森山泰行が3度目の現役復帰を果たす/六川亨の日本サッカーの歩み

2019.02.23 18:55 Sat
Getty Images
森山泰行というストライカーを覚えているだろうか。岐阜の笠松中学時代に全国中学校大会で3位に入賞。周囲は県内の名門高校である岐阜工業高校に進学すると思ったが、東京の帝京高校に進学。当時は県内のサッカー関係者から「裏切り者」扱いされた。

帝京では天才的なゲームメーカー礒谷洋光とのホットラインで活躍したものの、準々決勝で優勝した東海大一に敗れ、全国制覇は果たせなかった。その後、順天堂大学では3年生の時に関東大学リーグの得点王を獲得。大学卒業後は名古屋グランパスエイトに入団し、途中出場で高い得点力を発揮し、スーパーサブとして活躍した。
名古屋では148試合で51ゴールを決め、その後は平塚、ヒット・ゴリツァ(スロベニア)、広島、川崎F、札幌などを渡り歩き、38歳の2004年に現役引退を表明した。しかし翌05年、地元の岐阜で将来Jリーグの参入を目指す岐阜FC(当時は東海社会人リーグ2部)で選手兼監督補佐として現役に復帰。08年に岐阜がJ2に昇格すると、このシーズンを最後にユニホームを脱いだ。

J1では通算215試合で66ゴールを記録したが、そのうち23ゴールは途中出場(86試合)での得点で、2011シーズンに播戸竜二(124試合で27ゴール)に破られるまでJリーグの記録だった(現在は2位)。

身長171センチと背は高くなかったが、ボール保持者と相手GKとゴールを同一視野にとらえるアザーサイドでのポジショニングとプルアウェイの動きなどでマークを外すのが上手かった。現在なら大久保嘉人と同じタイプのストライカーと言えるだろう。ヘディングシュートの際は「ゴールの方向に顔が向いてないと決まらない」というのが持論だった。
シュートの巧さは帝京高校時代に繰り返した練習の成果と語る。当時の帝京高校は野球部と共同使用のため、フルコートは取れない狭いグラウンドだった。このため4カ所にゴールを設置し、主力選手は4カ所のゴールを回ってひたすらシュート練習を繰り返した。

ボールを投げるのはサブの選手で上級生もいた。このため、わざと難しいボールを出してくることもある。それらを頭と両足を使って延々とシュート練習を繰り返したのが上達に役立ったそうだ。

ランニングは板橋区にある高校を出ると、荒川の土手沿いに江東区まで往復。夏合宿ではOBの差し入れを残すことは許されず、てんこ盛りのどんぶりご飯を4~5杯食べないといけない規則だった。このため選手はトイレに行くふりをして、喉に指を入れて無理矢理に吐いては食べることの繰り返しだった。

2度目の現役引退後はサッカー解説者として活躍していたが、2014年4月に埼玉県の浦和学院高校サッカー部の監督に就任。残念ながら高校選手権には出場できず、昨年で監督を退任すると、今月12日、愛知県岡崎市にあるJFL(ジャパンフットボールリーグ)のFCマルヤス岡崎でTD(テクニカル・ダイレクター)兼任で3度目の現役復帰を果たした。

彼からその話を聞いたのは、2月9日に沖縄で行われたプレシーズンマッチの名古屋対FC東京戦の前だった。今年の5月1日で50歳になるものの、森山は「カズさん(三浦知良)も51歳だから、負けていられませんよ」と笑っていた。果たして50歳のチャレンジがどんな影響を日本サッカー界に及ぼすのか。まずは結果よりも、その波及効果に期待したいと思っている。
【六川亨】1957年9月25日生まれ。当時、月刊だった「サッカーダイジェスト」の編集者としてこの世界に入り、隔週、週刊サッカーダイジェストの編集長や、「CALCIO2002」、「プレミアシップマガジン」、「サッカーズ」の編集長を歴任。現在はフリーランスとして、Jリーグや日本代表をはじめ、W杯やユーロ、コパ・アメリカなど精力的に取材活動を行っている。日本サッカー暗黒の時代からJリーグ誕生、日本代表のW杯初出場などを見続けた、博識ジャーナリストである。

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