ゼロックス杯の変遷と日本サッカーの歩み/六川亨の日本サッカーの歩み
2021.02.02 20:40 Tue
シーズンの到来を告げる毎年恒例の「富士ゼロックス スーパーカップ2021」の記者発表が2月1日に開催された。今年もJ1リーグ開幕の約1週間前の20日13時35分より、埼玉スタジアムでキックオフとなる。過去の直近3大会はリーグ戦と天皇杯の覇者が異なったため新鮮味があったが、川崎FとG大阪のファン・サポーターには申し訳ないが、今年は両チームの対戦にちょっと食傷気味の感がある。
会見では、同一企業で長期に渡り「スーパーカップ」のスポンサーを務めたことで、ギネス記録と認定されて、ギネスワールドレコーズの授与式も行われた。1994年にスタートして実に27年間、J1リーグの年間王者と天皇杯覇者の対決を支援してきた。
ギネス認定といえば、1992年にスタートしたヤマザキナビスコカップ(2016年よりルヴァンカップに名称変更)も、同一スポンサーによる最長の「カップ戦」として2012年にギネス記録に認定されている。
歴史的な背景として、「リーグカップ」の前身は1973年にスタートしたJSL(日本サッカーリーグ)カップだった。当時のJSLに所属する1部と2部のチームによるトーナメント戦で、現在のルヴァン杯と形式は同じだ。こちらは91年まで16回ほど開催され、Jリーグ誕生の前年に当たる92年に「ヤマザキナビスコカップ」としてリニューアルされ、現在まで続いている。
それに比べてややこしいのが「スーパーカップ」である。誕生したのはJSL時代の1977年で、当時はスポンサー企業の冠大会ではなく、ただ単に「スーパーカップ」と呼ばれていた。大会は現在と同じくリーグ戦(JSL)の優勝チームと天皇杯覇者の対戦で、84年まで8回開催された。
この大会と同時期に誕生したのが、海外から有名チームを招いて日本代表と対戦する「ゼロックス・スーパーサッカー」だった。77年はペレのいるニューヨーク・コスモス、78年はヨハン・クライフ率いるワシントン・ディプロマッツ、82年はディエゴ・マラドーナが全盛時代だったボカ・ジュニアーズ(マラドーナはその後も同大会で南米選抜とナポリでも来日)といった具合に世界のスーパースターが来日。そして90年のバイエルン・ミュンヘンを最後に大会は自然消滅した。
そしてJリーグ開幕前の92年、JSLと天皇杯、JSLカップ、そしてコニカカップ(JSL第3の公式大会として90年と91年の2回だけ開催)の優勝4チームによる「ゼロックス・チャンピオンズ・カップ」が1回限りの大会として開催された。
その後、Jリーグが誕生した翌年の94年、改めてリーグ王者と天皇杯覇者が激突する「ゼロックス・スーパーカップ」が誕生し、2009年からは「富士ゼロックス スーパーカップ」として今日まで続いてきた。
70年代末から90年まで続いた「ゼロックス・スーパーサッカー」は、同時期に誕生したジャパンカップ(キリンカップ)に比べ、招待チームが1チームのため来日するチームも豪華だった印象がある(トヨタカップは別格として)。
両大会とも目的は日本代表の強化だったが、ファンのお目当ては来日するスター選手のプレーだった(日本代表が弱かったせいもある)。しかし93年のJリーグ誕生と日本サッカーのレベルアップに伴い、キリンカップも国際Aマッチの大会にグレードアップした。
こうして振り返るとキリン、ヤマザキビスケット、富士ゼロックスの3社は暗黒の時代から日本サッカーをサポートし、代表の強化とファンに娯楽を提供するため魅力的なチームの招聘に尽力してきた。
今回は個人的に、ゼロックスサッカー(カップ)の変遷の記憶が曖昧なため、整理する意味でその足跡を簡単に辿った次第である。正直な印象として、「よく途中で大会が途切れなかったな」と思わずにいられなかった。
4月には社名が変わり、それに伴う人材の異動もあるだろう。新型コロナもいつ収束するかわからないが、同社には来年も大会を継続して欲しいと願わずにはいられない。
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そんな両チームのファン・サポーターにとって気になるチケット販売だが、2月1日現在で詳細は発表されていない。首都圏に出されている緊急事態宣言がいつまで延長されるかにより、有観客にするか無観客にするか、有観客にするなら5000人以下にするなどの状況を見ているのだろう。(2日に3月7日まで延長となることが政府から発表)他に気になったのは、冠スポンサーである富士ゼロックスが、4月から「富士フィルムビジネスイノベーション」に社名を変更することだ。これに伴い大会名称も変更になる予定だが、来年以降もスポンサーを継続するのかどうか。こちらは新型コロナの影響も予想されるだけに、軽々に判断することはできないだろう。ギネス認定といえば、1992年にスタートしたヤマザキナビスコカップ(2016年よりルヴァンカップに名称変更)も、同一スポンサーによる最長の「カップ戦」として2012年にギネス記録に認定されている。
同じカップ戦だが、わかりやすく整理すると「スーパーカップ」はタイトルホルダー2チームによる一発勝負で、「カップ戦」の方はJ1リーグに参加するチームによるトーナメントの争いで、「リーグカップ」と認識すればいい。
歴史的な背景として、「リーグカップ」の前身は1973年にスタートしたJSL(日本サッカーリーグ)カップだった。当時のJSLに所属する1部と2部のチームによるトーナメント戦で、現在のルヴァン杯と形式は同じだ。こちらは91年まで16回ほど開催され、Jリーグ誕生の前年に当たる92年に「ヤマザキナビスコカップ」としてリニューアルされ、現在まで続いている。
それに比べてややこしいのが「スーパーカップ」である。誕生したのはJSL時代の1977年で、当時はスポンサー企業の冠大会ではなく、ただ単に「スーパーカップ」と呼ばれていた。大会は現在と同じくリーグ戦(JSL)の優勝チームと天皇杯覇者の対戦で、84年まで8回開催された。
この大会と同時期に誕生したのが、海外から有名チームを招いて日本代表と対戦する「ゼロックス・スーパーサッカー」だった。77年はペレのいるニューヨーク・コスモス、78年はヨハン・クライフ率いるワシントン・ディプロマッツ、82年はディエゴ・マラドーナが全盛時代だったボカ・ジュニアーズ(マラドーナはその後も同大会で南米選抜とナポリでも来日)といった具合に世界のスーパースターが来日。そして90年のバイエルン・ミュンヘンを最後に大会は自然消滅した。
そしてJリーグ開幕前の92年、JSLと天皇杯、JSLカップ、そしてコニカカップ(JSL第3の公式大会として90年と91年の2回だけ開催)の優勝4チームによる「ゼロックス・チャンピオンズ・カップ」が1回限りの大会として開催された。
その後、Jリーグが誕生した翌年の94年、改めてリーグ王者と天皇杯覇者が激突する「ゼロックス・スーパーカップ」が誕生し、2009年からは「富士ゼロックス スーパーカップ」として今日まで続いてきた。
70年代末から90年まで続いた「ゼロックス・スーパーサッカー」は、同時期に誕生したジャパンカップ(キリンカップ)に比べ、招待チームが1チームのため来日するチームも豪華だった印象がある(トヨタカップは別格として)。
両大会とも目的は日本代表の強化だったが、ファンのお目当ては来日するスター選手のプレーだった(日本代表が弱かったせいもある)。しかし93年のJリーグ誕生と日本サッカーのレベルアップに伴い、キリンカップも国際Aマッチの大会にグレードアップした。
こうして振り返るとキリン、ヤマザキビスケット、富士ゼロックスの3社は暗黒の時代から日本サッカーをサポートし、代表の強化とファンに娯楽を提供するため魅力的なチームの招聘に尽力してきた。
今回は個人的に、ゼロックスサッカー(カップ)の変遷の記憶が曖昧なため、整理する意味でその足跡を簡単に辿った次第である。正直な印象として、「よく途中で大会が途切れなかったな」と思わずにいられなかった。
4月には社名が変わり、それに伴う人材の異動もあるだろう。新型コロナもいつ収束するかわからないが、同社には来年も大会を継続して欲しいと願わずにはいられない。
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