【平成サッカー30年の軌跡】平成11年/1999年 トルシエJAPAN始動!2019.04.11 21:30 Thu

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新元号が「令和(れいわ)」に決定し、2019年4月30日をもって幕を閉じる「平成」。日本サッカーにとって、「平成」という時代は大きな変革を遂げた30年間となりました。Jリーグ設立、ドーハの悲劇、日韓W杯招致…。激動の30年を平成の出来事と共に振り返ってみましょう。

世の中の流れ


1999年、ルノー・日産アライアンスが誕生。カルロス・ゴーン氏が日産自動車のCOOに就任した。

■大予言に揺れた日本
平成11年(1999年)、日本ではあの不吉な予言がブームになっていました。ノストラダムスの大予言です。なんでも、予言によると「1999年7月に世界が滅亡する」と言うのです。

2019年を生きている現在の人からすれば、馬鹿げた噂に聞こえますが、日本では1990年代に入ってから、バブル崩壊後の不況、阪神淡路大震災、そして地下鉄サリン事件などのテロ事件など、これまで経験したことのない事件、事故が起こっていました。このことを受けて、多くの人が何とも言えない「不安感」を持っていたのです。

その影響からか、本当に人類が滅亡するのではないかという空気が少なからずありました。ご存知の通り、7月が過ぎても結局人類が滅亡するような事件は何も起きず、いつしか予言も忘れ去られましたが、人々が抱えていた未来への不安を象徴する出来事です。

その他、日産自動車が経営難を受けて、フランスの自動車会社・ルノーと業務提携を発表。現在何かと話題になっているカルロス・ゴーン氏が日産自動車の最高執行責任者に就任します。この結果、日産自動車は短期間での経営の立て直しに成功しますが、同時に大規模なリストラを行うなど、大胆なコストカットは賛否両論を生みました。

また、1月に2020年をもって活動を休止する事を発表し、話題になったアイドルグループの「嵐」がデビューしたのもこの平成11年です。他にも、だんご3兄弟が大ヒットする等、数多くのヒット商品、作品が出ました。





サッカー界

エキセントリックな言動で話題を呼んだフィリップ・トルシエ監督。組織的サッカーを確立させた。

■新監督の下で動き出した日本代表
日韓W杯に向けて、世界と戦えるチーム作りを目指していた日本代表は前年から、新監督としてフランス人監督のフィリップ・トルシエを迎えていました。彼は徹底した組織サッカーを選手に植え付ける為、選手たちに厳しい規律と監督への服従を求めます。

個人の生活にまで介入するという今までになかった指導法に戸惑いや反発を覚える選手たちも少なくありませんでした。

しかし、ユースチームの指揮も任されていたトルシエ監督の元、日本代表はU-20の世界大会で準優勝に輝くという偉業を達成。世界と戦う準備を着実に進めていました。


社会問題にもなったフリューゲルス消滅。Jリーグに大きな傷痕を残した。

■フリューゲルス“消滅”の衝撃と傷跡
この年、Jリーグに大きく影を落とす事件が起きます。それは横浜フリューゲルスの“消滅”です。クラブの赤字が続く中、親会社であった全日空も財政難にあえいでいた時期であり、フリューゲルスのクラブとしての存続が難しくなってしまっていたのでした。

前年の1998年に横浜フリューゲルスが横浜マリノスと合併するという形で消滅するという合意がなされます。それに対しフリューゲルスサポーターが「俺たちはあきらめない」という横断幕を掲げての抗議や署名活動等を続け、社会問題になるほど反響を呼びました。

それに答えるように、チームも1999年の元旦に行われた天皇杯では、清水エスパルスを破り、横浜フリューゲルスが“奇跡”の優勝を果たしました。しかし、クラブ存続の道は最後まで見つからず、これが横浜フリューゲルスとしての最後の姿になりました。

奇しくもこの年、Jリーグでは、J2が始まり、2部制へ以降した年でした。チーム数がさらに増えたものの、クラブの経営や企業への依存等、多くの事を考えさせられる事件となりました。
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【平成サッカー30年の軌跡】 平成18年/2006年 黄金世代を襲ったドイツの悪夢

新元号が「令和(れいわ)」に決定し、2019年4月30日をもって幕を閉じる「平成」。日本サッカーにとって、「平成」という時代は大きな変革を遂げた30年間となりました。Jリーグ設立、ドーハの悲劇、日韓W杯招致…。激動の30年を平成の出来事と共に振り返ってみましょう。 <span style="font-weight:800;font-size:1.1em;">世の中の流れ</span> <div style="text-align:center;" class="yui-wk-div"><img class="yui-img" src="http://ultra-soccer.jp/division_image/TOP/heisei0418.jpg" alt="" width="100%"></div> 2006年、王監督率いる侍ジャパンが第一回WBCで世界一に輝いた。 <span style="font-weight:700;font-size:1.0em;">■スポーツとスキャンダルに沸いた1年</span> 平成18年(2006年)は冬季オリンピック、FIFAW杯、そして野球の世界一を決める大会、ワールドベースボールクラシック(WBC)の第一回大会が開催された年であり、スポーツ界が大いに盛り上がりました。 まず2月にトリノオリンピックが開幕。日本人選手のメダル獲得が中々かなわない中で、最後の最後に女子フィギュアスケートで荒川静香選手が見事金メダルを獲得。優勝を決めた演技で見せた「イナバウアー」は日本中を魅了し、大ブームになりました。 3月には 第一回ワールドベースポールクラシック(WBC)が開催。王監督率いる侍JAPANが初代王者となるべく世界に挑みました。大会途中では日韓戦での屈辱的連敗やアメリカ戦でのタッチアップをめぐっての誤審騒動等、様々な壁にぶつかりながらもチーム一丸となって前進を続けます。準決勝では2度敗れていた韓国を撃破して、決勝に進出。決勝でもキューバを破り、初代WBC王者となりました。 同じ野球界では、甲子園で早稲田実業の斎藤佑樹と駒大苫小牧の田中将大が白熱する投手戦を演じます。延長戦再試合の上、早稲田実業が夏の甲子園初優勝を果たし、「ハンカチ王子」フィーバーに日本中が沸きました。 また、この年に「ホリエモン」の愛称で知られ、プロ野球チームやフジテレビの買収騒動等で一時は「時代の寵児」と呼ばれた堀江貴文元ライブドア社長が粉飾決算の疑いで逮捕。また「村上ファンド」代表の村上世彰氏がインサイダー取引の疑いで逮捕される等、金融業界でのスキャンダルが目立った1年でもありました。 現在に繋がる話題で言うと、日本の現職の総理大臣である、安倍晋三氏の第一次内閣が小泉首相の後に誕生したのもこの年であり、戦後生まれ初の首相として話題になりました。 また、現代を象徴するものの一つである「SNS」こと、ソーシャルネットワークサービスのTwitterとFacebookがサービスを開始したのもこの年です。 <div class="web-only" style="display:none;text-align:center;font-weight:800;font-size:1.0em;"> <a href="/index/index/c/FREE/id/heisei_lookback" target="_blank">【特集】“平成”で起きた出来事覚えてる?『平成サッカー30年の軌跡』を辿ろう!</a> </div> <span style="font-weight:800;font-size:1.1em;">サッカー界</span> <div style="text-align:center;" class="yui-wk-div"><img class="yui-img" src="http://ultra-soccer.jp/division_image/TOP/heisei041801.jpg" alt="" width="100%"></div> 黄金世代への期待はたった8分間で重圧へと変貌した。 <span style="font-weight:700;font-size:1.0em;">■全ての歯車が狂った“悪夢の8分間”</span> 平成18年の夏、中田英寿や中村俊輔等、黄金世代が成熟期を迎えたジーコJAPANの3度目のW杯挑戦がドイツで始まりました。前回大会にベスト16に進出した日本は、国民の大きな期待を背負い、初戦の相手は、オーストラリアに挑みます。 前半に中村俊輔のクロスがそのままゴールに入り、あっさりと先制します。ラッキーな形で試合の主導権を握った日本でしたが、40度を超える猛暑の中、オーストラリアの攻撃に耐えきれず、後半39分に同点に追いつかれます。集中が切れてしまったのか、そこからさらに2失点を許し、まさかの逆転負け。初戦での勝利を目前で逃してしまったことはチームの雰囲気を大きく変えてしまう結果となります。 初戦で負けてしまった日本は、絶対に勝ちが欲しい第2戦でクロアチアと対戦します。前半に川口が見せたPKストップは日本に勢いを与えますが、柳沢が決定機を逸してしまうなど、結局点を取ることが出来ず、0-0の引き分けに終わってしまいました。 <div style="text-align:center;" class="yui-wk-div"><img class="yui-img" src="http://ultra-soccer.jp/division_image/TOP/heisei041802.jpg" alt="" width="100%"></div> 黄金世代と言われたタレント集団はブラジルの前に散った。ここから日本は“自分たちのサッカー”を探し始める。 <span style="font-weight:700;font-size:1.0em;">■再び世界との差を知ったドイツ、そして…</span> 1戦目、2戦目と勝ちない日本にとって、グループステージ突破の条件は最低でも2点差以上での勝利が必要となります。しかし第3戦の相手は全大会王者のブラジルでした。 前半、玉田のゴールで日本が先制。日本国内を含め世界を驚かせました。しかし、これが王国ブラジルにスイッチを入れてしまったのか、前半ロスタイムに追いつかれると、後半にはさらに3失点。結局1-4で”本気”のブラジルに惨敗し、日本の敗退が決まってしまします。ブラジル戦後、ピッチの真ん中に倒れ込む中田英寿の姿は多くのサッカーファンの記憶に残っているのではないでしょうか。 黄金世代として国民から大きな期待を受けて望んだW杯でしたが、終わってみれば1度も勝てず、再び世界との力の差を見せつけられる結果となってしまいました。4年前の結果から上手くステップアップ出来なかった日本サッカー。次なる一手として代表監督に白羽の矢が立ったのは、ジェフ市原を率いてチームを躍進させた、イビチャ・オシム氏でした。そしてオシムによる“考えて走るサッカー”を目指すべく、新たなチーム作りが始まったのでした。 2019.04.18 22:30 Thu
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【平成サッカー30年の軌跡】 平成17年/2005年 黄金世代に高まる期待

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【平成サッカー30年の軌跡】 平成16年/2004年 アジアで伝説となった男たち

新元号が「令和(れいわ)」に決定し、2019年4月30日をもって幕を閉じる「平成」。日本サッカーにとって、「平成」という時代は大きな変革を遂げた30年間となりました。Jリーグ設立、ドーハの悲劇、日韓W杯招致…。激動の30年を平成の出来事と共に振り返ってみましょう。 <span style="font-weight:800;font-size:1.1em;">世の中の流れ</span> <div style="text-align:center;" class="yui-wk-div"><img class="yui-img" src="http://ultra-soccer.jp/division_image/TOP/heisei0416.jpg" alt="" width="100%"></div> 2004年、MLBのシアトル・マリナーズで活躍するイチローがリーグの1シーズン最多安打記録を84年ぶりに更新し、注目を集めた。 <span style="font-weight:700;font-size:1.0em;">■災害の多かった1年</span> 平成16年(2004年)は自然災害が数多く起こった1年でした。日本では、マグニチュード6.8、最大震度7の新潟中越地震が起こります。最大震度7を観測するのは平成7年(1995年)の阪神淡路大震災以来となり、観測史上2度目の大地震となりました。 この地震は直下型地震ということもあり、幹線道路の亀裂やライフラインの断裂など起こり、復興に多くの時間を要しました。これによりJリーグでも新潟を本拠地とするアルビレックス新潟の試合が延期される等、様々な影響を及ぼしました。 また、海外でもスマトラ沖地震が発生。津波による大規模な被害が起き、14ヵ国以上で22万人の死者を出す大惨事になります。 また、この年に日本で新紙幣が発行されます。1,000円札に印刷された肖像が夏目漱石から野口英世に、5,000円札は新渡戸稲造から樋口一葉にそれぞれ変更されました。特に樋口一葉は、明治時代の紙幣に印刷されていた神功皇后以来、実に123年ぶりに女性として紙幣の肖像に採用され、話題になりました。 その他には、「鳥インフルエンザ」が日本国内で79年ぶりに発生し、日本中の注目を浴びます。また、高性能の携帯用ゲーム機であるソニーの「PSP」、任天堂の「ニンテンドーDS」が発売され、ゲーム機市場は新時代へ移行していきます。 スポーツ界では、メジャーリーグ、マリナーズのイチローが、1シーズン最多安打記録を84年ぶりに更新。最終的に、それまでの記録を5本上回る262安打という記録を打ち立て、メジャーリーグの歴史にその名を刻みました。 <div class="web-only" style="display:none;text-align:center;font-weight:800;font-size:1.0em;"> <a href="/index/index/c/FREE/id/heisei_lookback" target="_blank">【特集】“平成”で起きた出来事覚えてる?『平成サッカー30年の軌跡』を辿ろう!</a> </div> <span style="font-weight:800;font-size:1.1em;">サッカー界</span> <div style="text-align:center;" class="yui-wk-div"><img class="yui-img" src="http://ultra-soccer.jp/division_image/TOP/heisei041601.jpg" alt="" width="100%"></div> アジアカップ2004で日本代表の守護神・川口能活選手が伝説となった。 <span style="font-weight:700;font-size:1.0em;">■伝説となったアジアカップ準々決勝</span> この年、アジアカップ2004が中国北京で開幕します。このアジアカップは、選手個人の判断、そして創造性を掲げてチームの強化を図ってきたジーコJAPANの実力が試される大会となりました。 グループステージを突破し、準々決勝、ヨルダン戦に駒を進めた日本でしたが、この試合は90分で決着が付かず、PK戦に突入します。ところが、日本の1番目のキッカー中村俊輔、2番目のキッカー三都主アレサンドロが相次いでボールを枠外に外してしまうというまさかのアクシデントが発生。日本は絶体絶命のピンチに陥ります。ここで日本代表キャプテン、宮本恒靖(現ガンバ大阪監督)が行動を起こしました。 日本の2人が外したのはペナルティスポット付近の芝の状態が悪いからであるとして、エンドを変更するように審判に抗議したのでした。現にPKをミスした2人は両方とも左利きであり、蹴る瞬間に軸足を置いている芝がそのまま滑ってしまっていることは明らかでした。抗議の結果、キャプテン宮本の主張は認められ、エンドが変更されます。 この行動は不穏だった流れを大きく変えます。依然として日本はピンチの状況であった日本でしたが、炎の守護神・川口能活が躍動します。あと1本でも決められたら敗退が決定というプレッシャーのかかる場面で、神がかり的な反応と集中力を見せ、セーブと相手のミスを含め、なんと4人連続シャットアウト。日本は残りのキッカーがしっかりと決めて勝利し、川口の活躍とともにこの試合は日本サッカー史、そして大会史に残る伝説となりました。 <span style="font-weight:700;font-size:1.0em;">■成長の実感が見えた連覇達成</span> <div style="text-align:center;" class="yui-wk-div"><img class="yui-img" src="http://ultra-soccer.jp/division_image/TOP/heisei041602.jpg" alt="" width="100%"></div> 完全アウェーの中国との決勝を制した日本がアジアカップ連覇を果たした。 準決勝でもレバノン相手に4-3という激闘を制すと、決勝では開催国である中国と対戦します。完全アウェーの中、試合前の国歌斉唱では、「君が代」が流れると中国サポーターから大ブーイングが起こるなど、異様な雰囲気の中で試合が行われました。 試合が始まると前半、日本がセットプレーから先制するも中国も負けじと同点に追い付きます。その後もホームサポーターの声援を受けた中国の猛攻を受けますが、またしても日本の守護神川口能活がファインプレーを連発し、ピンチを救います。すると後半に、またしてもセットプレーから日本が勝ち越すと、試合終了間際には、カウンターから玉田圭司が抜け出して止めの3点目。3-1で中国を破り、2000年に続き、日本がアジアカップ2連勝を達成したのでした。 しかし、試合後、中国サポーターがスタジアムの周りで暴動を起こし、日本行使が乗った車の後部ガラスが割られる等、後味の悪い大会となってしまいました。 とはいえ、ジーコが目指してきた選手の個性を活かし、自分で考えるサッカーがチームに浸透してきている実感、そして自分たちのスタイルが通用するという、確信を持つ事に繋がる非常に大きな大会となりました。 2019.04.16 19:00 Tue
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【平成サッカー30年の軌跡】 平成15年/2003年 リーグでの変化と代表が迎えた過渡期

新元号が「令和(れいわ)」に決定し、2019年4月30日をもって幕を閉じる「平成」。日本サッカーにとって、「平成」という時代は大きな変革を遂げた30年間となりました。Jリーグ設立、ドーハの悲劇、日韓W杯招致…。激動の30年を平成の出来事と共に振り返ってみましょう。 <span style="font-weight:800;font-size:1.1em;">世の中の流れ</span> <div style="text-align:center;" class="yui-wk-div"><img class="yui-img" src="http://ultra-soccer.jp/division_image/TOP/heisei0415.jpg" alt="" width="100%"></div> 2003年、イラク戦争が勃発した。大規模な戦闘は短かったものの、中東情勢はその後泥沼化していった。 <span style="font-weight:700;font-size:1.0em;">■泥沼化していく中東情勢</span> 平成15年(2003年)を代表する出来事と言えば、その後の世界に大きな影響影響を与えたイラク戦争の勃発です。3月に、大量破壊兵器の保持をめぐって、アメリカ・イギリスによるイラク侵攻作戦が開始。イラク軍との戦闘が開始されます。大規模な戦闘はわずか2カ月ほどで終わり、12月にはサダム・フセイン元大統領を米軍が拘束に成功しました。しかし、大量破壊兵器の発見には至らず、それどころかイラク国内の治安が悪化したことで戦闘は長期化。イラク戦争は泥沼化していきます。 一方、ちょうどイラク戦争が勃発した3月頃から、中国で新型肺炎SARS(サーズ)が大流行。7月に終息宣言が出されるまでに32カ国で700人以上が死亡するなど、世界中を震撼させるパンデミックとなりました。 日本では大相撲で横綱の世代交代が起こります。平成の大横綱として、絶大な人気を誇った貴乃花と武蔵丸が引退。代わって朝青龍が横綱に昇進し、モンゴル人初の横綱となります。この朝青龍を皮切りに大相撲では、しばらくモンゴル人横綱の時代が続くことになります。また、プロ野球では、故星野仙一監督が率いる阪神タイガースが18年ぶりのリーグ優勝を果たし、大きな話題を呼びました。 <div class="web-only" style="display:none;text-align:center;font-weight:800;font-size:1.0em;"> <a href="/index/index/c/FREE/id/heisei_lookback" target="_blank">【特集】“平成”で起きた出来事覚えてる?『平成サッカー30年の軌跡』を辿ろう!</a> </div> <span style="font-weight:800;font-size:1.1em;">サッカー界</span> <div style="text-align:center;" class="yui-wk-div"><img class="yui-img" src="http://ultra-soccer.jp/division_image/TOP/heisei041501.jpg" alt="" width="100%"></div> Jリーグでは、鹿島・磐田の2強を横浜FMが、最終節での奇跡の大逆転で破った。 <span style="font-weight:700;font-size:1.0em;">■2強時代の終わりを告げた、横浜F・マリノス”奇跡”のリーグ完全優勝</span> 2003年までのJリーグは鹿島アントラーズとジュビロ磐田の2強が続いていました。というのも、Jリーグ開幕の4シーズン目、1996年から7年間に渡って、鹿島アントラーズ(1996,1998,2000,2001)とジュビロ磐田(1997,1999,2002)がリーグ年間優勝の座を奪い合っており、その他のチームが年間優勝から遠ざかっていたからです。 迎えた2003年シーズン、1998年フランスW杯で日本代表を率いた岡田武史氏を監督に迎えた横浜F・マリノスが1stステージを優勝します。しかし、2ndステージでは鹿島、磐田の2強がやはり力を見せ、横浜FMはリーグ最終戦の時点で、首位磐田に勝ち点3差、2位鹿島に勝ち点1差、4位のジェフユナイテッド千葉と同勝ち点の3位でした。 横浜FMの最終戦の相手は首位の磐田。横浜FMが優勝する為には、①横浜FMが磐田に勝利、②鹿島が敗戦、③市原に得失点差、総得点で上回れないという3つの条件が必要であり、2ndステージを優勝しての完全優勝というのは、ほぼ不可能と見られていました。 そんな中、横浜FM vs磐田の試合が始まります。すると、開始2分でグラウのゴールが決まりあっさり磐田が先制。さらに、15分には横浜FMのGK榎本哲也が不要な暴力行為で退場し、10対11の数的不利な状況に追い込まれます。 その頃鹿島は、2-0で浦和相手にリードしており、横浜FMの完全優勝の夢は非常に厳しい状況にたたされていました。前半を終わり、首位磐田、2位に鹿島、3位には市原が入り、横浜FMは4位にまで転落していたました。 しかし、横浜FMは後半5分にセットプレーからマルキーニョスが決めて同点に追いつくと、後半ロストタイム、なんと久保竜彦がルーズボールを押し込み、1点ビハインドかつ、数的不利という絶望的な状況から逆転勝利を収めました。 一方、鹿島も後半に入ってから浦和に1失点を許し、後半ロスタイムへ。すると、エメルソンが土壇場でゴールを決め2-2の同点に。まさかの引き分けに終わり、市原も0-2で終了したものの得失点差で追いつけず、横浜FMが首位に立ちました。 なお、2位に市原、3位に磐田、4位に鹿島という最終結果となり、横浜FM、市原、磐田の3チームは勝ち点で並び、得失点差での順位決定となりました。横浜FMは“奇跡”の大逆転リーグ完全優勝を決めたのでした。 前述の通り、それまで7年間に渡り、鹿島と磐田がリーグ優勝をほしいままにしていましたが、2003年のこの横浜FMや後の日本代表監督となるイビチャ・オシム率いる市原など、Jリーグで2強以外のチームが台頭し始める事になります。 <span style="font-weight:700;font-size:1.0em;">■過渡期にあった日本代表</span> <div style="text-align:center;" class="yui-wk-div"><img class="yui-img" src="http://ultra-soccer.jp/division_image/TOP/heiseitop0415pc.jpg" alt="" width="100%"></div> ジーコ体制になって初めて挑むコンフェデ杯では思うような結果が出なかった。 その頃、ジーコの下で個性を強調したサッカーへの転換を進めていた日本代表は、アジア王者としてコンフェデレーションズカップに出場します。結果は1勝2敗で予選リーグ敗退。「組織」から「個人」への移行はスムーズには進められていませんでした。 また、このコンフェデレーションズカップでは後の大会に影響を及ぼす悲劇が起きました。準々決勝でコロンビアと対戦していた、アフリカ王者カメルーンのマルク=ヴィヴィアン・フォエ選手が試合中に心臓発作で倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまったのです。この悲劇をきっかけにFIFAが大会自体の方針を変更。コンフェデレーションズカップは現在のように4年に1度の開催になり、各国リーグ戦との日程を無視した超過密日程の見直しが行われました。 <div style="text-align:center;" class="yui-wk-div"><img class="yui-img" src="http://ultra-soccer.jp/division_image/TOP/heisei041502.jpg" alt="" width="100%"></div> 2019.04.15 21:00 Mon
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【平成サッカー30年の軌跡】平成14年/2002年 快進撃の末に見えた課題

新元号が「令和(れいわ)」に決定し、2019年4月30日をもって幕を閉じる「平成」。日本サッカーにとって、「平成」という時代は大きな変革を遂げた30年間となりました。Jリーグ設立、ドーハの悲劇、日韓W杯招致…。激動の30年を平成の出来事と共に振り返ってみましょう。 <span style="font-weight:800;font-size:1.1em;">世の中の流れ</span> <div style="text-align:center;" class="yui-wk-div"><img class="yui-img" src="http://ultra-soccer.jp/division_image/TOP/heisei0414.jpg" alt="" width="100%"></div> 2002年、日朝首脳会議が実現。拉致被害者問題の進展に繋がった。 <span style="font-weight:700;font-size:1.0em;">■日本の行政と外交政策に変革</span> 平成14年(2002年)、日本国内では外交と行政の面で大きな出来事が起こります。外交面では、前年から首相になっていた小泉純一郎氏が、日本の首相として初めて北朝鮮を訪問。金正日総書記との日朝首脳会談が実現し、拉致被害者5人の帰国に繋がりました。これを機に拉致問題解決への機運が高まりますが、その後は交渉が上手く進まず、現在でも完全解決には至っておりません。 行政面では、学校教育でいわゆる「ゆとり教育」がスタートしました。それまでの受験戦争に向けた詰め込み教育からの脱却を図り、週5日制や「総合的な学習」の導入等、子どもたちが自ら学び考える力を育てることを目標に学校教育が見直されました。しかし、その結果子どもの学力低下が問題となり、2008年以降見直しが進められました。 その他には、多摩川にアザラシの「タマちゃん」が現れ、タマちゃんフィーバーが起こったのもこの年です。アザラシを一目見ようと大勢の人が多摩川に駆け付けました。 また、「さかな さかな さかな~♪」の歌詞でお馴染みの「おさかな天国」が大ヒットしました。世界に目を向けると、EU圏内でのユーロ紙幣と硬貨の流通が始まったのもこの年です。 <div class="web-only" style="display:none;text-align:center;font-weight:800;font-size:1.0em;"> <a href="/index/index/c/FREE/id/heisei_lookback" target="_blank">【特集】“平成”で起きた出来事覚えてる?『平成サッカー30年の軌跡』を辿ろう!</a> </div> <span style="font-weight:800;font-size:1.1em;">サッカー界</span> <div style="text-align:center;" class="yui-wk-div"><img class="yui-img" src="http://ultra-soccer.jp/division_image/TOP/heisei041401.jpg" alt="" width="100%"></div> 2002年、日韓W杯が開幕。日本の初戦の相手、ベルギー相手にゴールを決める鈴木隆行選手。 <span style="font-weight:700;font-size:1.0em;">■初の勝ち点、初勝利…日本中が熱狂した日韓W杯</span> 2002年、日韓W杯がついに開幕しました。W杯がアジアで行われる事、そして2カ国による共同開催というのは史上初めての事でした。開催国となった日本は、ベルギー、ロシア、チュニジアと同組になります。 日本中の注目と期待が集まる中、トルシエJAPANの挑戦が始まりました。初戦、日本は「赤い悪魔」ベルギーと対戦します。鈴木隆行と稲本潤一の2ゴールで日本は一時リードするも、試合は2-2の引き分けに。しかし、これは日本がW杯初の勝ち点を獲得した歴史的瞬間でした。続くロシア戦では、「白い壁」と呼ばれるロシアディフェンスの一瞬の隙をついた稲本潤一がゴールを決めて1-0で勝利。ついにW杯初勝利を記録します。3戦目のチュニジアにも2-0で快勝し、グループステージを首位通過したのでした。 初の勝ち点、初の勝利、初のベスト16進出。次々と成果をあげていくトルシエJAPANの姿に日本中の人々が熱狂しました。 <span style="font-weight:700;font-size:1.0em;">■ベスト16の壁。変革を迫られた日本サッカー</span> <div style="text-align:center;" class="yui-wk-div"><img class="yui-img" src="http://ultra-soccer.jp/division_image/TOP/heisei041402.jpg" alt="" width="100%"></div> 初のベスト16の試合、トルコ戦に挑む日本代表のイレブン。 日本はベスト16でトルコと対戦。前半に味方のミスでコーナーキックを与えると、そのコーナーからトルコが先制。後半に三都主アレサンドロのFKがクロスバーを叩くなど、ゴールに迫りましたが、1点が遠く1-0でベスト16での敗退が決まり、日本代表の挑戦は終わりました。大会出場2度目でベスト16というのは堂々たる結果でしたが、どこか不完全燃焼な形で幕を閉じた日韓W杯でした。 トルシエ監督の元、徹底的な組織的サッカーを追い求めた4年間はW杯ベスト16という確かな結果をもたらしました。しかし、日本がさらにその先へ行くためには、それだけではなく、個人の技術や判断力を高めなければならないという現実を突き付けられた大会ともなっています。 日本サッカー協会は、大会終了直後、新たな代表監督の招へいに動きます。選手たちの「個の力」を引き出す為に、日本代表監督に選ばれたのは、ブラジルのスーパースターであり、鹿島アントラーズでも活躍したジーコでした。この人事を機に、日本サッカーは、監督の言う通りにやるサッカーから、選手が自分で考えるサッカーへ移行していったのでした。 2019.04.14 19:00 Sun
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