どうなるマラドーナ氏の遺産…少なくとも婚外子含む16人の争いに発展か

2020.12.11 13:55 Fri
Getty Images
他界した元アルゼンチン代表FWのディエゴ・マラドーナ氏が生前に残した遺産を巡る争いが起こっているようだ。

マラドーナ氏は先月25日に心臓発作により、60歳で急逝。イギリス『サン』によると、遺書も残すことなく、他界したマラドーナ氏の資産は3700万ポンド(約51億2000万円)にものぼるという。

その遺産を巡り、少なくとも16人の家族が名乗りを上げている模様。実子である5人のほか、愛人との間に授かった7人の婚外子だけでなく、同氏の4人の姉妹までもが財産分与を求めているというのだ。
その遺産はスイス、ドバイ、ブエノスアイレスの銀行口座や、世界中の不動産、何台もの高級車だけでなく、『プーマ』や『コカ・コーラ』ら大手ブランドとのスポンサーシップ料も含まれている模様だ。

アルゼンチンの法律だと、遺産は相続権を持つ者全員での平等な分配が義務付けられ、遺書がない場合、家族のみならず、故人が生前にその存在を知らなかった婚外子も分与を求められるようだ。
多数の隠し子がいるが故に泥沼化の様相を呈するマラドーナ氏の遺産争い。長期戦になるのは間違いなさそうだ。

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