるだろう。 テレビからパソコン、タブレット、スマホとJリーグの視聴環境も時代の変化に合わせて多様化している。そうした動きに連動する今回の改革案。Jリーグはコロナ禍でも歩みを止めないという一例と言えるだろう。 <div id="cws_ad"><hr>【文・六川亨】<br>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.09.15 21:50 Tue
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NPBとJリーグの規制緩和は予定通り?/六川亨の日本サッカーの歩み

9月7日、月曜日のことだった。15回目となるNPB(日本野球機構)とJリーグによる対策連絡会議が開催された。リモートで行われた会見では、賀来満夫ドクター(東北大学大学院)らが、政府の専門家による分科会も新型コロナの(第2波の)ピークは7月28日~30日で過ぎており、感染は徐々に減少していると分析していることを紹介した。 このため9月いっぱいまで延長された上限5000人の入場者制限を見直す時期に来ているとして、パーセンテージによる変更と、10月を待たずに早期の制限緩和を求める要望書を、斉藤NPBコミッショナーと村井チェアマンの連名で出すことを発表した。 これまでの会見では、ドクター3氏の提言を受けた対策連絡会議後、プロ野球12球団は同日の午後に会議を開いて伝達事項を共有しつつ、課題を検討していた。そしてJリーグは翌日に臨時実行委員会を開き、その日の午後に委員会の合意・決定を踏まえて会見を行ってきた。 このため対策連絡会議の終わりには、広報担当者が翌日にJリーグの臨時実行委員会があり、リモート会見が行われることをアナウンスするのが常だった。しかし、7日は次回の対策連絡会議が9月21日に行われることしか発表されなかった。 7日の夕刻だった。記者会見に臨んだ小池都知事は今日一日の都内の感染者が77人であることを発表した。1日で100人を下回ったのは8月24日以来だ。「久しぶりの70人台になる。お盆明けから3週間になるが、減少傾向を示していると思う」と、特に表情を変えずに話していた。 昼前のリモート会見で感染者が減少傾向にあることは聞いていた。それを裏付ける数字が出たことで、入場者の制限緩和は9月中にも認められるのではないかと内心期待したものだ。 すると19時ちょうどだった。Jリーグからメールが届き、8日の12時30分からNPBとJリーグの合同会見を実施することと、参加者は斉藤コミッショナーと村井チェアマンの2人であることを伝えてきた。 この7日の対策連絡会議を改めて振り返ってみると、「プロ野球とJリーグ共同で要望書を政府に提出する」と斉藤コミッショナーは明言しながらも、いつ出すかは断言していなかった。 記者との質疑応答では、「何パーセントもしくは何人に増やしたいのか」という質問に対し、斉藤コミッショナーは「マックス(最大)いまは50パーセント。まだ具体的に話していない。チェアマンとも要望書に入れるかどうか相談したい」と答え、村井チェアマンも「マックスは50パーセントでしょう。詳細はこれからになります」と答えるにとどめ、要望書の提出には言及しなかった。 さらに村井チェアマンは、制限緩和に伴うアウェーの観客をどうするかについても、「アウェーについて今日は議論されませんでした。明日議論しますが、まだ慎重に、ステップを踏んでいくのかな」と、実行委員会の会議が8日に行われることを示唆しただけだった。 ところが8日になると話は急転直下、12時30分からのリモート会見では、冒頭で広報担当者が斉藤コミッショナーと村井チェアマンの連名で、西村経済再生担当大臣宛てにメールで要望書を出したことと、これから郵送でも送ることを発表した。その詳細については当サイトでも紹介しているので省略したい。 付け加えることがあるとすれば、今回の制限緩和は来年の東京オリンピック・パラリンピック開催に向け、貴重なモデルケースにつながるということもドクターらは強調していた。スタジアムへの入退場はもちろん、スタジアム内外の飲食、トイレ、ファンゾーン(があれば)の過ごし方から、公共交通機関の利用の際の規制方法など、観客を5000人から増やすことで見えてくる、新たな課題もあるだろう。 ただ、「それにしても」という疑問を払拭できない。8日朝のニュースでは、IOC(国際オリンピック委員会)のコーツ副会長が「コロナに関係なく(五輪は)開催する」と電話インタビューで答えたことが伝えられた。 IOCにはIOCなりの思惑があるとしても、前日の小池都知事に続いてIOCの副会長までが、JリーグとNPBの観客増を後押ししている――ふうに感じられてしまった。なんだか急に強い追い風が吹いてきたような……。 そこで改めて7日のノートを読み返してみると、斉藤コミッショナーは次のような発言をしていた。 要望書の提出に関して「(政府の有識者による)分科会は状況の改善で(人数制限を)見直すコンセンサスは取れている。今週金曜(11日)に分科会があるので、採用を検討する要望書を出します」 そして「今回は要望書なのか、具体的な数字を入れるのか」という質問に対しては「GO TOトラベルも、GO TO イートも(考えたらサッカーも野球も2つを同時に実行している)政府主導で経済・社会活動の重要性を新内閣も考えるでしょう。来年も見えてきている。じっとしている時期ではない。来年を考えるきっかけとして要望書を出したい。絶対数5000は論理的に合わない。根拠がない。パーセンテージにするべきです」 最後に五輪に向けて賀来ドクターは次のように語っていた。「政府の分科会、厚労省で議論している。プロ野球とJリーグで、5000人規模でクラスターは発生していない。対応は十分取れている。5000人を五輪に向けたチャレンジとして、段階的に対策を取りながら(人数を)上げていくべきではないか。社会経済活動を回すために、ウィズコロナでどうするべきか。そういう考え方が今後は必要になる」 11日の分科会での最終判断を受け、19日の政府の感染症対策会議で制限を緩和して50パーセントに引き上げる。20日から始まる3連休には間に合わないが、なんだか先に政府方針があったような気がしてならない。 14日には自民党の新総裁が決まり、16日には新首相が選出され、新内閣も発足する予定だ。誰が担当するにしても、19日は引き継ぎ事項としてすでに申し送りがされているのかもしれない。 <div id="cws_ad"><hr>【文・六川亨】</br>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.09.09 11:30 Wed
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長友のマルセイユ移籍はビッグニュースのはず/六川亨の日本サッカーの歩み

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内田篤人の引退で思い出した選手/六川亨の日本サッカーの歩み

記録というのは、更新されるときも、ストップされるときも、あっけないものだと痛感させられた。 23日のJ1リーグ、ここまで10連勝の川崎Fは名古屋の倍の12本のシュートを放ちながら、金崎夢生の今シーズン初ゴールの一発に沈んだ。C大阪戦の勝利で最多連勝記録を更新したことで、名古屋のモチベーションがアップしていたことは想像に難くない。鬼木監督も「名古屋は集中していました」と対戦相手を称えた。 そしてオルンガである。チーム記録より個人記録の方が更新しやすいのではないかと思ったが、前半から大分の徹底マークに苦しみ、連続得点は7試合でストップ。先週のコラムでも紹介したように、J1リーグとJSL(日本サッカーリーグ)の連続得点試合の記録は奇しくも「8」試合。この数字は、そう簡単にはクリアできない“壁"として今後も立ちはだかるのかもしれない。 そして23日の試合で最も注目を集めたのは、言うまでもなく内田篤人のラストゲームだった。新型コロナの影響がなければ、カシマスタジアムでは盛大な引退セレモニーが行われたことが予想されるだけに、残念でもある。しかし試合後のスピーチでは飾らない彼らしいメッセージを発したし、24日にはwebでメディアの質問にも答えたので、それをご覧になったファン・サポーターも多いことだろう。 彼については、すでに多くのメディアがプレーと人柄について語り、会見の様子も報道されているので、今回は簡単に触れておこう。 ラストゲームとなったG大阪戦のプレーを見る限り、まだまだ現役でやれるという印象を持った。しかし内田は24日の会見で、引退を決意したルヴァン杯の清水戦を振り返り、「危ないと思っているところに行けなかったり、自分が行かなきゃいけないところにスピードが間に合わなかったり」と、本人にしかわからない“衰え"を感じたことを明かした。 まだ32歳。内田自身も「32歳はまだ若い方」と認めながら、「膝を手術して、1〜2年の空白が効いたな。技術ではなく運動能力、蹴る、走る、止まるなどがガクンときたかな」と、ケガが思いのほか選手生命に影響を及ぼしたことも告白した。 内田はシャルケ時代の15年に右膝の膝蓋腱(しつがいけん)を傷め、出術したものの完治することなく2年間のブランクの後に17年、2部のウニオン・ベルリンへ移籍。しかし同クラブでは2試合の出場にとどまり18年に鹿島へ復帰した。 内田に限らず、これまでにも多くの選手が膝の負傷に苦しめられ、引退を余儀なくされてきた。例えば柏や清水で活躍した北嶋秀朗を晩年に取材したときは、撮影用にバックスタンドに座ってもらったものの、階段を昇ることはできても下りるときは手すりにつかまり、自宅の階段には手すりをつけていると教えてくれた。それでも試合になればケガを感じさせない鬼気迫るプレーをしていた。 まだ現役のゴン(中山雅史)は、数年前は足を引きずるようにしないと歩けなかった。見ていて痛々しかったが、懸命なリハビリのおかげか最近は普通に歩けるまで回復した。それだけ膝は選手生命を左右する、代えのきかない重要なパーツでもある。 そして内田の引退試合を見ていて思い出した選手がいた。選手というよりは、ある選手が膝を負傷した瞬間と言った方が正しいだろう。それは2000年12月の第80回天皇杯準決勝、今回と同じ鹿島対G大阪戦でのことだった。 当時は初の3冠を達成するなど全盛期を迎えていた。そんな鹿島の右SBは名良橋晃、そして左サイドは日本代表でもコンビを組み、フランスW杯に出場した相馬直樹だった。当時の鹿島はジョルジーニョやビスマルクがゲームを作っていたが、名良橋いわく「ジョルジーニョやビスマルクは右利きのため、右足でのパスが多い。そこでピッチ中央でボールを持つと左サイドの方が見やすいため、攻撃は左サイドに展開することが多かった」そうだ。 そしてG大阪戦で相馬が左サイド深く、スピードに乗ってゴールラインまで侵入して左足クロスを上げて着地した瞬間、記者席からも変な形に左膝をヒネったことが推測できた。タテへのスピードを殺すため、キックした後にジャンプして力を逃がしたまではよかったが、着地の際に全体重が左足の膝にかかってしまったようだ。そのまま倒れ込む相馬。診断は左膝外側半月板損傷の重傷だった。 1年近いリハビリを経て02年に東京Vに期限付き移籍し、03年に鹿島へ復帰後、04年に川崎Fへ完全移籍してJ1昇格に貢献したが、翌05年に引退を表明した(その後は町田や川崎Fの監督を歴任)。 内田と同じ静岡の名門・清水東高出身で、早稲田大を経て鹿島に入団し、不動の左SBとして鹿島の黄金時代に貢献した。 内田もケガに悩まされたが、シャルケではCLで29試合の出場記録を誇る。これは日本人で第1位の記録である。そのシャルケでは、公式戦通算153試合に出場し2ゴール18アシストという数字を残した。 24日のメディアとのweb会見では、様々な“名言"を残した。機会があったら是非とも読んでいただきたいが、個人的に印象に残った言葉を紹介しよう。 まずは高校時代にSBにコンバートされた経緯だ。 「(ホワイトボードの自分の)磁石がSBの上に置かれていた。点を取れないのでSBかな。誰でもできるポジションだけど、ボクには合っていた。理不尽な練習も多かった。『ザ高校サッカー』みたいな練習が僕に合っていた」 一見、優しそうな外見からクラブ育ちの印象を受けるが、根はスパルタ式の高校サッカー育ちである。そして選手としてプロになれるかどうかについては次のように持論を述べた。 「プロになれない子どもたちがほとんどで、その中でなれる選手、なれない選手は何が違うか考えたとき、半分くらいは運もあると思う。自分で努力しているなと思っているのは違う。サッカーが好きで、『続けていたらプロになった』方がボクにはしっくりくる」 努力を努力と感じない。それも一種の才能であり、天才の証と言えるのではないだろうか。 <div id="cws_ad"><hr>【文・六川亨】</br>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.08.25 15:00 Tue
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