人々の熱意で再生した「サガン鳥栖」/六川亨の日本サッカーの歩み
2020.05.11 21:30 Mon
5月11日、第7回となる「新型コロナウイルス対策連絡会議」が開催され、午前11位時過ぎよりZOOMを使用したメディアカンファレンスが行われた。さらに同日午後にはJリーグの「第5回合同実行委員会」が行われ、17時30分過ぎより同じくメディアカンファレンスが行われた。
今後はいつ政府が「緊急事態宣言」を解除するかもリーグ戦の再開・開幕に向けて1つの判断材料になる。早ければ今週の14日、あるいはその1週間後の21日に、「特定警戒都道府県(13都道府県)」以外の34県について、一括しての解除を検討しているようだ。
ただ、8日に無観客でKリーグを再開した韓国は、昨日新たに79人が集団感染し、感染拡大が懸念されている。これらの件に関しては、14日に「緊急事態宣言」を解除するのかどうかを見極めてから論じたいと思う。
詳細な日時は忘れたが、当時Jリーグ事務局が虎ノ門のビルにあった頃のことだ。1階のロビーにサポーター数人がいて、テレビ局の取材を受けていた。彼らは鳥栖フューチャーズのサポーターで、チームの存続をJリーグに訴えるため、集めた署名を持参したのだった。
リーダー格の男性サポーターに話を聞くと、チームを取り巻く環境は依然として厳しいと言う。彼は東京の大学を出て総合エレクトロニクスメーカーに勤務していたが、家業を継ぐため佐賀県にUターンして、鳥栖を応援してきた。
厳しい状況にもかかわらず、鳥栖の問題はサポーター間では話題になっていても、首都圏のメディアはほとんど取り上げていなかった。そこで、サッカー・ダイジェストでは、毎回持ち回りで一般紙、スポーツ新聞・通信社の記者の方々にコラムを書いてもらうコーナーがあったので、鳥栖の問題を取り上げてくれるようお願いした。
「共感してもらえれば自身のメディアでも取り上げてくれるかもしれない」という下心があったのはもちろんである。いくら週刊誌とはいえ、サッカー専門誌と一般紙やスポーツ新聞とではメディアとしての影響力に雲泥の差があるのも事実だ。おかげで関西では大御所の賀川さんも鳥栖の問題を取り上げてくれた。
その後、Jリーグは鳥栖の救済を決定し、先週のコラムでも書いたように再建のため熊地洋二氏を送り込んだ。ところが熊地氏は、「何にどこから手をつけたらいいのか途方に暮れている」という話を人づてに聞いた。そこでJリーグの事務局で出会ったサポーターに電話をして、すぐに熊地さんとアポイントを取って、現状の説明と今後の方針を話し合うようアドバイスした。
そうした様々な人々の熱意が実り、鳥栖は「サガン鳥栖」として再スタートを切った。そして件の鳥栖のサポーターは、「どうしてもサッカーに関わる仕事がしたい」と実家を飛び出し、サッカー専門誌の記者を務めた後、現在はフリーの記者MMとして活躍している。
【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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午前の会議では、感染症の専門ドクター3人の意見として「感染者は減ってきて、出口にむけての話になっている」ものの、「移動のリスク」がつきまとうこと、PCR検査を全選手に実施できないことなど、再開・開幕に向けてまだまだハードルが高いことを指摘した。一部の報道ではプロ野球が6月19日の開幕を目指していることに対しても、NPBの斉藤惇コミッショナーは「日時を決めて準備することは誰にもできない。選手の体の準備が試合には必要になる」と否定。村井満チェアマンも同様に再開日時に関しての議論はなかったことを明かした。ただ、8日に無観客でKリーグを再開した韓国は、昨日新たに79人が集団感染し、感染拡大が懸念されている。これらの件に関しては、14日に「緊急事態宣言」を解除するのかどうかを見極めてから論じたいと思う。
そこで今週は前回に続き鳥栖の話題をお届けしよう。負債はあるものの、鳥栖ウォッチャーでもあるフリーランスの森雅史記者は、「なによりもJ2降格がないのが大きい。J2に降格したら、ほんとうに消滅の危機にさらされる」と、新型コロナウイルスによる救済措置に感謝していた。
詳細な日時は忘れたが、当時Jリーグ事務局が虎ノ門のビルにあった頃のことだ。1階のロビーにサポーター数人がいて、テレビ局の取材を受けていた。彼らは鳥栖フューチャーズのサポーターで、チームの存続をJリーグに訴えるため、集めた署名を持参したのだった。
リーダー格の男性サポーターに話を聞くと、チームを取り巻く環境は依然として厳しいと言う。彼は東京の大学を出て総合エレクトロニクスメーカーに勤務していたが、家業を継ぐため佐賀県にUターンして、鳥栖を応援してきた。
厳しい状況にもかかわらず、鳥栖の問題はサポーター間では話題になっていても、首都圏のメディアはほとんど取り上げていなかった。そこで、サッカー・ダイジェストでは、毎回持ち回りで一般紙、スポーツ新聞・通信社の記者の方々にコラムを書いてもらうコーナーがあったので、鳥栖の問題を取り上げてくれるようお願いした。
「共感してもらえれば自身のメディアでも取り上げてくれるかもしれない」という下心があったのはもちろんである。いくら週刊誌とはいえ、サッカー専門誌と一般紙やスポーツ新聞とではメディアとしての影響力に雲泥の差があるのも事実だ。おかげで関西では大御所の賀川さんも鳥栖の問題を取り上げてくれた。
その後、Jリーグは鳥栖の救済を決定し、先週のコラムでも書いたように再建のため熊地洋二氏を送り込んだ。ところが熊地氏は、「何にどこから手をつけたらいいのか途方に暮れている」という話を人づてに聞いた。そこでJリーグの事務局で出会ったサポーターに電話をして、すぐに熊地さんとアポイントを取って、現状の説明と今後の方針を話し合うようアドバイスした。
そうした様々な人々の熱意が実り、鳥栖は「サガン鳥栖」として再スタートを切った。そして件の鳥栖のサポーターは、「どうしてもサッカーに関わる仕事がしたい」と実家を飛び出し、サッカー専門誌の記者を務めた後、現在はフリーの記者MMとして活躍している。
【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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