ラモス氏が東京VのTD就任で思いだしたこと/六川亨の日本サッカーの歩み
2020.02.11 18:30 Tue
昨日の2月10日、東京ヴェルディは元日本代表でOBのラモス瑠偉氏のチームダイレクター就任記者会見を開いた。ラモス瑠偉氏は、昨年からビーチサッカー日本代表監督と兼務する形で同チームのアドバイザーとして関わってきたが、今年1月でビーチサッカーの監督との契約が満了するため、羽生英之代表取締役社長も「もう少し深くクラブに関わって欲しい」との思いからオファーを出した。
それに対しラモス瑠偉氏は、「去年、社長と会い、アドバイザーとしてそばにいて欲しいと言われた。社長にはお世話になったし、誰よりもこのクラブを愛している。ヴェルディのDNAを忘れてはいないか。チームを立て直すのではなく、もっと魅力的なサッカーをしないといけない。昨日(9日)は私の(63歳)誕生日。そのお祝いかな。“家”に帰ってきました。いろんなことを勉強したい」と抱負を語った。
そして質疑応答に移ると“ラモス節”が炸裂した。「何のためにいるのか。戦える選手でないといけない。それは森保(監督)も同じで、森保の責任ではない。オリンピック代表には戦う姿勢が足りない。昔の選手は上手だけど戦ってきた。読売クラブを愛しているから戦ってきた。いまは自分のために戦っている。ボール回しは巧いが1対1は苦手になっている。全国を回って育成のところで問題が起きている」と惨敗したU-23アジア選手権の日本代表をばっさりと斬り捨てた。
この話を聞いて思いだしたのが、1990年に帰国し、90-91シーズンのJSL(日本サッカーリーグ。当時は秋-春制だった)でデビューしたカズだった。すでにJSL3度の優勝を果たし、80年代後期は日産と覇を競った読売クラブだったが、ラモス瑠偉らチームメイトは意図的にカズにはパスを出さなかったように感じられたものだ。
おそらくチームメイトは“新参者”のカズを認めていなかったのだろう。「様子見」といったところだったのかもしれない。それだけ強烈な個性の集まった集団が当時の読売クラブだった。ただ、それでも凄いのは、読売クラブが試合に勝ったことだ。JSL最後のシーズンも独走で5度目の優勝を飾り、93年開幕のJリーグへ弾みをつけた。
ちなみにカズは、当時のポジションは左ウイングで、7アシストを記録してアシストランク5位(1位はラモス瑠偉の9)に輝いた。しかし、ブラジルではアシストが評価されるものの、日本ではアシストの評価が低いことを知り、ストライカーへの転身を図る。“キング・カズ”誕生のプロローグでもある。
そして93年に開幕したJリーグでカズは20ゴールをマークして、日本人トップの活躍でヴェルディ川崎を初代チャンピオンに導いた。そんな“キング”に対してラモス瑠偉にはどんなニックネームが似合うのか考えたが、やはり“カリオカ(リオっ子)”しか思い浮かばなかった。【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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ラモス瑠偉氏は、今シーズンは週に3回くらい練習を視察し、ホームゲームはもちろんアウェーゲームにも顔を出し、永井秀樹監督、江尻篤彦強化部長、梅本大介ゼネラルマネージャーら「経験は浅く、ほぼないので育てないといけない」(羽生社長)スタッフの育成係を務めることになる。会見では羽生社長が「去年からアドバイザーだったが、東京ヴェルディは昨年で創設50周年を迎え、総合クラブに舵を切っている。2010年に(社長に)就任したときは潰れそうだった。それから10年が経ち、51年目を迎え、もう一度、このクラブの根底に流れている源流みたいなものを忘れてはいけないという思いもあった。昨年1年間、アドバイスをもらい、その思いがさらに強くなった。もう少し深くクラブに関わって欲しい。試合を見る目は素晴らしいので、東京ヴェルディに関わって欲しい」とオファーの経緯を説明した。そして質疑応答に移ると“ラモス節”が炸裂した。「何のためにいるのか。戦える選手でないといけない。それは森保(監督)も同じで、森保の責任ではない。オリンピック代表には戦う姿勢が足りない。昔の選手は上手だけど戦ってきた。読売クラブを愛しているから戦ってきた。いまは自分のために戦っている。ボール回しは巧いが1対1は苦手になっている。全国を回って育成のところで問題が起きている」と惨敗したU-23アジア選手権の日本代表をばっさりと斬り捨てた。
さらに、「読売クラブの紅白戦は本気で削りあったよ。松木や都並やトレドもそう。後から入った北澤や石川(康)もそう。チームを愛しているから真剣に練習したし、お互いに意見をぶつけ合った」と黄金時代の練習方法を振り返った。
この話を聞いて思いだしたのが、1990年に帰国し、90-91シーズンのJSL(日本サッカーリーグ。当時は秋-春制だった)でデビューしたカズだった。すでにJSL3度の優勝を果たし、80年代後期は日産と覇を競った読売クラブだったが、ラモス瑠偉らチームメイトは意図的にカズにはパスを出さなかったように感じられたものだ。
おそらくチームメイトは“新参者”のカズを認めていなかったのだろう。「様子見」といったところだったのかもしれない。それだけ強烈な個性の集まった集団が当時の読売クラブだった。ただ、それでも凄いのは、読売クラブが試合に勝ったことだ。JSL最後のシーズンも独走で5度目の優勝を飾り、93年開幕のJリーグへ弾みをつけた。
ちなみにカズは、当時のポジションは左ウイングで、7アシストを記録してアシストランク5位(1位はラモス瑠偉の9)に輝いた。しかし、ブラジルではアシストが評価されるものの、日本ではアシストの評価が低いことを知り、ストライカーへの転身を図る。“キング・カズ”誕生のプロローグでもある。
そして93年に開幕したJリーグでカズは20ゴールをマークして、日本人トップの活躍でヴェルディ川崎を初代チャンピオンに導いた。そんな“キング”に対してラモス瑠偉にはどんなニックネームが似合うのか考えたが、やはり“カリオカ(リオっ子)”しか思い浮かばなかった。【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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