カタールW杯、日本対コスタリカ戦を検証/六川亨の日本サッカーの歩み

2022.11.29 22:35 Tue
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「机上の空論」あるいは「取らぬ狸の皮算用」という言葉がある。

コスタリカが日本を相手に[5-4-1]で守備を固めてカウンター狙いで来ることは十分に想定できた。スペイン戦も0-3で迎えた後半は5BKにして守備を固めたが、それでもスペインのパスワークに翻弄されて4失点した。

日本がスペインのようなパスワークを駆使できるとは思わない。しかし自陣に引いてブロックを作る相手に、ポストプレーヤーの上田綺世はうってつけだろうし、狭いスペースならドリブラーの相馬勇紀、堂安律らが効果的なはず――と思ったものだ。
しかし上田は開始直後のポストプレー以外に見せ場はなし。相馬と堂安も前半は人数をかけて守るコスタリカに見せ場を作ることはできなかった。彼ら3人に加えてトップ下の鎌田大地ら攻撃陣は、ほとんど機能していなかった。

それはコスタリカの守備が良かったというより、「失点だけはしたくないという入りが慎重になりすぎた」(長友佑都)と言ったほうが正しいだろう。

その結果、押し上げが中途半端になり、選手間の距離が離れてしまったため、ワンタッチ、ツータッチのプレーがほとんど見られず、コスタリカDF陣を混乱に陥れることはできなかった。

上田にすれば、CBを背負ってワンタッチで落としたくても鎌田は遠い。鎌田はサイドに展開したくてもSBの押し上げが遅い。両サイドのドリブラーは味方のフォローが遅いためワンツーが使えなかったり、味方をダミーにしたフェイントを使えなかったりなどのストレスがあったのではないだろか。

これらの原因は、やはり連係不足、“急造のスタメン”だったことに行き着かざるを得ない。森保一監督の目ざした「1チーム2カテゴリー」による「ラージグループ」とはいえ、相馬も上田も森保ジャパンでは出場機会が少ない。そう思うと、やはり彼らは交代出場の“ジョーカー”として使うべきだった。

コスタリカのプラン変更を見越して攻撃陣をターンオーバーした采配は理にかなっていた。しかし前述したように誤算があった。そしてノックアウトステージを見据えた采配は「二兎追うものは一兎をも得ず」という残酷な結果に終わった。

すでに終わった試合のため、「あ~すれば」とか「こ~すれば」と悔やんでも結果は変わらない。しかし試合を検証することは次につながると思うので1、2点ほど私見を述べたい。

まずシステムである。相手は[5-4-1]のベタ引きが予想された。だからこそ森保監督も前線の選手を入れ替えてきた。そこで日本の[4-2-3-1]である。相手は守備一辺倒なので、ダブルボランチが必要なのかという疑問である。

遠藤の1ボランチで十分なため、中盤は逆三角形で守田英正と田中碧を前に出す[4-3-3]にすれば、前線の枚数は5枚に増える。守田や田中にペドリやガビのような攻撃的な役割を期待しないまでも、両SBの攻め上がりを含めれば前線の枚数は単純計算で増えるというわけだ。

ただし、そうすると鎌田の居場所をどこにするのかという問題が出てくる。森保監督がアジア最終予選で[4-3-3]を採用してから、鎌田の居場所はなくなった。現チームで[4-3-3]にすると、鎌田のポジションは消去法で左FWしかなくなる。しかし、これでチームが機能するかどうかは疑問であり、それこそ急造感は否めない。

[4-3-3]を採用するなら鎌田はベンチで、左FWはファーストチョイスが久保建英、セカンドチョイスがこれまでも起用してきた南野拓実ということになるだろう。しかし、これはこれで守田のコンディションを含めて“場当たり感”があるのでリスクが高すぎる。

そこで現実的なプランである。

目標である『ベスト8』を達成するためには、まずはグループリーグ突破を確実にする必要がある。それにはコスタリカ戦も勝点3の獲得を至上命題にすべきだった。日本が勝てば、コスタリカのグループリーグ敗退が決定し、スペイン対ドイツ戦の結果によってはドイツも脱落し、2試合でグループリーグ突破が決定した可能性もあった。

難敵ドイツを倒して「ジャイアントキリング」を演じたのだから、その勢いでスタメンは代えず、まずは格下のコスタリカもベストメンバーで叩いて2試合でグループリーグ突破をほぼ確実にする。これまで日本が一度もなしえなかった快挙でありアドバンテージでもあった。

そしてスペイン対ドイツ戦の結果次第ではグループ首位の可能性もあるので、そこで第3戦のスペインとノックアウトステージを含めてターンオーバーを考えればいい。

しかし、ドイツを倒したことで私を含め誰もが勘違いしてしまったのかもしれない。結果的にターンオーバーして勝てるほどコスタリカは楽な相手ではなかったし、森保ジャパンも選手起用を含めターンオーバーして勝てる実力がなかった。

まだカタールW杯は続いているため、森保ジャパンが快進撃を続けるかもしれない。結果が良いと過程は忘れられがちだが、コスタリカ戦の敗戦は内容と結果はもちろんのこと、そこに至るまでのチームマネジメントが分岐点になるような気がしてならない。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた

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興味深い中国サッカーへの黒崎久志の指摘/六川亨の日本サッカー見聞録

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Jリーグ30周年で川淵さんが残したかったこと/六川亨の日本サッカー見聞録

5月15日はJリーグ30周年を記念して様々なイベントが開催されたが、同じ日にYouTubeで村井満元チェアマンと川淵三郎さんの対談の4回目がオンエアされた。「Jリーグの井戸を掘った人たち」というタイトルの対談では、これまで浦和の元広報の佐藤さんや、ヤマザキビスケット社の飯島社長、鹿島の元スカウト部長の平野さんら7人が登場した。そして連載企画のラストを飾ったのがJリーグ初代チェアマンの川淵さんだった。 対談は、当初はvol1とvol2で終了する予定だったが、川淵さんから「延長戦」の申し入れがあり、vol3とvol4まで製作することになった。その大きな理由は、川淵さんが「Jリーグの危機」を後世に残したいという思いが強かったからだ。 「Jリーグの危機」と聞くと、多くのファンは98年に横浜フリューゲルスが横浜マリノスに吸収合併された出来事を思い浮かべるだろう。しかしvol4最後の登場となったのは、その4年前に消滅の危機に陥った清水エスパルスだった。清水は特定の親会社(母体チーム)を持たない、地元企業117社と約1600人の一般市民の持ち株会による、文字通り「市民のクラブ」としてスタートした。 選手も長谷川健太、堀池巧、大榎克己の清水東三羽がらすをはじめ、澤登正朗、アデミール・サントスの東海大一(現静岡翔洋高)勢、青嶋文明、真田雅則の清水商(現清水桜ヶ丘高)勢、そして三浦泰年と向島健の静岡学園勢と地元出身者が多く、まさにJリーグが理想としたクラブでもあった。 ところが日本のバブルが弾けた94年、清水の運営会社の社長で、筆頭株主のテレビ静岡の社長でもあった戸塚氏が本社ビルを超高層のタワービルにしたものの、バルブ崩壊によりテナントが入らず売却を余儀なくされる。テレビ静岡の撤退と、当時は剰余金があってもプールすることはせず、「税金で取られるくらいなら」と選手の年俸に上乗せしたため、手持ちの資金はほとんどなかったそうだ。 一時はエスパルスの生みの親であり、清水サッカー育ての親でもある堀田哲爾さん(故人)が大手町のパレスホテルまで来て、川淵さんと何度も善後策を協議した。一時は沼津にある老舗のハム・ソーセージ会社がサッカーに理解があるため、スポンサーになるという話もあったそうだ。しかし「沼津の会社が清水援助するのは難しい」ということで、スポンサー話は立ち消えになった。 そこに現れたのが、「2年間だけなら」という条件付きで援助を申し出た、地元清水の物流会社大手の鈴与だった。鈴与は当初の2年間だけでなく、その後も支援を続け、98年には営業権を譲り受けて今日まで清水を支援している。川淵さんいわく、奥さんがサッカーにハマったため、今日まで支援してくれているのではないか、とのことだ。 こうした経緯があっても、川淵さんはそれを公表することはできなかった。地域密着型の「市民クラブ」として理想を掲げてスタートしただけに、消滅させてしまうと「それ見たことか」と言われかねないからだ。さらにバブル崩壊で手を引く企業が出てくるとも限らない。だからこそ、98年にバブル崩壊でクラブ経営からの撤退を余儀なくされたゼネコン大手の佐藤工業と、累積赤字で経営の見直しを迫られる全日空の窮状からクラブの存続が危ぶまれたフリューゲルスが、マリノスとの吸収合併で消滅の事態を避けられたことにホッとしたという。会見では「清水のようにはなりませんでした」と喉まで出かかったそうだ。 98年にJリーグに昇格したものの、その前年に北海道拓殖銀行が経営破綻したことで支援企業も連鎖倒産したコンサドーレ札幌も消滅の危機にあった。しかし元々スポンサーで「白い恋人」で有名な石屋製菓が支援に乗り出し、練習場やクラブハウスを建設した。川淵さんは石屋製菓と、経営破綻の危機にあった神戸を救った楽天の三木谷社長は「ホワイトナイツ(白馬の騎士)」と呼んでいまも感謝しているという。 こうしたエピソードを残しておきたいと、村井元チェアマンとの対談はvol3とvol4の連載となった。いま紹介したクラブだけでなく、平塚(現湘南)や甲府、仙台、福岡、鳥栖らの「消滅の危機」も明かされている。興味のある方は、「Jリーグの井戸を掘った人たち」でググればすぐにわかると思います。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> <span class="paragraph-title">【動画】川淵三郎×村井満、これまでのJクラブの経営危機と存続について語る</span> <span data-other-div="movie"></span> <script>var video_id ="Nk9imaA3_VE";var video_start = 0;</script><div style="text-align:center;"><div id="player"></div></div><script src="https://web.ultra-soccer.jp/js/youtube_autoplay.js"></script> 2023.05.18 22:00 Thu
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Jリーグ30周年スペシャルマッチの不思議/六川亨の日本サッカー見聞録

いよいよ今週末は「Jリーグ30周年記念スペシャルマッチ」がスタートする。まず12日はFC東京対川崎Fの“多摩川クラシコ"が国立競技場で開催される。そして14日は同じく国立競技場で鹿島対名古屋の試合が開催される。鹿島対名古屋の試合は、Jリーグの開幕戦となった30年前の5月16日、鹿島スタジアムで行われた伝統の一戦でもある。ジーコ対G・リネカーの対戦でも注目を集めた試合だったが、ジーコやアルシンドの活躍などで鹿島が5-0と圧勝した。 好天に恵まれ、試合前はスタジアム周辺の芝生でバーベキューを楽しむサッカーファンもいた。待ちに待った開幕戦である。にもかかわらず、当日の観衆は10,898人にとどまり、過疎化による人口減少から集客力に不安があるという指摘を裏付けることとなってしまった。しかし、その後はレオナルドやジョルジーニョらの活躍もあり集客力もアップ。国内最多タイトルを誇る名門となった。 この試合に比べ、12日に国立競技場で開催される金Jフライデーナイト、FC東京対川崎Fの“多摩川クラシコ"は、「Jリーグ30周年記念スペシャルマッチ」と呼ぶにはいささか違和感を覚える。というのもFC東京と川崎Fが揃ってJ2リーグに昇格したのは1999年だからだ。しかし、そこには「背に腹はかえられない」理由があるようだ。 本来「Jリーグ30周年記念スペシャルマッチ」と銘打つなら、30年前の5月15日の国立競技場での開幕カードがふさわしいだろう。ところが東京V(当時はヴェルディ川崎)は現在J2のため、横浜FMと試合をするわけにはいかない。同じくジェフ千葉(当時はジェフユナイテッド市原)もJ2のため、広島との対戦は不可能だ。そして清水と対戦した横浜フリューゲルスは横浜マリノスに吸収合併されているため、チームそのものが存在しない。 唯一可能なのは、当時はG大阪のホームで開催された浦和戦である。この試合では、ハーフタイムにレーザー光線によるイベントを開催したが、そのため一時的に照明を消した。すると当時のスタジアムの照明は、一度落とすと再点灯するためには電球の熱を冷まさないといけないので、後半開始が10分以上遅れるというハプニングがあった。普段でも万博記念競技場の照明は暗く、当時はフィルムカメラで撮影していたので、カラーで誌面を構成するのに苦労した思い出がある。 話を浦和対G大阪戦に戻すと、5月14日の16時から埼玉スタジアムで開催される。この試合も「Jリーグ30周年記念スペシャルマッチ」と呼ぶにふさわしいが、浦和はACL決勝の関係から10日に鳥栖と第10節の試合を消化したばかり。さすがに中1日で金Jフライデーナイトを戦うわけにはいかず、12日は“多摩川クラシコ"になったようだ。東京VがJ1に復帰していればJリーグ事務局も頭を悩ませる必要はなかったが、こればかりは仕方がない。東京は東京でもFCが、横浜FMと対戦するよりも“多摩川クラシコ"の方が話題性も高いと判断したというのがマッチメイクの真相ではないだろうか。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.05.12 11:40 Fri
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町田対秋田戦の2次元視野の限界/六川亨の日本サッカー見聞録

ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)の森下源基元社長(82歳)が4月30日に肺炎のため死去したことが昨日報じられた。読売クラブ時代に副社長を、1994年から98年まではヴェルディ川崎の社長を務め、Jリーグ誕生前にはブラジルのサントスから三浦知良と三浦泰年の兄弟を獲得し、クラブの黄金時代を築いた。 Jリーグの川淵三郎相談役も「プロ化が決まると、三浦知良選手らスター選手を獲得するなど尽力された。国立競技場での開幕戦についても様々な難題があったが、いつも真摯に対応していただいた。華やかなヴェルディの存在がJリーグの注目度を上げ、サッカー人気に火をつけたと言っていい。強くて魅力あるクラブを育てていただいたことに改めて感謝申し上げたい。謹んで哀悼の意を表します」と故人を偲んだ。 森下さんとは、まだカズがブラジルでプレーしている頃、お父さんの納屋さんがブラジルから帰国した際に、ダイジェストの社長と4人でお茶や食事を何回か共にした。納屋さんが帰国するときはいつもお土産を持参したためで、大手町のホテルで会うことが多かった。大新聞社の出身ながら、腰が低く、「物静かな紳士」という印象が強かった。Jリーグは今年で30周年を迎えるため、開幕当時の森下さんは52歳という現役バリバリだったわけだ。そんな森下さんにとって、東京VがJ1リーグに復帰することが一番の手向けになるのではないだろうか。謹んでご冥福をお祈りいたします。 さて、3日のJリーグは久しぶりに判定が話題にのぼることはなかった。J1では横浜FCが初勝利を、柏が2勝目をあげ、残留争いも混沌としてきたようだ。J2も最下位の徳島から16位の千葉までは4勝点差に縮まった。J3もYSCC横浜が2連勝で最下位を脱出するなど、試合結果を予想するのはかなり困難な状況になっている。 そして4月末には今年2回目となるレフェリーブリーフィングがオンラインで開催された。話題になったのは町田対秋田戦のロングシュートである。実際にはゴール内に落下したものの、主審も副審もゴールとは認めなかった。このシーンについて東城穣デベロプメントマネジャーは「副審はゴールライン上で見たいが、(シュートを追って)スプリントすると動体視力が衰える」と説明。その上で「間に合わない時はGKやDFがどれだけゴール内に入っているか。ボールがワンバウンドした位置」などから判断すべきだったとし、「誤審」という表現は避けた。 J2のためVARはないが、この試合を記者席で取材していたフリーランスの後藤健生さんと森雅史さんは、一目でゴールだと確信したという。意表を突いたロングシュートだったため、主審も副審も、第4の審判員からも町田ゴールは遠く、さらに2次元(平面)での視野のためゴールと判定できなかったのだろう。それならいっそ、第5の審判員(もしくはマッチコミッショナーでもいい)が、スタンドから両チームのゴール前でのプレーと、手元にパソコンを置いてDAZNのリプレーを確認しながら協力してジャッジしてはいかがだろうか。そうすれば、少なくともゴールに関する「誤審」は減るような気がする。 さらに、このシーンで町田GKポープ・ウィリアムがゴールだと主審に進言したらどうなるかという質問に対し「選手が自己申告しても、レフェリー4人が確認できなければ(ゴールとは)認められない」というのがJFAの見解だそうだ。ドイツやイタリアなど海外では、過去に選手の申告で判定が覆った例がある。しかし日本では、一度、主審が下した判定を覆すことはないというのが大原則となっている。 とはいえ、第9節の川崎F対浦和戦では、後半25分にFW興梠慎三がペナルティーエリア内で後ろから足を蹴られて転倒したものの、VARで確認した結果、ノーファウルという判定になった。第10節のFC東京対新潟戦では、後半アディショナルタイムに入ったところで右SB中村帆高がボールをトラップした瞬間に自らうずくまった。そこでボールを奪った小見洋太がショートカウンターを仕掛けようとしたところ、主審は小見の反則として笛を吹いた。中村は右アキレス腱を断裂したが、いわゆる“自爆"であり(アキレス腱の断裂にはよくある)、中村の負傷に小見は関与していない。この2つのプレーについては、次回のレフェリーブリーフィングで報告があればお届けしよう。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2023.05.05 13:00 Fri
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