【マラドーナの思い出③】神になった瞬間、愛される理由
2020.12.06 14:30 Sun
サッカー選手としての才能は認めるが、薬物使用などスキャンダラスな面からディエゴ・マラドーナに眉をひそめるファンもいるようだ。しかし、そうしたファンはごく少数ではないだろうか。
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ましてアルゼンチンでは“神"として崇められている。母国でマラドーナが嫌いだという国民を見つけるのは至難の業に違いない。では、なぜマラドーナはこれほどまでアルゼンチン国民に(と同時に世界中のファンから)愛されるのか?
おそらく78年の優勝は、彼ら以外にも名選手が揃い、「チームとしての優勝」というイメージが強かったのではないだろうか。
ところが86年メキシコW杯は、カルロス・ビラルド監督が「マラドーナのチーム」を作り上げて優勝した。そうしたチーム作りにはアルゼンチン国内でも批判も多かったそうで、結果を出したことで試合後のスタジアムにはサポーターが「PERDON(ごめんね)BILARDO」の横断幕を掲げていた。
そしてマラドーナに関して言えば、たった1人で、と言ったら語弊があるあるかもしれないが、1人の選手がチーム全体を掌握して世界の頂点に立ったことが、78年との決定的な違いだ。
準々決勝のイングランド戦では「神の手」や「5人抜き」という後世に語り継がれるゴールも決めた。このため「マラドーナの、マラドーナによる、マラドーナのための大会」として長く記憶されることになった。
そしてこのイングランド戦は、マラドーナが“神"になった試合でもある。それには次のような伏線があった。
両国がW杯で初めて対戦したのは62年のチリ大会で、このときはイングランドが3-1で勝利した。続く66年イングランド大会の準々決勝でも対戦したが(1-0)、アルゼンチンのたび重なるラフプレーに対し西ドイツの主審は、執拗に抗議するキャプテンのラティンに退場を命じた(当時はまだ退場という処分がルール化されていなかったために時間がかかった。これを機にFIFAは70年メキシコ大会からイエローカードとレッドカードを採用することになる)。
そしてイングランドのアルフ・ラムゼー監督はアルゼンチンのラフプレーを「アニマル」と非難した。日本語に訳すなら「動物」ではなく「獣(けだもの)」に近いニュアンスだろう。
時は流れアルゼンチンが前回優勝国としてW杯を迎えた82年の3月、アルゼンチンの沖合にあるイギリス領フォークランド諸島(アルゼンチン名でマルビーナス諸島)の領有を巡り、両国は3ヶ月にわたって軍事衝突を繰り返した。
紛争は両国にとどまらず、EC(欧州共同体)やNATO(北大西洋条約機構)も巻き込んだ結果、西ドイツ、フランス、スペインなどはアルゼンチンに経済制裁を科した。そして3ヶ月に及ぶ紛争はイギリスの勝利に終わった。
この紛争でアルゼンチン側の死者は645人、負傷者1048人、そして捕虜は11313人にのぼった。アルゼンチン代表MFのオズワルド・アルディレス(後に清水の監督などを歴任)の義兄は戦死し、スパーズのFAカップ獲得に貢献したアルディレス自身もイングランドではプレーできなくなり、パリSGへのレンタル移籍を余儀なくされた。
幸か不幸か82年スペインW杯で両国は2次リーグで敗退したため対戦することはなかった。
そして86年メキシコW杯準々決勝である。アルゼンチンにとってW杯で3度目の対戦にして初めての勝利。それもマラドーナの「歴史に残る」2ゴールでのベスト4進出だったが、この勝利にはそれ以上の重みがあった。
愛する領土を、肉親を奪ったイングランドを、1人の若者が叩きのめしたのだ。
マラドーナが“神"になった瞬間でもあった。
アルゼンチンには「マラドーナ教」があり、ブエノスアイレスには2000年に設立された「マラドニアン教会」があって、誕生日の10月30日は「クリスマス」、神の手ゴールを決めた6月22日は「イースター」としてお祝いをするという。
こうしたエピソードは09年に公開されたフランスとスペインの合作で、カンヌなど世界3大映画祭すべてを受賞しているエミール・クストリッツア監督のドキュメンタリー映画「マラドーナ」で紹介されていた。
クストリッツア監督は旧ユーゴスラビアのサラエヴォ出身で、98年にはコソボ紛争が勃発してアメリカ主導により国連の決議なしにNATO軍の空爆で祖国の市民が犠牲になった。そんな2人が撮影を通じてシンパシーを抱くのも自然の成り行きだろう。
狂信的なファンから“神"と崇められながらも、カモッラ(ナポリを拠点とするマフィア)との交際による薬物中毒や愛人とのスキャンダルなどで、幼なじみの妻クラウディア、最愛の娘ダルマとジャンニーナとも別れなければならなかったマラドーナ。
その苦悩を映画「マラドーナ」と、来年6月に公開予定の映画「ディエゴ・マラドーナ 二つの顔」ではマラドーナ自身が赤裸々に告白している。
自業自得とはいえ、絶えず等身大の自分自身をさらけ出してきたディエゴ。だからこそマラドーナはファンにとって「身近な存在」として、“永遠のアイドル"になったのではないだろうか。
死後のいま現在も彼の周辺は喧しいが、安らかな永遠の眠りにつくことを願いたい。
【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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