なでしこジャパンと全国地域サッカーチャンピオンズリーグ/六川亨の日本サッカー見聞録

2021.11.28 14:00 Sun
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今週末は充実した取材の日々だった。25日の深夜というか午前3時30分から、オランダ遠征中のなでしこジャパン対アイスランドとの試合をテレビで観戦。26日は味の素フィールド西が丘での全国地域サッカーチャンピオンズリーグ2021決勝ラウンドを取材。そして27日はJ1リーグの浦和対清水戦を取材した。

新生なでしこジャパンは、池田太新監督のメッセージは伝わってきた。アイスランドの俊足FWに対し、21歳と若くフィジカルも強い方で、ワシントン・スピリットでプレーしている宝田沙織をマーカーに抜擢。しかし相手の方が1枚上手で、日本選手はスピードに太刀打ちできず1ゴール1アシストを許して0-2と敗れた。

これは昔からの“なでしこジャパンの弱点”でもある。克服できる特効薬はないだけに、2点とられたら3点とり返すしか解決策はないだろう。

一方、攻撃陣に目を向けると池田監督は植木理子(22歳)を最後まで辛抱強く使った。いつまでも岩渕真奈(28歳)に頼るわけにはいかないし、菅澤優衣香(31歳)、田中美南(27)もベテランの域に入りつつある。若返りが急務であることは明白だし、池田監督の意図も前任者と違ってわかりやすかった。

全国地域サッカーチャンピオンズリーグ2021決勝ラウンドでは、初日に勝利をあげたFC.ISE-SHIMAとクリアソン新宿が激突。クリアソン新宿は元横浜F・Mの小林祐三や浦和のGK岩舘直らを擁し、新宿区を本拠にJリーグ入りを目指すクラブだ。区内にはホームにできるスタジアムがないものの、今年2月には「Jリーグ百年構想クラブ」に認定されている。

一方のFC.ISE-SHIMAは名前の通り三重県をホームにする、こちらも将来のJリーグ入りを目指すクラブだ。チームの母体を作ったのは伊勢市出身で、四日市中央工業高校時代に高校選手権で帝京高校と同時優勝を果たした中田一三氏(元京都監督)。現在は高校時代のチームメイトである中西永輔氏、島岡健太氏(元南葛SC監督)らとともにクラブのアドバイザーを務めている。

そしてチームを率いる監督はというと、四中高時代に「レフティー・モンスター」(命名したのはサッカーダイジェスト時代に高校サッカーを担当していた金子達仁氏)と言われた小倉隆史氏だ。

試合は0-0のドローに終わったものの、小倉監督のチームはボールを保持して多彩な攻撃を繰り広げるなかなかの好チームで、かつての四中高を彷彿させた。ただ、選手層が厚くフィジカルの鍛えられているクリアソン新宿(何せスタメンに徳島や鳥栖など元Jリーガーが8人、サブに2人)に終盤は防戦一方になったのは仕方のないところ。それでも引き分けて28日の最終戦に望みをつないだ。

全国地域サッカーチャンピオンズリーグで1位と2位になったチームには(2試合を終えて3位は1勝1敗のおこしやす京都AC、4位は2敗のFC徳島)JFLの下位チームとの入替え戦が待っている。

全国地域サッカーチャンピオンズリーグで優勝したからといって、すんなりJFLに昇格できるわけではない。それを考えると、J3リーグに昇格するのにもスタジアム要件などクリアしなければならないハードルは数多く、高い。その頂点にいるJ1リーグには、いかにレベルの高い選手が揃っていることか。改めて痛感させられた全国地域サッカーチャンピオンズリーグの決勝ラウンドだった。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた




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アディダスvsプーマ。創業者は兄弟だと知っていた?/六川亨の日本サッカー見聞録

サッカーファンはもちろんのこと、一般ユーザーも「アディダス」と「プーマ」と聞けば、シューズメーカーだということは知っているだろう。近年はアメリカの「ナイキ」に売上高1位の座を譲っているが、ドイツ(西ドイツ)が生んだ一大ブランドだ。 そんな2大メーカーの創業者が兄弟だったということを、知らないサッカーファンも増えてきているのではないだろうか。 映画「アディダスvsプーマ-運命を分けた兄弟-(2015年製作)」は2人のサクセスストーリーであると同時に、兄弟の確執を描いた映画でもある(ヨコハマ・フットボール映画際で上映。6月5日は15時30分/かなっくホール・音楽ルーム。6月9日は19時/シネマ・ジャック&ベティ)。 時はいまから約100年前の1920年、ニュルンベルク近郊で、靴職人のアドルフ・ダスラー(弟)を、口は達者だが会社を首になったルドルフ・ダスラー(兄)が営業を担当することで靴の製造会社「ダスラー兄弟商会」を設立した。 まずは工場の設備を整えるため銀行に融資を頼みに行くが、銀行マンはアドルフのサッカーシューズは革が柔らかくてすぐに壊れると指摘。「つま先は硬く、足首までカバーするのがサッカーシューズ」と融資を断った。そこで2人は陸上のスパイク作りに方針を転換。軽くてグリップ力のある陸上シューズは売れ行きも好調で、ドイツ代表の陸上部の監督のお墨付きを獲得することにも成功した。 しかし時代はナチスの台頭によりアドフル・ヒトラーが首相に指名されるなど、激動の時代を迎えつつある。職人であるアディは1936年のベルリン五輪に出場するアメリカ代表のジェシー・オーエンスの才能に着目し、自身の作ったシューズを提供。するとオーエンスは100メートル、200メートルに走り幅跳びなど4個の金メダルを獲得した。 ところが黒人に負けたことで陸上部の監督は首になり、兄弟は後ろ盾を失ってしまう。そしてナチス・ドイツはポーランドが侵攻したと口実を作って攻め込むことで第二次世界大戦が勃発した。職人であるアディは徴兵を免れたものの、兄ルディは戦地へと送られる。さらにシューズ工場ではバズーカ砲を製作するよう命じられた。 第二次世界大戦が終わり、ルディは無事戦地から帰国したが、自分だけ戦地に送られたことに不満を持ち、進駐軍のMPに「弟はナチスの協力者だ」と密告する。バズーカ砲などの物的証拠があるためアディは窮地に立たされるが、それを救ったのが妻の機転で、オーエンスと一緒に撮った写真だった。 もう兄弟の仲は修復不可能。お互いにシューズ工場を作ることになり、社員にもそのことを伝えると、アディの元には靴職人が多く残り、ルディには営業担当が着いていった。ルディの作った「プーマ社」は、当時は現在のような流線型のラインではなく、プーマには「道楽者」というあだ名もあったと映画では紹介されている。そしてアディは自身の名前を短縮して「アディダス」という社名に変更した。 当時の西ドイツにまだプロのチームはなく、多くのチームがプーマ社のシューズを履いていたそうだ。そこはやはり兄の営業力がモノをいったのかもしれない。プーマ社の幅広の白いラインのシューズを見ていたアディは、白色のペンキを塗っている最中だったゴールポストに人差し指と中指と薬指の3本で触り、それを自分の作ったシューズの内側と外側になぞるようにして3本の白ラインを入れた。 アディダスの「スリーストライプ」が誕生した瞬間だった。 第二次世界大戦が終わり、ワールドカップは1934年フランス大会以来12年ぶりに再開されることになった。1950年ブラジル大会である。本来ならドイツで開催されるはずだったが、戦争責任を問われて資格停止だったためブラジルで開催されることが決定。東西両ドイツとも出場資格はなかった。 そして1954年スイスW杯である。売れ行きが好調なルディの「プーマ」は、西ドイツ代表監督のゼップ・ヘルベルガーから、選手へのサッカーシューズの無償提供と、月1000マルク(現在の日本円で約7万円だが、当時との物価差は現在と比較できないだろう)の資金援助を申し込まれたが、これを拒否。仕方なくヘルベルガー監督はアディに頼んだところ快諾されたことで西ドイツ代表は3本線のシューズでW杯を戦うことになった。これはいまも変わらない伝統である。 ルディがヘルベルガー監督の申し出を断ったのは、金銭的な負担よりも西ドイツが勝つ見込みは少ないという判断を優先したからだろう。1938年のフランス大会も1回戦でスイスに負けているし、50年ブラジル大会は出場できていない。このため54年スイス大会でも上位進出は難しいと判断してもやむを得なかった。 こうして迎えたスイス大会、西ドイツは1次リーグで当時無敵を誇った「マジック・マジャール」ことハンガリーにリザーブ選手を起用して3-8と大敗する。決勝トーナメントで前回優勝のウルグアイや準優勝のブラジルを避けるためだとも言われた。 そしてハンガリーとの決勝戦、試合開始直前に降り出した雨に、用具係を担当していたアディは急きょシューズの取り替え式ポイントを雨用の長いスタッドに変更する。スタンドには兄ルディの姿もあった。 そして試合後、ロッカールームに戻ると試合のチケットが置かれていて、そこには一言、ルディからアディへのメッセージが残されていた。 正直、サッカーシーンはほとんどない映画である。なので、それを期待したら失望するかもしれない。それでも2人の兄弟愛と、サッカー界はもちろんのこと、スポーツ界にも多大な影響を残したダスラー兄弟の葛藤と兄弟愛を感じられる映画だった。 彼らの息子、特にアディの息子ホルストは父の仕事を引き継ぎ、FIFA(国際サッカー連盟)やIOC(国際オリンピック委員会)などで絶対的な影響力を発揮し、“蜜月時代"の礎を築いた。彼らの映画も、いつかは作られるかもしれない。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.05.13 21:45 Fri
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大混戦のJ2リーグ。GK南が記録更新/六川亨の日本サッカー見聞録

連休初日の4月29日、Jリーグ初の国立競技場でのナイター開催となったFC東京対G大阪は、吹き込む雨と格闘しながらの取材。手元の温度計は10・9℃と3月初旬に戻ったような肌寒さだった。 ところが5月4日のJ2リーグ、東京V対仙台は23・8℃と初夏を思わせる陽気。記者席の前の通路では、アルバイトと思われる女性が生ビールを売っていた。こんなシーンを見るのは3年ぶりかもしれない。 そして試合は東京Vが新井瑞希の2アシストなどで3-1と快勝し、昇格プレーオフ圏内の6位に再浮上した。新型コロナウイルスから復帰した堀孝史監督はU―21日本代表候補のCB馬場晴也をスタメンで起用したのは当然として、2-1と再びリードしてからはインサイドハーフの梶川諒太に代えて18歳のドリブラー阿野真拓を、さらに3-1になるとFW新井に代えて17歳のスピードスター橋本陸斗をピッチに送り込んだ。 橋本は昨シーズンの2月にJ2史上最年少となる15歳10ヶ月26日でデビューを飾り、5試合に出場して実戦経験を積んだ。こうしてアンダー世代の選手が次々と出てくるのも東京Vの伝統であり、強みでもあるだろう。 この日は他会場でも首位の横浜FCが熊本に0-1で敗れて今シーズン初黒星を喫した。2位の仙台も敗れ、代って金沢に1-0の勝利を収めた新潟が2位に浮上。仙台は3位に後退した。この結果、2位の新潟から12位の熊本まで勝点6差に11チームがひしめく大混戦だ。 そして前述した東京Vは8日に敵地で新潟と対戦する。過去の対戦成績は東京Vが5勝7分け2敗とリードしているものの、昨シーズンはホーム、アウェーとも新潟が7-0、3-1と圧倒した。さらに新潟は、ここ7試合は負けなしで、ホームでは6連勝中と波に乗っている。両チームの対戦は、第15節で屈指の好カードと言えるし、21日の第17節に新潟は横浜FC戦を控えているだけに、ホームでの連勝記録を伸ばしたいところ。 東京Vの若手選手に触れた以上、2連勝で最下位を脱出した大宮のベテランGK南雄太にも触れないわけにはいかないだろう。4日の大分戦(1-1)でJリーグ通算661試合に出場という新記録を達成した。過去は横浜Fや名古屋で活躍し、日本代表の守護神でもあった楢崎正剛の660試合だった。 98年に静岡学園高校を卒業後、西野朗監督率いる柏に入団。翌99年にはU―20日本代表の正GKとしてナイジェリアで開催されたワールドユース(現FIFA U-20W杯)に出場し、準優勝の立役者となった。南にとっては97年にマレーシアで開催されたワールドユース(17歳で出場)に次ぐ2度目の大会だっただけに、チームを牽引する立場だった(FW永井雄一郎も2大会に出場)。 柏では通算291試合に出場し、その後は熊本で155試合、横浜FCで183試合、そして昨シーズン途中で移籍した大宮で32試合に出場し、661試合という大記録を打ち立てた。まだシーズンは序盤のため、今後もさらに記録を伸ばすことは間違いない。 ちなみに99年のワールドユース組で現役を続行しているのは南の他に小野伸二(札幌)、遠藤保仁(磐田)、稲本潤一(南葛FC)とフィールドプレーヤー3人がいる。いずれも“無事之名馬"を実践していると言っていいだろう。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.05.06 20:20 Fri
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キリン杯が6年ぶりに復活。森保監督が現役当時を振り返る/六川亨の日本サッカー見聞録

6月のIMD(インターナショナル・マッチデー)の詳細が4月28日に発表された。まず6月2日に札幌で、キリンチャレンジカップとしてパラグアイと対戦。その後は6日の月曜に国立競技場で同じくキリンチャレンジカップでブラジルと対戦する。 そして10日(神戸)と14日(吹田)はキリンカップとして、10日はガーナと、14日はチリ対チュニジアの勝者と対戦する(4カ国によるトーナメント形式)。会見に出席した田嶋幸三JFA(日本サッカー協会)会長は、「キリンカップは2016年以来6年ぶりの開催」と紹介したが、もうそんなに開催していないのかと意外に感じられた。 ご存じのように、キリンチャレンジカップは日本が招待チームと対戦する大会だ。そしてキリンカップ(1978年にスタートし、かつてはジャパンカップと呼ばれた)は複数の招待チームにより優勝を争う大会である。 2016年はボスニア・ヘルツェゴビナ、デンマーク、ブルガリアを招待し、ボスニア・ヘルツェゴビナが優勝した。日本はブルガリアに7-2と大勝したものの、ボスニア・ヘルツェゴビナに1-2で敗れて優勝を逃した。当時のメンバーで今も残っているのはGK川島永嗣、DF吉田麻也、長友佑都、MF原口元気、FW浅野拓磨くらいだ。 そして田嶋会長は、1980年のジャパンカップでプレーしていたことを思い出していた。筑波大学を卒業し、古河電工に入ったばかりの頃だ。5月25日に国立競技場で開催されたアルヘンチノス・ジュニアーズ戦に後半70分、風間八宏氏(現C大阪スポーツクラブ技術委員長)と交代で出場した。その後も広州国際大会にも出場しているが、スタメン出場すると同じ古河電工の岡田武史氏(現JFA副会長)と交代することが多かった。 続いて口を開いた反町康治JFA技術委員長も、キリンカップでは1991年に「山形でのタイ戦に出場した」ことを紹介。この時の日本は横山謙三氏が監督を務め、反町技術委員長は後半82分に北澤豪氏(現JFA理事)と交代でピッチに立っている。 山形県天童市で初めて開催されたキリンカップだったが、この試合は当時の部下だった金子達仁くんの愛車インテグラで日帰り取材したので記憶に残っている。なぜわざわざ天童まで、それもタイ戦を取材に行ったかというと、この時のキリンカップには当時は大学生で将来を嘱望されていたMF礒貝洋光(東海大)と、FW森山泰行(順天堂大)の2人が招集されていたからだった。 残念なことに2人は天童での試合では出番がなかったものの、日本はタイに1-0で勝つと、続くバスコ・ダ・ガマ(ベベートやビスマルクがいた)にも2-1。そしてリネカー率いるトッテナム・ホットスパーにも4-0で勝ってキリンカップ初優勝を遂げた。 ただ、この時のスパーズはオフのご褒美旅行の一環で日本を訪れたため真剣度はゼロ。神戸でのバスコ・ダ・ガマ戦のあとはホテル近くのパブに繰り出し、お店のビールをすべて飲み干すという“快挙"を達成していた。 そしてこの大会を最後に、キリンカップは招待チームを代表に限定し、FIFA公認の国際Aマッチの大会となって現在に至っている。 会見に話を戻すと、田嶋会長、反町技術委員長が同大会にまつわるエピソードを紹介したため、森保一監督も「私自身も、選手にとって大きなターニングポイントになる大会で、初キャップがキリンカップで、アルゼンチンと対戦しました」と当時を振り返った。 JFAは92年に日本代表の監督に初めて外国人を招いた。ハンス・オフトだった。オフトは初采配となるキリンカップのアルゼンチン戦に、スタメンで森保を、三浦知良と交代で高木琢也(現相模原監督)をデビューさせた。 試合はガブリエル・バティストゥータのゴールでアルゼンチンが1-0で勝利したが、このときのアルゼンチンの監督はアルフィオ・バシーレ、選手はバティストゥータの他にもアルベルト・アコスタ、クラウディオ・カニーヒア、レオナルド・アストラーダ、オスカー・ルジェリ、ファビアン・バスアルドと錚錚たるメンバーが揃っていた。 このため森保監督も「世界のトップトップと戦って自信になりました。世界を見させてもらったおかげで、世界を目ざすようになりました」と刺激を受けたことを明かしていた。 6月のキリンカップにヨーロッパ勢は呼べないものの、ガーナとチュニジアはカタールW杯に出場するだけに、主力クラスの来日を期待したい。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.04.29 12:00 Fri
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同窓会のようなFC東京対名古屋/六川亨の日本サッカー見聞録

新型コロナウイルスの影響により延期されたJ1リーグの第2節、FC東京対名古屋の試合が4月20日に開催された。試合は0-0のドローに終わったが、随所で“同窓会”のようなシーンが見られた。 試合前、両チームのメンバーが発表された際に名古屋のCB丸山祐市の名前がアナウンスされると、FC東京のゴール裏から盛大な拍手が起こった。ご存じのように丸山はFC東京のU-15出身で、プロのキャリアもFC東京がスタートだった。FC東京時代は森重真人とCBコンビを組んだものの、なかなかレギュラーに定着することはできずに18年に名古屋へ移籍した。 今シーズンから名古屋の指揮を執る長谷川健太監督は、18年から4シーズン、FC東京を指導した。その間には19年に最終節まで優勝争いを演じ、チームを初の年間2位に導き、翌20年には3度目となるリーグカップのタイトルをもたらした。 試合中、名古屋ベンチの前でFC東京側のスローインがあった際は、選手が長谷川監督と握手するシーンが何度か見受けられたものだ。 前日に小平で行われた会見では、チーム最古参のベテランSB長友佑都が「健太さんがいなければ東京には来なかった。健太さんに貢献できなかった複雑な思いがある。健太さんから学んだこともあるので、健太さんに成長をみせたいですね」と言えば、MF安部柊斗も「長谷川監督にはプロになる前の特別指定選手から練習に参加させてもらい、試合でも起用してくれて感謝の気持ちがあります。明日はピッチで健太さんに少しでも成長したところを見せたいです」と抱負を語っていた。 そして試合は両チームの指揮官とも積極的な選手交代から勝点3を目ざしたもののゴールを割ることはできずに勝点を分け合った。 試合後の長谷川監督は「なんか変な感じですね。スタジアムに入るときも(ホームチームの)左に行きそうになった。なんか変な感じ」と違和感を覚えつつ、「名古屋の監督としてこのスタジアムで勝ちたかった」と本音を漏らした。 後半8分にはMF松木玖生からのパスを受けて、GKと1対1から決定的なシュート(GKラングラックが触ってポストを直撃)を放ったFW永井謙佑は「去年まで4年間、ピッチで戦った。今日は対戦相手なので不思議な感じがしました」と長谷川監督と同じ印象を口にした。 師弟関係やチームメイトが敵になるのが日常でもある“プロの世界”の厳しさだろう。 そして“同窓会”ついでで言えば、長友を筆頭に丸山、安部、三田、中村帆高、森下龍矢は明治大学OBでもある。他のチームにも明治大学出身のJリーガーは数多い。そして明治大学出身のJリーガー第1号はといえば、現役時代のプレーを見ている読者は少ないと思うが、85年のメキシコW杯最終予選の韓国戦で伝説のFKを決めた、元横浜FM監督でもある木村和司氏である。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.04.21 21:00 Thu
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大宮スポーツ本部長に原氏が就任/六川亨の日本サッカー見聞録

今週火曜のコラムでは、J2大宮が最下位に低迷し、強化の責任者であるスポーツ本部長を兼任していた佐野社長が同職を辞任。新たにスポーツ本部長を招聘してチームの強化・再建を図る予定だということを紹介した。 その当日12日、スポーツ本部長に原博実氏を招聘することを発表した。 正直、意外というか、見落としていた。 チーム事情から(S級ライセンスを持っているのは霜田正浩監督だけ)、万が一の時は監督に就任できる人選になるだろうとは予測した。このため、JFA(日本サッカー協会)副会長に就任した岡田武史氏はS級ライセンスを返上したのと、次期JFA会長になるだろうから除外した。 そこで強化部長の秋元利幸氏が早稲田大のため、元川崎フロンターレ監督の関塚隆氏を招聘するのではないかと予想した。同大学卒でロシアW杯では日本代表の監督としてチームをベスト16に導いた西野朗氏は埼玉県出身だが、ロシアW杯以降はあまり表だって活動していない。 同大学出身の加藤久氏は京都のGMだし、曺貴裁氏は監督だ。そう思っているところ、原氏の存在を失念していることに気付かされた。と、同時に、これ以上のコンビはないとも思い至った。 改めて言うまでもないが、原氏と霜田監督はJFA(日本サッカー協会)の技術委員長と委員として、ザッケローニ監督を招聘し、2011年のアジアカップで優勝。その後もアギーレ監督や任期途中で契約解除となったがハリルホジッチ監督を招聘するなど、日本代表の強化に尽力した。FC東京時代も監督と強化委員という間柄だ。 15日に原スポーツ本部長招聘について会見に応じた佐野社長は「リーダーシップとサッカー界の人脈などから原さんが最適」と判断し、トップチームの立て直しを依頼したと明かした。 続いて原スポーツ本部長の抱負で印象深かったのが次のコメントだ。「恵まれた環境を当たり前と思っているのではないか」――選手や監督が変わっても、クラブの“ぬるま湯”的な体質に変わりがないのが低迷の原因ではないかと常々思ってきた。それを見事に原氏は指摘したように思えてならなかった。 ただし、佐野スポーツ本部長から原スポーツ本部長に変わったからといって、すぐに勝てる保証はない。現実的にはCBと1トップの補強、それも外国人選手の獲得がチームを立て直すためには急務だろう。しかし移籍のウインドウがオープンするのは7月15日だ。それまでに、どれだけチームは勝点を稼げるか。 幸いにも、12日に取材した際に、霜田監督はファイティングポーズをとり続けていた。まだまだ大宮での挑戦を諦めていない。あとは選手がネバーギブアップの姿勢を見せられるかどうかが大宮の命運を左右するのではないだろうか。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2022.04.16 12:30 Sat
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