サガン鳥栖は歴史を繰り返すのか/六川亨の日本サッカーの歩み

2020.05.04 21:00 Mon
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再開の目処が立たないJリーグに関し、将来的なスポンサー離れなどネガティブな報道が増えてきたのは仕方のないことだろう。特にここ1週間は、先月26日に株主総会と19年度決算報告を行い、約20億1486万9000円の赤字を計上したサガン鳥栖の経営状況について悲観的な報道が目立つ。鳥栖が経営危機に陥ったのは、収入の2本柱である入場料収入が今シーズンは未定であることに加え、ここ数年で大手スポンサーであるCygamesとDHCが撤退したことが指摘されていた。2018年には推定年俸8億円でフェルナンド・トーレスを獲得。彼以外にも多くの選手と複数年契約を結んだり、期限付き移籍ではなく完全移籍で選手を獲得したりするなど、チームの人件費の高騰がクラブの経営を圧迫したと複数のメディアが報じていた。

深刻な経営難に陥っている鳥栖に果たして“未来”はあるのか。

鳥栖はその歴史の中で、一度は取締役会の決定で“解散”したクラブでもある。前身は静岡県浜松市をホームタウンにする「PJMフーチャーズ」というチームだった。元々はJSL(日本サッカーリーグ)の本田技研の監督を務めていた桑原勝義(現JFL理事長)が浜松に「クワバラ・スポーツクラブ」を設立。理念は一貫指導により「2002年のW杯に出場する日本代表選手を育成する」ことだった。

そして1987年、能力開発システムのPJMジャパンの社長である有田平が、桑原の夢を実現するためにはトップチームを持つことを提案されたことで全面バックアップを約束。子供の未来(フーチャー)を創る夢のトップチームという意味で「PJMフーチャーズ」と名付けた。

元本田技研の選手で構成されたフーチャーズは強かった。1994年のJSL入りを目標に掲げていたが、創部3年目の89年に風向きが変わる。日本はプロリーグの設立に舵を切ったのだ。当然フーチャーズもプロ入りに目標を変えたが、当時の静岡ではヤマハ、本田、県リーグの清水クラブ(現エスパルス)が立候補する最激戦区だった。

Jリーグ初年度のメンバーに選ばれたのは清水で、本田技研はプロ入りからの撤退を表明。フーチャーズはヤマハとともにJリーグ入りを目指したが、91年に有田の故郷である佐賀県からホームタウンの誘致があり、地域の活性化の必要を感じていた鳥栖市が手を上げた。

93年、Jリーグの開幕した年にフーチャーズは鳥栖への移転とJリーグ準会員加盟を申請する。翌年には満場一致で準会員加盟が承認された。そしてチーム名も「鳥栖フーチャーズ」に変更し、96年には鳥栖駅前に約2万人収容の鳥栖スタジアムも完成した。

しかし「好事魔多し」とはよく言ったもので、96年11月、PJMジャパンがチームからの撤退を表明。3年連続してJ昇格を逃したチームには12億円の負債が残った。97年元旦の天皇杯決勝ではサポーターが存続のための署名活動を実施。その数は5万人を超えた。寄付金も300万円が集まった。

それでも1月31日の株主総会で「解散」が決定した。ところが翌2月1日、Jリーグは臨時実行委員会で、準会員の資格こそ失うものの「超法規的措置」としてヤマザキ・ナビスコカップへの出場とJFLへの参戦を認め、スタッフの派遣も決定した。

川淵三郎チェアマンは「5万人以上の署名を集め、地元に根ざしたクラブチーム継続の強い希望があった」と語ったように、5万人以上の署名が「人の心」を動かした結果と言える。新チームの名前は「佐賀」の「鳥栖」という意味の方言である「サガン鳥栖」に決まった。

新組織の代表には県サッカー協会の中村安昭が就任し、日産で実行委員としてチームの強化に携わり、Jリーグフォトの専務でもあった熊地洋二(その後、群馬や大分でも再建に尽力)がアドバイザーとして新チームの立ち上げに尽力した。

そして98年には翌シーズンからのJ2リーグ加盟が承認された。

同じ年の11月に、横浜フリューゲルスの出資会社である佐藤工業が経営不振によりクラブ運営から撤退を表明し、もう1つの出資会社である全日空も赤字から単独でクラブを運営することができず、横浜Mに吸収合併されたのは皮肉な結果だろう。その後、横浜FCが誕生したとはいえ、元フリューゲルスサポーターからしたら複雑な心境かもしれない(鳥栖の場合は新チーム創設が、横浜Fの場合は合併が前提で話し合われたからと噂された)。

さて鳥栖に話を戻すと、J2を主戦場にしながらも経営難とクラブ運営のゴタゴタは毎年のように続き、Jリーグからは「除名や退会勧告もやむをえない」と鈴木昌チェアマンに言われたこともある。ようやく2005年、佐賀県出身の元映像ディレクターで、人材ネットワーク会社「クリーク・アンド・リバー社」を経営する井川幸広が経営権を握ったことでチームは安定飛行に移り、2012年には念願のJ1昇格を果たした。

以上、簡単に鳥栖の歴史を振り返ったが、PJMというスポンサーの撤退により市民クラブとして再スタートを切ったものの、2015年にCygamesがスポンサーについたことで経営が安定したからか、竹原社長は人件費の高騰を承知でチーム強化に努めた。その結果が約20億円の赤字であり、新型コロナウイルスがそれに追い打ちをかけた。果たして同氏の挑戦は夢のまま終わるのか、それとも新たな未来があるのだろうか。

【文・六川亨】
1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。
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浦和戦勝利で思い出した横浜FC昔話/六川亨の日本サッカーの歩み

9月23日のJ1リーグ第18節、アウェーで川崎Fと対戦した横浜FCは、敗れたものの2-3と大善戦だった。それまで浦和を3-0、広島を5-1と粉砕してきたのだから、横浜FC戦も大差の勝利を収めると予想された。 しかし結果は3-2の僅差で、一時は2-1と追い上げられる展開を強いられた。今シーズン初めて「キング・カズ」がスタメンに名を連ね、さらに中村俊、松井のベテランもそろい踏み。そんな横浜FCを鬼木監督は「ああいう選手たちがいると、それだけでプレッシャーになったと思う」と脅威に感じたことを素直に認めつつ、「そういう意味で、受けずにアグレッシブに行かないといけないと改めて思う」と反省した。 カズ(三浦知良)、中村俊輔、松井大輔――改めて一時代を築いた3選手のスタメン出場に、横浜FCのオールドファンは14年前の06年を思い出したのではないだろうか。 05年に横浜FCの監督に就任した足達氏は、シーズンを11位で終えた。迎えた06年、開幕戦で愛媛に0-1と敗れた横浜FCのフロントは、わずか1試合で足達監督を解任した。開幕戦後のスピード解任は今でもJリーグの最短記録である。 後任監督にはコーチだった高木氏(現大宮監督)が就任すると、高木監督はベテランを要所に配し、守備重視のサッカーで見事初のJ1昇格を果たした。その原動力となったのが、カズであり、彼と2トップを組んだ城彰二(キャプテンを務め、06年で現役を引退)であり、ボランチの山口素弘とCBの小村徳男だった。 そして07年、初めてのJ1リーグに挑むに当たり、フロントはさらなる補強に動いた。横浜Mから久保竜彦と奥大介(故人)の元日本代表FWを獲得したのだ。横浜FCは開幕戦となったアウェー浦和戦は1-2で敗れたが、久保が得意の左足で超ロングシュートを決めたのは今でも語り草になっている。 この07年は、最終節でもドラマが待ち受けていた。5月26日、第13節のホーム大分戦に2-1で勝って以降は勝利から見放され、その後の20試合は3分け17敗という惨憺たる成績だった。このため8月28日に高木監督を解任し、ジュリオレアル新監督を迎えたが、前述したように一向に成績は上向かない。 10月20日の神戸戦にも0-3で敗れ、残り5試合でJ2降格が決まる。これは当時最速の降格決定だった。 そして最終戦の相手は優勝争いを演じている浦和だった。一時は独走態勢にあった浦和だが、第30節終了時点であと1勝すればリーグ連覇という状況で3試合連続のドローと足踏みをしていた。その間に鹿島に追い上げられ、勝点1差に詰められたものの、勝てば自力優勝が決まるという有利な状況に変わりはなかった。まして相手はJ2降格が決まってモチベーションの低下している横浜FCである。誰もが浦和の優勝は確実と思った。 ところが試合はカズのスルーパスから根占真伍(東京Vからレンタル移籍)が決勝点を奪って見せる。試合はこのまま終了し、清水を3-0で下した鹿島が6年ぶり5度目のリーグ制覇を達成。連覇を逃した浦和は、これ以降リーグタイトルから遠ざかっている。 歴史は繰り返すのか、川崎Fに2-3と善戦した3日後の9月26日、横浜FCはアウェーで浦和と対戦した。さすがに中2日ということでベテラン3人はベンチからも外れたが、仙台大卒のルーキー松尾が2ゴールを奪い、今シーズン6勝目をあげた。 彼だけでなく、DF袴田やボランチの安永、ユース出身FWの斉藤光毅らは初のJ1で試合を重ねるたびに自信を深めているように感じられる。今後もどのようなサプライズを起こすのか。超ベテランと若手を巧みに操る下平監督の手腕にも注目したい。もちろん期待したいのは、カズダンスと中村俊の直接FK、松井のアクロバティックなゴールであることは言うまでもない。 <div id="cws_ad"><hr>【文・六川亨】</br>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.09.29 11:00 Tue
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家長昭博と木村和司氏のひらめき/六川亨の日本サッカーの歩み

川崎Fの勢いが止まらない。アウェーの浦和戦も3-0の完勝で連勝を5に延ばし、前日に2位のC大阪が鹿島に1-2と敗れたため、18試合を消化して勝点差は8に開いた。驚異的なのは、5試合とも攻撃陣が爆発して3ゴール以上奪っていることだ。18試合の総得点も55で、1試合平均3ゴールという高いアベレージを誇っている。 そして凄いのは数字だけではない。浦和戦の先制点は右サイドでボールを持った家長が、フワリと意図的に浮き球のラストパスを送り、右SB山根がボレーで決めたもの。敵に囲まれた家長に、一見するとパスコースはなかった。もしもグラウンダーのパスなら間違いなくカットされていただろう。 そこで家長は右足で掬うようにボールを浮かせ、山根に「ボレーして下さい」とでも言っているかのようなラストパスを送った。この瞬間的なひらめきによる芸術的なパスは、今後も家長のプレーを語る際に繰り返し登場するのではないだろうか。 そして、このパスを確実に決めた山根も冷静だった。普通なら、予測不能なパスに慌ててしまい、シュートを力むこともある。しかし山根は「素晴らしいボールが来たので、力を抜いて枠に打った」と自然体でのプレーだったと振り返った。これはこれで、力を抜いて打った山根も凄かった。 「狙って何回もできるものじゃない」とは山根の本音だろうが、「力を抜いて枠に打つ」というボレーシュートの基本に忠実なプレーが鮮やかなゴールに結びついた。 この「力を抜いて枠に打つ」というプレーだが、口で言うのは簡単でも実際にプレーするとなるとなかなか実践できないのがサッカーの難しいところでもある。 先週のNHKのBS放送によるJ1リーグ中継の1場面だった。横浜M対C大阪戦で、横浜Mが直接FKを獲得した時のことだ。アナウンサーが解説者の木村和司氏に「どこを狙いますか」と聞いたところ、木村氏は平然と「ゴールの枠の中ですね」と答えた。 するとアナウンサーはマイクを前に二の句を告げず、沈黙したまま次のプレーに移った。 アナウンサーからしてみれば、「壁の右上」とか「壁の左にスペースがあるので、そこをグラウンダーで狙ったら」といったように、具体的な答を予想していたのだろう。しかし木村氏からは「ゴールの枠の中」という、聞きようによっては極めて当たり前の答えに絶句してしまったのかもしれない。 現役時代はFKの名手として対戦相手に恐れられ、日本代表では85年10月26日のメキシコW杯アジア最終予選の韓国戦で決めた直接FKは、今もファンの間で語り草になっている。曲がりながら落ちるFKを得意としていた木村氏だが、そんな木村氏からしてみれば、シュートは「ゴールの枠」に飛ばさなければ、いくら打っても点にならない。「ゴールの枠」を狙うのは当たり前のことであり、そのプロセスとしてどのコースを選択するかということになるのだろう。 個人的にも、リップサービスのあまり得意ではない木村さんらしいコメントの数々に、個性と同時に天才的プレーヤーの感性(ひらめき)を感じずにはいられなかった。 これは余談だが、辛口解説でお馴染みのセルジオ越後氏がまだ現役(?)というか、サッカーの指導者で全国を回っていた時のエピソードである。「クロスバーね」と言ってペナルティーエリアの外からボールを蹴ると本当にバーに当てる。「右ポストね」と言っても同じだ。 そこで直接FKの秘訣を聞いたところ、返ってきた答えが次のようなものだった。 「壁を越えて落とそうとか、壁の横を巻いて曲げようと考えるから失敗するのね。壁があっても、クロスバーやゴールポストは見えているでしょ。だからバーやポストを狙えばいい。当たって内側に入ればGKは取れないし、もしも直接決まらなくても跳ね返れば味方が決めるチャンスが残るでしょ。バーを越えたらその瞬間にノーチャンスなんだから」 こうした発想をするサッカー関係者は、当時の日本サッカー界にはいなかった。月に1回、専門誌で連載していた「セルジオ越後のさわやかサッカー教室」の取材の際に聞く話があまりにも面白いので、いっそこれを連載にしようということになった。 そこでJリーグの誕生を契機に始まったのが「セルジオ越後の天国と地獄」(サッカーダイジェストさん)というコラムである。 <div id="cws_ad"><hr>【文・六川亨】</br>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.09.22 18:45 Tue
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Jリーグは来季よりユニの背番号を統一/六川亨の日本サッカーの歩み

ステイホームの続く毎日だが、久しぶりに慌ただしい一日だった。10時に某週刊誌に内田篤人のロールモデルコーチ就任についてコメントを求められた。11時からは、明日J1リーグの試合を控えるJクラブの監督のweb会見に続いて、若手2選手の会見取材を終了する。 13時30分からは、今年のルヴァン杯の準決勝から取材の申請方法が変更されるので、その詳細に関してレクチャーを受けた。これまでもJリーグの取材はネットから申請していたものの、そのシステムも導入して10年が過ぎた。このため来シーズンからリニューアルされるので、たまたま今年のルヴァン杯は勝ち残っているのが首都圏の4チーム(川崎F、FC東京、横浜M、柏)のため、首都圏のメディアを対象に説明会が開催されたのだった。 その取材中にJFA(日本サッカー協会)からメールが届き、15時から急きょ森保一監督の会見を実施するというアナウンスがあった。先週は反町技術委員長が、10月に日本代表がオランダ遠征を行い、カメルーンとコートジボワールと対戦することを発表したばかり。それを受けての森保監督の会見だった。 そして締めは17時からの、Jリーグ定例実行委員会後の記者会見だ。さすがに1日4本のリモート会見になると肩も凝ってきた。 そうした様々なトピックスの中で「やっと」と思ったのが、Jリーグのユニホームの背番号のデザインとカラーの変更および統一だ。 どのようなコンセプトのもと、どういうデザインとカラーに変更されたのかは、当サイトでも詳しく紹介しているのでそちらをご覧いただきたい。 Jリーグのユニホームの色やデザインに関しては、遙か昔、Jリーグが誕生する前に一度統一されたことがあった。それまでのJSL(日本サッカーリーグ)時代は、例えば三菱(後の浦和)はプーマ(リーベルマン社)、ヤンマー(後のC大阪)ならアディダス(デサント社)と言った具合に(アシックスを採用しているチームももちろんあった)、各チームがそれぞれメーカーと個別に契約していた。 しかしJリーグの誕生にあたり、サッカー界では後発だったミズノ社が、J1全10チームのユニホームを一括してデザインから作製まで請け負い、なおかつJリーグに年間2億円の協賛金を支払うというオファーを出した。契約は3年間なので、計6億円になる。 当時、プーマ、アディダス、アシックスの3社は年度ごとに輪番で日本代表のオフィシャル・サプライヤーを務めていたが、年間の協賛金は1千500万円ほど。3社が束になってもミズノの提示した億という金額には届かなかった(日本代表のオフィシャル・サプライヤーは前述の3社の輪番で98―99シーズンまで続いたものの、ナイキ社の出現により99年に崩れた)。 カラーに関しても、それまでは会社のカラーをユニホームに採用しているチームが多かった。しかし、それだとレッドとブルーのチームばかりになってしまう。そこでJリーグは重ならないように、「静岡の名産はみかんなんだから、清水はオレンジでどうですか」と提案したり、「紫は高貴な色なんですよ」と広島を説得したりして10チームの色分けを半ば強引に実施した。 このチームカラーに関しては、もはや各クラブの伝統になりつつあるようだ。 そして当時のユニホームはデザイン優先だったから、背中の背番号はかなり見にくかった。鹿島の背番号は流線的なデザインだったため「3」と「5」が判別しにくかったし、加えて当時のJリーグの背番号はプレミアリーグを真似て、個人の固定番号制(97年に変更)ではなく、スタメンは1番から11番までと決まっていた。 当然、ユニホームに個人名は入っていないし、鹿島の「10」番はジーコだけでなく、彼が不在の時は石井(正忠。元鹿島監督)が着けるなど、試合によってバラバラだった。 その後は各チームとも紆余曲折を経て現在に至っているが、それでも年度によってデザインをリニューアルした際は、背番号がかなり見にくいチームもあった。似たような色で背番号がユニホームに溶け込んでいたり、縦縞のため部分的に色が飛んでいたりして、逆光になったらほとんど判読不能なチームもあった。 新デザインとカラーでは、縁取りをしつつ、それでも見づらい場合は色の違うゼッケンのようなもの(業界用語で「ざぶとん」と言うそうだ)を下に敷いて視認性を高めることもあるという。これなら縦縞のユニホームでも見やすくなるだろう。 テレビからパソコン、タブレット、スマホとJリーグの視聴環境も時代の変化に合わせて多様化している。そうした動きに連動する今回の改革案。Jリーグはコロナ禍でも歩みを止めないという一例と言えるだろう。 <div id="cws_ad"><hr>【文・六川亨】<br>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.09.15 21:50 Tue
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NPBとJリーグの規制緩和は予定通り?/六川亨の日本サッカーの歩み

9月7日、月曜日のことだった。15回目となるNPB(日本野球機構)とJリーグによる対策連絡会議が開催された。リモートで行われた会見では、賀来満夫ドクター(東北大学大学院)らが、政府の専門家による分科会も新型コロナの(第2波の)ピークは7月28日~30日で過ぎており、感染は徐々に減少していると分析していることを紹介した。 このため9月いっぱいまで延長された上限5000人の入場者制限を見直す時期に来ているとして、パーセンテージによる変更と、10月を待たずに早期の制限緩和を求める要望書を、斉藤NPBコミッショナーと村井チェアマンの連名で出すことを発表した。 これまでの会見では、ドクター3氏の提言を受けた対策連絡会議後、プロ野球12球団は同日の午後に会議を開いて伝達事項を共有しつつ、課題を検討していた。そしてJリーグは翌日に臨時実行委員会を開き、その日の午後に委員会の合意・決定を踏まえて会見を行ってきた。 このため対策連絡会議の終わりには、広報担当者が翌日にJリーグの臨時実行委員会があり、リモート会見が行われることをアナウンスするのが常だった。しかし、7日は次回の対策連絡会議が9月21日に行われることしか発表されなかった。 7日の夕刻だった。記者会見に臨んだ小池都知事は今日一日の都内の感染者が77人であることを発表した。1日で100人を下回ったのは8月24日以来だ。「久しぶりの70人台になる。お盆明けから3週間になるが、減少傾向を示していると思う」と、特に表情を変えずに話していた。 昼前のリモート会見で感染者が減少傾向にあることは聞いていた。それを裏付ける数字が出たことで、入場者の制限緩和は9月中にも認められるのではないかと内心期待したものだ。 すると19時ちょうどだった。Jリーグからメールが届き、8日の12時30分からNPBとJリーグの合同会見を実施することと、参加者は斉藤コミッショナーと村井チェアマンの2人であることを伝えてきた。 この7日の対策連絡会議を改めて振り返ってみると、「プロ野球とJリーグ共同で要望書を政府に提出する」と斉藤コミッショナーは明言しながらも、いつ出すかは断言していなかった。 記者との質疑応答では、「何パーセントもしくは何人に増やしたいのか」という質問に対し、斉藤コミッショナーは「マックス(最大)いまは50パーセント。まだ具体的に話していない。チェアマンとも要望書に入れるかどうか相談したい」と答え、村井チェアマンも「マックスは50パーセントでしょう。詳細はこれからになります」と答えるにとどめ、要望書の提出には言及しなかった。 さらに村井チェアマンは、制限緩和に伴うアウェーの観客をどうするかについても、「アウェーについて今日は議論されませんでした。明日議論しますが、まだ慎重に、ステップを踏んでいくのかな」と、実行委員会の会議が8日に行われることを示唆しただけだった。 ところが8日になると話は急転直下、12時30分からのリモート会見では、冒頭で広報担当者が斉藤コミッショナーと村井チェアマンの連名で、西村経済再生担当大臣宛てにメールで要望書を出したことと、これから郵送でも送ることを発表した。その詳細については当サイトでも紹介しているので省略したい。 付け加えることがあるとすれば、今回の制限緩和は来年の東京オリンピック・パラリンピック開催に向け、貴重なモデルケースにつながるということもドクターらは強調していた。スタジアムへの入退場はもちろん、スタジアム内外の飲食、トイレ、ファンゾーン(があれば)の過ごし方から、公共交通機関の利用の際の規制方法など、観客を5000人から増やすことで見えてくる、新たな課題もあるだろう。 ただ、「それにしても」という疑問を払拭できない。8日朝のニュースでは、IOC(国際オリンピック委員会)のコーツ副会長が「コロナに関係なく(五輪は)開催する」と電話インタビューで答えたことが伝えられた。 IOCにはIOCなりの思惑があるとしても、前日の小池都知事に続いてIOCの副会長までが、JリーグとNPBの観客増を後押ししている――ふうに感じられてしまった。なんだか急に強い追い風が吹いてきたような……。 そこで改めて7日のノートを読み返してみると、斉藤コミッショナーは次のような発言をしていた。 要望書の提出に関して「(政府の有識者による)分科会は状況の改善で(人数制限を)見直すコンセンサスは取れている。今週金曜(11日)に分科会があるので、採用を検討する要望書を出します」 そして「今回は要望書なのか、具体的な数字を入れるのか」という質問に対しては「GO TOトラベルも、GO TO イートも(考えたらサッカーも野球も2つを同時に実行している)政府主導で経済・社会活動の重要性を新内閣も考えるでしょう。来年も見えてきている。じっとしている時期ではない。来年を考えるきっかけとして要望書を出したい。絶対数5000は論理的に合わない。根拠がない。パーセンテージにするべきです」 最後に五輪に向けて賀来ドクターは次のように語っていた。「政府の分科会、厚労省で議論している。プロ野球とJリーグで、5000人規模でクラスターは発生していない。対応は十分取れている。5000人を五輪に向けたチャレンジとして、段階的に対策を取りながら(人数を)上げていくべきではないか。社会経済活動を回すために、ウィズコロナでどうするべきか。そういう考え方が今後は必要になる」 11日の分科会での最終判断を受け、19日の政府の感染症対策会議で制限を緩和して50パーセントに引き上げる。20日から始まる3連休には間に合わないが、なんだか先に政府方針があったような気がしてならない。 14日には自民党の新総裁が決まり、16日には新首相が選出され、新内閣も発足する予定だ。誰が担当するにしても、19日は引き継ぎ事項としてすでに申し送りがされているのかもしれない。 <div id="cws_ad"><hr>【文・六川亨】</br>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.09.09 11:30 Wed
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長友のマルセイユ移籍はビッグニュースのはず/六川亨の日本サッカーの歩み

本来なら、もっと騒がれてもいいと思うーーのが、長友佑都のマルセイユ移籍だ。彼のプレーや入団会見の写真がないせいか、スポーツ紙の扱いも予想外に小さかった。しかしマルセイユである。 現在は酒井宏樹も所属していて、長友は左SBのバックアッパーだろうが、両SBを日本人が務めるのは快挙と言っていいだろう。 改めて紹介するまでもないが、マルセイユはリーグ・アンで優勝9回を誇る名門だ。ここ10シーズンほどは優勝から遠ざかっているものの、昨シーズンは2位となり、9シーズンぶりにCLの出場権を獲得した。 そしてマルセイユとCLと言えば、思い出すのが1993年の決勝である。それまでトーナメントによるチャンピオンズカップから、リーグ戦が導入されチャンピオンズリーグに名称が変更された初の大会で、マルセイユはバジール・ボリ(後に浦和でもプレー)の決勝点でACミランを破ってフランス勢としてCL初優勝を果たした。 1986年に会長に就任したベルナール・タピは豊富な資金力でチームを強化し、アラン・ジレス、パパン、フランチェスコリらを擁し、1989年からリーグ4連覇を達成するなど絶頂期にあった。そして1993年にパパン、デシャン、ボリ、デサイー、GKバルテズらフランス代表を軸にヨーロッパの頂点に立った。 しかしシーズン終了後、リーグでの八百長が発覚して1993年のリーグ優勝は取り消され(5連覇は幻に)、CLのタイトルも剥奪こそ免れたものの、同年12月12日のトヨタカップへの出場資格は失ったのだった。 この1993年のトヨタカップは、Jリーグが開幕したことも相まって、旧国立競技場は立錐の余地がないほど超満員だった。カード的にも、ヨーロッパは過去2度の優勝を誇るACミラン。対する南米勢は前年にクライフ率いるバルセロナを破ったブラジルの名門サンパウロ。南米は、ウルグアイ、アルゼンチン、コロンビア勢の出場も悪くはないが、やはりブラジル勢となると話は別格だ。 試合は3-2でサンパウロが競り勝ったが、ミランの黄金時代を築いたフリットはサンプドリアへ、ライカールトはアヤックスへ去り(ファン・バステンはリハビリ中)、マッサーロとパパンがゴールを決めたものの、かつての華やかさはなかった(ミランは翌94年も出場したが、アルゼンチンのベレス・サルスフィエルドに0-2の敗戦)。 一方サンパウロはというと、ベテランのトニーニョ・セレーゾがレオナルドのアシストから2点目を決めるなどMVPに輝いた。レオナルドは後に鹿島に移籍して世界トップクラスの実力を披露する。一方のセレーゾは2000年に鹿島の監督に就任し、いきなり3冠(リーグ、リーグカップ、天皇杯)を達成するなど数々のタイトルを鹿島にもたらした。 話が横道にそれてしまったのでマルセイユに戻そう。八百長の発覚に続き会長の脱税が判明するなどスキャンダルまみれのマルセイユは、主力選手が離脱しただけでなく1994年には2部降格のペナルティーも受けた。 1部に復帰後はフィリップ・トルシエの監督就任で中田浩二が移籍したこともあったが、近年は深刻な財政難からついに2016年、アメリカの実業家にクラブを売却。これも時代の流れだろうが、そのおかげで経営も安定したようだ。 新シーズンは久しぶりにCLに復帰するマルセイユ。長友のコンディション次第だろうが、CLのグループリーグで左サイドを疾走する彼の勇姿を見たいと思っているのは筆者だけではないだろう。 <div id="cws_ad"><hr>【文・六川亨】</br>1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた</div> 2020.08.31 19:05 Mon
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