メキシコ戦も代わり映えのしない選手交代/六川亨の日本サッカー見聞録

2020.11.19 19:30 Thu
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J1リーグは川崎Fが優勝に王手をかけ、ACLに出場する3チームはドーハへと旅立った。試合はCS放送でしか見られないが、それも仕方ないだろう。FIFA(国際サッカー連盟)はクラブW杯を来年2月1日から11日にかけて開催するらしい。スポンサーやテレビ放映権の契約などから開催しないわけにはいかないのだろう。一方AFC(アジアサッカー連盟)は、来年2月のACLプレーオフを実施しないと発表したばかり。お互い契約にがんじがらめになっているのかもしれないが、この足並みの悪さはなんとかしてほしいものだ。

そして日本代表である。メキシコに0-2と敗れたことで、森保監督に対する風当たりもだいぶ強くなっている。もしも原口のミドルシュートと、鈴木がGKと1対1のチャンスを確実に決めていれば2-2のドローだったかもしれない。あるいは、左足のキックにはいつも不安がつきまとうものの、シュートブロックに定評のある権田のような活躍をシュミット・ダニエルがしていたら、2-0で勝っていたかもしれない。

そんなお気楽なことを書いているとお叱りを受けるかもしれないが、それだけ期待が高かっただけに、その反動として森保監督に批判が集中したのだろう。

前半のメキシコにはつけいる隙が十分にあった。情報不足(日本はパナマ戦からスタメンを9人交代)からか、様子見のところもあった。しかし前半で見切ると、マルティノ監督はハーフタイムに2人の選手交代とシステム変更で日本の攻撃に蓋をする。そして攻撃の選手2人を同時交代でゴールを狙いに行き(実際には交代直前にヒメネスが先制)、終盤は試合を締めにかかった。

特に難しいことをしたわけではない。セオリー通りの采配と言えるだろう。

そして森保監督である。柴崎(橋本)と鈴木(南野)の交代が予定通りだったのかどうかは不明だが、その後に切った交代カードも効果的かと問われれば首をひねらざるをえない。例えが悪いのは十分承知しているつもりだが、どこを切っても同じ顔の「金太郎飴」よろしく、あまり代わり映えしないのだ。

パナマ戦後のことである。森保監督は不慮のケガやアクシデントで選手を招集できなかったとしても、「誰とでも組める――を連係連動しながらトライして欲しい。理想を求めながら、理想通りにいかなくてもその中でいかに勝っていくか」をテーマに掲げた。

こうしたチーム作りは、特に攻撃陣は似たようなタイプの選手が揃う危険をはらんでいる。

例えば理想論として、攻撃的な布陣を組んだ時は1トップに大迫、2列目は左に中島、トップ下に南野(鎌田)を配置したとする。右は堂安なのか久保なのか、はたまた三好らテクニシャンタイプか、伊東、浅野、あるいは永井のようなスピード系を起用したとする。要はそのとき好調な選手だ。選手が変わればプレースタイルも変わるが、それでも攻撃のバリエーションに大きな変化は生じない。

森保監督の采配はワンパターンと言われるが、そうした選手を揃えているのだから変化が起きようがない。これがクラブチームだったら、主力選手のコンビネーションを熟成させる時間もたっぷりあったことだろう。しかし代表チームにそうした余裕はない。

メキシコ戦で森保監督は6枚の交代カードのうち5枚しか切らなかった。正確には「切れなかった」と言うべきだろう。5枚目の三好にしても、何を彼に期待したのか意図を感じ取れなかった。

この試合を「ロストフの悲劇」に例えるメディアもあったが、それは大げさというもの。単なるテストマッチだし、相手の格も違う。それでも教訓としたいのは、劣勢のベルギーがフェライニという長身FWを投入したことだ。古くは06年ドイツW杯初戦のオーストラリアも、日本にリードを許すとケーヒルという飛び道具を使って逆転に成功した。

洋の東西を問わず、いつの時代も劣勢で残り時間が少なくなったら空中戦に活路を見いだすのがセオリーだ。しかし森保ジャパンは地上戦しかできない弱点がある。長身FWがいたとしても「ドメスティックな選手」と諦めているのかテストすらしていない。ここらあたり、日本人の特性を理解している日本人監督ゆえの弊害かもしれない。

となると、やはり“劇薬"を使えるのは外国人監督ということになるのだろうか。あるいは過去にもあったように、外国人選手に日本国籍を取得してもらうしか方法はないのだろうか。

もう1つ、「ロストフの悲劇」を忘れないのはいいが、その前にアジア最終予選を勝ち抜かなくてはカタールに行けない。19年のアジア杯はトルクメニスタン、オマーン、ウズベク、サウジ、ベトナムといずれも1点差の薄氷を踏む勝利で、サウジ戦などはワンサイドで押し込まれた。そして決勝でもカタールに1-3の完敗だ。まずは足下を見つめ直す意味でも、来年のテストマッチは中東勢との対戦を増やして欲しい。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた
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【マラドーナの思い出②】全盛期に来日したマラドーナ

ディエゴ・マラドーナは、「死んでもマラドーナだった」と言うべきだろうか。 現役時代はスーパープレーでファンを魅了しただけでなく、数々のスキャンダルも巻き起こした。そして埋葬される際にはファンを自称する葬儀屋のアルバイトが、親指を立てたツーショット写真を撮影してSNSにアップするという、とんでもない問題を引き起こした。 <div id="cws_ad"><div class="dugout-video dugout-embed-eyJrZXkiOiJRQkZwNEVQayIsInAiOiJ1bHRyYXNvY2NlciIsInBsIjoiIn0="></div><script type="text/javascript" src="https://embed.dugout.com/v3.1/ultrasoccer.js"></script></div> さらには主治医が職務怠慢で死亡させたのではないかとの疑いから、捜査の対象になっているという。 CLを始めヨーロッパや南米のリーグでは試合前に黙祷を捧げてマラドーナの死を悼む一方、次から次にスキャンダラスな出来事が報じられる。これではマラドーナも落ち着いて永遠の眠りにつくことはできないだろう。と同時に、やはりマラドーナらしいと思わずにはいられなかった。 そんなマラドーナの全盛時代をアルゼンチン国民や南米のファンは見守り続けてきただろうが、彼らに次いでマラドーナの凄さを目の当たりにしたのが日本のファンと言っていいだろう。 1979年、日本で初めてワールドユース(現U-20W杯)が開催された。尾崎、水沼、風間、柱谷(兄)らを擁した日本は旧国立競技場でグループリーグ3試合を戦ったが、マラドーナ率いるアルゼンチンもグループリーグを大宮サッカー場(現NACK5スタジアム)で戦ったため、首都圏のファンは全試合を見ることが可能だった(ロメロ率いるパラグアイは神戸中央球技場=現ノエビアスタジアム、ルベン・パスのウルグアイは三ツ沢球技場=現ニッパツ三ツ沢)。 18歳当時のマラドーナを毎日新聞運動部の記者は「まるでゴムまりのようだ」と表現した。「しなやかでいて軽やか」に、そして弾むようにマーカーを次々と抜き去っていくプレーはまさに「ゴムまり」だった。 後年、マラドーナの自伝ビデオで10歳前後のプレーを見たが、自陣ペナルティーエリアからドリブルを始め、1人で10人を抜き、最後はGKも抜いてゴールを決めた。ボールを持ったら相手を抜くことを苦にしない少年時代だったようだ。 初めての国際大会で初優勝を飾ったマラドーナはうれしそうにトロフィーを掲げた。得点王はチームメイトのラモン・ディアス。Jリーグ元年に横浜Mでプレーし、初代得点王に輝いたFWだ。そして160センチと小柄な右ウイングのオズバルド・エスクデロは、91-92年に三菱(現浦和)でプレーし、甥のエスクデロ競飛王(せるひお)は浦和で活躍するなど日本国籍を取得し、現在は栃木SCでプレーしている。 話をマラドーナに戻すと、ゼロックス・スーパー・サッカーで3度の来日を果たしている。いまでこそFUJI XEROX SUPER CUPはJ1リーグ王者と天皇杯覇者が激突する大会として1994年にスタートして定着したが、前身となるゼロックス・スーパー・サッカーは1979年に始まり、日本代表と世界の有名クラブとの対戦が目玉だった。 第1回大会(79年)はフランツ・ベッケンバウアーやヨハン・ニースケンスらを擁したニューヨーク・コスモスで、翌80年はワシントン・ディプロマッツと北米リーグのチームが2年連続して来日したが、ディプロマッツではヨハン・クライフが初来日して日本ファンの前でプレーした。そして82年1月がボカ・ジュニアーズだった。 スペインW杯が開催される5ヶ月前であり初来日から3年後、まさに全盛期での来日だった。6月にはバルセロナへと移籍したため、この試合を見られた日本ファンはまさに僥倖と言えただろう。試合は国立競技場で2試合(1-1、1-0)、神戸中央で1試合(3-2)の計3試合を戦い、マラドーナは3ゴールを決めた。 神戸では、右からのグラウンダーのクロスに対し、ニアサイドに走り込みながらラボーナでゴールを決めた。 マークしていた都並さんによると、敵がドリブルしてきたら、いつもなら間合いを詰めつつ等間隔、同じスピードで下がりながら、味方がカバーに入る時間を稼ぐようにしていた。いわゆる「ディレイ」というプレーだ。しかしマラドーナのドリブルは通常の選手と違ってかなりのハイスピードだったため、ディレイそのものが間に合わなかったそうだ。 さらに都並さんは1対1で守る際はドリブラーの保持するボールではなく、相手の目を見て次のプレー、ドリブルのコースを予測していた。しかし「マラドーナは目線でもフェイントをかけてきた」ため逆を取られたと述懐していた。 その後マラドーナはメキシコW杯後の87年1月には南米選抜のキャプテンとして来日し(監督はビラルド)、JSL(日本リーグ)選抜と対戦。JSL選抜は西ドイツから帰国した奥寺や、まだブラジル国籍だったラモス瑠偉らがいたため日本代表よりも豪華な顔ぶれだった。 そして4度目の来日となったのが88年8月のゼロックス・スーパー・サッカーだった。ナポリでセリエA初優勝(86-87年)と得点王(87―88年)を獲得するなど、まさに絶頂期での来日だった。 チームメイトにはチロ・フェラーラ、デ・ナポリ、アレモン、カレッカなど代表クラスが揃う豪華メンバーで、日本代表とのたった1試合だけの“真夏の夜の夢"でもあった(2-0でナポリの勝利)。 マラドーナといえば、履いているサッカーシューズはワールドユース時代からプーマ一筋。そしてヒモの結び方も独特だった。足の甲で交差するヒモがシューズより表に出ないよう工夫されていた。これも微妙なボールタッチを優先するためだったのだろうか。機会があったらシューズにも注目して欲しい。 <div id="cws_ad">【文・六川亨】<br/>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.12.01 19:55 Tue
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【マラドーナの思い出①】等身大のアイドル、突然の訃報

神戸のACLラウンド16進出か、川崎FのJ1リーグ最速優勝か、コラム題材をあれこれ考えたが、昨日のニュースですべてが吹っ飛んでしまった。 マラドーナの訃報である。 ネットには彼の情報があふれていた。FBにも、彼と年齢が近いと思われる友人知人(かなり幅広く)が懐かしい思い出を語っていた。 マラドーナの急死は、正直突然だった。 「どうしてだろう?」――それを確認するため、アルゼンチン在住の記者の藤坂ガルシア千鶴さんの情報にアクセスした。 彼女は大のアルゼンチンファンで、大学生時代にダイジェストのアルバイトをしたことをきっかけに、憧れの選手(ただしマラドーナではない)を追いかけてアルゼンチンに行ってしまったほどの情熱の持ち主だ(ここらあたり、男にはとてもマネができないと脱帽した)。 現地で親しくなったウルグアイ人のカメラマンと結婚し、そのままブエノスアイレスに移住してもう30年以上が過ぎた。彼女と最後に会ったのは、確か99年にパラグアイで開催されたコパ・アメリカだから20年が経つ。それでもFBでつながっているのだから便利な世の中になったものだ。 その彼女がツイッターで、10月30日のマラドーナの誕生日にヒムナシアの監督として放映された動画について、次のようにつぶやいていた。 「その動画を共有することはできなかった。心身ともに衰弱しきったマラドーナの姿をより多くの人に見てもらいたいとは思わなかった。現役時代のマラドーナのプレーに心をときめかせたファンの皆さんに、見てはいけないものを見てしまった気持ちを味わわせたくなかったのだ(一部抜粋)」 まだマラドーナが存命中の記事である。そして最後にこう結んだ。 「コカイン摂取の副作用から生死を彷徨い、奇跡的回復を遂げたのが2000年1月。肺炎と心疾患から緊急入院し、一時は死亡説まで流れたのが2004年4月。その後何度も様々な要因から入院を繰り返してきたマラドーナだけに、これからは無条件に自分を愛し、必要な時には容赦せず「ノー」と言える人のいる環境で過ごして欲しいと切に願う」 そんな彼女の願いも虚しく、マラドーナは旅立った。 マラドーナのプレーを初めて見たのは大学生のとき、79年のワールドユース(現U-20W杯)だった。前年のアルゼンチンW杯はメノッティ監督から「若すぎる」という理由でメンバーから外されたが、ペレと同じく17歳でW杯にデビューしていたら、78年、86年と2度のW杯に優勝したことになり、90年はリーチをかけていた。ペレに並ぶ偉大な記録に挑戦できただけにちょっと残念だった。 その後もゼロックス・スーパーサッカーで3度来日(82年ボカ・ジュニアーズ、87年南米選抜、88年ナポリ)し、4試合を取材できただけでなく、試合後にはサインをもらえたのも 懐かしい思い出だ(当時のサッカー界はノーガードだった)。 彼の訃報を26日付けの毎日新聞は夕刊の1面で報じ、翌日のスポーツ紙は1面でこそなかったものの多くの紙面を割いて報じた。テレビでも、ブエノスアイレスでの葬儀の模様を伝え、世界的な規模で彼の死を悼んでいる様子がネットで伝えられた。 なぜディエゴはこれほどまで世界中で愛されたのか? プレーが図抜けていたのは言うまでもない。メキシコW杯イングランド戦の「5人抜き」や「神の手」によるゴールは多くのメディアが紹介した。それだけ世界を騒がせたゴールでもあったからだ。 しかしながら個人的には、「神の手」ゴールは反則だが、注目して欲しいのはマラドーナのジャンプ力の凄さである。GKシルトンは遅れ気に飛び出しているとはいえ、それでも彼がパンチングしようと伸ばした手とマラドーナの頭はかなり近い。腰の位置もマラドーナの方がかなり高い。 もしかしたらマラドーナは、ハンドをしなくてもヘディングでゴールを決められたのではないか――という論争は残念ながら起こらなかった。 そして「5人抜き」である。それよりもベルギー戦のゴール。バイタルエリアからドリブルで突進したかと思えば、瞬時に加速して次々にDFを抜き去り、シュートを決めた後も倒れずに走り抜けた強靱な体幹とバランス感覚の方が、個人的にはマラドーナの“偉才”が詰まっていると思ったものだ。 5人抜きも確かに歴史に残るプレーだが、あのプレーは基本的に1対1の繰り返しである。そしてイングランドの選手は“ジョンブル魂”なのか、炎天下のゲームで心身ともに疲弊していたのか、極めてフェアに対処した。 どのプレーが凄いとか、押しつける気持ち毛頭ない。100人のファンがいれば、100人それぞれにマラドーナの“ベストプレー”があるだろう。 そして私を含め、世界中の多くのファンが彼に共感するのは、そのデビューから4度のW杯やセリエA優勝という全盛時、薬物使用によるW杯からの追放とリハビリ、監督として復活したW杯など、同時代をともに過ごした時間は膨大だからだ。 マラドーナのミドルネームは? 「アルマンド!」。 母親と長女の名前は? 「ダルマ!」。 最初の奥さんの名前は? 「クラウディア!」と、プライベートのことを聞かれても日本のファンは知っているはずだ。それくらい身近で、日本人にとっても等身大のアイドルがマラドーナだった。 <div id="cws_ad">【文・六川亨】<br/>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.11.29 18:30 Sun
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様々な問題はらむ1月4日のルヴァン杯決勝/六川亨の日本サッカー見聞録

今週もまたいろいろな出来事があったが、まずはルヴァン杯決勝が1月4日に開催されることが決まった。12日の会見を簡単におさらいすると、柏にこれ以上クラスターが拡大しないと仮定して、自主隔離後に練習を再開できるのは11月18日になる。21日には鳥栖戦が控えていてベストメンバーで臨めない可能性もあるが、この点について村井チェアマンは「14名で戦うことを納得している」と柏も了解済みであることを説明した。 このため柏はルヴァン杯決勝の開催時期に関して特に問題はない。 難しいのがACLに出場するFC東京だった。もしも12月19日の決勝までドーハに滞在すると、「20日に帰国予定」(FC東京の大金社長)とはいえ2週間の隔離となると、練習再開は1月3日になる。その間、例えば決められた選手だけによる合同練習と自宅隔離の措置を関係各所に働きかけるそうだが、認められるかどうか見通しは立っていない。 長谷川監督も「今年中にやってもらえればよかったが、1月4日に決まったので、粛々とやるしかない」と腹をくくっているようだ。 いずれにせよ以上の理由から最短で開催できるのは1月4日と決まった。そして早めに決定してアナウンスしたのは、すでに完売している2万4千人の観客が「宙ぶらりんになり、12月下旬まで引っ張れない」という村井チェアマンの判断からだった。大金社長自身、FC東京のファン・サポーターから「1月4日はスケジュールの都合で観戦に行けない」と言われたという。 それもそうだろう。サッカーファンにとって新年の1週間は高校選手権の季節でもあるが、1月4日は月曜で、俗にいう「仕事始め」の日だ。普通のサラリーマンなら出社するのが当たり前でもある(リモートによる仕事始めもあるかもしれないが)。このためチケットの払い戻し手続きなどを考慮して早めの決定となった。 と、ここまでは日程の話。次に問題になるのが戦力、外国人選手の出場の可否についてだ。現時点でFC東京のレアンドロは1月1日までの契約となっている。いわずと知れた天皇杯決勝までの契約である。そして他の外国人選手も同様の契約となっているケースが多いし、それはJSL(日本サッカーリーグ)時代も同じだった。 日本に居住しているとなると、日本に税金を払わないといけない。そしてブラジルでも税金を二重に取られる可能性がある。そこで日本に居住していないことにするには、連続した滞在期間を11か月以下にする必要がある。このためほとんどの外国人選手はシーズンが終了(天皇杯で勝ち上がった場合を除き)すると同時に母国へ帰る。 帰ったはいいが、それっきり音信不通で、リオのカーニバルで遊んでいたりして、いつ来日するか不明のブラジル人選手が過去にはいたこともある。あるいはかなりの体重オーバーで帰国する選手も多かった。 両チームの攻撃陣には得点源となるアタッカーが多いだけに、彼らが抜けると大幅な戦力ダウンとなる。大金社長は「選手と話すのはこれからですが、ベストを尽くしてハードルを越えたい」という思いは柏の瀧川社長も同じ気持ちだろう。 もしもルヴァン杯の決勝に外国人選手が出場すれば、当然帰国が遅れたぶん来日も遅れる。シーズオフ後は2週間のオフィシャルレストデーが義務付けられているが、大金社長は「1月4日に戦う選手にはプラス4~5週(の準備期間が)ないと厳しい」と本音を漏らす。 とはいえ来年のJ1リーグは2チーム増で、さらに五輪のため過密日程になるのは明白だ。加えて味の素スタジアムは五輪会場のため、FC東京にはアウェーの連戦が追い打ちをかける。ルヴァン杯と天皇杯の決勝に進出したチームは、来シーズンの序盤は厳しい戦いを強いられることになるかもしれない。 そして13日には日本がパナマと対戦し、南野のPKによる1点を守って1-0の勝利を収めた。こちらの試合に関しては、前半はシステム以前の問題として“頭”が働いていなかった。このため動き出しが遅く、パスコースを作れないため、パナマのプレスにボールを失っては攻め込まれる展開が続いた。もう少し気の利いた相手なら2点は食らっていただろう。 そんな試合で睡魔を吹き飛ばしてくれたのが遠藤と鎌田の2人だった。まだ1試合だけ、それも格下のパナマ相手とあって2人を高く評価するのは早計だが、森保ジャパンの中心選手としてターニングポイントになる11月のオーストリア遠征――かもしれないとだけ言っておこう。 <div id="cws_ad"><hr>【文・六川亨】</br>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.11.15 13:00 Sun
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ベテランの活躍も目立つ今シーズン/六川亨の日本サッカーの歩み

11月8日のJ1リーグでは、いわゆる“ベテラン"と呼ばれる選手の活躍が目立った。ニッパツ三ツ沢での横浜FC対神戸戦(2-1)では、後半42分にカズ(三浦知良)が交代出場して自身が持つJ1最年長出場記録を53歳8か月13日に更新した。 そしてピッチでは、スタメン出場のイニエスタ(36歳)との競演が実現。プレー時間こそ短かったが、試合後は肩を組んで会話するシーンを観られた三ツ沢のファンは幸せだったに違いない。 一方、仙台で行われた仙台対鳥栖戦(0-3)では、後半34分に“鳥栖の"梁勇基がユアスタでのデビュー戦を飾った。仙台一筋に16シーズンを過ごした梁勇基も、もう38歳。いつユニホームを脱いでもおかしくなかったが、鳥栖に新天地を求め、初めて帰還した古巣でのプレー後は選手・サポーターから暖かく迎えられた。 仙台ではレジェンドだった梁勇基だが、北朝鮮代表ではついにW杯出場の夢はかなわなかった。東アジア選手権などでは新潟、名古屋、大宮などで活躍した安英学(42歳)とともにチームの主力として活躍。試合後のミックスゾーンでも2人は直立不動の姿勢で記者からの質問に、ていねいに答えていたのが印象的だった。 その安英学は鄭大世(36歳。清水)とともに10年南アW杯に出場した。そして同じ南アでの大会でW杯デビューを飾ったのがGK川島だった。 日本代表は現在テストマッチのため、海外組がオーストリアのグラーツに集結している。9日はすでにグラーツ入りした川島と浅野がリモートでの会見に臨んだ。そこで川島は、記者から「グラーツは南アW杯の前にレギュラーとなった場所」と教えられても、「それは全然覚えていなかったです。あの時はどこの街でやるかとか、どのスタジアムでやるかとかを考える余裕はなくて、まったく記憶になかった」と驚いていた。 ここで当時の状況を簡単に説明しておこう。川島が初めて日本代表に招集されたのは川崎F時代の06年3月のキリンチャレンジ杯だった。監督はイビチャ・オシム氏で、彼の指導を受けたのも現チームでは川島1人だけとなった。 しかしGKには川口と楢崎という巨大な壁があり、川島にはなかなか出番が回ってこなかった。07年にベトナムなど東南アジア4カ国で開催されたアジア杯でも出番はなし。初めてキャリを積んだのは08年2月の東アジア選手権(現EAFF E-1選手権)だった。 オシム監督から岡田監督になってもGK3人の顔ぶれに変わりはなく、南アW杯最終メンバーは川口(116試合出場)、楢崎(同75試合)、川島(同8試合)の3人が選出された。ただ、川口は相次ぐ負傷によりブランクがあり、岡田監督はチームのまとめ役としてキャプテンを託すなど、第3GKとしての選出であり、川口自身もそれを受け入れての4度目のW杯参加だった。 このため第1GKは楢崎と思われた。ところが高地トレーニングとしてスイスのサースフェー入りした4日後の5月30日、オーストリア・グラーツへ移動してのイングランド戦では川島がスタメンに抜擢された。 日本は開始6分に田中マルクス闘莉王のゴールで先制すると、後半8分にはランパードのPKをGK川島がストップ。その後も川島はルーニーの決定的なシュートをCKに逃げるなど堂々としたプレーを見せたが、イングランドのサイドからのライナー性のクロスに田中マルクス闘莉王と中澤が相次いでOGを献上して逆転負けを喫した。 しかし川島は続くコートジボワールとのテストマッチ(0-2)と、W杯では全4試合にスタメンで出場し、日本のベスト16進出に貢献した。その後もW杯は14年ブラジル、18年ロシアと3大会連続出場し、11試合出場は長友、長谷部と並んで最多出場記録である。 24歳の時に代表へ初招集された川島も、いまでは37歳と立派なベテランだ。 グラーツには、当時も今もオシム氏が住んでいる。森保監督も機会があれば会って話を聞きたいと楽しみにしているし、川島も「(フランスから)ここに来る時に考えていたのは、イングランド戦ではなくオシムさんのことでした。試合に出させてもらうことはなかったですが、色んな意味で大きなことを考えさせられ、刺激をくれた人でした」と再会を熱望している。 かつてオシム氏は「ベテラン」という言葉を嫌った。「私のチームにベテランはいません。ベテランとは戦争から帰ってきた者に使う言葉であり(本来は退役軍人や老兵のことを指す。熟練者を意味するベテランは和製英語で、日本でしか通用しない)、サッカーは戦争ではありません。まだプレーできる選手の集まりです」とのことだ。 川島を始め、梁勇基もイニエスタも、そしてカズも「まだプレーできる選手」に変わりはないということである。 <div id="cws_ad"><hr>【文・六川亨】</br>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.11.10 18:25 Tue
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柏にクラスター発生で日程の大幅調整が必要か?/六川亨の日本サッカー見聞録

「一難去ってまた一難」ではないが、Jリーグが予期せぬ危機に直面している。ルヴァン杯決勝を4日後に控えた11月3日、柏にクラスターが発生した。すでに報道されたように、選手4名、コーチングスタッフ11名の計15名がPCR検査の結果、陽性だったことが判明した。 ネルシーニョ監督と濃厚接触したあるスタッフは39度以上の発熱で入院したそうだ。さらに柏保健所のヒアリングの結果、中止となった仙台戦から柏へ戻る際にバスに同乗していた選手、スタッフに加え、スタジアムに隣接するスタッフルームを使用していたスタッフやクラブハウス、グラウンドでの接触などから選手21名、トップチームのスタッフ8名の計29名が濃厚接触者と判定されたという。 これ以上、感染が広がらないことと、感染した選手・スタッフが重症化しないことを願うばかりである。そして気になるのは、延期・中止となったルヴァン杯の決勝だけではない。濃厚接触者の拡大でリーグ戦も消化できるのかどうか先行きは不透明だ。 8月にクラスターの発生した鳥栖は、15日間の活動停止後も、すぐに公式戦を戦うのはコンディション的に難しいとの判断から9日間の練習期間を与えられた。これを柏に当てはめ24日後とすると、11月28~29日の第30節となる(ただし柏は試合なし)。 その後は土曜、土曜、水曜、土曜の日程で4試合が控えているが、問題は活動停止期間中の仙台、大分、鳥栖、鹿島の4試合をどこに組み込むかだ。12月19日(土曜)の最終戦は決まっている。その前の土曜(12日と5日)も試合があり、16日(水曜)も埋まっている。このため空き日は12月2日と9日の水曜となるが、それでも2試合が浮いてしまう計算になる。 1つの考え方として、コロナ禍の今シーズンはJ2リーグへの降格がないことと、リーグ戦は75%を消化できれば成立するというレギュレーションだ。すでにJ1リーグは10月31日で75%をクリアしている。このため柏と対戦相手2チームは今シーズンを33試合で終了するというプランだ。 仙台(18位)、鳥栖(15位)、大分(12位)の3チームは、例年ならまだ降格ゾーンにいるものの、今シーズンは降格がないため救済される。問題になるのは、柏(9位)と鹿島(5位)にはリーグ優勝の可能性こそないものの、天皇杯とACLの出場権を獲得できる2位以内の可能性があることだ。 この不公平を解消するためには、再開日を1節前倒しして25日の鹿島戦(第29節)からスタートし、予備日の28~29日にも試合を組み込むことだ。これならどのチームも残り試合を消化できる。ただし柏は中2~3日での8連戦というハードな日程を受け入れざるをえない。 とりあえず、リーグ戦の日程はこれで確保できたとしよう。問題はルヴァン杯決勝である。 もしもFC東京がACLのラウンド16(12月6日)か準々決勝(10日)で敗退したら、帰国後2週間ほどの自主隔離期間があったとしても、FC東京と柏が天皇杯に出場しなければという条件付きで12月26日(土曜)か30日(水曜)に開催は可能だ(新国立で開催するかどうかは別にして)。 厳しいのはACLで決勝まで勝ち進んだ場合である。帰国後に2週間の隔離期間を取るとすると、試合ができるのは早くても1月4日以降となる。ルヴァン杯(前ナビスコ杯)は単一スポンサーでのギネス最長記録を更新している大会だ。今シーズンも大会開催にあたり大会方式などのレギュレーション変更を快諾してくれた。このため村井チェアマンも、新シーズンの日程変更も視野に入れていると話すほどルヴァン杯決勝の開催には前向きである。 過去に例のないルヴァン杯決勝中止と延期。しかし、一度前例を作っておけば、次からは柔軟に対応できるメリットもある。個人的には、決勝戦だけは過去の例からも両チームのコレオグラファーなどで盛り上がるルヴァン杯決勝を、元旦の風物詩にしてもいいと思っている。そして天皇杯はアマチュアの最高峰の大会として、年末年始を避けて決勝を行えばJリーグ勢の負担も緩和されるだろう。もちろんACLの出場権はルヴァン杯の勝者に与えられることは言うまでもない。 <div id="cws_ad"><hr>【文・六川亨】</br>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.11.06 21:50 Fri
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