スコルジャ監督のチーム作りと選手起用がアジア制覇につながる/六川亨の日本サッカーの歩み

2023.05.09 11:35 Tue
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変則日程ではあるが、2022年のAFCアジアチャンピオンズリーグ(ACL)決勝は浦和が1-1、1-0の1勝1分けで3度目の戴冠を果たした。敵地での第1戦を1-1で引分けた浦和は、ホームでの第2戦で勝つか0-0の引分けでも優勝というアドバンテージがあった。

とはいえ埼玉スタジアムでの第2戦の立ち上がりは、折からの強風と風下ということもあって、アル・ヒラルの猛攻に防戦一方。GK西川周作の好セーブがなければ前半だけで3失点していてもおかしくなかった。
90分間を通して浦和の枠内シュートはゼロ。後半はカウンターから大久保智明がGKと1対1になりながらシュートを上に外すなど、Jリーグとは違う緊張感の中で選手たちはプレーしていたようだ。そんな浦和の唯一の決定機は前半30分、酒井宏樹のドリブル突破からゴール前の興梠慎三が難しいボレーで狙ったものの、シュートはクロスバーを痛打。決勝点は相手選手のOGという幸運にも恵まれたが、それもガマン強くアル・ヒラルの猛攻に耐えたからに他ならない。

アル・ヒラルのスタメンは、ペルー人のMFカリージョ、ブラジル人のFWミシャエウ、ナイジェリア人のCFイグアロ、元韓国代表でFC東京でもプレーしたCBチャン・ヒョンス以外に現役サウジアラビア代表が5人いる。このため1対1の攻防では余裕を持って浦和の選手をあしらっていた。正直、アル・ヒラルの選手の巧みなキープ力、ドリブル突破の力強さには舌を巻いたものだ。ここらあたり、浦和には現役と元を含めて日本代表はGK西川と酒井、興梠の3人しかいない差だろう。

選手の「海外流出」は避けられず、Jリーグの「空洞化」が指摘されて何年も経つ。そうした中での浦和のアジア制覇、とりわけサウジアラビア勢を下しての優勝は意義深いものがある。マチェイ・スコルジャ監督は、ここまでのチーム作りについてアル・ヒラルを「意識しながら準備をしてきた」と言い、今後は「もっと攻撃的なチームにしたい」と抱負を語った。
日本勢でACLを制したのは浦和とG大阪、鹿島の3チームだけで、複数優勝は浦和だけだ。ところがリーグ優勝となると浦和は06年の1度しかない。そろそろ2度目のリーグ優勝を目標にしてもいいのではないだろうか。そのためにもスコルジャ監督が今後はどのようなチーム作りをするのか興味深い。

この新監督は、決断が早く、迷いがないという印象が強い。アル・ヒラル戦でもMF小泉佳穂がミドルサードで無謀なドリブル突破を試みてボールを失うと、迷わず後半27分にMF安居海渡と交代させた。前線からのチェイスで運動量の落ちた興梠も同様だ。指揮官にとって、DF4人とボランチの岩尾憲は「代えの効かない」不動の選手(ケガがない限り)だが、残りの選手、とりわけ前線の選手にはハードワークを課す一方、5人の交代枠を効果的に使って疲労が蓄積しないよう、連戦を乗り切れるよう計算しているように感じられる。

こうした「やりくり」は、夏場を迎えるこれからが本領を発揮するだろう。スコルジャ監督の選手の起用法にも注目したい。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた

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シーズン移行の会見を取材「かなり慎重になっている」印象だった/六川亨の日本サッカーの歩み

Jリーグは9月26日に理事会を開催し、終了後に『シーズン移行』と『2024シーズンのクラブライセンス交付』についての記者会見を実施した。 『シーズン移行』に関しては、特に進展したことはなかった。これまで報道されてきた通り、ACLが“春秋制”から“秋春制”に移行したことと、クラブW杯が32チームと参加チーム増で4年に1回の大会に拡大されたことが『シーズン移行』を検討するきっかけとなったことが報告された。 Jリーグとしては、ACLに4年に2回は優勝することで、クラブW杯には2クラブが参加できるようにして、さらにクラブW杯ではベスト8以上を目標に置いている。こうした好成績を収めることで、現在は浦和の年間経営規模80億円を、J1クラブならアヤックスやベンフィカ(ヨーロッパの中位クラブ)の年間200億円まで引き上げたい考えがある。 しかしながら、ヨーロッパの5大リーグの成功はCLとELがもたらす収益にあり、現状クラブW杯は“おまけ”のようなものだ。これを日本に当てはめるならACLでの成功ということになるが(24-25シーズンから優勝賞金は3倍の約17億円になる)、10月3日のACL、川崎F対蔚山戦や4日の浦和対ハノイ戦、甲府対ブリーラム戦がどれほどの注目を集め、ファンが詰めかけるのか。正直、心許ないところだ。 海外移籍による移籍金の増加は見込めるものの、まだまだJのクラブは「商売上手」とは言えず、よく言えば「選手の希望を叶えてあげている」ものの、海外クラブからは「足元を見られている」印象は拭えない。カタールW杯での日本代表の健闘と、9月のヨーロッパ遠征での好結果から日本代表の試合はコンテンツとしてアジアで認知されつつあるかもしれないが、代表クラスが次々と海外へ移籍している現状で、Jクラブの試合の放映権がグローバルコンテンツに成長するとは思えない。ここらあたりがサウジアラビアの4クラブとの決定的な差と言えよう。 それでも夏場の試合を避けることによってメリットもある。走行距離やインテンシティなどの選手個人データはいずれも“秋春制”のヨーロッパのクラブの方が数値も高い。 ただし、懸案事項――『ステークホルダーとの年度の異なり』、『降雪地域への対応』、『移行期の対応』、『寒い中での試合数の増加』といった重要課題については手つかずのままで、「シーズン移行で発生する費用、降雪地域への対応などは項目の整理がまだ終わっていない」(樋口順也フットボール本部長)のが現状である。 野々村芳和チェアマンも「移行は難しい問題」と認めつつ、「(移行するかどうかで)感情的になることはなくなってきている。いい対話はできている。シーズンを変えるのが主目的ではなく、日本にとって何がいいのか。日本のサッカーを成長させるための土壌はできてきているので、みんなで目指す方向を見つけたい」とシーズン移行に含みを持たせた。 今後は「クラブの話を聞きながらシミュレーションしたい。実行委員にはクラブの考えを聞きたい」とも樋口フットボール本部長は話していた。シーズン移行に関して、「かなり慎重に精査しようとしているな」という印象を受けた記者会見でもあった。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.09.26 22:10 Tue

フリック監督解任でドイツ凋落の原因は?/六川亨の日本サッカーの歩み

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全日空と浦和の事件に思うこと/六川亨の日本サッカーの歩み

板橋区で生まれ育ったため、西が丘サッカー場(現・味の素フィールド西が丘。この名称にはどうも馴染めない)は身近なホームグラウンドだ。そんな西が丘サッカー場で行われた第21回JSL(日本サッカーリーグ)第22節、86年3月22日の三菱重工対全日空戦で前代未聞の事件が起きた。 デーゲームの試合で、ピッチに整列した両チームのイレブンのうち、全日空の選手は8人しかいなかったのだ。当時のJSLは前年にメキシコW杯予選で勝ち上がったため、初めて“秋春制”を採用。3月の第22節は最終節だったが、すでに古河電工がDF岡田武史(現今治.夢スポーツ代表取締役)やMF前田秀樹(現東京国際大学監督)らの活躍で優勝を決めていたため、西が丘での試合は『消化試合』と言えた。 そんな状況での試合なので、取材した記者もカメラマンも数が少なかったのは言うまでもない。後で判明したのだが、全日空の選手はチームの待遇に不満を抱き、6人のベテラン選手が試合直前にボイコットを表明して西が丘サッカー場を後にしたそうだ。このため試合開始時間は10分以上も遅れ、栗本直監督は控えの選手2名をスタメンに起用するなどして試合が成立する8人を揃え、没収試合となることを免れた。 当時のサッカー界は、例えば読売クラブや日産などは、金額はJリーグと比べられないまでも“プロ”に近かった。全日空も将来的にはプロ化を目指していたかもしれないが、ボイコットした選手には元古河のベテラン選手がいるなど、待遇にはかなりの差があったようだ。 試合は6-1で三菱が圧勝し、全日空は2部へと降格した。そして問題となったのはボイコットした選手たちである。彼らにも言い分があった。それは当時のJSL総務主事である森健兒が事情聴取した。しかし、JSLの規定には「選手の無断欠場」に関しての罰則や条文は存在しなかった。 このため森総務主事はJFA(日本サッカー協会)の長沼健(元JFA会長)が委員長を務めるJFA規律委員会にコトの次第を報告。長沼は緊急規律委員会を招集し、ボイコットした選手には「国内のあらゆるチームへの登録禁止」を通達した。当時の罰則規定では、「有料公式戦において試合放棄は社会人選手として許されざるべきこと」、「グラウンド内外でのふさわしくない行為に抵触する」として、ボイコットした6選手に対して「無期限登録停止処分」を下した。 しかしながら、形式上は「無期限登録停止処分」でも、長沼さんは「永久追放」と厳しく断罪した。メディアも同様に報じたため、彼らのサッカー人生もそこでリセットされることになった。それでも後年、サッカー界に復帰できことは、長沼さんや森さんら往時の人々の“懐の広さ”を感じずにはいられない。 そして改めて思うのは、JFAの“あまちゃん”体質だ。先月の天皇杯での名古屋戦、浦和のサポーターは、現場で取材した方々に聞くと、蹴る、殴るの暴行を目撃したと言う。実際に現場で目撃したわけではないので、これ以上の記述はできないが、もしもそれが事実なら、もうこれは“犯罪”でしかない。それをJFAとJリーグ、浦和はどう認識しているのか。まずはビデオを含めて映像による事実確認をどこまでしたのか、これは簡単に幕引きをして済まされる問題ではない。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.09.05 22:45 Tue

「ダイヤモンドサッカー」があるから今がある/六川亨の日本サッカーの歩み

「サッカーを愛するみなさん、ごきげんいかがでしょうか」の名台詞で始まる『三菱ダイヤモンドサッカー』のアナウンサー、金子勝彦さんが20日にご逝去された。88歳だった。JFA(日本サッカー協会)の田嶋幸三会長は「サッカーを始めて間もなかった小学生時代、毎週土曜日の夕方は『ダイヤモンドサッカー』を見るために慌てて家に帰っていたことが思い出されます。前後半を2週に分けて放送しており、次の放送をワクワクしながら待っていたことを覚えています」とお悔やみの言葉を述べた。 田嶋会長とは奇しくも同学年で、彼の言葉は同世代の小中学生の気持ちを代弁したと言ってもいい。サッカーがマイナーなスポーツだったからこそ、『三菱ダイヤモンドサッカー』は貴重な情報源であり、解説の岡野俊一郎氏(第9代JFA会長)が紹介するヨーロッパ各国の歴史や文化に憧れを抱いたものだった。 番組がスタートしたのは1968年だった。元日本代表で、当時は三菱化成(現三菱ケミカル)の社長だった篠島英雄氏(後にJFA副会長)が、イングランドリーグのダイジェスト番組『Match of the day』を日本に輸入することを東京12チャンネル(現テレビ東京)に提案。解説に大学(東京大学)の後輩である岡野氏を推薦したのも篠島氏だった。 70年のメキシコW杯でペレの妙技や、若き日のベッケンバウアーをブラウン管越しに見て、ワールドカップの凄さを実感したのも『三菱ダイヤモンドサッカー』だった。74年には西ドイツW杯の決勝戦を初めて衛星生中継する。それまでサッカー専門誌で名前しか知らなかったクライフのプレーを初めて見たときの衝撃はいまでも忘れられない。なにしろキックオフから一度も西ドイツにボールを渡すことなくパスをつないで、クライフのドリブル突破からPKを獲得してしまったのだから。 テレビでもお馴染みとなった柔和な笑顔とソフトな語り口で、サッカーの話を始めたら、何時間でもしゃべり続けられる情熱と知識の持ち主だった金子さん。2012年には日本サッカー殿堂入りを果たしたが、放送界からの選出は金子さんが初めてだった。 川淵三郎JFA相談役も「日本サッカー102年の歴史の中でその発展の礎となった出来事がいくつかありますが、『ダイヤモンドサッカー』がその一つであることは誰もが認めるところでしょう」と故人の功績を称えた。 再会を果たした岡野さんとは、カタールW杯での日本の活躍を祝しつつ、近年のドイツの不甲斐なさを嘆いているかもしれない。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.08.30 13:00 Wed

WEとJのダブルヘッダーでリーグを盛り上げてほしい/六川亨の日本サッカーの歩み

オーストラリアとニュージーランドで共同開催された女子ワールドカップは、スペインが決勝でイングランドを1-0で破り初優勝した。男女ともW杯を制したのはドイツに続いて2か国目で、今後もその可能性があるのは決勝で敗れたイングランドくらいだろう。 グループリーグでスペインを4-0と撃破したなでしこジャパンにとっては、今後に可能性を抱かせる結果となったが、そのハードルは改めて高いことも痛感させられた。細かくパスをつなぎ、ボールを保持して攻めるスタイルは共通している。しかしスペインは、イングランドに負けないフィジカルも兼ね備えていた。 スペインと再戦しても勝てるという保証はない。と同時に、試合の入り方で受け身にならなければスウェーデンには勝てるかもしれない。そうした経験を若い選手が積めたこと、通用した部分とフィジカルはまだまだという課題が明確になったことが今大会の収穫と言える。 そのためには今月末からスタートするWEリーグカップやWEリーグでのレベルアップが急務となる。なでしこジャパンの主力選手はヨーロッパやアメリカのリーグでプレーしているが、彼女たちだけでなくWEリーグにも海外から代表クラスの選手を招聘して、リーグのレベルアップを図りたいところ。しかしながら、そうした余力が各チームにあるのかどうか、こちらは心許ない。 WEリーグは観客動員に苦慮しているのが現状だ。カップ戦は26日にスタートするものの、なでしこジャパンの活躍をテレビで観戦したファン・サポーターがどれだけスタジアムに足を運ぶのか疑問である。開幕日は浦和駒場で浦和対千葉、味フィ西が丘で日テレベレーザ対長野、ギオンスタジアムで相模原対C大阪、翌27日はNACK5で大宮対INAC神戸の試合が組まれている。 しかし首都圏では同じ26日、国立競技場でFC東京対神戸、ニッパツで横浜FC対横浜FMの横浜ダービーが組まれている。時間帯はほとんど同じのため、どちらの試合がより多くの観客を集めるかは自明の理だろう。JリーグとWEリーグにはそれぞれ理由があるのだろうが、こうしたところから改善してはいかがだろうか。 例えば26日は味スタで東京V対岡山が、NACK5では大宮対長崎の試合がある。男女どちらか大宮の試合日を入れ替え、これに相模原はアウェーで琉球と対戦するがホームゲームにすることで、JとWEは3試合で男女のダブルヘッダーが可能になる。 スタジアム内のスポンサーボードの表示やチケットの収益をどう分配するかなどの問題はあるものの、昨シーズンのWEリーグより多くのファン・サポーターが集まることで選手のモチベーションも高まることだろう。現状のまま手を拱いていては、WEリーグは“ジリ貧”状態に陥る可能性は高いだけに、パリ五輪へ向けて今こそ大胆な施策を実施するべきである。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.08.22 12:20 Tue
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