【マラドーナの思い出①】等身大のアイドル、突然の訃報
2020.11.29 18:30 Sun
神戸のACLラウンド16進出か、川崎FのJ1リーグ最速優勝か、コラム題材をあれこれ考えたが、昨日のニュースですべてが吹っ飛んでしまった。
マラドーナの急死は、正直突然だった。
「どうしてだろう?」――それを確認するため、アルゼンチン在住の記者の藤坂ガルシア千鶴さんの情報にアクセスした。
現地で親しくなったウルグアイ人のカメラマンと結婚し、そのままブエノスアイレスに移住してもう30年以上が過ぎた。彼女と最後に会ったのは、確か99年にパラグアイで開催されたコパ・アメリカだから20年が経つ。それでもFBでつながっているのだから便利な世の中になったものだ。
その彼女がツイッターで、10月30日のマラドーナの誕生日にヒムナシアの監督として放映された動画について、次のようにつぶやいていた。
「その動画を共有することはできなかった。心身ともに衰弱しきったマラドーナの姿をより多くの人に見てもらいたいとは思わなかった。現役時代のマラドーナのプレーに心をときめかせたファンの皆さんに、見てはいけないものを見てしまった気持ちを味わわせたくなかったのだ(一部抜粋)」
まだマラドーナが存命中の記事である。そして最後にこう結んだ。
「コカイン摂取の副作用から生死を彷徨い、奇跡的回復を遂げたのが2000年1月。肺炎と心疾患から緊急入院し、一時は死亡説まで流れたのが2004年4月。その後何度も様々な要因から入院を繰り返してきたマラドーナだけに、これからは無条件に自分を愛し、必要な時には容赦せず「ノー」と言える人のいる環境で過ごして欲しいと切に願う」
そんな彼女の願いも虚しく、マラドーナは旅立った。
マラドーナのプレーを初めて見たのは大学生のとき、79年のワールドユース(現U-20W杯)だった。前年のアルゼンチンW杯はメノッティ監督から「若すぎる」という理由でメンバーから外されたが、ペレと同じく17歳でW杯にデビューしていたら、78年、86年と2度のW杯に優勝したことになり、90年はリーチをかけていた。ペレに並ぶ偉大な記録に挑戦できただけにちょっと残念だった。
その後もゼロックス・スーパーサッカーで3度来日(82年ボカ・ジュニアーズ、87年南米選抜、88年ナポリ)し、4試合を取材できただけでなく、試合後にはサインをもらえたのも 懐かしい思い出だ(当時のサッカー界はノーガードだった)。
彼の訃報を26日付けの毎日新聞は夕刊の1面で報じ、翌日のスポーツ紙は1面でこそなかったものの多くの紙面を割いて報じた。テレビでも、ブエノスアイレスでの葬儀の模様を伝え、世界的な規模で彼の死を悼んでいる様子がネットで伝えられた。
なぜディエゴはこれほどまで世界中で愛されたのか? プレーが図抜けていたのは言うまでもない。メキシコW杯イングランド戦の「5人抜き」や「神の手」によるゴールは多くのメディアが紹介した。それだけ世界を騒がせたゴールでもあったからだ。
しかしながら個人的には、「神の手」ゴールは反則だが、注目して欲しいのはマラドーナのジャンプ力の凄さである。GKシルトンは遅れ気に飛び出しているとはいえ、それでも彼がパンチングしようと伸ばした手とマラドーナの頭はかなり近い。腰の位置もマラドーナの方がかなり高い。
もしかしたらマラドーナは、ハンドをしなくてもヘディングでゴールを決められたのではないか――という論争は残念ながら起こらなかった。
そして「5人抜き」である。それよりもベルギー戦のゴール。バイタルエリアからドリブルで突進したかと思えば、瞬時に加速して次々にDFを抜き去り、シュートを決めた後も倒れずに走り抜けた強靱な体幹とバランス感覚の方が、個人的にはマラドーナの“偉才”が詰まっていると思ったものだ。
5人抜きも確かに歴史に残るプレーだが、あのプレーは基本的に1対1の繰り返しである。そしてイングランドの選手は“ジョンブル魂”なのか、炎天下のゲームで心身ともに疲弊していたのか、極めてフェアに対処した。
どのプレーが凄いとか、押しつける気持ち毛頭ない。100人のファンがいれば、100人それぞれにマラドーナの“ベストプレー”があるだろう。
そして私を含め、世界中の多くのファンが彼に共感するのは、そのデビューから4度のW杯やセリエA優勝という全盛時、薬物使用によるW杯からの追放とリハビリ、監督として復活したW杯など、同時代をともに過ごした時間は膨大だからだ。
マラドーナのミドルネームは? 「アルマンド!」。 母親と長女の名前は? 「ダルマ!」。 最初の奥さんの名前は? 「クラウディア!」と、プライベートのことを聞かれても日本のファンは知っているはずだ。それくらい身近で、日本人にとっても等身大のアイドルがマラドーナだった。
【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
PR
マラドーナの訃報である。ネットには彼の情報があふれていた。FBにも、彼と年齢が近いと思われる友人知人(かなり幅広く)が懐かしい思い出を語っていた。「どうしてだろう?」――それを確認するため、アルゼンチン在住の記者の藤坂ガルシア千鶴さんの情報にアクセスした。
彼女は大のアルゼンチンファンで、大学生時代にダイジェストのアルバイトをしたことをきっかけに、憧れの選手(ただしマラドーナではない)を追いかけてアルゼンチンに行ってしまったほどの情熱の持ち主だ(ここらあたり、男にはとてもマネができないと脱帽した)。
現地で親しくなったウルグアイ人のカメラマンと結婚し、そのままブエノスアイレスに移住してもう30年以上が過ぎた。彼女と最後に会ったのは、確か99年にパラグアイで開催されたコパ・アメリカだから20年が経つ。それでもFBでつながっているのだから便利な世の中になったものだ。
その彼女がツイッターで、10月30日のマラドーナの誕生日にヒムナシアの監督として放映された動画について、次のようにつぶやいていた。
「その動画を共有することはできなかった。心身ともに衰弱しきったマラドーナの姿をより多くの人に見てもらいたいとは思わなかった。現役時代のマラドーナのプレーに心をときめかせたファンの皆さんに、見てはいけないものを見てしまった気持ちを味わわせたくなかったのだ(一部抜粋)」
まだマラドーナが存命中の記事である。そして最後にこう結んだ。
「コカイン摂取の副作用から生死を彷徨い、奇跡的回復を遂げたのが2000年1月。肺炎と心疾患から緊急入院し、一時は死亡説まで流れたのが2004年4月。その後何度も様々な要因から入院を繰り返してきたマラドーナだけに、これからは無条件に自分を愛し、必要な時には容赦せず「ノー」と言える人のいる環境で過ごして欲しいと切に願う」
そんな彼女の願いも虚しく、マラドーナは旅立った。
マラドーナのプレーを初めて見たのは大学生のとき、79年のワールドユース(現U-20W杯)だった。前年のアルゼンチンW杯はメノッティ監督から「若すぎる」という理由でメンバーから外されたが、ペレと同じく17歳でW杯にデビューしていたら、78年、86年と2度のW杯に優勝したことになり、90年はリーチをかけていた。ペレに並ぶ偉大な記録に挑戦できただけにちょっと残念だった。
その後もゼロックス・スーパーサッカーで3度来日(82年ボカ・ジュニアーズ、87年南米選抜、88年ナポリ)し、4試合を取材できただけでなく、試合後にはサインをもらえたのも 懐かしい思い出だ(当時のサッカー界はノーガードだった)。
彼の訃報を26日付けの毎日新聞は夕刊の1面で報じ、翌日のスポーツ紙は1面でこそなかったものの多くの紙面を割いて報じた。テレビでも、ブエノスアイレスでの葬儀の模様を伝え、世界的な規模で彼の死を悼んでいる様子がネットで伝えられた。
なぜディエゴはこれほどまで世界中で愛されたのか? プレーが図抜けていたのは言うまでもない。メキシコW杯イングランド戦の「5人抜き」や「神の手」によるゴールは多くのメディアが紹介した。それだけ世界を騒がせたゴールでもあったからだ。
しかしながら個人的には、「神の手」ゴールは反則だが、注目して欲しいのはマラドーナのジャンプ力の凄さである。GKシルトンは遅れ気に飛び出しているとはいえ、それでも彼がパンチングしようと伸ばした手とマラドーナの頭はかなり近い。腰の位置もマラドーナの方がかなり高い。
もしかしたらマラドーナは、ハンドをしなくてもヘディングでゴールを決められたのではないか――という論争は残念ながら起こらなかった。
そして「5人抜き」である。それよりもベルギー戦のゴール。バイタルエリアからドリブルで突進したかと思えば、瞬時に加速して次々にDFを抜き去り、シュートを決めた後も倒れずに走り抜けた強靱な体幹とバランス感覚の方が、個人的にはマラドーナの“偉才”が詰まっていると思ったものだ。
5人抜きも確かに歴史に残るプレーだが、あのプレーは基本的に1対1の繰り返しである。そしてイングランドの選手は“ジョンブル魂”なのか、炎天下のゲームで心身ともに疲弊していたのか、極めてフェアに対処した。
どのプレーが凄いとか、押しつける気持ち毛頭ない。100人のファンがいれば、100人それぞれにマラドーナの“ベストプレー”があるだろう。
そして私を含め、世界中の多くのファンが彼に共感するのは、そのデビューから4度のW杯やセリエA優勝という全盛時、薬物使用によるW杯からの追放とリハビリ、監督として復活したW杯など、同時代をともに過ごした時間は膨大だからだ。
マラドーナのミドルネームは? 「アルマンド!」。 母親と長女の名前は? 「ダルマ!」。 最初の奥さんの名前は? 「クラウディア!」と、プライベートのことを聞かれても日本のファンは知っているはずだ。それくらい身近で、日本人にとっても等身大のアイドルがマラドーナだった。
【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
PR
ディエゴ・マラドーナの関連記事
U-24アルゼンチン代表の関連記事
|