アルゼンチンとモンゴル戦でのゴールラッシュの要因/六川亨の日本サッカーの歩み

2021.03.31 21:15 Wed
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Getty Images
3月29日、U-24日本は親善試合でU-24アルゼンチンを3-0と撃破。翌30日は日本が22年カタールW杯アジア2次予選で、モンゴルを14-0の記録的大差で圧勝した。新型コロナの影響で、海外から呼べない選手もいた。それでも日本代表では山根、守田、稲垣、古橋が代表初ゴールを決めるなど収穫があった。

そしてU-24日本である。3月26日のアルゼンチンとの第1戦は0-1で敗れたが、しっかりと反省点を修正するリカバリー能力の高さを見せた。1対1の球際での競り合い、いわゆるフィジカルコンタクトで互角に渡りあったのだ。

ともすれば目前のボールに先にコンタクトしたくなるところ、相手が寄せて来ている(体をぶつけに来ている)ことを察知して、ボールにアプローチしつつ自分から体をぶつけに行くことで互角の勝負に持ち込んだ。ボールを失えば奪いに行くのは当然の責任だし、FWもプレスバックで味方をフォローした。

アルゼンチンがスピードのあるレフティーのフェルナンド・バレンスエラ(背番号7)と、ドリブラーのマティアス・バルガス(背番号10)をベンチスタートにしたのにも助けられたが、日本は町田と瀬古のCBコンビが第1戦で決勝点を決めた192センチの長身FWアドルフォ・ガイチを完封。相手にほとんど決定機を作らせず完勝した。

だからと言って、東京五輪で「金メダルが獲得できる」と断言はできない。しかし、「可能性がないわけではないよね」と言えるくらいまでにはなった。

これが1年前なら、まず間違いなく「絶対に無理!」と言っていただろう。なにしろ昨年1月にタイで開催されたAFC U-23選手権では、2連敗であっけなくグループステージでの敗退(1分2敗)を目の当たりにしていたからだ。

東京五輪のアジア予選を兼ねていたため、他チームは完成度が高い。それに比べて日本は、いま思い返すと代表メンバーすら固まっていなかった。いくら地元開催とはいえ、メダルなんて口にすること自体おこがましいと思っていた。ところが……。

新型コロナは忌むべき人類の敵だが、東京五輪の延期はU-24日本にとって「プラスに作用した」と小声で囁きたい。それほどアルゼンチン戦のパフォーマンスは素晴らしく、チームの完成度も高まっていた。OA枠も含めて、選手選考は熾烈を極めるに違いない。

そしてA代表である。モンゴル戦は5-0で終えた前半から、もしかしたら二桁得点の可能性があるかもしれないと思った。なぜなら前回対戦した19年10月10日の試合でも、前半を4-0とリードして終了し、後半も猛攻を仕掛けたからだ。

遠藤と鎌田が代表初ゴールを決めた試合でもあり、吉田が「決めきるところで決めていれば8-0にはできたんじゃないかと思います」と振り返ったものの、結果的に後半は7度の決定機のうち2回しか決められず試合は6-0で終了した。このためチャンスを確実に決められれば二桁得点は不可能ではないと思った。

そしてフクアリでの試合は後半の20分過ぎから日本のゴールラッシュが始まり、伊東のこの試合2ゴール目で日本は二桁得点を記録。しかし、日本の猛攻はここで終わらなかった。

もしも森保監督がメンバー交代をせずにレギュラー組で戦っていたら、選手は負傷を避けるため無理はしなかったかもしれない。ワンタッチ、ツータッチでパスをつないで時間を稼ぐなど、負傷の可能性がある相手ゴール前でのプレーは避けただろう。

しかし指揮官は積極的に交代カードを使った。そして起用された国内組の選手は、年齢的に代表入りをアピールする数少ない機会のため貪欲にゴールを狙った。その結果、残り5分からアディショナルタイムでの6分間で4ゴールを奪い、W杯予選における最多ゴールを記録した。

モンゴルとは明らかに実力差がある。それを差し引いても後半に起用された選手は、肩の力を抜けたプレーをしつつ結果でアピールしたのはさすがだった。国内組が意地を見せたモンゴル戦の完勝劇。これも3月にインターナショナルマッチを開催した収穫と言える。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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ペットボトルのラベル問題は14年W杯でも発生/六川亨の日本サッカーの歩み

ちょっと古いが、7月19日の朝日新聞デジタルの記事を以下に引用する。佐々木凌記者の署名原稿である。 茨城県鹿嶋市内の小学校が、茨城県立カシマサッカースタジアム(同市)で東京五輪の試合を観戦する児童の保護者に向けて、会場にペットボトルを持ち込む場合は出来るだけ大会公式スポンサーのコカ・コーラ社製とするように文書で求めていたことがわかった。 市教委は「市として特定のメーカーを勧めた事実はない」とし、どのメーカーでも持ち込めることを学校に改めて伝えたという。 スタジアムでは22日からサッカーがおこなわれる。新型コロナウイルスの感染拡大を受けて、県は、学校連携観戦チケットを持つ児童・生徒に観客を限っている。 市教委によると、市内の小中学校16校が参加した説明会が9日にあった。大会組織委員会の担当者から、コカ・コーラ社のペットボトルはそのまま会場に持ち込めるが、他社製品の場合はラベルをはがすようにと指導があったという。「スポンサーに配慮をお願いしたい」との発言もあった。 市教委は、飲料メーカーでラベルの扱いを変えると混乱をもたらしかねないとして、12日に各校へ配ったマニュアルでは、すべてのラベルをはがすように記していた。 保護者向けの文書を出した小学校は、説明会に参加したうちの1校だった。市教委は「学校が、組織委の趣旨を正直に受け取った結果、誤解を招いてしまった」と説明している。 簡単に説明すると、7月22日の男子サッカーの初戦を前に、観戦に招待された小中学生が熱中症対策に「スタジアムにペットボトルを持ち込む際は、五輪スポンサーのコカ・コーラ社の飲料水にして下さいね」と忖度したわけだ。 その後、「他社製品も持ち込んでいいけど、その際はラベルをはがしてね」と変わった。しかし市教委は混乱するので「すべてのラベルをはがしましょう」という結論に達した。 もちろん五輪スポンサーのコカ・コーラ社がそんな独占的なことを指示するわけがない。そんなことをしたら逆に不買運動につながりかねないからだ。 指示した“大会組織委員会の担当者"とは、おそらく大手広告代理店の電通のコカ・コーラ社担当者だろう。 86年メキシコW杯でのことだった。旧知の知人で電通のW杯担当者は1週間前くらいからメキシコシティに乗り込んでいた。市内の高級ホテルの1フロアを借り切っての一大イベントである。 その彼が神経を尖らせていたのが、スポンサーの権利を守ることだった。いまから35年も前のことである。当時はスポンサーの権利に関して今とは比較にならないくらい認識・管理はルーズだった。メインメディアセンターを始め各地のメディアセンターのテレビはすべてスポンサーであるJVC(日本ビクター)でなければならない。 しかしメキシコシティのメインメディアセンターに設置されているのはアメリカ製のテレビだった。開幕までにテレビを総入れ替えしている時間はない。そこで彼は、全部のテレビのロゴマークに黒のマジックテープを貼ることで難を逃れた。 86年メキシコ大会はJVCの他にキヤノン、フジフィルム、セイコーと日本の4社がオフィシャルスポンサーだった。当然、彼らの権利も彼は守らなければならないし、4社が招待した観戦者のチケット確保と食事会の手配など、のんびりサッカー観戦している余裕はなかった。 そして話は変わり14年ブラジルW杯である。日本の初戦が行われるレシーフェでのこと、プレス入り口で入場する際に手荷物検査があり、コカ・コーラ社以外のペットボトルはすべて没収された。おまけにバナナ(安価で腹持ちがいい)も取り上げられた。 対応しているのは学生ボランティアのため、彼らに文句を言っても自己判断はできない(こちらもポルトガル語はできない)。 ただ、それはどの会場でもトラブルになったようで、第2戦が行われるナタウでは、コカ・コーラ社以外のペットボトルはラベルをはがせば持ち込みオーケーなので事前にはがし、スナック類の持ち込みも認められた。 今回、カシマスタジアムで起きたことは、すでに7年前にも起きていた。スポンサーの権利を守ることが彼らの仕事でもあることは理解できる。ただし、物事にはすべて“適度"というものがある。度を超した場合は、かえってマイナスのイメージにつながってしまう。その判断を誤り、辞任・解任を余儀なくされた関係者が多いのも、東京五輪の特徴かもしれない。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.07.27 23:05 Tue
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FC東京の右SBに小川諒也?/六川亨の日本サッカーの歩み

日本代表は左SB長友の後継者探しが急務だが、FC東京は右SBが人材難に陥っているようだ。6月27日に行われた大分戦では、6月の代表戦で長友の代わりに起用された小川が右SBにコンバートされ、後半2分には19年5月18日の札幌戦以来となるゴール(チームの3点目、小川自身にとってはJ1通算2点目)を決めた。 FC東京の右SBといえば、2016年の加入以来、室屋が主力を務めてきた。しかし昨シーズン途中にハノーファーに移籍。それを見越して東福岡高校から中村拓海を、昨シーズンは明治大から中村帆高を補強した。 しかし今シーズンの4月3日、第7節の名古屋戦で中村帆高は右膝半月板を損傷し、全治6ヶ月の重傷と診断された。そこで右SBは中村拓か清水からレンタルバックした岡崎が候補になるが、大分戦では小川がスタメン起用された。 その理由は後述するが、伏線は6月19日の横浜FC戦(1-0)にあった。この試合で中村拓がスタメンに起用されたものの、前半だけで小川と交代させられている。小川自身も過去に長谷川監督から右SBで起用されたこともあるだけに、違和感なく監督の采配に応えた。 1-0とリードした試合で指揮官は、終盤に疲れの見えた19歳の左SBバングーナガンデ佳史扶に変わり岡崎を右SBに投入し、小川を本来の左SBに戻す采配で逃げ切りに成功した。 続く23日、水曜の徳島戦では右SBに明治大に在学中の岡庭をスタメン起用し、小川は本来の左SB、そして後半から岡庭に代えて岡崎という交代策で前半の1点を守り切った。 こうして迎えた大分戦で、小川の右SBについて長谷川監督は「慶吾(東)との関係で、上手く立ち位置が被らないようにしてくれて、つなぎのところで上手くプレーしてくれた。(192センチの)長沢はしっかりと抑えないといけない。(小川は)ヘディングの強い選手なので、剛(渡辺)と連係して相手のストロングポイントに対応してくれた」と起用した理由を明かした。 中村拓もスピードのある突破が魅力ではあるが、空中戦やフィジカルコンタクトとなると小川や岡崎にはかなわないだろう。 小川自身のプレーについては、左利きのためタテへの突破は右足でクロスを送らなければならないため極力避けていた。そして「慶吾(東)さんになるべく幅を取ってもらい、自分は中に入っていく。中に入ることで慶吾さんがフリーになったり、攻撃の幅が広がったりしたと思う」と冷静に分析していた。 彼の言葉通り、前半45分の2点目は安部のパスを右サイドに開いていた東がワンタッチでクロス。その時に小川はペナルティエリア右でフリーになっていた。そして中央でディエゴ・オリベイラが滞空時間の長いヘディングシュートを決めた。 さらに3点目はバングーナガンデ佳史扶のクロスをGKが弾いたところ、右から詰めていた小川がボレーで決めたもの。プレーのイメージとしては川崎Fの山根を彷彿させる動きだった。 日本代表の右SBは浦和に移籍した酒井を筆頭に室屋、山根に加え五輪世代では橋岡もいる激戦区だ。そこに小川が加わるよりも、やはり本来の左SBで長友と競争できるパフォーマンスをJリーグで発揮してもらいたいと思う。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.06.29 19:30 Tue
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田中碧が移籍濃厚のデュッセルドルフにまつわる思い出/六川亨の日本サッカーの歩み

川崎Fの田中碧がブンデスリーガ2部のデュッセルドルフへ移籍することが濃厚となっている。契約は1年間の期限付き移籍とのことだ。チームは6月26日から始まるACL1次リーグの集中開催地ウズベキスタンへ移動したが、田中碧は帯同せず、チームから離脱したと川崎Fは発表した。 遅かれ早かれというか、田中碧と三笘は東京五輪後に移籍すると思っていた。しかし五輪を目前に移籍を決めたのは意外だった。スポーツ紙などの報道によると、近日中にドイツへ渡るらしい。恐らくメディカルチェックなどの検査のためだろう。 そこで問題になるのは、田中碧は東京五輪に出るのかどうかだ。ブンデスリーガ2部は7月23日に開幕する。キャンプやプレシーズンマッチに参加するには、渡独してそのまま居残ることになるだろう。そうなれば、7月22日の五輪開幕戦、南アフリカ戦は欠場となる。 ただし、期限付き移籍で合意しても、「東京五輪のメンバーに選ばれたら五輪を優先する」という契約になっていれば問題はない。18名のメンバー発表は明日の14時なので、その時点で田中碧の今後が判明するだろう。 その田中碧が移籍するデュッセルドルフは、過去にも原口や宇佐美がプレーしたが、日本企業が多数進出し、日本人学校もあるヨーロッパでも有数の“日本人街”だ。 過去に2度ほど取材のベースキャンプとして滞在したことがある。最初は1988年のEUROを取材した際に滞在し、ここをベースにケルンやフランクフルト、ミュンヘン、ハンブルグなどへ足を伸ばした。 当時のEUROは8チームの大会だったため、かなりのんびりと取材できた思い出がある。とはいえ試合はいつも“緊張感”を伴っていた。なぜかというと「フーリガニズム」が全盛時代だったからだ。 グループA(西ドイツ、イタリア、スペイン、デンマーク)の初戦で地元西ドイツはイタリアと1-1で引き分けたが、試合会場のデュッセルドルフと駅周辺は平穏そのもの。ところがグループB(イングランド、オランダ、ソ連、アイルランド)の初戦でイングランドはアイルランドに、オランダはソ連にいずれも0-1で敗れた。 当日はケルンでのオランダ対ソ連戦を取材したが、試合後に少し遅れてケルン駅に向かうと、駅のガラスは粉々に砕け、路上にはいたるところに血痕がある。オランダのフーリガンが暴れた結果だとすぐにわかった。 そこで西ドイツはイングランドとオランダの試合になると、ハーフタイムにはビートルズの「愛こそはすべて」や「イエローサブマリン」など牧歌的なメドレーを流し、試合後は両チームのサポーターは会場に止め、先に対戦相手や地元のファン・サポーターを退場させる。スタンドが空席になってから、一角にまとめられたイングランドとオランダのファン・サポーターは駅への帰路につくが、その際も両脇を騎馬警官が囲んで商店を壊されないよう、寄り道をしないよう目を光らせていた。 イングランドのファン・サポーターからしてみれば、2年前のメキシコW杯ではガリー・リネカーが得点王になったし、ベスト8でアルゼンチンに敗れたものの1点はマラドーナの“神の手ゴール”による不正な得点だった。このため88年のEUROでは優勝を期待していた。しかし結果は3連敗の最下位で西ドイツを後にしなければならなかった。 ちなみに優勝したのはフリット、ファン・バステン、ライカールトを擁するオランダ。ソ連との決勝では後方からのロングボールをそのままボレーでGKダサエフを破ったファン・バステンの2点目は、いまなお20世紀最高のビューティフルゴールとして語り草になっている。 そして2度目の滞在は05年のコンフェデレーションズカップだった。なぜデュッセルドルフに滞在したかというと、隣国オランダでワールドユースが開催されていて(大熊監督で、GK西川周作、本田圭祐、家長昭博、平山相太らがいた)、日本の試合会場であるケルクラーデはデュッセルドルフとは目と鼻の先だった。このためレンタカーで両都市間を行き来した。 現在もあるかどうか不明だが、デュッセルドルフの繁華街には三越デュッセルドルフがあり、そこの1階にある昔ながらの床屋で髪の毛を切った記憶がある。日本人駐在員の主婦が談笑しながら街を歩き、日本の食材専門のスーパーマーケットもあった。鉄板焼きや寿司屋、定食屋に加え、当時は「なにわ」というラーメン屋がオープンしたばかりで、人気になっていると聞いて並んだものだ。 日本人にとって過ごしやすい都市がデュッセルドルフでもある。ただし、だからといってドイツ語や英語など語学を学んで監督やチームメイトと意思の疎通を図らないと、ヨーロッパで長くプレーすることはできないことをGK川島やDF吉田が証明している。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.06.21 21:00 Mon
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オナイウと坂元がアピールしたキルギス戦/六川亨の日本サッカーの歩み

15日のW杯アジア2次予選のキルギス戦は、日本代表が順当に5-1の勝利を収めた。そして代表初ゴールを含めハットトリックを達成したオナイウ阿道がクローズアップされたのは当然だろう。 今シーズンのJ1リーグでも、特に右サイドからのクロスに対し、最初はニアに走り込んでマーカーの注意を引きつけつつ、回り込むようにマーカーの裏をとってファーに流れてフリーになり、右クロスを決めるシーンを何度か目撃した。キルギス戦の31分の2点目がこのパターンだ。 そして3点目、バイタルエリアで簡単にボールを処理するとペナルティーエリア左へと侵入する。原口が左サイドの小川に展開すると、すーっと右サイドに流れた。これはボール保持者の小川、敵GKとDFの3者を同一視野に入れる「アザーサイド」と呼ばれるポジショニングで、南アW杯得点王のディエゴ・フォルランやJ1得点王の大久保嘉人が得意とするプレーである。 そして小川のクロスにフリーで落下点に走り込み、余裕を持ってヘディングシュートを決めた。 今シーズンのオナイウは、ストライカーとして“基本的な動き"を繰り返している。ついボールにつられて飛び出したい気持ちを押さえ、マーカーとの駆け引きや基本的な動きを入れることで有利な状況を作り出している。 これまでオールラウンドなストライカーとして大迫の後継者はなかなかいなかった。浅野、伊東、古橋に加え田川や前田など、スピード系の選手は多いものの、オールラウンダーとなると上田くらいしか候補はいなかった。 そこに名乗り出たのがキルギス戦のオナイウだった。今シーズンのリーグ戦でどこまでゴールを伸ばすのか楽しみでもある。 そしてオナイウと同じくアピールに成功したのが右MFの坂元だろう。今年3月に初めて代表に招集されたがケガで途中離脱したため、今回が代表デビューになる。 「代表は世代別の代表にも手が届く選手ではなかった。プロになれるかどうかもわからなかったのに、代表に選ばれたのはうれしい。いま燻っている選手に夢を与えられたのではないかと思う」と正直な感想を述べていた。 レフティーならではのカットインはもちろん、タテに抜け出しての右足のクロスも精度は高い。A代表では伊東とのポジション争いになるが、ストライカータイプの伊東とは違うスタイルだけに、起用法によっては試合のリズムを変えられる選手として面白い存在になるかもしれない。 今シーズン、浦和に加入した小泉とはFC東京U-15むさしでチームメイトだった。そして2人ともユースチームに進めず前橋育英高に進学。今シーズン、FC東京に加入した渡辺凌磨も前橋育英高のチームメイトで、高校3年生の時は高校選手権で準優勝を果たした。 しかし3人とも大学を経由して加入したのはJ2チーム。しかし坂元は昨シーズンから、小泉と渡辺凌も今シーズンからJ1に活躍の舞台を移した。そんな経緯を話しつつ、坂元は「みんな高校の時からライバルとして切磋琢磨して、お互いに抜いたり抜かれたりした。いま代表だからとリードしていると思わない。自分も負けられないと思うし、一緒にプロとしてやれていることは大きいと思う」とライバルの存在の重要性を口にした。 オナイウの活躍に、当然横浜FMのチームメイトである前田は刺激を受けたことだろう。そして坂元の代表でのプレーに小泉も闘志を燃やしているかもしれない(渡辺凌は負傷治療中)。19日に再開されるJリーグでは、U-24日本の代表候補を含めて彼らのプレーに注目してみるのもいいだろう。22日には東京五輪の代表18名が発表されるため、19、20日は最後のアピールの場になる。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.06.17 18:30 Thu
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森保ジャパンとシドニー五輪の類似点/六川亨の日本サッカーの歩み

五輪の男子サッカーにオーバーエイジ(OA)枠が採用されたのは、1992年のバルセロナ五輪からだった。当時のU-23日本はJリーグ誕生の前年ということもあり、澤登正朗(東海大)、相馬直樹(早稲田大)、名波浩(順天堂大)ら大学勢が主力だった。 しかし1次予選は突破したもののアジア最終予選では1勝1分け3敗で、6チーム中5位に終わった。当時は日本代表の監督だった横山氏が総監督を務め、山口監督を補佐する形だったが、基本的に1人の監督が日本代表を率いてW杯予選と五輪予選を戦っていた。 それというのもバルセロナ五輪以前は男子の五輪に年齢制限がなかったことと、日本がまず出場を目指したのはW杯ではなく五輪だったからだ。W杯は「手の届かない夢の舞台」と思っていた。 そうした風潮に変化が起きたのは、もちろんJリーグの影響もある。94年に日本代表の監督に就任した加茂氏は「W杯は夢見るものでなく出場するもの。そのためにはまず指導者が(出場を)目指さないといけない」と意識の変革を訴えた。 もう1つの変化が、2人の代表監督が誕生したことである。W杯を目指す日本と、五輪出場を目指すU-23日本。前者の監督は加茂氏で、後者の監督には西野氏が就任した。しかし当時のチームは、攻撃的な加茂監督の日本と、守備的な西野監督のU-23日本とタイプの異なるチームだった。 初めてプロの選手で挑んだ96年アトランタ五輪アジア予選で、U-23日本は準決勝で中東の盟主サウジアラビアを2-1で下して決勝戦に進出。上位3チームに与えられる五輪の出場権を28年ぶりにつかんだ。 そしてアトランタ五輪では初戦で優勝候補のブラジルを1-0で倒す「マイアミの奇跡」を演出。しかし2勝1敗と勝ち越しながら得失点差で3位となり、ベスト8進出を逃してしまった。 当時のチームにOA枠で23歳以上の選手を招集することは可能だったが、議論すらされなかったと記憶している。前園真聖や城彰二、GK川口能活ら若きスター選手が自力でつかんだ五輪切符である。そこに後から入って五輪に出場しようなどとは虫の良い話、といった雰囲気すら漂っていた。 当時のチームにOA枠を使うとして、改めて考えてみると、ラモス瑠偉は有力な候補と思うが、果たして中田英寿と両立できるのか。三浦知良と城の2トップは魅力的だが、高さのある高木琢也か、俊足の岡野雅行の方が攻撃の幅が広がるような気もする。 いずれにせよ、西野朗監督、山本昌邦コーチも含めてファミリー的な雰囲気のあるチームだっただけに、OA枠は考えられなかった。 日本が初めてOA枠を使ったのは00年シドニー五輪のトルシエ監督だった。トルシエ監督は前年の99年はU-20日本を率いてワールドユース(現U-20W杯)で準優勝を果たした。小野伸二、本山雅志、高原直泰、小笠原満男ら、その後は日本代表で活躍する選手が数多くいた。 彼らに、97年のワールドユースでベスト8入りした宮本恒靖や松田直樹らの融合したチームはアジア予選を苦もなく突破した。 そして本大会では経験豊富なGK楢崎正剛、DF森岡隆三、FW三浦淳宏の3人のOA枠も使い、32年ぶりにグループリーグを突破してベスト8に進出した。このチームの強みを一言で表すとしたら「継続性」ということになるだろう。 過去に例を見ない、1人の監督が3チームを率いたからだ。指導方法についてケチをつけるつもりはないが、99年にU-20日本を率いて準優勝、00年の五輪ではベスト8,そして02年日韓W杯でベスト16と、3大会で結果を残した。 こうして過去を振り返ってみると、当時のトルシエ・ジャパンと現在の森保ジャパンは共通点が多い。「1チーム2カテゴリー」で活動を続け、OA枠にも国際舞台、海外経験が豊富で数々の修羅場をくぐり抜けてきた3人を加えた。 まずは負けないこと。そのためには守備を安定させるというポリシーも似ている。12日のジャマイカ戦が終われば、誰が最終メンバーに残るかが注目されるだろう。こちらはこちらで楽しみたいと思う。 <hr>【文・六川亨】<br/><div id="cws_ad">1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2021.06.11 11:45 Fri
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