PSGが27年前は東京ドームで試合~野球場でサッカーが開催された/六川亨の日本サッカー見聞録

2022.07.22 22:30 Fri
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日本が6-0という大会最多ゴールで香港を下したEAFF E-1選手権。試合会場となったカシマスタジアムで観戦したファン・サポーターは4980人だった。平日のナイター(19時20分キックオフ)で、鹿嶋での開催となると宿泊施設も限られる。さらに当の日本代表には鹿島の選手が1人もいない。よく5000人近くも集まったと言っていいだろう。

横浜F・マリノスの選手が多く招集されているのだから、いっそ準ホームであるニッパツ三ツ沢球技場(約1万5000人収容)か、交通の便がいい都内の味の素フィールド西が丘(約7000人収容)で開催したほうが、まだ集客は見込めたかもしれない。

その一方で翌20日の川崎F対パリ・サンジェルマン(SG)戦が開催された国立競技場には6万4992人ものファン・サポーターが詰めかけ、6月の日本対ブラジル戦を上回る最多観客記録を更新した。

メッシはアルゼンチン代表やバルセロナ(クラブW杯)で来日しているし、ネイマールも11年のクラブW杯ではサントス(バルセロナに0-4で敗退)で、15年にはバルセロナの一員として来日しており、先月もブラジル代表の一員として来日している。

その一方でキリアン・ムバッペはイベント出演での来日はあるものの、日本でプレーするのは初めて。そして、この3人が前線に顔を揃えるだけでなく、彼ら以外にも各国の代表選手がいるだけに、多くの観客が“真夏の夜の夢"をエンジョイしようと国立に足を運んだに違いない。

そんなPSGの来日は27年ぶりだという。1995年6月に来日し、名古屋と西京極総合運動公園で、鹿島と東京ドームで対戦している。たしか「ペプシカップ1995」という名称の大会で、西京極の試合には取材に行かなかったが、東京ドームでの試合は人工芝の上に天然芝を敷いたものの、天然芝の土の部分についている肥料の匂いがとても臭く、それがドーム内に充満したことを覚えている。

来日メンバーもダビド・ジノラ、ジョージ・ウェア、ライー、パトリック・エムボマら主力選手はほとんど来日しなかった。にもかかわらず、鹿島に3-2で逆転勝ちしたはずだ。

サッカーの試合が東京ドームで行われるのは、当時としてもかなり珍しかった。当時の首都圏にはサッカー専用スタジアムというと西が丘サッカー場(現味の素フィールド西が丘)、大宮サッカー場(現NACK5スタジアム)、三ツ沢球技場(現ニッパツ三ツ沢球技場)の3つしかなかった。しかし、どのスタジアムもキャパシティが限られる。

駒沢公園オリンピック競技場は2万人を収容できるが、ナイター設備がなく、道路を挟んで病院もあるため大がかりなイベントとなると騒音の問題もあった。このため国立競技場(旧)以外となると首都圏には大人数を収容できるスタジアムは皆無に近い。このため当時は東京ドームでの開催となった。

ただ、野球場でサッカーの試合が開催されたのは95年が初めてではない。まだ大学生だった1979年8月、東京12チャンネル(現テレビ東京)開局記念10周年だったと思うが、前年のアルゼンチンW杯で優勝したアルゼンチンと、準優勝のオランダを招待して「ワールドサッカー79」という大会が、東京ドームの前身である後楽園球場で開催された。

しかしながら、いまでもアルゼンチン代表とオランダ代表を同時に招待することは、かなりハードルが高いだろう。

実際に来日したのはオランダのFCアムステルダムとアルゼンチンのCAウラカン(1940年代にはアルフレッド・ディ・ステファノが所属)。そして、なんとか78年のW杯得点王であるマリオ・ケンペスを呼ぶためスペインのバレンシアを招待し、これに日本代表と日本ユニバーシアード代表、釜本邦茂氏やラモス瑠偉氏、ジョージ与那城氏ら日本リーグ選抜の6チームによる大会が広島、大阪、東京で開催された。

東京では後楽園球場で2試合が開催されたが、大阪も試合会場は大阪球場で、かつてはプロ野球の南海ホークス、近鉄パールズ、大洋松竹ロビンスが本拠地として使用していたらしい。現在は大規模複合商業施設の「なんばパークス」として賑わっていることからもわかるように、日本において歴史のある野球場は都心のど真ん中に造られているのは羨ましい限りだ。

その後も1989年8月にはマンチェスター・ユナイテッドが来日し(主力はクラブのレジェンドで、代表ではキャプテンを務めたブライアン・ロブソン)、神宮球場で日本代表(横山ジャパン)と対戦し、1-0の勝利を収めている。

こうして振り返ると、Jリーグ誕生以前は野球場がサッカーの試合に意外と利用されていることがわかるだろう。それだけ多くの観衆を収容できるスタジアムがなかったことの裏返しでもある(さすがに甲子園球場は使用できていない)。

試合を観戦した印象としては、どの野球場も傾斜が少なく開放感があるので、サッカーの試合を見ていてもノンビリしてしまった記憶がある。攻守がはっきり分かれていて、インターバルのある野球を観戦するのには、開放感のあるボール・パークが適しているのかもしれない。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた

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磐田は現在の危機を予見できたはず。にもかかわらず……/六川亨の日本サッカーの歩み

ヨーロッパのリーグに所属する日本人選手が新シーズンで好スタートを切った。 まずはフライブルクへ移籍した堂安律が、開幕戦でアウクスブルクから今シーズン初ゴールをマーク。すると鎌田大地(フランクフルト)と遠藤航(シュツットガルト)もヘルタ・ベルリン戦とヴェルダー・ブレーメン戦で同じく初ゴールを決めた。 さらにシャルケの吉田麻也とボルシアMGの板倉滉は“日本人対決"となった試合で90分間フル出場(試合は2-2のドロー)した。 プレミアリーグに目を移せば、アーセナルの冨安健洋が後半30分から今シーズン初出場を果たして復調をアピール。ブライトンの三笘薫はニューカッスル戦の後半から出場してプレミアリーグのデビューを果たすと、終了間際には得意のドリブル突破から左サイドをえぐり、MFグロスの決定機を演出した。そしてスコットランドのプレミアリーグでは、セルティックの古橋亨梧が2試合連続となるゴールを決めれば、前田大然も2アシストと5-0の勝利に貢献した。 一方、フランスのリーグ・アンではスタッド・ランスへ移籍した伊東純也は後半31分にデビューを果たしたものの、見せ場を作れないままクレルモンに2-4で敗退。モナコの南野拓実はベンチ入りこそしたが、出番がないまま終わり、“ブンデスリーガ勢"とは対照的なデビュー戦となった。 3ヶ月後にはカタールW杯が控えているだけに、冨安の復帰や吉田、板倉の好調は好材料だし、堂安と鎌田、古橋は「ゴール」という結果でアピールした。まずは9月の代表戦まで、“海外組"の動向から目を離すことはできない。 そしてJリーグである。14日には、前日に浦和に0-6と大敗を喫して最下位に沈んだジュビロ磐田が伊藤彰監督と、強化の責任者である鈴木秀人トップチームマネジメント部長を解任した。しかしながら16日になっても後任監督を含めた新体制についての発表はない。 さらに15日は、清水に0-2と敗れて降格圏の17位に後退したG大阪も、片野坂知宏監督の解任が濃厚との報道があった。クラブ幹部は、現時点での片野坂監督の解任を否定しているとのことだが、今月9日にコーチに就任した松田浩氏の監督昇格が濃厚と報じている。 動きがあったのは監督だけに限らない。前半戦までは一桁順位だったものの、直近5試合は勝ち星のない京都は加藤久・強化育成部長が、強化部からの異動を打診されたがこれを固持して辞任した。 FC東京は8月5日にフィジカルコーチのエウ・ガヴィラン氏が家庭の事情と本人の希望により退団。さらに14日にはアルベル監督が家庭の事情によりスペインへ一時帰国した。リーグ戦は8月27日の第27節・柏戦までないため(第26節の神戸戦は9月14日に開催)試合に支障はないとはいえ、合流予定の24日までシーズン中にもかかわらず10日もチームを離れるのは異例の事態と言える。 各チームとも様々な事情を抱えているのは事実である。いずれのチームも今後の推移を見守るしかないが、それにしても残念なのは磐田の監督解任である。残り9試合ということで「大ナタを振るった」のだろうが、タイミングが悪すぎた。 シーズン開幕前、J2リーグ得点王(22点)で、一昨年もチームのトップスコアラー(10点)のルキアンを福岡へ放出。出さざるを得ない理由があっただろうことは推察できる。さらにリーグ戦は1ゴールにとどまったものの、天皇杯では2試合で4ゴールと活躍した小川航基も横浜FCへ完全移籍で失った。小川は現在18ゴールでJ2得点ランクのトップを走っている。 そんな彼らの代わりに獲得したのが横浜FCのFWジャーメイン良であり、浦和レッズから期限付き移籍した元日本代表FWの杉本健勇だが、ジャーメイン良は2ゴール、杉本はいまだ無得点のまま。そして夏の移籍マーケットで獲得したのは左SBの松原后(シントトロイデン)ただ一人だった。 選手獲得のための資金がないと言われればそれまでだが、オフシーズンの補強が“マイナス査定"に加え、今シーズンも25試合を終えて得点23は福岡の17、湘南の19、名古屋の21に続くワースト4位タイ(他にG大阪、神戸、京都)。失点42は札幌と並びワースト1だ。にもかかわらず、夏の移籍マーケットでもほとんど動きがなかった。 点は取れるが失点も多く、勝ちきれない試合が続いて一時は最下位に沈んだライバルの清水は、それでもヤゴ・ピカチュウや北川航也、乾貴士ら攻撃陣を補強して直近2試合はFC東京に2-0、G大阪にも2-0と連勝して12位へ浮上した。監督交代に加え、「あれもこれも」ではなく、「1点集中」の補強が攻守とも好循環を生みつつある。 果たしてサックスブルーの“火中の栗"を誰が拾うのか、まだ明らかになってはいない。ただ、誰が監督を務めるにしても、やはり移籍マーケットがオープンなうち(※選手登録は9月2日まで可)に手を打つべきだったのではないだろうか。外部から招聘(鈴木政一氏)するにしても、内部から昇格(中山雅史コーチ)させるにしても、現状ではチームに打つ手がほとんどないのが実情だからである。 それでも今週金曜の19日には名古屋戦が控えている。強化の責任者が不在のまま、誰が名門チームの舵を取るのか。残された時間はあまりにも少なく、後任不在のままの監督解任はタイミングが悪すぎたと言わざるを得ない。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.08.17 08:15 Wed
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オリジナル10の横浜FMと鹿島の違いを考えた/六川亨の日本サッカーの歩み

J1リーグは第24節を終了し、依然として横浜F・マリノスが首位に立っている。先週末の試合では、川崎フロンターレとの“新旧王者"の対決で、後半アディショナルタイム9分にジェジエウのヘッドから決勝点を許して10試合ぶりの敗戦を喫した。 もしもこの試合を横浜FMが勝利していれば勝点は51の大台に乗っていた。2試合消化の少ない川崎Fが連勝したら2位に浮上するものの勝点は43。残り10試合で逆転が可能かどうか微妙なところ。すでに柏、C大阪、鹿島、広島といった上位陣との対戦は終えているだけに、横浜FMの優位は動かない。 そんな横浜FMの“強さ"の秘訣にシティグループとの提携を指摘できるだろう。宮市亮のたび重なる負傷は、本人はもちろんのこと、チームにとっても痛手だったはず。すると昨日9日のことだ。チームはポルトガル2部モレイレンセの元ブラジルU-17代表だった23歳のFWヤン・マテウスの獲得を発表した。 チームには、得点王レースで首位に立つレオ・セアラを筆頭に、攻撃的なブラジル人選手が4人いる。マテウスは23歳と若いだけに、完全移籍で獲得したのは来シーズン以降を視野に入れてのことかもしれないが、それにしても打つ手が早い。絶えず先を見ての補強には感心するばかりだ。 その一方で、疑問に思ったのが鹿島アントラーズである。かつての“常勝軍団"も16年の優勝を最後に、ここ5シーズンは国内タイトルから遠ざかっている。とはいえ下位に低迷したわけではなく、17年が2位、18年と19年は3位、20年が5位、21年が4位とリーグ優勝こそ逃したもののACL圏内を狙える好位置につけてきた。 にもかかわらず、17年から3年間に渡り監督を務めた大岩剛(現U-21日本代表監督)が19年に退任すると、20年に就任したブラジル出身のアントニオ・カルロス・ザーゴは21年4月に解任。後任の相馬直樹(現大宮アルディージャ監督)も21年末に退任するなど、ここ3年間で3人も監督が交代している。 そしてレネ・ヴァイラー監督である。クラブ初の欧州出身監督で、元スイス代表でもあるヴァイラー監督だったが、横浜FM戦に続き6日に広島に0-2で負けて5位に後退すると、クラブは7日、ヴァイラー監督の解任を発表した。「フットボールにおける現状と今後の方向性について協議した結果、双方合意のもと契約を解除することとなった」と解任の理由を説明し、8日には岩政大樹コーチの監督就任を発表した。 鹿島は20年に就任したザーゴ監督の時代は「ポゼッションスタイル」への変更を模索したものの、すぐには結果が出なかった。しかしヴァイラー監督になり、トレンドである“強度"の高い守備と、“タテに速い"サッカーで一時は首位に立った。 ところが得点源のFW上田綺世がベルギーへ移籍すると、FW鈴木優磨も孤立して深刻な得点力不足に陥った。にもかかわらず、チームはFW染野唯月を東京ヴェルディへ期限付き移籍で、MFファンアラーノをG大阪へ完全移籍で放出するなど、攻撃陣のタレントを失った。 その一方で補強はベルギー2部ベールスホルトから完全移籍で獲得した、ナイジェリア出身のFWブレッシング・エレケだけ。単純計算でも戦力のプラス、マイナスは後者だろう。このため不振・低迷の原因を監督に求めるのは簡単だが、それではいつまでたっても「その場しのぎ」の悪循環を繰り返すだけではないだろうか。 過去にはそうやって衰退し、気付いたらJ2に降格したチームも少なくない。 その点、これまでの鹿島は、フロントのブレない強化方針と確かなスカウティングで数々のタイトルを獲得してきた。いま早急に手をつけるべきは、監督を交代するのではなく、上田に代わる実績のあるストライカーの獲得が急務であることは誰の目にも明らかだろう。さらには中長期的なチームの強化プランの策定も必要である。 かつて“常勝軍団"だったからといって、過去の名声で毎年リーグ優勝できるわけではない。そのことはフロントが一番よく知っているはずだが、19年7月にメルカリが親会社となってから、監督交代のサイクルが早まったことと関係しているのだろうか。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.08.10 22:00 Wed
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日本サッカー殿堂掲額者の横顔/六川亨の日本サッカーの歩み

ちょっと早いけれど、今年も日本サッカーの発展に貢献・寄与したJFA(日本サッカー協会)の「殿堂掲額者」が決定した。掲額式は9月10日にJFAハウス1Fのバーチャルスタジアムで開催される予定だが、JFAハウスはすでに売却先が決まっているため、同ハウスでの「殿堂掲額式」は今年が最後になる。 記者などの投票による「投票選考」には8人の候補者(国際Aマッチ50試合以上出場、JSLまたはJ1リーグの通算出場が200試合以上、W杯出場などが条件)がいたものの、得票率で75%以上を獲得できなかったため、「該当者なし」として選出が見送られた(5%以上75%未満なら次回投票の候補になるが、5%未満だと名簿から外れる)。 今年の候補は碓井博行氏(藤枝東高、早稲田大、日立で活躍。JSL得点王2回で、通算85得点は釜本邦茂氏に次いで2位)。金田喜稔氏(広島県工、中央大学、日産で活躍。日本代表では19歳119日という史上最年少得点記録の保持者)。原博実氏(アジアの核弾頭と言われたストライカーで、JFA技術委員長や専務理事を歴任。現大宮フットボール本部長)。森下申一氏(静岡学園高で高校選手権準優勝。ヤマハや磐田でGKとして活躍し、現在は磐田アカデミーGKコーチ)。 彼ら以外にも柱谷幸一氏や都並敏史氏らは解説者としても活躍しているし、吉田光範氏と松永成立氏は指導者として現場に携わっている。 しかしながら各氏とも75%以上を獲得できなかったのは、候補者が多くて票が割れてしまった可能性が高い。昨年はW杯予選・日韓戦での伝説のFKや、横浜F・マリノスの30周年の記念イベントにも元気な姿を見せた“ミスター・マリノス”こと木村和司氏が受賞した。 碓井氏や金田氏、原氏、森下氏、柱谷氏、都並氏らは木村氏と一緒にロス五輪予選やメキシコW杯予選を戦ったチームメイトでもあるが、やはり木村氏は日本代表や日産時代のFKのインパクトが強かったのだろう。 一方、特別選考では次の4氏が選出された。 イヴィチャ・オシム氏については、今さら説明は不要だろう。20年のフィリップ・トルシエ氏に続く外国人の日本代表監督の選出である。 元国見高校の小嶺忠敏氏は島原商業や国見高校を率いて全国制覇を達成しただけでなく、高木琢也氏や大久保嘉人氏ら多くの日本代表選手を育て上げた。 高校選手権やインターハイでの全国制覇や代表選手の育成という点では、帝京高校の古沼貞雄監督や元清水商業(現清水桜が丘高校)の大滝雅良監督も負けてはいない。 彼らと小嶺監督との大きな違いは、小嶺監督が1993 年に日本で開催された FIFA U-17 世界選手権(現FIFA U-17W杯)にU-17 日本代表監督としてチームを率い、FIFA主催大会で日本サッカー史上初となるベスト8進出を果たしたことだろう。 残る2人は、サッカーファンにとってもあまり馴染みのない名前かもしれない。綾部美知枝さんは、清水FCの監督として長谷川健太、大榎克己、堀池巧らを指導して第1回の全日本少年サッカー大会で優勝するなど、清水のサッカーの発展に寄与した。それまで静岡の“サッカーどころ”と言えば藤枝だったが、堀田哲爾氏との二人三脚で清水を今日の地位に引き上げた功労者である。 JFAでは第4種(少年)や女子の理事や特任理事を担当して少年サッカーや女子サッカーの普及・発展に努めた。 最後に北山朝徳氏である。アルゼンチン在住のJFA国際委員で、南米の各国協会との強固なパイプから、約40年にわたりキリンカップなどのマッチメイクや日本チームと日本人選手の留学などのサポートを行ってきた。彼がいなければキリンカップなどで簡単に南米のチームは呼べなかったし、トヨタカップで来日するチームの取材のアテンドもしてきた。99年に日本が初めてパラグアイでのコパ・アメリカに参加できたのも、北山氏の功績が大きい。 アルゼンチン在住のジャーナリスト、藤坂ガルシア千鶴氏がアルゼンチンに渡って最初にお世話になったのも北山氏で、彼の事務所で働きながらサッカージャーナリストとして日々研さんした。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.08.02 21:00 Tue
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PSGと浦和では「大人と中学生?」、大きな差があるメンタル/六川亨の日本サッカーの歩み

7月23日に埼玉スタジアムで開催された浦和対パリ・サンジェルマン(SG)の試合は、メッシとネイマールをベンチに温存(後半13分から出場)しながらも、PSGがムバッペの来日初ゴールなどで3-0の勝利を収めた。浦和は得点源のキャスパー・ユンカーを負傷で欠くなどベストの布陣ではなかったが、両チームの実力差からすれば順当な結果だった。 浦和にとって惜しかったのは、立ち上がりにつかんだ2回の決定機だった。恐らくPSGは、浦和についての事前情報はいっさいなかった可能性が高い。このため相手の出方をうかがいながら、自陣からパスをつないで攻めようとした。 そこに浦和の攻撃陣が襲いかかった。前線から複数の選手がプレスをかけてパスコースを限定し、インターセプトからPSG陣内で試合を進めた。 3分にはスルーパスに抜け出たFW松尾佑介がドリブルで持ち込み、CBディアロのチャージにバランスを崩しながらもGKケイラー・ナバスを左にかわした。しかしシュートは腰が回りきらなかったためゴール枠を外してしまう。 6分にはペナルティーエリア内でボールを奪うと、最期は伊藤敦樹が右足で強シュートを放つ。しかしこれもGKナバスのディフレクトにで左CKに変わった。 浦和がこの試合でつかんだ決定機は7回だった。そのうちGKナバスに防がれたのが4回、DFのブロックに遭ったのが1回、ゴール枠を外したのと右ポストに阻まれたのが各1回だった。とりわけ惜しかったのが前半33分、ダヴィド・モーベルグが右サイドをタテに突破してクロスを送ったシーンだ。 クロスはゴール前でクリアされたが、これを拾った伊藤がワントラップして至近距離からシュート。ところがDFのブロックに遭い、PSGのゴールネットを揺らすことはできなかった。そして、このシーン以外にも、浦和攻撃陣のシュートはPSGの選手によって何度となくブロックされた。 試合後の公式記録でも、PSGのシュートが12本なのに対し、浦和は14本ものシュートを放った。にもかかわらずノーゴールだったのは、前述したGKナバスやセルヒオ・リコの好セーブに加え、フィールドプレーヤーのシュートブロックの巧さだろう。 危険地帯でのシュートにもかかわらず、PSGの選手は少しも慌てることなく、しっかりとシュートコースを見極め、足や身体でブロックした。「後手に回った」と思って、慌てて足を出したり身体をぶつけたりして、逆にPKを与えてしまうことはよくあるプレーだが、PSGの選手は慌てることなく冷静に対処していた。 それだけプレーに余裕があったということだろう。 彼らのそんなプレーを見ていて思い出したのが、都並敏史氏(現ブリオベッカ浦安監督)の言葉だった。 Jリーグが開幕して3年後の1995年11月1日、カシマスタジアムでの鹿島対横浜フリューゲルス戦で、鹿島MFレオナルドは3人の選手に囲まれるとボールを浮かし、左足でリフティングしながら突破。最期はボレーシュートをゴール左上に突き刺した。 2013年にJリーグ創設20周年を記念して行われたサポーター投票による「Jクロニクルベスト」という企画では、ベストゴール部門の1位に選出された伝説的なプレーだ。 このプレーについて、都並氏は、「自分だったら」と断ってから、「中学生が相手なら、同じプレーができたかもしれない。つまり当時のレオナルドにとって、Jリーガーは中学生を相手にプレーしているようなものだったのかもしれません」とコメントした。 PSGの選手に確認したわけではないが、もしかしたらPSGの選手にとって、浦和攻撃陣がシュートを放つ際の冷静さには、「大人と中学生」ほどではないにしても、それだけメンタル的な余裕の違いがあったのかもしれない。そしてこれは、一朝一夕では解決できない致命的な差でもある。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.07.25 11:45 Mon
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EAFF E-1選手権の歴史をおさらい/六川亨の日本サッカーの歩み

いよいよ19日からEAFF-E1選手権がスタートする。日本は初戦で香港とカシマスタジアムで対戦するが、18日には谷口彰俉や宮市亮ら4選手がズームによる会見に応じ、キャプテンに指名された谷口は「寄せ集めのチームなので普段通りにはできないでしょう。ピッチ内はもちろんのこと、ピッチ外でもいろんな話をしようと選手には伝えています」と難しいチーム状況であることを認識していた。 そして森保一監督は「できるだけ多くの選手を起用しながら大会に臨むつもりです」と話したが、そうなると「寄せ集めのチーム」だけに一抹の不安を感じてしまう。それでも今大会はW杯や五輪の予選と違い、特別な大会ではないだけに、“Jリーグ選抜”が東アジアの3カ国を相手にどれだけできるのか、それはそれで楽しみでもある。 このEAFF-E1選手権だが、02年の日韓W杯後の03年に東アジア選手権として第1回大会がスタートした。日本と韓国、それに中国を加えた3カ国の持ち回りで、残り1チームは香港、北朝鮮、オーストラリアら7チームがセントラルの予選を戦い、上位1チームが本大会に出場できるシステムとして今日まで続いてきた。 基本的に2年に1回の大会だったが、アジアカップや五輪の関係で必ずしも「2年に1回」のサイクルが守られてきたわけではない。今年の大会も、本来は中国で昨年開催予定が新型コロナウイルスの影響で延期され、さらに日本開催へと変更された(日本→韓国→中国という開催サイクルで、前回19年は12月に韓国の釜山で開催された)。 大会の趣旨としては、東アジアのレベルアップにあった。歴史的に日本と韓国は「日韓定期戦」でレベルアップを図ってきたが、“永遠のライバル”のため、時として親善試合の結果が監督の進退に影響することもあり、1991年を最期に自然消滅した。 その代わりということではないが、90年に東アジア4カ国によるダイナスティカップが始まり、スポンサー(マールボロ)が撤退したことと、日韓W杯を契機に東アジアサッカー連盟(EAFF)が02年に設立されたことで(初代会長は岡野俊一郎JFA会長)、今大会はスタートした。 第1回大会がスタートした90年当時はサッカー専門誌の記者として、イタリアでW杯を取材中だったが、帰国したらすぐに中国で開催される大会を取材するように命じられて苦労した覚えがある。 アジアは東西に長く、生活習慣はもちろんのこと、宗教など様々な違いがある。サッカーにおいても中東の8カ国(サウジアラビア、クウェート、イラク、UAE、カタール、バーレーン、オマーン、イエメン)は1970年に中東の大会であるガルフカップをスタートさせて切磋琢磨してきた。 最多優勝は70年代に強さを誇ったクウェートで10回だ。これに続くのがサウジアラビアと近年は成長著しいカタール、古豪のイラクの3回。そして逆に石油と天然ガスといった自然資源を保たない“中東の最貧国”と言われるイエメンはベスト4にすら入ったことがない。 ちなみにイランは文化圏が違うので(話す言語も中東はアラビア語に対しイランはペルシャ語)、アラビア半島の国々とは一線を画している。 このガルフカップから遅れること四半世紀、96年にはタイガービールの協賛から東南アジア選手権とも言うべき「タイガーカップ」がスタートしている。大会は08年に日本企業のスズキがスポンサーになり、AFF(ASEANサッカー連盟)スズキカップと名称が変更されたが、フィリピン、ベトナム、ラオス、カンボジア、タイ、ミャンマー、マレーシア、シンガポール、ブルネイ、インドネシア、東ティモールの11カ国が参加。 東南アジアの盟主とも言うべきタイが最多6回の優勝を果たしているが、近年は監督に韓国人のパク・ハンソ氏を迎え、もう引退したがJリーグでもプレーしたストライカーであるレ・コン・ビン氏を擁したベトナムが急成長を見せている。 ガルフカップやスズキカップに遅れて始まったEAFF E-1選手権。過去の政治的な状況を踏まえれば、東アジアの4カ国(日本、韓国、中国、北朝鮮)がいくら政治とは関係のないサッカーとはいえ足並みを揃えるのは難しいことであることは容易に想像できる。その突破口となったのが、アジアで初めて開催された日韓W杯でもあることは間違いないだろう。 改めて言うまでもないが、今大会はAFC(アジアサッカー連盟)のAマッチと認定されていないため、参加国は海外組を招集できない。AFCが認定するAマッチはW杯予選とアジアカップだけだからだ。しかし、それはそれで今大会は面白いのではないだろうか。 6月の4試合に出場した日本代表の海外組、いわゆるレギュラー組が海外から帰国して試合に出場したとしても、正直代わり映えしないメンバーに食傷気味なのは僕だけではないだろう。固定メンバーの森保ジャパンに風穴を開ける意味でも、今大会の“国内組”の活躍に期待しているJチームのファン・サポーターは多いと思うがいかだだろうか。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div 2022.07.19 09:30 Tue
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