ベベットに思う栄枯盛衰/六川亨の日本サッカー見聞録

2020.07.24 17:40 Fri
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J1リーグは22日に第6節を終了。仙台に0-2とリードされながら、小林悠の2ゴールなどで3-2と逆転した川崎Fが首位(勝点16)を守った。同じく無敗の名古屋が勝点2差で2位につけているのは正直意外ではあるが、今シーズンのJ1リーグは早くも川崎Fが優勝争いの主役になりつつあるようだ。といったところで政府は22日、大規模イベントの人数制限緩和を1ヶ月延長することを決めた。Go To初日の22日に全国の新規感染者が過去最多の795人が確認されたのだから、当然の措置だろう。23日には都内の感染者が、こちらも過去最多の366人を記録した。

そしてJリーグは政府の指針より一足早く20日に規制緩和を8月10日まで延長することを決めた。チケットの販売には逆算して2週間の準備期間が必要なこと、「国民感情が非常に慎重になってきている」(村井満チェアマン)などが延長した理由で、プロ野球も23日の臨時実行委員会で政府の方針に従う可能性が高い。

相変わらず決断の早い村井チェアマンとJリーグに比べ、後手を踏む政府ではあるが、その背景を考えれば仕方のないことだろう。何度も繰り返すが、この100年に1度という非常事態に村井チェアマンがいたことの巡り合わせに感謝せずにはいられない。

さて海外に目を向けると、各国ともリーグ優勝や降格チームが決まってきた。久保建英の新チームがどこになるか、しばらくは日本に限らずメディアの注目を集めるに違いない。久保と同様にFC東京から海外に挑戦した中島翔哉は、ポルトガルの名門ポルトに残留するのかどうか気になるところだし、柴崎岳のデポルティボ・ラ・コルーニャは40年ぶりに3部へと降格してしまった。

デポルティボと言えば、1990年代は(当時はラ・コルーニャと日本では呼ばれていた)バルセロナと優勝争いを演じた強豪だった。とはいえ、大西洋に面した港町の存在を知ったのは、ラ・コルーニャが1部に昇格して優勝争いを演じたことと、チームの中心選手がアメリカW杯でブラジルを24年ぶりの優勝に導いたベベットがいたからだった。

92ー93シーズンにラ・コルーニャへ移籍したベベットは、1年目で37試合29ゴールの活躍から得点王に輝いた。翌シーズンは首位を快走し、優勝まであと1歩と迫りながら、最終戦でのドロー(対バレンシア戦)でバルサに逆転優勝を許してしまった。

96年に母国のフラメンゴへ復帰したが、スペインでの4シーズンで131試合86ゴールはストライカーとして非凡な才能の持ち主であることを証明したと言える。優勝したアメリカW杯では、ゴール後のパフォーマンス「ゆりかごダンス」が有名になり、それは今でも他の選手に受け継がれている。そのパフォーマンスだが、ベベットの息子はマテウスと名付けられた。元ドイツ代表の名選手の名前から取ったのは言うまでもない(今シーズンから東京Vに加入したGKマテウスは別人)。

96年アトランタ五輪では初戦で日本に敗れたものの、その後は順当に勝ち進んで銅メダルを獲得した。そんなベベットがジーコの誘いに応じて鹿島に加入したのが2000年のこと。大きな注目を集めたが、すでに36歳とピークは過ぎており、さらにブラジル人選手特有のシーズン序盤は太り気味だったことも災いし、8試合1ゴールで鹿島を退団した。

その翌年に鹿島入りしたのが柴崎でもあった。

鹿島と言えば、totoでは“鉄板"でもあった。そんな鹿島が、今シーズンは再開後のリーグでも不振から抜け出せないでいる。第5節の横浜FM戦で今シーズン初勝利をマークしたが、22日の第6節では湘南に初勝利をプレゼントして17位に沈んでいる。横浜FM戦では勝利の立役者となった上田綺世が2ゴールを奪ったものの、湘南戦で右足首を負傷して全治1ヶ月の診断が下された。

40年ぶりに3部リーグへ降格したラ・コルーニャと違い、今シーズンの鹿島は降格の危機を免れている。とはいえ洋の東西を問わず、「栄枯盛衰」は世の習いであることを実感したコロナ禍でのリーグ戦である。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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天皇杯決勝で思い出された出来事/六川亨の日本サッカー見聞録

明けましておめでとうございます! 第100回を迎えた天皇杯決勝、元日の風物詩でもある川崎F対G大阪の試合は三笘のゴールで川崎Fが念願の初優勝を遂げた。J1リーグでは圧倒的な攻撃力で対戦相手をねじ伏せて早々と優勝を決めた川崎Fだけに、天皇杯との2冠は順当だったと言ってもいい。 川崎Fは、前回のリーグ優勝時も攻撃パターンは多彩かつ緩急の変化に富んでいた。MF中村、大島とFW小林のホットラインが基本的な生命線だ。相手を食いつかせるスローなパス交換でスペースを作りながら、ボックス内では急所を突いたショートパスでフィニッシュに結びつける。その緩急の変化に対応できず、フリーでシュートを許して失点を重ねるチームが多かった。 基本的に当時の川崎Fの攻撃は中央突破がメインで、サイドに展開して攻撃の起点を作るものの、それでも仕上げはボックス内の地上戦が多かった。守る側からすれば、いかに小林と中村(大島)のホットラインを分断するか。それが川崎F対策でもあった。 それが、昨シーズンは違った。右SB山根の補強による攻撃参加は大きかったが、それに加えて田中碧、脇坂ら中盤の選手が意外性のある飛び出しからサイドに張り出すことで攻撃の幅を広げた。 対戦相手のある監督が言った。「これまでのフロンターレの攻撃は中、中で、最後は憲剛と小林を見ていれば良かった。しかし今シーズンはサイド(からの崩し)もケアしないといけない」と。その指摘通り昨シーズンの川崎Fは攻撃の幅が広がった。様々なデータが示す通り、川崎Fのリーグ優勝は順当な結果と言えた。 そんな川崎F相手に、天皇杯決勝でG大阪の宮本監督は面白いゲームプランをぶつけてきた。 4BKをベースに、矢島と山本のダブルボランチで、両サイドに小野瀬と宇佐美、これに倉田が1トップのパトリックのシャドーとなって動き回る4-5-1のシステムだが、守備時には選手がスライドして守りを固めた。 リーグ戦のアウェーでは0-5と大敗して優勝を決められただけに、それも当然の策だろう。小野瀬がDFラインに下がって5BKになり、連動して倉田が右MFに落ち、宇佐美も戻って5-4-1で川崎Fの攻撃陣を迎撃した。 「相手システムとのミスマッチであったり、ボールを奪った後に速く攻めるコンビ-ネーション」(宮本監督)が狙いで、「立ち上がりはうまくいった」と振り返ったように、川崎Fゴールに迫るシーンもあった。 しかし時間の経過とともに川崎Fも順応し、本来はアンカーの守田が攻撃参加することで、G大阪の守備バランスを崩しにかかった。 結果は1-0という僅差のスコアで終わり、盛り上がりに欠けたと物足りなく感じたファンもいたかもしれない。しかしそれは、川崎Fの実力からしてG大阪は守備的な戦いを選択せざるを得なかったからで、誰を責めることもできない。 むしろ終盤は0-1の最小スコアを保ちながらG大阪がパワープレーで川崎Fゴールに襲いかかったことで、鬼木監督はこの試合を最後に引退する中村の花道を作ることはできなかった。彼が試合に出て、タイムアップの瞬間をピッチで迎えたら、それはそれでドラマになったが、リーグ2位のG大阪の意地が阻止したと言えよう。 そして表彰式である。接触を避けるためメダルを始め天皇杯などの授与は手渡しではなかったが、G大阪のある選手はピッチに設営された記念ボードで集合写真を撮る際に、首からさりげなくメダルを外した。 そのシーンを見て思い出したのが、09年11月4日のナビスコ杯(現ルヴァン杯)決勝後のシーンだった。当時の決勝戦は旧国立競技場で開催され、試合後のセレモニーはメインスタンド中央にあるロイヤルボックス内で行われた。 準優勝に終わった川崎Fの選手たちは、首にかけてもらったメダルをすぐに外したり、握手を拒否したりした。ある選手はガムを噛みながら表彰式に参加したため、こうした一連の行為が物議を醸したものだ。 クラブは選手へのヒアリングを含めた対応の結果、賞金5千万円の辞退を申し入れたが、Jリーグとヤマザキナビスコ社は「社会貢献などに有効活用して欲しい」との理由から返上を認めなかった。そこで川崎Fはこの5千万円を地域密着のために活用することにして、その一環で翌10年にはオリジナルの“算数ドリル”を市内の全小学校や特別支援学校に配布した。 FC東京に0-2で敗れてから10年後、やっとリーグカップを制し、今年は天皇杯でも優勝して4年連続の戴冠となった。新シーズンは再び追われる立場になるが、川崎Fがどんな進化を遂げるのか興味深いところである。 <div id="cws_ad">【文・六川亨】<br/>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.01.03 19:30 Sun
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大卒選手の台頭でますます狭き門の五輪代表/六川亨の日本サッカー見聞録

天皇杯の準決勝は、順当に川崎F対秋田、G大阪対徳島のJリーグ勢同士の顔合わせとなった。そして新型コロナウイルスの影響か、海外から監督を招聘したり選手を補強したりする動きは今のところ数えるほどと言っていい。その代わり、国内での監督と選手の移動はかつてないほど賑やかだ。 来シーズンは降格チームの数が増えることと、東京五輪が開催されればJ1リーグは今シーズン同様過密日程が予想されるため、チーム編成(作り)を早めに進めたいという思惑があるからだろうか。 監督に関して言えば、1位・川崎Fの鬼木監督、2位・G大阪の宮本監督、3位・名古屋のフィッカデンティ監督と、6位・FC東京(長谷川監督)、8位・広島(城福監督)、9位・横浜FM(ポステゴグルー)、11位・大分(片野坂監督)、13位・鳥栖(金明輝監督)、15位・横浜FC(下平監督)、18位・湘南(浮嶋監督)は続投を決定した。 一方、4位のC大阪(クルピ)、10位の浦和(ロドリゲス)、16位の清水(ロティーナ)、17位の仙台(手倉森誠か大槻毅)は新監督を招聘することを表明。残る札幌や鹿島、柏などは続投がかなり濃厚だが、25日時点で正式な発表はない。 反町JFA(日本サッカー協会)技術委員長は、来シーズンはW杯予選と五輪の活動が重なるため、森保監督の了解を得て同監督をサポートするための人材補填を認めていた。公表時期はJリーグが終了する12月20日以降としていたものの、いまだに氏名は漏れ伝わってこない。 となると、まだシーズンが終わっていない(天皇杯とルヴァン杯決勝がある)川崎F、G大阪、FC東京、柏の4チームの関係者ということだろうか。 そしてもう1つ気になるのが、森保監督をサポートしていた関塚ナショナルチームダイレクターが11月末日に退任したものの、同氏のその後の動向も一向に伝わってくる気配がないことだ。コロナの変異種で感染が拡大している現状では、西野タイ代表監督のように海外(東南アジア)で監督を務めることも難しいだろう。 まさか西野技術委員長とハリルホジッチ監督の時のように、ナショナルチームダイレクターを辞任してから東京五輪の監督に就任(ロンドン五輪ではベスト4に進出した実績がある)するという“ウルトラC"(という言い方がいまも通用するかどうか)の再現でもあるのだろうか。 こちらは自分で書いていても信じられないため、現実的ではないだろうが……。 さて昨日23日は、午前は五輪代表候補キャンプを、午後からはU-19日本代表候補対慶応大学のトレーニングマッチを取材した。五輪代表の候補キャンプには23名が招集されたものの、2名の選手が負傷で辞退したため新たに3名が追加招集され、さらに1名が負傷で離脱したため±0で、23名になった。 改めて言うまでもないが、五輪の登録人数は18名とかなりの“狭き門"だ。そして今回のキャンプには27日に天皇杯を控えている川崎Fの三笘、田中碧、旗手と今シーズン活躍した3選手が呼ばれていない。 さらに10~11月のA代表にも冨安(ボローニャ)を始め中山(ズヴォレ)、板倉(フローニンゲン)、久保(ビジャレアル)ら五輪候補7名の海外組が呼ばれたし、堂安(ビーレフェルト)も好調を取り戻しつつある。 こうして見ると五輪代表候補のラージグループは35名にも膨れ上がる。ここからOA枠3名を引いたら果たして今いるメンバーから何名が残れるのか……と思いながら練習を見てしまった。 今回は初招集の選手もいたが、それは今シーズンのJリーグで結果を残したからである。その代表格が安部(FC東京)だろう。「自分は世代別の代表に入ったことがなく、今回が初の代表でうれしかったし目標だったので、素直にうれしいです」と喜びを表した。そして五輪が1年延期されたことで「出たいなという思いはあったけど、現実的ではなかった」のが、今回選ばれたことで「近づいたかな」と五輪への思いを強くした。 同じFC東京の先輩である渡辺は、今回の招集を違った角度で見ていた。 昨シーズン夏以降の活躍で代表に初招集され、今年1月のU-23アジア選手権にも参加したが、「アジアレベルで活躍できなかった。元々は(五輪代表に)滑り込んでやろうと思った」ところ、「(五輪が)1年延びたことで実力を見てもらえるようになったと思う。立場は変わり、実力を見て選ばれたのだと思う」と今回の招集に自信を深めつつ、アピールを狙っていた。 そんな2人とはちょっと違うスタンスなのが、ルビン・カザンへの移籍が決まった齋藤(湘南)だ。年代別の代表に選ばれたことで国際経験が豊富なせいか、「森保監督も横内コーチも言っていますが、五輪代表の先にA代表がある。僕もそのつもりで活動しています」と先を見据えている。カザンは日本代表がロシアW杯の際にキャンプ地として利用し、U-19日本代表も一緒にキャンプをした思い出の地でもある。 齋藤は「馴染みがあるのでしっかりプレーしたいです」と抱負を述べながらも、「いまここでしっかりやることも大事だし、ロシアに行ってもしっかりやることが重要になる」と常に足下を見つめていた。 今回のキャンプは最終日に関東大学選抜との練習試合で打ち上げとなり、次回の活動は来年3月26日の親善試合までない。この3月の2試合と6月の2試合はインターナショナルマッチデーのため、海外組の招集が可能だ(コロナの感染が深刻な状況にならない限り)。恐らくこの4試合が最終テストで、7月上旬のキリンチャレンジ杯2試合を経て五輪本大会に臨むことになるだろう。 こうして見ると、やはり五輪代表に残るのは、アピールする機会も限られているので改めて“狭き門"だと思う。 左右からクロスを入れてのシュート練習や、ハーフコートでの紅白戦で森保監督と横内コーチはどこまで選手の実力をチェックできるのか。半日ほどの取材では到底うかがい知ることはできないが、やはり選手にとっては新シーズンのリーグ戦がアピールする格好の場になるのではないだろうか。 そんな思いにとらわれた、五輪代表候補のキャンプを取材したインプレッションだった。 <div id="cws_ad">【文・六川亨】<br/>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.12.25 20:50 Fri
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マラドーナに続きロッシまで/六川亨の日本サッカー見聞録

Jリーグは16日にJ1とJ2の最終節(19日と20日)前の試合を開催し、記録の更新も含めてACL出場チームやJ1昇格チームが決まった。 記録では、川崎F対浦和戦で興梠がPKから浦和の先制点を決めた。これで興梠はJ1記録を更新する9年連続2桁得点をマーク。J1歴代最多得点でも中山雅史と並ぶ157の3位で、2位・佐藤寿人の161も視野に入ってきた。 試合はリーグ優勝を決めている川崎Fが後半の3ゴールであっさり逆転。2点目を決めた三笘は通算13得点で、大卒ルーキーの最多得点記録を持つ渡邊千真(当時は横浜FM)と武藤嘉紀(同FC東京)に並び、最終戦で記録の更新に挑む。 そして2位のG大阪が横浜FCに2-0と勝ち、4位のC大阪が鳥栖に1-2で敗れたため、1試合を残してG大阪の2位が確定した。G大阪は27日から始まる天皇杯準決勝と来シーズンのACLの出場権を獲得した。 J1リーグの上位3チームに与えられるACLの出場権は、3位の名古屋、4位のC大阪、5位の鹿島の3チームによる争いに絞られた。しかしながら天皇杯の出場チームがJ1の1位と2位のため、ACLの出場権は天皇杯ではなくリーグ戦の4位まで枠は広がるはずだ。このため最終戦でのC大阪(勝点59)対鹿島(同58)の直接対決は痺れる試合になるだろう。3位の名古屋は勝点60のため、鹿島は勝つしかACLの道は開けない。 Jリーグの詳しい総括については別の機会に譲るとして、年末は悲報が相次いだ。マラドーナの訃報に続き、12月9日には元イタリア代表FWのロッシが肺がんのため64歳でこの世を去った。 パオロ・ロッシがW杯にデビューしたのは1978年のアルゼンチン大会だった。同大会ではブラジルのジーコ、フランスのプラティニらがデビューしたものの、その後ロッシの名前が日本のサッカー雑誌に載ることはほとんどなかった。 それというのもペルージャ在籍時代の80年に、八百長に連座したとの疑いから3年間の出場停止処分を受けたからだ。 幸か不幸かロッシの出場停止処分は2年に軽減され、82年の4月にはスペインW杯の最終メンバーにエンツォ・ベアルゾット監督はロッシを加えた。まず日本では、八百長事件に連座した選手を代表に加えることは100%ないだろう。さらに2年間の出場停止ということで、実戦からも遠ざかっている。 <div id="cws_ad"><div class="dugout-video dugout-embed-eyJrZXkiOiJ4VnRoaUF2SCIsInAiOiJ1bHRyYXNvY2NlciIsInBsIjoiIn0="></div><script type="text/javascript" src="https://embed.dugout.com/v3.1/ultrasoccer.js"></script></div> 当然イタリア国内でもベアルゾット監督に対する批判は凄まじいものがあった。ただ、エースはあくまでもベテランのロベルト・ベッテガであり、ロッシはサブという扱いだったこと。そして、イタリア国民の大多数が母国の活躍をほとんど期待していなかったことが幸いしたのではないだろうか。 優勝候補の筆頭はブラジルだった。なにしろ前年5月に行った長期にわたるヨーロッパ遠征では敵地にもかかわらずイングランド、西ドイツ、フランスを撃破。偶然にもテレビ中継していたイングランド対ブラジル戦を見たが、前後半ともブラジルのワンサイドゲーム。というか、ほとんどイングランド陣内でのハーフコートマッチだった。いくらテストマッチとはいえ、ここまでヨーロッパの強豪を圧倒するチームを見たのは初めてだった。 変幻自在の中盤、「クワトロ・ジ・オーロ(黄金の4人)」と言われたジーコやファルカンらが織りなすゲームメイクはまさに圧巻ものだった。 そんなブラジルの対抗馬は前回優勝国で、新たにマラドーナやディアスらを加えたアルゼンチン。そしてヨーロッパ勢では西ドイツと、キャプテンになったプラティニとジレス、ティガナら中盤のタレントから「4銃士」と呼ばれたフランスだった。 イタリアは……34年と38年に優勝したが、それははるか大昔のこと。70年メキシコ大会こそ決勝に勝ち進んだが、その前後の66年イングランド大会と74年西ドイツ大会は1次リーグで敗退と、蓋をあけてみないとわからないのがイタリアだった。 案の定イタリアはスペイン大会の1次リーグを過去の実績からシードされながら3引き分けのスタート。総得点でカメルーンをかわして2次リーグに進んだ。ところが2次リーグでは、ブラジルとアルゼンチンと同居したため「草刈場になる」という大方の予想を大きく裏切る活躍を見せた。 アルゼンチンに2-1の勝利を収めると、ブラジル戦ではロッシがハットトリックの爆発で3-2と競り勝ちブラジルに引導を渡したのだ。この試合は両チームともほとんどミスのない、いまで言うアクチュアル・プレーイングタイムの長い、W杯史に残る好ゲームと言える。 南米2強を倒して勢いに乗ったイタリアは、準決勝のポーランド戦でもロッシの2ゴールで勝ち上がると、決勝の西ドイツ戦でもロッシの先制点から3-1の勝利を収め、実に44年ぶりとなる3度目のW杯制覇を果たしたのだった。 このときの教訓から、W杯でのイタリアは1次リーグでは「死んだふり」をするとか、1次リーグのイタリアは「当てにならない」とも言われるようになった。 そしてロッシは得点王とMVPを獲得し、「バンビーノ・デル・オロ(黄金の子供)」と称えられた。同年にはバロンドールも受賞してピークを迎えたロッシだったが、代表でのキャリアで輝いたのはこのスペインW杯だけだった。 このロッシと、90年イタリア大会で得点王を獲得したスキラッチは「ごっつぁんゴール」を得意とする選手の代名詞と思われがちだが、けしてこぼれ球だけを得意とする選手ではなかった。ブラジル戦での1点目、攻撃的左SBカブリーニからのクロスをファーサイドで、ヘッドで決めたゴールはポジショニングの巧みさ、後にディエゴ・フォルランも得意とした「アザーサイドへ流れる」動きからのゴールである。 2点目はトニーニョ・セレーゾの横パスをカットして、自らドリブルで持ち込むと豪快なミドルで決めた。そして3点目は右CKのクリアから味方のミドルシュートをゴール前で反応してコースを変えたように、違ったパターンからハットトリックを達成している。 この3ゴールからわかることは、ロッシはストライカーとして多彩な得点パターンを持っているということだ。82年の夏に「一瞬の輝き」を残したロッシは、イタリアに3回目のW杯優勝という偉業をもたらして64歳の生涯を閉じた。 記録に残る選手ではないが、同時代を過ごしたファン・サポーターにとっては記憶に残る選手であることに間違いはない。 余談だが、今回の原稿を書く際に参考資料として当時のダイジェストの増刊号を見返した。するとユーゴスラビアの選手紹介ページで、昨夏ナントへ移籍したパワフルなCFとして若き日のハリルホジッチが写真付きで掲載されていた。なかなか甘いマスクのハンサムな選手だった。 <div style="text-align:center;"><img src="https://image.ultra-soccer.jp/800/img/2020/roku201219_tw.jpg" style="max-width: 100%;"></div> <div id="cws_ad">【文・六川亨】<br/>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.12.19 14:30 Sat
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